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第1章 参照ゼロ

そのログは、本来、存在してはいけないはずだった。


夜勤明けのビルは、昼よりもずっと嘘が少ない。人がいないだけで、空気がやたら正直になる。廊下の蛍光灯は古い水槽みたいに白く、エレベーターの鏡面は眠そうな顔をそのまま返す。自分の足音だけが追いかけてきて、つい背後を振り返りそうになる——振り返っても、誰もいないのに。


駅から続くデッキに薄い霧が溜まっていた。東京の端っこ、名前は知られていても誰も語らないような区画。再開発中の壁面に、見栄えのいい未来都市のパースが貼ってある。そこに描かれた人たちは、いつも笑っている。荷物もなく、眠気もなく、生活感もない。現実の僕らより、よほど“参照されている”顔をしていた。


会社のカードキーをかざすと、受付のゲートが軽い音を立てた。音はいつも一定で、感情を持たない。その一定さが、僕の仕事に似ていると思った。


僕はログ監査員だ。肩書きはそれっぽいが、実際は「消す係」だと思っている。


世の中には、存在してはいけないログがある。


たとえば、システムのバグで発生した不整合。たとえば、監視系の誤検知。たとえば、誰かが意図的に残した“見せたくない痕跡”。それらは放置されると、都市の水道管みたいに腐っていく。気づいた時には手遅れで、データの底から悪臭だけが上がってくる。


僕の部署は、その腐敗の前に蓋をする。蓋をして、記録を整えて、何もなかったことにする。その作業が「社会の正常運転」だと、上は言う。たしかに、そうかもしれない。多くの人は、異常の存在を知りたがらない。異常は、知った瞬間から“自分にも起きる”から。


フロアは二十二階。窓の外は曇っていて、ビル群が色を失っている。室内は乾燥し、冷房が静かに回っていた。ここは一年中、ほぼ同じ温度だ。人間だけが季節に振り回される。


自席のPCを起動し、二段階認証を通して監査用コンソールを開く。ログは海みたいに広い。広いのに、ひどく浅い。僕の目はそこを泳ぐのに慣れている。


作業は手順通りだ。


前日のアラート一覧を確認し、重要度でフィルタリングし、該当ログのスナップショットを取り、監査記録に紐づける。異常が「仕様」なら閉じる。異常が「事故」なら報告する。異常が「誰かの意思」なら——そこは、より慎重に扱う。意思が絡むログは、最終的に“消える”ことが多いからだ。


淡々と処理していたはずの午前九時三十二分、画面の端に一つ、見慣れない項目が引っかかった。


IDがない。


いや、厳密に言うとID欄はある。あるのに、そこが空白になっている。空白はエラーだ。空白は不正だ。空白は、誰かがそこに何もないふりをした痕跡だ。


僕はクリックした。職業柄、嫌な予感がしてもクリックするしかない。自分の直感を裏取りすることだけが、僕の唯一の癖だ。


【Record: UNINDEXED】

【Owner: —】

【Reference Count: 0】

【Last Referenced: —】

【Status: Archived (Deleted)】


参照回数ゼロ。


最終参照日時なし。


削除済み。


この三つが同時に並ぶのは、あり得ない。削除済みになるには、少なくとも誰かがそこに触れている必要がある。参照がゼロなら、削除命令は発行されない。発行されない命令が実行されるなら、それは“命令の外側”で何かが起きている。


僕は喉の奥が微かに乾くのを感じた。冷房の乾燥じゃない。こういう時に乾く場所は決まっている。


「……何だ、これ」


声が漏れたのは、部屋が静かすぎたからだ。話し声のないオフィスは、音が落ちる場所を失って、全部自分に返ってくる。独り言すら刺さる。


ログの詳細を開く。すると、さらに奇妙な欄が見えた。


【Name: —】

【Affiliation: —】

【Contact: —】

【Badge: —】

【Role: —】

【Notes: “Not Found”】


名前がない。所属がない。連絡先がない。バッジがない。役割がない。


なのに、削除だけは丁寧だ。


削除ログは通常、雑に残る。社会は「消した事実」には興味がないからだ。消したなら、消したで終わり。そこに詳細があるのは、むしろ不自然だ。まるで、誰かが“ここにいた”と示したがっているみたいに。


