9 富士山噴火
数年前、まだ学生だったころ、自宅で眠っていた由紀乃は夢を見ていた。
光り輝く明るい世界で、はっきりとそれには既視感があった。懐かしさがこみあげてくる。何もかも鮮明で、極彩色が艶やかだった。
そして目の前に立っていたのは、あの婆様だった。拓也さんの祖母のあの婆様だ。彼女の懐かしさは最高度に達した。
もう二年ほど前に亡くなった婆様が、にこやかな姿でそこに立って由紀乃を微笑みで包んでいる。
温かい、と彼女は思った。自分をくるんでいる空気が温かいというだけでなく心が、そして魂が温かさに満ち溢れていたのだ。
もちろん彼女は、それが夢だなどとは全く思ってもいなかった。
「私の魂はご本体の御神霊に収容されていますけれど、特別に再び分魂の青木鶴として皆さんにお会いすることにしました」
心に響く声だ。だが、まぎれもなく婆様の声だった。果てしなく懐かしい婆様の声だった。
「婆様……」
由紀乃はそこで絶句し、あとは涙にもみくちゃになって声が出なかった。
「今こうしてあなたがたに特別にお話しするのには理由があります」
すぐにでも駆け寄って婆様に触れたいと思った由紀乃の衝動を、その慈愛に満ちつつも凛とした声が遮った。
「今、富士山が大変なことになっています」
たしかに婆様が生前に暮らしていた家は、富士山の麓の樹海の中に取り残されような集落にあった。もっとも現代ではすぐ至近距離に国道が走っていてそれと繋がっているので孤立した集落ではなくなってはいるが、国道ができる前はほんとに樹海の中にポツンと存在した集落であっただろう。
「富士山が噴火します、このままでは」
「このままでは……?」
由紀乃の中で、記憶が鮮やかによみがえった。
まだ婆様が現界にいらしたころ、皆で婆様の家に集まったことがあった。その時、富士山の火口直下を震源とするやや強い地震があった。
婆様は「富士が震えたらいよいよ三段の構えの終わりが近い」という謎めいた言葉を言ったものだった。だが同時に、富士は噴火しないとはっきり言ったはずだ。
「あの時とは状況が変わってきています」
由紀乃が質問する前に、婆様の方で先に答えをくれた。
「そして今日、富士山の存在の本当の意味と、あなたがたにお願いしたいことをお伝えします。大難を小難に変えるために』
その時、ふと由紀乃は気づいた。
先ほどから婆様は雪の一人に話しかけているはずなのだけれど、ことばのはしはしに「あなたがた」というように、複数の人に向かって話していることに気づいたのだ。
彼女は自分の周りを見回したが、他に誰もいない。婆様と自分の二人しかいない。それなのに婆様は、同時に複数の人びとに向かって話しかけている口調なのだ。
「あなたがたもご存じのように、地球は大きな一つの意識体です。そして日本列島の下に重要な龍脈が流れています。意識体ですから、息をしているのです」
由紀乃ははっとした。
――地球も息をしているのですね。
その想念は言葉となって周りの世界に響いた。だが、由紀乃は自分の言葉であるはずなのに、多くの想念と共鳴して一つとなって響いているのを感じた。
別に不思議ではなかった。
多くの声とはどういった人たちとのつながりであるのか、由紀乃は十分に分かっていたからだ。
婆様はにっこりと笑ってうなずいた。だがその笑顔の底に、底知れぬ緊急の事態を告げるかのような厳しさがあった。
「ただの息ならばよいのです。でも今、地球の三次元世界は大いなる浄化の時を迎えています。すでに魂の選別は終わっています。大いなる分岐点は、あなたがたが体験したあの馳身世界での出来事からです。地球は恐怖と破滅の未来から、愛と調和に満ちた世界を選び取ったのです。でも、これまでの垢と膿もあまりにも多い。それを吐き出してしまわないといけない。その突破口が富士山であり、同時にそれは地球内部のエネルギー、人類の共通意識と、宇宙からのパワーの接点でもあるのです」
婆様は少し沈黙した。そしてまた語り始めた。
「そして地球の浄化と再生のため、富士山が大いなる働きをする時が来ました。しかし富士山は、大難を望みません。愛と調和に満ちているからです」
婆様の言うことは真実だと、由紀乃は直感していた。
由紀乃は知っている。今目の前にいる婆様はこの世に生きていた時と同じように分魂としての姿で現れているが、すでにその分魂を下された高次元の意識体、すなわち御本体の御神霊に収容されている。
そしてその前に同じ御神霊の分魂として降ろされていたのが、木花佐久夜姫であることも由紀乃は知っている。すなわち、富士山を神格化した神として現代では祀られているお方だ。
「あなたがたにお願いがあります」
婆様の顔は笑顔のままだったが、その口調は一段と厳しくなった。
「富士山に語りかけてください。富士山は単なる自然の地形によって生じた山ではないこと、ただの美しい観光スポットでもないこと、地球の霊界の真中心であることを了解していると宣言して下さい。そして感謝をささげてください。富士山の浄化と再生のエネルギーが、平和で穏やかな形で成就しますようにと。そのエネルギーが富士山に届き、大難が小難に変わるのです。この話を聞いて、恐怖を感じる必要はありません。これは希望に満ちた話なのです」
そこで由紀乃は目が覚めた。気がつくと、いつもの自分の部屋の天井が目の前にあった。
由紀乃はすぐに跳ね起きてスマホを手にし、彼氏にLINEの無料通話で電話した。
一回のコールで、山下康生は出た。
――ああ、チャコ! 今、婆様と会っただろ?
