10 アルファベットの秘密
富士の見える半露天風呂の温泉につかり、男性陣に続いて女性陣も全員戻ると、皆は男性たちの部屋に集まった。
夕食まではまだ時間もありそうだ。
部屋の真ん中の座卓に十一人がひしめき合って向かった。
「先ほどの話ですけど」
そう言いながらエーデルは、部屋にあった便箋の紙を一枚座卓の上に置いてペンを持った。
「実は私、初めて日本語を勉強するときに、日本の文字が難しくてなかなか覚えられなかったのです」
悟がうなずいた。
「確かに、日本語の文字は数が多いし、漢字とかひらがなとかカタカナとか、いろいろあって大変ですよね」
「そうなのです。でもあるとき、ふと閃いたのです。それはカタカナの“ケ”を覚えようとした時、ちょっと左に傾ければ“K”になります」
エーデルが紙に「ケ」と「K」を書くと、皆が感嘆の声を挙げた。
「おお、たしかに」
皆、口々に驚きの声を挙げた。
「それで、ほかにもないかと思いました。そうしたらまず五十音の最初の“ア”を左回転に倒して線の長さを調節すれば、アルファベットの最初の“A”になります」
「ア」と「A」と書かれたのを見て、感嘆の声はさらに高まった。
「そして次に“B”は漢字の“日”になります。そして“C"は上の部分をまっすぐ立てれば“し”になります」
「おお」
皆が歓声を上げた後、エーデルはさらに書きながら続ける。
「“D”はちょっと左に傾けて線を伸ばして、丸い部分に二つ角をつけたら“タ”ですね。“E”は上の横棒を取ったら“ヒ”です」
エーデルは別の紙にもう一度、「A・ア」「B・日」「C・し」「D・タ」「E・ヒ」と英文字と日本語の文字を二文字ずつ、それれを縦に並べて書いて言った。もうここまで来るとみんな感嘆の声を挙げるのも忘れて、息をのんで紙を見ていた。
「そして“F”は”不”、“G”は縦に伸ばして右側の部分を点々にしたら“じ”、“H”はそのまま横に倒したら“エ”、“I”は上の横線を伸ばして斜めにしたら“イ”、そして最初に書いた“K”の“ケ”、それから“L”は左側にもう一本縦棒を足すと“ル”……。でも、その先がよくわからないのです」
「つまり、MNOPQR以降ですね」
大輝が言った。エーデルはうなずいた。
「待って。これ、日本語の部分を縦に読んだら……」
陽太が言うので、皆がエーデルの書いた文字列のうち日本語の部分だけABCと同じ順で読んでみた。
「ア日しタヒ 不じエイケル」
代表して、陽太が声に出して読んだ。
「あれ? なんとなく言葉になってますね」
大輝が言った。
「確かに。でもどういう意味だ?」
悟が首をかしげる。陽太がもう一度読む。
「アヒシタヒ? フジエイケル? ”フジ”はたぶん富士山の富士だよ」
「私もそう思いました」
エーデルが紙から目を挙げた。それで先ほどエーデルが富士山を見ながらこの言葉をつぶやいていたのかと、誰もが納得した。
「でも“あひしたひ”って何でしょう?」
大翔が沈黙を破って言った。由紀乃が首をかしげる。
「待って! 歴史的仮名遣い?」
その由紀乃の言葉に、大輝がハッとした顔をした。
「じゃあ、あいしたい? 誰かをあるいは何かを愛したいってことかな?」
「相慕い、つまりお互いに慕い合う?」
遠慮がちに陽太も言う。
「いや」
由紀乃は少し首を横に振った。
「愛するの愛もお互いの意味の相も歴史的仮名遣いで”あひ”にはならないんじゃない?」
「あれ? チャコって地歴の先生よね? 国語じゃないよね」
美貴がやはり首をかしげながら小声で言った。由紀乃は少し笑った。
「受験時代の知識だけど、日本史教えてたらそれ忘れるわけにもいかなくて、ね」
「そうそう、だから」
大輝が話を元に戻そうとした。
「慕いは確かに慕うって意味の慕いでしょうけれど、”あひ”はそのまま”あひ”
じゃないでしょうか」
「じゃあ、あひって何ですか?」
誰もが目を伏せた。その時、拓也がハッとしたように顔を挙げた。
「神代文字に天とおひさまの日、そして流れるって書いて”天日流文字”っていうのがあるんだ。だから”あひ”は天の日、つまり太陽って意味になる。太陽を慕ってという意味かな?」
「たしかにBの日とFの不だけ漢字ですよね。あとは仮名なのに」
大輝が言うと、拓也もうなずいた。
「日が漢字なのは“あい”じゃなくて“天日”だってことの強調かな? 富士はかつてはこの漢字の不と一、二の二で“不二”という表記もあるから容易に富士を連想できる」
「問題は“えいける”ですよね」
大輝が言うと、美穂が小さく手を挙げた。
「あのう、アルファベットの“J”が抜けていませんか?」
「そうだ、たしかに“H”、“I”の次がいきなり“K”になってる」
そう言って陽太がエーデルを見た。エーデルはにこやかにうなずいた。
「先ほど神代文字の話も出ましたけれど、実は私、これを考えながら、やはり日本の文字が世界の言語の元で、アルファベットも例外ではないと感じていました」
「そういえば」
悟が少し話の腰を折った。
「拓也さんとエーデルさんは昔から、いわゆる太古文献の研究に没頭していましたよね。この地に伝わる"宮内文書"とか、富山の“竹下文献”とか」
「はい。そこには世界の文明の発祥は日本だと書いてありました」