背筋が少しだけ硬くなる。


僕は画面をスクロールした。ソートをかけ、近傍ログを確認する。前後の時間帯に関連する記録がないか。似た構造のレコードがないか。


その時、画面の右下に、チャットの通知がひっそりと点滅した。


【総務:本日10:00〜フロア点検入ります】

【総務:監査室の立ち入りお願いします】


点検。立ち入り。人が来る。


“人が来る”という言葉だけで、どこかで少し安心する自分がいた。自分でも気持ち悪い。けれど、僕の仕事は孤独が基本で、孤独は慣れていても、好きになれるわけじゃない。


僕は「了解です」とだけ返し、画面を閉じかけて——やめた。閉じたくなかった。理由は単純で、画面を閉じた瞬間、このログが“いなかったことになる”気がしたからだ。


理屈じゃない。肌感覚だ。


人は、理解できないものに対して、理屈の前に身体で拒否する。僕の身体は、今、拒否していない。むしろ逆だ。画面の空白に、目が吸い込まれていく。


僕はこのレコードをローカルに保存しようとした。監査員は、原則として業務ログを勝手にローカルに落としてはいけない。けれど、僕は“スナップショット”という名の、監査用の保存手順を知っている。決められた手順の中で、少しだけ余白を作ることができる。


保存を押す。


……反応しない。


いや、反応はしている。保存中のくるくるが出る。出るが、完了しない。画面の下に小さくエラーが出た。


【Error: This record cannot be referenced.】


参照できない。


参照回数ゼロのレコードは、参照できない。


それは同義反復なのに、妙に恐ろしい。まるでこの世界のルールが「見てはいけない」と言っているみたいだ。


——なら、僕は今、何を見ている?


ふと、自分の背後で椅子の脚が擦れる音がした気がした。振り返る。誰もいない。もちろんいない。ここは監査室で、入室は申請制で、僕のカードキーしか通らない。


そのはずなのに、耳だけが「今、何かが動いた」と断言していた。耳は理屈を嫌う。


僕は立ち上がって室内を一周した。机の下、棚の陰、パーティションの向こう。何もない。窓に映る自分だけが、少し青白い。


総務の点検が来るまで、あと二十分。僕はその二十分を、ログにぶつけることにした。


レコードの「削除プロセス」欄を開く。


削除実行者が——いない。実行者IDが空白だ。空白はあり得ない。削除権限は厳格に管理されている。権限がないなら削除できない。権限があるならIDが残る。


僕はキーボードを叩き、監査用の裏検索を走らせる。削除命令が発行された経路、トリガー、関連ジョブの履歴。ログはログでログを説明する。僕はその自己言及の迷路に慣れている。


数秒後、結果が出た。


【Trigger: Auto-Archive / Idle Threshold Exceeded】

【Threshold: 72:00:00】

【Category: Personal Existence】

【Action: Soft Delete】


僕は息を止めた。


カテゴリーが、見慣れない。


Personal Existence——個人の存在。


そんなカテゴリ、聞いたことがない。僕の扱うログは、入退室、勤怠、取引、アクセス、通信。どれも社会機能の記録だ。個人の存在なんて、ログにするものじゃない。個人の存在は、そこにあるものだ。ログにされるべきものではない。


