神崎澪:怖かったのは、私自身
世界と少し距離を置きたくて、神崎澪は布団の中に閉じこもっていた。
時間はとっくに登校時間を過ぎている。だけど制服は着ていないし、スマホのアラームも止めたまま。耳を澄ませば、遠くで小さな子どもたちの声が聞こえてくる。たぶん、登校班か何かだ。いつも通りに動いている世界が、どこか遠くにあるようだった。
ドアが、軽くノックされた。
「……本当に、行かないの?」
母の声だ。昨日も同じようなやりとりをした気がする。
「……だって、昨日のあれ……あんなの、どう考えてもヤバいじゃん……」
布団越しの声に、母は少し間を置いてから、静かに言った。
「まあね……ニュース見ても、日本中で聞こえたって話だし。不気味なのは、わかるよ」
そのまま、足音が遠ざかる。
静寂が戻ると、澪はふぅっと息を吐いた。自分が何に怯えているのか、それは誰にも話せていない。
──本当に怖いのは、“声”じゃない。
怖いのは、自分が「力を得た」側だったこと。
布団から手を伸ばし、サイドテーブルのペットボトルを指先で弾く。何の変哲もない仕草に見えるその動きが、これまでの自分とはまるで違っていた。
──運動神経は壊滅的だった。体力測定はいつも下から数えたほうが早かった。
なのに、今はわかる。何も試さなくても、学校の誰より速く走れて、力もあって、投げても飛んで跳ねても一番になれるって。
しかも、頭の中までやけにスッキリしている。考えがまとまりやすくて、言葉も自然に出てくる。
……まあ、だからって難しい問題が急に解ける気はしないけど。
スマホを手に取ると、タイムラインは騒がしいままだった。
【力を得た男、渋谷で暴れる】
【大阪で“空中浮遊”、通行人が動画投稿】
【法大でも力を持った者が教室に乱入。取り押さえた学生は行方不明】
──法大?
スクロールした指が止まる。
「……え、うちの近くじゃん……」
映っていた校舎や制服の一部は、ニュースの見出しとともに見覚えのあるものだった。
男が教室に乱入して騒ぎを起こしたが、別の学生が瞬時に制圧した──そんな話が、拡散されていた。
スマホを伏せ、しばらく天井を見つめた。
「……コンビニくらいなら、大丈夫でしょ」
重い布団を払い、パーカーとジーンズに着替えて玄関を出る。靴を履きながら、昨日まで普通だった世界の風景が、もう戻ってこない気がした。
玄関を抜け、大きな通りへ出ると、視界が思わず止まった。
道路はひび割れ、歩道の柵がひしゃげている。信号機の一部も壊れ、車のフロントガラスに何かが突き刺さったまま放置されていた。
「なに、これ……」
ひとつ息をのんで、コンビニの明かりを見つける。扉のガラスが割れ、シャッターも半分壊れていた。
「……開いてるの?」
恐る恐る、割れたガラス戸を避けながら敷地に足を踏み入れる。
そのすぐ外、地面には男女の店員とスーツ姿の男性客が倒れていた。
「……嘘でしょ」
頭が一瞬真っ白になる。だけど、心の奥底で確信があった。
──ぐったりしてるけど、ちゃんと息はしてる。
足早に近づき、店員の1人に膝をついた。
「……ちょっと動かないでください。今……治します。多分、治せます」
恐る恐る、手のひらを胸元に当てる。
すると、目の前の男性がびくりと反応した。
「う、うう……」
目を開け、呻くように身を起こす。
「だ、大丈夫……? 息、苦しい?」
店員は困惑した様子で周囲を見渡し、ようやく彼女に目を留めた。
「……あなたが、助けてくれたんですか?」
澪は顔を背けた。
「お礼はいいから、早く逃げて。たぶん……このお店、まだ安全じゃない」
視線の先では、店内を荒らす3人の男たちが、それぞれ勝手に動き回っていた。
レジの引き出しを漁る男。冷蔵庫を蹴り、缶飲料を転がす男。割れたガラスを踏みつけながら、店内を物色する男。
「昨日までふつーに、何事もなく暮らしてたのに……」
心の中で呟きながら、澪はゆっくりと立ち上がった。
──これが、“力を持たされた”世界の現実。
目の前にいる誰かを助けられるのなら。今は、ただそれだけを信じていた。