黒い水
「すぐそこに、川があるんですよ」
まるで燃え盛っているかのような残照も既に下火になり、それでも暖められた熱気の緩みようもない夕闇迫る窓辺を背にして、彼女は薄く笑った。
なじみのない人物とひとつ部屋に押し込められた事実に、自然と強張りの解けない体を隠すようにして無理矢理に笑みを浮かべる。
今の時点でもう頭が痛い。肩に、漬物石でも乗っているような重みを感じる。
汗だくでようやく宿にたどり着いたばかりの私と、温泉に入り終え、浴衣でくつろぐ彼女。
疲れ切って泥のような疲労感に足元から沈み込んでいくような感覚さえするのに、今夜はたぶん眠れないだろう。
同じ空間に、なじみのない人の気配がすることに吐き気がしそうだ。
表面上は相手を委縮させないように柔和な笑みを浮かべながら、必死に逃げ道を探している自分がいる。
この人が悪い訳ではない。
半ば以上強制的に参加させられたお仕着せの社員旅行に、眩暈がする。
薄すぎて体が痛い布団、薄汚れて擦り切れた畳、色あせた丈と身幅の足りない浴衣、煙草臭い部屋。
覚悟はしていたが、鬼門どころか地雷原のど真ん中に素っ裸で放置されたぐらいの危機的状況だ。
だから昔から、泊りがけは嫌いだ。
全くと言っていいほど、良い思い出がない。
古ぼけた宿泊施設の窓の外に流れる川に、目を凝らす。
「ああ」
さらさらと流れる真っ黒な水と、不意に目が合ったような気がした。
だから嫌いなんだ。
だから自分で選べない宿は嫌なんだ。
「川ですね」
半ば以上心ここにあらずな私の受け答えに彼女は気づいた風もなく、買い込んできたらしいチューハイをガタゴトと冷蔵庫にしまうのに忙しいようだった。
窓に歩み寄り、思わずカーテンを引く。
そんな行動になど、何の意味がないと知っていても。
振り向いた彼女の視線を避けて、私はお手洗いに行くふりをして部屋を出た。
廊下に充満した煙草の臭いに、出そうになる咳を抑える。
息が、詰まる。
苦しい。
ねっとりと絡みつく感触に意識を持ち去られそうになるのを、うつむいて耐える。
この感覚を、気取られてはいけない。
悪意はいつでも息を殺し、すぐそこで隙を窺っているものだから。
ポケットに忍ばせた薬の存在を確かめて、私は逃げるように階下へと足を向けた。
「随分と変わった構造ですね」
「うん。こっから建て増ししてる感じだよね」
「あちら側が新館、俺たちのいるほうは旧館らしいね」
ふぅ。と、おじさんたちがため息をつく。
かすかに酒臭い息を吐くその人たちの存在は、私を守ってくれる壁みたいで少しだけ息苦しさが減る。
擦り切れ、色あせた古いカーペット。
低い天井に、手書きの番号札がつけられた小さなドア。
照明は薄暗く、廊下の隅にわだかまる暗がりに足がすくみそうになる。
あれからずっと離れることなく付いて来る視線も、こうして人垣ができている間は距離を詰めてきたりしない。
これは、そういう類のものだ。
何の加減なのか、この手のものは元気な男性が嫌いらしい。
私に吸い寄せられてくるのは、私がひとりきりでいて、決まって弱っているときだったりするのだから本当に質が悪い。
私の背筋を、暑さからではない汗がじっとりと濡らしているのを気取られぬよう、笑みを浮かべる。
私のそんな様子を、あんまりな宿に不快感を耐えていると解釈した彼らの表情が気の毒そうに曇る。
まとわりつく嫌な気配に震えていた手足に、ほんのわずか温もりが戻る。
たとえ僅かな優しさでも、その温もりをかき集めて私は力にしていける。
たぶん、この夜は長く厳しい夜になる。
そんな予感に足がすくんで泣きたくなるけれど。
私は大丈夫。
まだ、この足で立ち、長い夜を戦い抜ける。
「お気遣いありがとうございます。私は、大丈夫」
