:万の“奥”
「君、大丈夫?」
穏やかで、それでいて芯のある声。澪は驚いたように彼を見上げ、数秒の間を置いてから、小さく頷いた。
「……はい」
その様子を見ていた男――半グレ風のリーダー格が、苛立ちを隠さずに舌打ちする。
「なんだよ、また力持ってる野郎じゃねえか」
数歩にじり寄ると、男は肩を揺らして笑い出した。
「助けに来たつもりか? 力で調子に乗ってんのはわかるがよ、ちっと考えてみろや。てめえと俺、力がなきゃどっちが強ぇと思う?」
だが、青年――雪村隼人はその挑発に応じることなく、ただ澪に視線を向けたまま口を開いた。
「女の子相手に、こんな酷いことをして……」
その声には怒りと、どこか哀しみの色が混ざっていた。
「なあ? 力あるもん同士なら、勝つのはこっちに決まってんだろうが!」
怒鳴るなり、男が雪村に殴りかかる。
だがその拳は拳は虚しく宙を裂いた。
「――は?」
男の目が泳ぐ。雪村の姿が見えない。次の瞬間にはもう、少し離れた場所に彼が立っていた。
「ほう。避けやがったかよ」
男が低く笑い、両手を突き出す。
「じゃあこれはどうだ? こんなことも、できるらしいぜ」
直後、目に見えない衝撃が空気を震わせる。ドン、と重い音が響いた。澪が反射的に身をすくめる。
だが、雪村は微動だにしなかった。
そのまま、彼は右手を上げる。そして、何かを振り下ろすように動かした。
風が裂ける音が響いた。
次の瞬間、空気そのものが重圧となったかのように男の体を押し潰した。
「ぐあっ!!」
アスファルトに叩きつけられた体が地面を砕き、巨大な穴が穿たれる。男は悲鳴を上げる間もなく、そのまま地下深くへと沈んでいった。
やがて、遥か下のどこかで何かがぶつかったような、鈍い音だけが微かに響いた。
全てが終わるまで、ほんの数秒だった。
「もう、大丈夫だよ」
雪村が振り返り、澪に手を差し伸べる。
呆然としたままの澪は、戸惑いながらもその手を取った。ゆっくりと立ち上がり、頭を下げる。
「あの……助かりました。ありがとうございます」
雪村は穏やかに微笑んだ。
「怖かったよね。あんな連中相手に、よく頑張ったね。すごいよ。ケガは、大丈夫?」
言葉に込められた優しさに、澪の心が少しずつほどけていく。
「はい。多分、自分で治せると思います」
澪は自分の肩に手を当てた。薄く光がにじみ、痛みがゆっくりと引いていく。
2人の間に言葉はなかった。ただ、目を合わせたまま、数秒の静寂が流れる。
やがて、澪が口を開いた。
「あの……お名前を、聞いてもいいですか?」
「雪村。雪村隼人。君は?」
「神崎澪です」
名乗りながら、澪はふと問いかけた。
「雪村さんは……なんでだろう。さっきの人より、ずっと強いって感じました。すごく」
怯えはなかった。不思議と、彼の存在には温かさがあった。
「……うん。そうみたいだね」
雪村は少しうつむきながら、言葉を続けた。
「今朝、大学で暴れていたやつを止めたんだ。そのあとも、ここに来るまでに――もう5人。力を使って好き勝手していた人たちを、おとなしくさせてきた」
そこに誇らしさはなかった。
雪村の表情は、むしろ沈んでいた。力を誇るのではなく、それに振り回される現実を見つめるように。