だが、画面は淡々と示している。


Idle Threshold Exceeded——滞留閾値超過。


72時間。


参照されない状態が72時間続くと、ソフト削除。


参照とは何だ。SNSの閲覧か。勤怠システムのアクセスか。誰かが名前を口にした回数か。メッセージの既読か。仕事の成果か。——そんなものが、存在に関係するのか。


馬鹿げている。


だけど、馬鹿げているからこそ、現実みたいだと思ってしまった。


総務の点検担当が入ってきたのは、その直後だった。ノックは二回。軽い。業務的で、優しいふりをしている。


「失礼しまーす。点検入りますね」


若い男性。工具箱を持っている。目が合ったのに、僕の顔を見ていない感じがした。人は忙しいと視線を節約する。僕はそれを責めない。僕も日々、視線を節約して生きている。


「どうぞ」


僕は席に戻った。画面はまだログを表示している。だが、点検担当は気づかない。気づいても気にしない。彼にとって重要なのは天井のセンサーと配線だ。僕の画面は、ただの背景だ。


彼が天井を見上げ、脚立を出す。金属の擦れる音。作業の音。生きている感じの音。


その音に混じって、僕の耳はもう一つの音を拾った。ほんの少し遅れて聞こえた音だ。


——キーボードのタイピング音。


僕は手を止めていた。点検担当は脚立の上だ。誰もキーボードを叩いていない。


なのに、タイピング音がした。しかも、僕の席の近くから。


背中が冷える。僕は自分の指を見た。動いていない。画面は変わっていない。点検担当は何事もない顔でネジを締めている。


タイピング音は、もう一度した。


カタ、カタ、カタ……。


まるで、誰かが僕の代わりに入力しているみたいに。


僕は、恐る恐るログの「Notes」欄に目を戻した。そこはさっきまで “Not Found” だった。だが今は違う。


文字が増えている。


【Notes: “If you read this, I’m still here.”】


英語だった。


——もしこれを読んでいるなら、僕はまだここにいる。


喉が鳴った。飲み込む音が自分でうるさい。


僕は点検担当に目をやった。彼は相変わらず天井だ。こちらを見ない。見ないのに、なぜか“こちらの存在が薄い”気がした。


僕は画面を凝視した。これは誰が書いた? システムが自動で? そんな機能はない。ログが自分で文章を? あり得ない。だが、今、起きている。


点検担当が脚立から降り、工具箱を閉めた。


「以上ですー。特に問題ありませんでした」


「ありがとうございます」


僕が返すと、彼は軽く会釈をして出ていった。扉が閉まると、また室内は静かになった。静かになった瞬間、あのタイピング音も止んだ。


僕は、ゆっくりと息を吐いた。


そして、恐ろしく自然な動作で、マウスを動かしてしまった。


画面右上に、僕のアカウント情報が表示されている。監査員ID、権限、ログイン時刻。それらはいつも通りだった。


ただ一つだけ、見慣れない数字があった。


【Idle Score: 00.04】


アイドルスコア。


滞留値。


僕は一度、瞬きをした。目の疲れだと思いたかった。もう一度見た。数字は消えない。むしろ、ほんの少し小さく点滅している。警告の点滅だ。


00.04。


ゼロに近い。


——いつから?


僕は自分の胸に、鈍い圧迫感が広がっていくのを感じた。痛みではない。焦りでもない。もっと嫌なものだ。「理解」だ。理解してしまった時の、逃げ道が塞がる感じ。


参照されないと、存在が削除される。


参照されるとは、誰かの目に触れること。


誰かに必要とされること。


誰かに名前を呼ばれること。


そんな馬鹿げた世界が、もし本当に動いているなら——僕は、もうとっくに危ない側の人間じゃないか。


僕はスマホを手に取った。通知はゼロ。LINEもメールも、仕事のチャットも静かだ。今日に限って、あまりにも静かだ。


試しに、適当なグループチャットを開く。既読が付く。だが、それは“他人を参照した”だけだ。僕が参照されたわけじゃない。


僕は自分のプロフィール画面を開いた。自分のアイコンがそこにある。たしかに存在する。見える。——見えることと、参照されることは同じなのか?


心臓が少し早くなる。


僕は、誰かにメッセージを送ろうとして、指が止まった。


誰に?


