母の神様
家の前の道は、まだほんのりと夕焼けの名残を残していた。
空の端がかすかに橙から群青へと溶けていくのを眺めながら、私は靴の先で小石を蹴った。
そのたびに篠原の言葉が頭の中をぐるぐる回る。
――神様を作るんだ。
思い出すたびに、胸の奥がじんわりと熱を持つ。馬鹿げてるのに、笑えなかった。
玄関を開けると、線香の匂いが鼻を刺した。
この家の“空気”は、いつもどこか湿っている。
奥の部屋から、母の祈りの声がかすかに聞こえてきた。
今日もまた、夕食より先に祈り。
それが、うちの“日常”だった。
「ただいま。」
声をかけても、返事はない。
照明は半分だけ点いていて、光と影の境目に母の背中が浮かんでいる。
祭壇の前に正座し、両手を合わせたまま微動だにしない。
その背筋の真っすぐさが、まるで儀式の一部みたいに見えた。
私はそっと靴を脱ぎ、リビングへ向かう。
テーブルの上には出来かけの味噌汁と、冷めたままの煮物。
もう何度目だろう。
「信仰の時間」が生活のすべてを押しのけている。
やがて祈りの声が止み、母がゆっくりとこちらに顔を向けた。
「璃子、帰ってたのね。おかえり。」
穏やかな笑顔。
けれど、その笑顔の裏に何かを探すような視線を感じて、私は無意識に目をそらした。
「今日は生徒会?」
「うん。」
「また忙しいのね。でも、明日の集会は行けるでしょう?」
箸を手に取るより先に、それが来た。
私は少しだけ息を吸い込んで、静かに答えた。
「ごめん、テスト勉強あるから、行けない。」
母の表情がほんの一瞬で変わる。
あの柔らかさがすっと消え、代わりに硬い線が浮かぶ。
「また? 璃子、あなた最近ずっと来てないじゃない。みんな、心配してるのよ。」
「心配されるほどのことしてないよ。」
「違うの。そういうことじゃなくて、“信仰の姿勢”の話をしてるの。」
その言葉に、胸の奥がざらりとした。
“信仰の姿勢”。
私は母の言う“正しい姿勢”をずっと守ってきたつもりだった。
幼いころは手を合わせる真似をし、言葉を覚え、教祖の写真の前で頭を下げることが日課だった。
それを「愛」だと信じていた。
けれど、その動作の一つひとつが、呼吸の邪魔になっていた。
「……別に、私が行かなくてもいいじゃん。お母さんが行けばいいでしょ。」
「璃子!」
母の声が、食器棚のガラスを震わせた。
その瞬間、空気がきゅっと狭まる。
「あなた、何を言ってるの? 家族で信じるからこそ、神様は見守ってくださるのよ。」
「でも、私……信じてない。」
口に出した瞬間、自分でも驚いた。
母の目が大きく見開かれる。
「璃子、そんなこと、もう一度言ってごらんなさい。」
「信じてない。昔から。なんでお母さんはいつも神様ばっかり見てるの?」
母は言葉を失い、しばらくのあいだ何も言わなかった。
部屋の時計の秒針の音だけが、無遠慮に時間を刻む。
「……璃子、それは、誰かに何か言われたの?」
母の声は震えていた。
「違う。ただ、疲れたの。信じるっていうのが、もう、よくわかんない。」
「そんなこと言って……神様を疑うと、不幸になるのよ。」
「じゃあ、信じてるのに不幸な人は? お母さんだって、信じてるのに、いつもつらそうじゃん。」
母の肩がわずかに揺れ、手が膝の上で固まった。
「……璃子、あなたは何もわかってない。」
「わかりたくないだけだよ。」
そのまま立ち上がって、自分の部屋へ向かった。
背後で母が何か言いかけた気配がしたけれど、扉を閉めた音でかき消えた。
部屋の中は暗かった。
カーテンを少しだけ開けると、外の空が紫に沈んでいる。
窓の向こうの街灯が、夜の始まりを照らしていた。
さっきまでの言い合いが、胸の奥でぐつぐつと煮えたぎっている。
――神様って、なんなんだろう。
お母さんは、神様を信じている。
私は、そんなお母さんを信じられない。
じゃあ、私は何を信じればいい?
篠原の顔が、ふと脳裏によみがえった。
真剣な目。夕陽を背負って「神様を作る」と言い切ったあの顔。
今なら少し、わかる気がした。
“誰かの神様”になるより、“自分で作る”ほうが、まだまっとうかもしれない。
机に突っ伏して、深く息を吐いた。
涙が出るほどの怒りでも、悲しみでもない。
ただ、空っぽだった。
階下から、母が祭壇の前で祈る声がまた聞こえてくる。
まるでそれが、私を閉じ込める呪文のように響く。
そのとき、ふと思った。
――もし、私が神様を作ったら。
お母さんは、それを信じてくれるのかな。
ありえない想像なのに、心の奥で何かが静かに動いた。
あの夕焼けの赤が、まだ瞼の裏に残っている。
燃えるような空の色を思い出すたびに、胸の中で小さな火が灯る。
私はその火を、手で覆うようにして目を閉じた。
そして、初めて思った。
――神様は、作られるものかもしれない。
そう思ったら、少しだけ、呼吸が楽になった。