私は気づかわし気なおじさんたちの目を見て、しっかりと笑みを浮かべた。
悪意に取り込まれないように、しっかりと。
来るなら来い、という私の意志にひるんだように、それが揺らいだのを感じた。
抗い続けたはずの眠りに落ちていく。
ドボンと、真っ黒な水に落ちる。
腕を、足を、体をからめ取って、何もかもを奪い尽くそうと絡みついて来る。
振り払おうともがいても、もがいても、絡みつく。
『こういうのはね、先に音を上げた方が負けなのよ』
苦しくてにじんで来る涙を指先で拭いながら、かつてそう言って笑った人がいた。
『その涙の価値を、高められる経験を積みなさい』
「苦しさも、悔しさも、全ては磨かれるための他山の石、でしたね」
背筋を伸ばし、悠然と笑みを浮かべる背を、今も覚えている。
絡みつく真っ黒な水が、水底に沈んだままの誰かの後悔を、憎しみを、恨みを私のもののように錯覚させようとささやいて来る。
悪意は、いつだって静かに我が物顔に入り込み、心を絡め取ろうとしてくるのだけれど。
「悪いけど」
私は思いっきり強気な笑みを浮かべて、絡みつく悪意を払いのける。
「今更そんなものに、惑わされたりしないもんで、ね!」
手の中に隠してあったものを、力一杯投げつける。
こんなこともあろうかと、お守りに塩の粒を持って来ていて良かったと心底思う。
弱っていたのか、もっと良い宿り先でも見つけたのか、渦巻いていた黒い水がスルスルと引いていく。
その感触に、釈然としないような嫌な予感を残しながら、私は同室の人が身支度をする気配に目が覚めた。
同室の人が起こさないように気を使ってくれたのだろう、静かにドアを閉めて出ていく音を聞きながら、夢の名残に物思いにふける。
窓の外に目をやれば、思いのほかに明るい陽光に、水面が澄んだ光を放っている。
あまりにもあっけなくて、拍子抜けしそうなほどだ。
「全て世はこともなし、かねぇ」
呟きながら、ぬぐい切れない嫌な予感を抱えたままちょうど流れてきたアナウンスに誘われるように、私は朝ご飯を食べに行くことにした。
「おはようございます」
ほとんど眠れなかったせいで軽く頭痛がするのを隠して、出来るだけ爽やかに微笑む。
そのままおじさんたちと軽く会話をしながら、さして食欲もないのを誤魔化しながら朝食をつつく。
休日は丸つぶれ、ほとんど眠れず食事も美味しいとは言えず、入り放題の温泉には全く興味がないため、気分的には絶不調である。
おまけにずっと、変なものに付け狙われたせいで消耗が激しい。
「昨日はよく眠れました?」
ふと、頭上が陰った気がして手を止めた。
同時に掛けられた声に顔を上げて、息をのむ。
声を上げなかった自分自身を、成長したと全力でほめてやりたいと思った。
私が退けたはずの悪意が、そこにいた。
あれは、弱い心、脆弱な意思を好むのだ。
「お陰様で。――代表」
闇につりつぶされたような、悪意と憎悪に支配された瞳で私を見下ろす女に、私は素知らぬ顔で頭を垂れる。
ほんの瞬きほどの間、滅びゆくものに哀惜の思いを捧げる。
恐らく近い将来、滅びの笛は鳴るだろう。
あれは、そういうものだから。
あれは弱い心に巣食い、憎悪と疑心をあおり、破滅を呼ぶものなのだ。
でも、全てはあんなものの苗床になる者が悪い。
弱さも、無知も時に罪なのだ。
他者の存在を踏みしめてその上に立とうとする時、その意味を知らないことは罪深い。
せめて他者の痛みに寄り添えるだけの清らかさがあれば、あれはその心に巣食ったりしないのだ。
黒い水は、濁った場所にしか留まれないのだから。
味のわからなくなってしまった朝食に目を落として、私は、悪意に囚われないための方法を、じっと考え始めた。