1 柏木河原
由紀乃は暗闇の中で目が覚めた。
ベッドの脇のスマホをアクティブにする。一瞬の閃光が脳裏に突き刺さる。
画面を見ると表示された時刻は、午前三時十五分を指していた。
――また今日も……
独り言をつぶやくとスマホを消し、由紀乃は再び眠りについた。
以前は一度眠りにつくと、朝まで目覚めることなどなかった。それがここ数カ月、毎晩夜中に一度目が覚める。それも決まって三時十五分なのだ。
すぐにまた眠りにつくのでそれが睡眠障害だとは思わない。朝目覚めた後も時々身体のだるさを感じることもある。だがそれらの違和感すべてを体の異常ととらえるようなネガティブな思考は、由紀乃の意識には毛頭なかった。
どんな状況であれ、朝は感謝で目覚める。それがルーティンだ。
起きるとすぐに窓を開けて、大きく数回深呼吸する。これもルーティン。
腹式呼吸で備考から大きく朝の空気を吸い込み、同時に宇宙に遍満する新しい光を吸収する。息を吐くときは灰の中のすべての空気を日々の生活の中で蓄積している負の感情とともに吐き出すのだ。
そして空に向かって呟く。
「康生君、おはよう」
数カ月前に忽然と消えてしまった山下康生、学生時代からの恋人だ。
しかし彼女はそれを失踪というような言葉ではとらえていなかった。
彼女の直感が、康生が今どこにて何をしているのかなんとなく感じ取っていたからだ。
だから今日も、彼女は康生を思ってにっこりと笑った。
日常が始まる。
平穏でそして平和な日常だ。
初任の夏休み明けごろに購入した愛車で、由紀乃は勤務先である私立高校へと向かう。
生徒たちが登校しなければならない時間はもう少し後なのだが、もうすでに通学路には早めに登校する生徒の姿がちらほらあった。その間を徐行しながら住宅街を進み、由紀乃は学校へと向かった。
校舎を挟んで正門とは反対側に通用門から入り、校舎の脇に設けられた職員用駐車場に黄色いボックス型軽乗用車を停める。
職員玄関は生徒の昇降口とも正面玄関とも反対側になるが、校舎の中へ入ると昇降口から次々と入ってくる生徒とそこで初めて接することになる。
「先生、おはようございます」
担任するクラスではないが教科で教えているクラスの女子生徒二人が、由紀乃を見つけて声をかけてきた。
「ああ、おはよう。早いね」
由紀乃も微笑みを返す。
「部活の朝練があったから」
笑顔とともに女子生徒たちは、教室へと続く階段の方へ行ってしまった。
由紀乃もまた笑顔とともに職員室に入り、大きな声で挨拶をする。
「おはようございます」
そしてほんの少し立ち止まり、すでに出勤しているほかの教員たちに向かって声には出さずに心の中でごく一瞬の短い時間にこうつぶやくのだ。
――こちらにいらっしゃる方々のご先祖さまがた、いつもありがとうございます。本日もよろしくお願い申し上げます。
それから由紀乃は、おもむろに自分のデスクにと向かった。
日曜日、由紀乃は親友の幸野美貴とともに市内の柏木河原に来ていた。
美貴は同じ市内の総合病院である中央病院に、看護師として勤務している。シフト制勤務のために必ず日曜が休みではないのだが、この日はうまく日曜に休みが取れたので久しぶりに由紀乃と会うことになった。
徒歩で来た美貴が由紀乃の家に迎えに行く形で、二人は合流した。
「電車で来たの?」
自宅から出てきた由紀乃は、最初に美貴に聞いた。
「電車でもひと駅だけど、車で来た。車は病院の駐車場に置いてきた」
たしかに美貴の勤める病院は、由紀乃の自宅から歩いてもすぐのところだ。由紀乃の学校も車で通勤はしているが歩いても十五分くらい、歩こうと思えば歩けないこともない距離だった。
そもそもが小さな市なので一応市内バスもあるけれど、たいていの場所は徒歩か自転車で行けてしまうほどだ。実際勤務校へ行く途中、由紀乃の出身高校である県立高校のそばを通る。だが、彼女が公立高校の採用試験を受けなかったのは、採用されても県内のどこへ飛ばされるかわからないからだ。
学生時代は同じ県内とはいえ大学まで片道一時間半はかかった。もうそれはこりごりだった。だが公立の場合、自分の出身高校に配属されることはほとんどまれである。だから大学に募集が来ていた現勤務校の私立高校を選んだ。厳密には中学も一体となっている中高一貫校だ。
私立学校の場合、就職してみると他の教員は確かにその学校の出身者が多かった。
由紀乃と普通ならばこのまま駅の方へ行って、カフェかレストランで食事を共にして旧交を温めるであろう。
だが二人の足は駅とは反対の方の、歩いて十分くらいの柏木河原へと向かった。
カフェなどよりも自然の中で過ごすのを好むというのが、二人の共鳴意識だ。
「せっかくの休みなのにごめんね」
歩きながら由紀乃が言った。美貴は微笑んで首を横に振った。
「いいのよ。いつもは休みがほとんど平日だから誰とも会えないし、ただひたすら仕事の疲れをいやすってとこかな」
