私の神様
朝、部屋の壁に貼られた聖句が日に照らされまぶしく光っていた。
「信じる者は救われる」――母が毎週唱える言葉だ。
私は小さくつぶやいて、掛け布団を頭までかぶった。
母は泣きながら言った。
「あなたが神様から離れていくのを見るのは耐えられない」
その言葉が、まるで呪いみたいに頭の中に残っている。
信じるってなんだろう。
怖い。
でも、離れることも怖い。
――“宗教を、作らないか”
放課後、夕日の中で彼に言われたあの言葉が、耳の奥に残っている。
あのとき私は何も返せなかった。
けれど彼の目は、本気だった。
笑い話でも、気まぐれでもなかった。
私は机の上に置いたノートを開いた。
学校で使っているものとは別。
母が知らない場所に隠している、私だけのノートだ。
一ページ目の真ん中に、昨日彼が言った言葉を書いた。
> 「神様を作る」
書いてみても、意味はまだよく分からない。
でも、書いた瞬間だけは少し呼吸が楽になった。
昼を過ぎて、母は出かけた。
「午後は教会の手伝いをしてくるから」と言い残して。
私は返事をしなかった。
家の中が静かになる。
冷蔵庫のモーター音と時計の秒針だけが聞こえる。
その静けさが、急に怖くなった。
そして気づいたら、私は靴を履いて外に出ていた。
目的地は分かっていた。
あの日、彼と話した校舎裏。
今は誰もいない。風の音と、遠くの部活の声だけ。
「……来ないよね」
そう呟いた瞬間、背後から声がした。
「来たじゃん」
振り返ると、新谷が立っていた。
制服のまま、手にノートを持って。
私が一歩近づくと、彼は少しだけ笑った。
「昨日のこと、考えてた」
私の声がかすれた。
「あなたにとって宗教…信仰って何?」
彼は少し考えて、空を見上げた。
「たとえばさ、空を見て“きれいだな”って思うとき、
その気持ちって誰かに教わったもの?」
「……違うと思う」
「でしょ。それと同じ。
祈りとか信仰も、ほんとは誰かに教わるものじゃない。
自分の中に“きれいだ”って感じるものを信じる。それでいいんだ」
私はしばらく何も言えなかった。
“きれいだと思うもの”――そんな単純なことでいいの?
でもその言葉が、どこか温かく響いた。
「……もしそれが神様じゃなかったら?」
「それでもいい。君が君を信じられるなら」
風が吹いて、ノートのページがめくられた。
白紙のページが光を受けて、やけにまぶしい。
彼はそのページを指さした。
「ここに書こう。君の祈りを」
「祈りなんて、私には――」
「あるよ」
彼は迷いなく言った。
「だって、ここに来たじゃないか」
胸の奥がじんとした。
私は黙ってノートを受け取り、ペンを走らせた。
書き終えたとき、手が震えていた。
でも、涙は出なかった。
彼はページを見て、小さく頷いた。
「それが、君の信仰のはじまりだね」
夕日の光が二人を包む。
その瞬間、私は“信じる”という言葉の意味を、ほんの少しだけ理解した気がした。
信じるとは、怖がることでも、命令でもなく――
誰かと同じ空の下で、同じ気持ちを抱くことなのかもしれない。
遠くで鐘の音が鳴った。
母が待っている場所の音だ。
私はそっと目を閉じた。
今だけは、帰りたくなかった。