家族とは連絡を取っていない。友人は少ない。職場の連絡は業務用だけ。恋人はいない。……いや、恋人がいないのは、寂しいからじゃない。面倒だからだ。そう言い聞かせてきた。僕は「面倒」を理由に、多くのものを切ってきた。


面倒の先にあるものが、いつも痛みだったからだ。


画面のログが、微かにスクロールした。僕は触っていない。スクロールバーがほんの数ミリ動いている。誰かの指がそこにあるみたいに。


そして、また Notes が更新された。


【Notes: “Don’t make noise. Just get referenced.”】


音を立てるな。ただ参照されろ。


僕は背中の汗が冷えるのを感じた。冷房の乾燥ではない。これは、僕の身体が危険を認識した時の反応だ。


社会は、騒ぐ人間を嫌う。目立つ人間を叩く。正しいことを言う人間を、煙たがる。


なのに、この世界は——参照されろ、と言う。


参照されるために、何をすればいい?

目立て? 叫べ? 媚びろ? 演じろ? 成果を誇示しろ? 他人の人生に踏み込め?


僕は、どれもやりたくない。


やりたくないのに、やらないと消える。


その構造が、あまりにも現代的で、笑えなかった。


僕はログを閉じたくなった。閉じれば、見なかったことにできるかもしれない。だが閉じたら、僕はまた参照ゼロの世界に戻る。参照ゼロの世界は、僕の得意な世界だったはずなのに、今はそれが恐ろしい。


僕は決めた。


このレコードだけは、消さない。

消す係の僕が、消さない。


僕は監査コンソールの検索窓に、ふだん打たない単語を打ち込んだ。


Personal Existence

Idle Threshold

Soft Delete

Reference Count: 0


検索結果は、数十件に増えた。


そして、それらすべてが、同じ構造をしていた。


名前なし。所属なし。参照ゼロ。削除済み。


——こんなにいるのか。


誰だ?

誰が消えた?

消えたのに、誰も気づかないのか?


僕は画面を見つめたまま、ふと、自分の席の名札を見た。薄いプラスチックのプレートに、黒い文字で印字された自分の名前。黒川陽翔。いや、ここでは仮に「僕」だ。名前はただの記号だ。記号は参照されて初めて意味を持つ。


その名札が、ほんの少しだけ、薄く見えた気がした。


気のせいだ。

疲れている。

そう言い聞かせる。


でも、その時——


社内チャットの通知が鳴った。


【不明なユーザー:あなたの参照が切れかけています】


僕は、息を止めた。


通知の送信元を見る。ユーザー名が空白だ。アイコンもない。所属もない。プロフィールが開けない。なのにメッセージだけが届いている。


そして、画面の右上の Idle Score が、ゆっくりと下がり始めた。


00.04

00.03

00.03…


僕は、初めて、自分が“消える側の人間”だと理解した。


——誰かに参照されなければ。


——今すぐ、誰かに。


指先が震えた。震えた指で、僕はチャットの返信欄を開いた。


何と返す?

「誰ですか」?

「やめてください」?

「助けて」?


そのどれもが、正しいのに、何の意味もない気がした。


僕は、最短で、最も愚かな言葉を打った。


「……どうすればいい」


送信。


既読が付かない。


代わりに、画面のログの Notes が、静かに更新された。


【Notes: “Make someone remember you. Even if they hate you.”】


誰かに覚えさせろ。嫌われてもいい。


僕は、椅子の背もたれに深く沈んだ。冷房がやけに冷たい。窓の外の街は曇っていて、未来のパースみたいに色が薄い。


僕の存在も、色を失い始めている。


そして僕は、人生で初めて、本気で思った。


——嫌われてもいいから、参照されたい。


その瞬間、Idle Score の点滅が一瞬止まった。まるで世界が「その考え」を待っていたみたいに。


僕は画面を閉じないまま、次の検索を走らせた。


「削除済みの存在を、復元する方法」


検索結果は、ゼロだった。


ゼロの画面が、僕に笑いかけているように見えた。



第1章 終わり


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