「大変よね、看護師さんって夜勤とかもあって」
「学校の先生もいろいろ大変でしょ」
「うちは私立だから公立ほどじゃないけどね」
クスッと笑って、歩きながら由紀乃は肩をすくめた。
「顧問やってるのも運動部じゃなくて文化部の歴史研究部だから、日曜はちゃんと休みだし。ってかさ、むしろ楽しい」
「だよね」
「好きな歴史教えて、好きな若い人たちと接して、って私も若いけど」
聞いていた美貴も笑った。
「もう趣味がほとんど仕事になってる」
「それが本当の“仕事”だよね。お金のためだけにいやいややってる“労働”とはわけが違うものね」
「そう。私だって他人のために世話して感謝されて、その方がお金よりずっと大事だし。それに私たちってほら、例えば医学的なことにしても三次元の肉体的知識だけじゃなくて霊的なことも、わかってるって言ったらおこがましいけど他の人よりかはわからせていただいているし」
「歴史だってそう。自分が学校で教わった知識を指導書に書いてあることをそのまま伝えているっていうんじゃなくて、真の人類史もその霊的意義もわからせていただいているものね」
そんな話をしているうちに、もう河原に着いた。
ここは川が深い渓谷となって流れており、その流れが緩くカーブする内側に広い面積で小石の河原になっている。川はそれほど大きな川ではないが、それ内の幅はある。深くはないようだが流れが速く、水は透明だった。遠くは山々が連なり、その谷間から、川は流れてくる。
周りの市街地からはかなり低くなっていて、川の両岸はもう冬だというのに緑の木々が生い茂る。その緑が川面に姿を落とす。澄んだ空気がそんな景色を包み込み、穏やかな陽光がそこへ柔らかく降り注いでいた。
見上げれば頭上にはそれほど大きくはない赤いアーチ橋が架かっている。その赤が深々とした緑の中のコントラストとして生えていた。この橋が、観光地としても有名なこの柏木河原のシンボルなのだ。
橋はかなり高いところに架かっているが、その高さが市街地の高さなのだ。
そんな河原に、二人は腰を下ろした。
「最近どう?」
隣の美貴は雪のを見て笑みとともに聞いてきた。
「まあ、二年目だから何とか形になってきたけれど。美貴の方は?」
「私はたいへん。病院では夜勤も多いしね」
川風がそろそろ冷たく感じられるころだが、それでも心地よかった。空もよく晴れて、ところどころに白い雲が浮かんでいた。
美貴の答えに微笑んでうなずいてから、由紀乃は緑の斜面や空の雲を見上げたりした。
どこに行ってもまずは自然の植物や空の雲を見上げるのが由紀乃にとっていつものことだ。
緑の木々の斜面のすぐ上はもう市街地が広がっているのだがここからはそれは見えず、まるで山奥の地方に来た感じだ。
晴れた初夏の休日ともあって、河原にはそこそこ人がいる。夏になるとこの河原はバーベキューを楽しむ人々で埋め尽くされ非常ににぎやかだ。
だが今はそんな喧騒は過ぎ去って、静寂に包まれていた。
「いよいよさくらリヴァー、メジャーデビューだってね」
由紀乃がつぶやいた。さくらリヴァーとは二人の共通の友人の竹本ひろみと筒井美穂のアコースティックギター音楽ユニットで、これまでもインディーズとして活動を続けてきた。動画サイトにアップしているMVもそこそこバズっている。
「ライブ、楽しみ」
美貴が言うと、由紀乃は少し笑った。
「その前に、拓也さんとこでで会えるじゃない」
「そうだった。私も何とか休みとれたよ、大変だったけど」
「看護師さんは連休摂るの大変だものね。年末年始でも。私ところは生徒がもう冬休みだから簡単に有給とれた」
「富士山か。懐かしいなあ」
そう言う美貴の目は、遠くを見ていた。
そのあと二人は河原を後に、中央公園の脇を抜けて天応山の方へ向かった。
道の突き当りが大きな寺院で、その背後に天応山はそびえている。
「懐かしいと言えばここも懐かしい」
美貴はそんな天応山を見上げて、行った、二人はいつしか立ち止まっていた。由紀乃の目も、天応山を見あげている。
「ここで、人生の一大転機、っていうか人類にとっても大きな事件といっても決して大げさではない事件に私たちは遭遇したんだよね」
「もう四年たつのか」
「早いね」
「最近、時間がたつのがものすごく速い」
「たしかに」
「それだけ大人になったのかなあ」
「違うよ」
由紀乃は隣に立つ美貴を見た。
「世の中の人がみんな言ってる。時間の感覚が昔と違ってはっきりと変わってきてるって。だって学校の子供たちでさえそう言ってるもの」
「たしかにね」
二人はまた歩きだした。信号を渡れば大きな寺の山門だ。その右手には、あの時はなかった大きな自然食レストランがでーんと横たわっている。
「さあ、悟君が待ってる」
「約束の時間ちょうどだね」
そんなことを言いながら、二人は山門に吸い込まれていった。




