雪村隼人:覚悟の一歩
ガラス越しに降り注ぐ日差しが、教室の床に長い影を落としている。
雪村隼人は、最前列から二つ目の席に座り、講義の始まりをじっと待っていた。法学部の大教室。百人近い学生たちが座るには十分すぎる広さだが、今朝はその空間に、どこか落ち着かないざわつきがあった。
理由は明白だった。
──昨夜、全日本人の脳内に響いた、あの“声”。
『1万人に1人、力を授ける。好きにやれ』
そんな非現実的な宣言を、本当に全員が聞いたのか。ネットでもニュースでも、朝からその話題で持ち切りだった。真偽はともかく、騒ぎになるには充分だった。
「ほんとに聞こえたんだよ。俺、あれ……まじでビビったもん」
「でもさ、これって……一種の集団催眠とか? 誰かが仕掛けたドッキリとかさ」
「バカ、脳内に聞こえたってレベルの仕掛け、できるわけないじゃん」
周囲の学生たちは、こそこそと声を交わしながらも、誰もその真偽を確かめられていない。本人が“力”を得ていない限り、それはただの奇怪な体験にすぎないのだ。
──けれど、雪村は確信していた。
あの声は本物だった。そして、自分は“その力”を得た一人なのだと。
講義が始まる数分前、スーツ姿の教授が教壇に立った。細身で小柄な年配の男性、名は森下。雪村は毎週この教授の民法の授業を受けている。
「えー……皆さん、まぁ、昨夜の“幻聴”について、いろいろ思うところはあるでしょうが……私は、今日も変わらず民法を教えます」
微かに笑みを浮かべながら、森下は黒板にチョークを走らせた。いつも通り。変わらず、いつも通り。
そうなるはずだった。
──その瞬間、教室のドアが爆音を立てて吹き飛んだ。
「っ……!?」
驚きの悲鳴がいくつも上がる。砕けた木片が床を跳ね、教室の空気が一瞬にして凍りついた。
ゆっくりと現れたのは、ひとりの青年だった。
乱れた髪。よれたTシャツにジャージのズボン。姿勢は前傾気味で、目の奥に血走った怒気を宿している。
「……吉野……?」
教壇から、森下が小さく呟く。その名に、雪村は反応した。
吉野──確か、去年この学部を辞めさせられた学生だ。
何度も授業に出席せず、課題の提出も滞り、素行にも問題があった。最終的には退学勧告が出され、学部から消えたはずの男だった。
「よく覚えてんじゃねえかよ、森下ァ……!」
吉野の声が、ビリビリと空気を揺らす。完全に正気を失ったような叫び方だった。
「テメェのせいで、俺は終わったんだよ! あのとき、ちょっとでも庇ってくれてたら、俺は……!」
怒りに任せて、吉野は教室の机を一つ、蹴り上げた。鉄脚のついた重い机が、あり得ない速度で宙を舞い、黒板へと突き刺さるように激突した。
「ッ、やめなさい吉野くん!! 警察を──」
森下が言いかけたそのとき、吉野が跳躍した。
空間を裂くような勢いで一気に距離を詰め、教授の前に着地。次の瞬間、開いた手のひらで森下の胸を強く突いた。
「が、はっ……!」
教授の身体が後方に弾かれ、教壇を滑り落ちるようにして倒れ込んだ。
悲鳴。混乱。数人の学生が席を蹴って逃げ出し、あちこちでパニックが広がる。
雪村は、無言で立ち上がった。
吉野の視線が、ゆっくりとこちらへ向けられる。
「……なんだ、てめぇ。正義の味方気取りか?」
雪村は一言も発さず、吉野に向かって歩を進めた。視線を逸らさず、まっすぐに。
「好きにやれって、言われただろ? だったら、これが“好き”ってやつだよ」
吉野が右拳を構える。次の瞬間──。
風が巻いた。
吉野の身体が、弾かれたように壁まで吹き飛んだ。
雪村が何をしたのか、誰にもわからなかった。
ただ、立っている。
雪村はその場に、静かに立っていた。
吉野は床に倒れ、意識を失っている。致命傷は与えていない。……だが、抵抗もさせなかった。
雪村は森下教授に近づき、静かに声をかける。
「……意識はありますか?」
「あ、ああ……胸を、少し……」
「すぐに、誰かを呼びます。動かないでください」
動揺しながらも、雪村はスマホを手に取った。
教室はまだ騒然としていた。スマホを構える学生もいたが、雪村は気にしない。
撮られたところで構わなかった。自分にできることを選び、やった――それだけのことだ。
(……あの声の“遊び”が、こういうものだとしたら)
(誰かが、止めなきゃいけないんだ)
雪村の中に、小さな芯のようなものが芽生えていた。
自分がこの力を得た意味。その意味を、探し始める覚悟が。