「それはここにいる私たちは、身をもって知っていますね」
大輝がにこやかに言う。
「なにしろムー、すなわちレムリアの記憶を追体験したのですからね」
「そうです。それで、“J”がなかったのは、古代に日本から文字が行ったのなら現代の英語ではなくて古代ラテン語だと思ったからなんです。古代ラテン語には”J”はないので、それで省きました」
「でも、こだわらずに入れてみたらどうですか?」
「じゃあ、なんだろう?」
美穂が言うので、大輝がエーデルに代わって考えはじめた。
「“J”だから“ジ”ですね。えっと……あ、そうか。反転させれば”し”になります」
「“えいしける”? なんか変だな」
陽太が首をかしげた。間をおいて、大翔が目を挙げた。
「さっきの“G”と同じく“じ”ならば、“J”の左のはねた部分を上に伸ばして右側を縮めて、ちょこっとついた横棒が濁点になれば“じ”になります」
「それだ。“J ”なんだから“じ”だよ」
陽太が手を打った。
「そうなると、“フジエイジケル”、なんか格好がつくね」
由紀乃もうなずいた。
「“富士詠じける”ね。詠嘆の詠で富士山の歌を吟じる、つまり賛美する……でも待って。さっきの“G”でも思ったんだけど、日本語表記に濁音に濁点を打つようになったのは明治なってからじゃなかった?」
「え? そうなん?」
美貴が驚いて由紀乃の顔を見た。
「まあまあまあ」
大輝がまた抑えに入った。
「そこもまあとりあえずこだわらずに」
「で、そのあとがまだわからないんですね」
「はい」
陽太に聞かれて、エーデルはうなずいた。陽太は少し唸った。
「M…N…O……」
彼らの間に沈黙が流れた。皆、唸っているだけだ。最初に大輝が口を開いた。
「“N”は“乃”に見えますね。音も"の"だから合っています」
「おお、そうなると“MのO”」
呟くように大輝が言ったすぐ後に、美貴が顔を輝かせた。
「ねえ、これ、歌じゃない?」
「歌?」
「短歌。だって“天日慕い 富士詠じける”で五・七。だったら、次は五」
「でも、どこまでが五なんだ?」
疑問をはさむ大翔を、陽太は見た。
「単純には“MNOPQ”だね。でもそこまでが上の句となると、そのあとの七七の下の句には文字が足りない」
「たしかに。RSTUVWX YZで、最後の七の部分が二音しかなくなってしまう」
「あのう」
遠慮がちに、エーデルが口をはさんだ。
「MNOはわからなかったけど、そのあとはこう考えてました。“P”は“ヒ”、“Q”は漢字の“久”、“R”は“ル”、“S”は“ス”、“T”は“テ”、“V”は“フ”。“X”はわからない」
「あれ? また“U”と“W”がぬけたのは?」
由紀乃が聞いた。
「はい。先ほどと同じく古代ラテン語にUとWはありませんから。YとZもありません。Xで終わりです」
「じゃあ、今度もさっきの“J”と同じように入れてみたら?」
「いや、入れたとしても短歌にするには音が足りないよ」
陽太は半分苦笑だ。大輝がそらんじるようにして言った。
「MのOヒ久?」
「それじゃわけわかんねえ」
悟も苦笑だ。陽太が続ける。
「まずは“M”だね。「まみむめも」のどれかだろうけど、ひらがなもカタカナも“M”と形が似ているのはないな。漢字でも思いつかない」
「“M”だから“む”かな?」
美貴が首をかしげながら遠慮がちに言う。
「でもそれだと、ひらがなの“む”もカタカナの“ム”も“M”とは全然似てない。漢字だと……」
「“ない”という“無”……でも違いますね」
大輝の言葉に陽太が口をはさむ。
「“六”という漢字も“む”と読むね。でもちょっと“ M”が“六”じゃ、似てなくもないけどちょっと強引が過ぎるかな」
皆また少し息をつく。
「で、“O”だけどこれは“お”しかない。でもひらがなの“お”もカタカナの“オ”も“O”とは全然違う」
「必ずしも“お”ではなくて、零とかゼロとかマルとか……」
新司がやっと口を開いたけれど、皆の賛同は得られなかったようだ。みんな唸ったままだ。
その時、民宿の年配の女中さんが、ふすまの向こうから声をかけてきた。
「お食事の支度が出来ました」
それに対して返事をしてから、大輝は皆に言った。
「とりあえず今日はここまでですね。あとは宿題ということで。エーデルさん。それでいいですね?」
「はい。でもここまで皆さんで考えてくれてうれしいです。どうもありがとう」
彼らは場を切り上げて、夕食会場となっている広間に向かった。
夕食それ自体は質素なものだった。婆様の式年祭の後、青木家のもてなしで直会の席があってたらふく飲み食いしたのでまだ空腹も感じていないということもあった。
今度はいつまた十一人集まれるかわからない。広間にはすでに十一人分の料理が、民宿スタッフによってセティングされていた。昼間にさんざん飲んだので、今回はアルコールなしでということになっていた。
だが、その食事の席は十一ではなく十二あった。
拓也のお父さんかお母さんも参加するという話は聞いていない。だが、十一人ともそれを不思議とは思わずに、それぞれの席に着いた。
十二の席はきちんと埋まった。
十二番目の席を皆が一斉に見て、喜びの表情を誰もが見せた。
「ケルブ!」
由紀乃が叫ぶ。ケルブはにっこりと微笑んだ。