「康生君も?」
――ああ。
「やっぱみんなもだよね?」
――たぶん……間違いない。
ハンズフリーのスピーカー通話をしているので、上部にLINE着信の通知が出るのを由紀乃は見ていた。
「みんなからメッセージ来てるよ。一回切って見てみよう」
そう言って通話を終了し、メッセージを見た。例の仲間十二人のうち康生と由紀乃を除く十人全員からメッセージが来ていた。すべて、今夢で婆様に会ったという話だ。
康生からグループ通話があらためてかかってきた。画面には十二人全員の顔が映り、ビデオ通話が始まった。
十二人が婆様から聞いた話を照合すと、それは寸分も違いはなかった。夢では一人ひとりが婆様と向き合って話を聞いたような形だったけれど、その時点での意識の上でも十二人がそろって婆様からメッセージが伝えられているという感覚だった。
そして実際にそうだったのだ。
――要は、富士山に向かって感謝の想いと、富士山がただの山ではなく地球や人類にとって神聖なオブジェであることを認識している旨を伝える、そういうことでしたね。
まずは杉本大輝がそう言った。
――その通り。それが今一番必要なこと。
康生の声が伝わる。
――たしかに。今、世間でも騒がれていますよね。間もなく富士山が危ないって。
そう言ったのは佐藤新司だ。新司は続ける。
――富士山周辺の地震が群発化して活発になってるって。
――でも、この十二人が集まるのは厳しいな。
谷口大翔がつぶやいた。松原悟がすぐに言葉をかぶせる。
――それな。ましてや揃って富士山の麓に行くというのは厳しい。
この時点では青木拓也、エーデル、島村陽太の三人以外は皆まだ学生だったのだ。陽太もカトリック神学生だから学生といえば学生だ。
「集まる必要はないでしょう」
直勘で閃いたことを由紀乃が言った。
「時間を決めて、一斉に富士山の方角に向かって想いを集中させればきっと届く」
――富士山の写真とかがあるとなおさらいいね。
康生が付け加えた。
――でも、本当に私たち十二人だけの力で大難を小難に?
美貴が少しだけ力なく言ったが、それを康生がびしっと遮った。
――あの神霊界での大仕事も、俺たち十二人がやったことのようでそうじゃなかっただろ? 五次元界の力や宇宙の遠い星々からの方々の力もあって大転換期を成し遂げた。
――たしかにそうですね。
大輝が口をはさんだ。
――婆様がおっしゃってましたけど、神霊の分魂を魂に持つ光の戦士は千人に一人はいるってことでしたし、しかも日本ではその割合がもっと高いという話でした。僕ら十二人がシンクロすれば……
――そうだね。その大波動の響きはまだ覚醒していないそれらの人びとをも共鳴させるかもしれない。
陽太が言った。
――僕らはあのミヨイの国でともに活動していた因縁の魂、つまりムーの子だ。最近ではムーというよりもレムリアという言い方の方がトレンドだけど。
そうして話が決まり、その日の夕方六時に十二人はそれぞれの場所で富士山に向かって意識と祈りを集中させた。
だがその翌日、富士山が噴火したというニュースがテレビの画面を独占し、ネットもその話題であふれた。同時に、各地でパニックに陥る人々の様子が映しだされている。
それでも、噴火自体は大したことなく、麓から肉眼では見えない程度のガスが噴き上げた程度だった。気象庁の発表はレベル2の「火口周辺規制」にとどまった。
そしてそれすらその日のうちに解除になり、元の美しい平穏な富士の姿に戻ったのだった。
「結局、富士山の大噴火はなかったね」
婆様の式年祭も終わってとりあえず泊まっている隣の民宿に向かう途中、十一人は間近に真っ白な雪化粧の富士山を見上げて言った。
自然と見な、富士山を見上げて立ち止まった。
「大難が小難に変わった」
由紀乃がつぶやいた。
「あの頃は確かに、富士山大噴火シミュレーションなんていうのも動画サイトにあがって、世の中が大騒ぎでしたね」
大輝も富士山を見上げてつぶやく。
「そしてあの頃から、世の中の二極化は始まってましたよ」
皆がうなずいた。悟も富士山を見ている。
「そうだね。大難が小難に変わったことを喜んで未来への希望を取り戻した人々と、これは大噴火の前兆だって恐怖に支配されて大騒ぎして、中には地方へと逃げだす人たちさえいた」
「ことの真相は誰も知らない。でも、僕らはそれでよしとした。その前の、消えてしまった大彗星の時のように」
陽太がそう言って、彼らは民宿へ戻ろうとした。今日も彼らとともに民宿で夕食をとることになっている拓也とエーデル夫妻も一緒だ。明日は皆バラバラにそれぞれの場所に帰るので、夫妻も合流することになっていた。
「あひしたひ ふじえいける」
そのエーデルがふと庭で足を止め、富士を見ながらつぶやいた。先を歩いていた十人も少しだけ歩を緩めて、エーデルを見た。
「あひしたひ」
もう一度エーデルがつぶやくと、拓也がゆっくりとエーデルのそばに寄った。
「ああ、それね。いい機会だからみんなにも一緒に考えてもらったら?」
「そうね。いい考えだわ」
エーデルはにこりと笑った。ほかの九人は一瞬だけ足を止めてきょとんとしていたが、拓也とエーデルも民宿の方へ歩き出したので彼らもそのまま歩みを進めた。




