神崎澪:牛タン
ホテルに着いたのは、ちょうど空が深い藍色に染まる頃だった。まだ日付は変わっていないが、街の喧騒はすでに一段落し、ロビーには落ち着いたクラシックの旋律が流れていた。
澪は、目の前にそびえる豪奢な建物を見上げて、素直に「すごい……」と息を漏らした。天井まで伸びるガラス張りのエントランス、控えめながらも確かな高級感を湛えた調度品の数々。こういう場所に足を踏み入れるのは、もちろん初めてだった。
ホテルの支配人は、辰巳の顔を見るなり満面の笑みを浮かべた。数日前、ホテルで暴れたギフターを彼が一人で止めたのだという。その“恩人”に対し、最大限の礼を尽くしたいというのが支配人の言葉だった。
辰巳にはスイートルーム。雪村と澪には、それぞれスーペリアルームが用意された。
けれど、チェックイン直前になって、辰巳が何気なく言った。
「俺は狭い部屋のほうが落ち着く。……澪、お前がスイート使え」
反論する間もなく、荷物のカードキーが入れ替えられていた。驚きと恐縮と喜びがいっぺんに押し寄せて、澪は思わず深く頭を下げていた。
部屋に足を踏み入れた瞬間、思わず小さな歓声が漏れた。
ふかふかの絨毯、座り心地の良さそうな大きなソファ。ふと視線を上げれば、夜景が一望できる窓の向こうに、仙台の街が宝石のように瞬いていた。
ベッドに腰を下ろし、ふわりと沈み込む感触にうっとりする。これが……スイートルーム。高級ホテルの、スイート。
着替えを済ませて軽く身支度を整えたところで、インターフォンが鳴った。ロビー階のレストランに案内されるという。すぐに部屋を出ると、雪村と辰巳がすでにエレベーターの前で待っていた。
レストランは、あまりに非日常的だった。
キャンドルの明かりがゆらめくテーブル。ひと皿ごとに丁寧な説明をしてくれるスタッフ。ナイフとフォークをどこから使えばいいのか、最初は緊張しすぎて笑顔すら固まっていた。
けれど、雪村も辰巳も気負う様子はなく、ふたりの軽い会話やさりげない気遣いが、澪の緊張を少しずつほぐしてくれた。
牛フィレのローストに、地元の食材を使った前菜、口の中でとろけるデザート――全部が夢みたいだった。
部屋に戻ってからも、夢は続いていた。
「よぉ、入っていいか?」
ドアをノックした辰巳の声に、澪は慌てて姿勢を正した。部屋に招いたのは自分のほうなのに、なんだか場違いな気分になるほど、このスイートルームは立派すぎた。
ソファに腰かけた雪村と辰巳、そして澪。ちょっとした夜会のような空気に戸惑っていたそのとき――
「……ねえ、ルームサービスって、頼んでもいいのかな」
澪がテーブルのメニューを見て、そうつぶやいた。
「好きなもん頼めって言われてたからな。いいだろ」
辰巳が頷く。
数分後、運ばれてきた銀の蓋の向こうに現れたのは――
「う、牛タン……!」
澪は思わず立ち上がった。つやつやとした肉に、程よく焼き色がついて、湯気の向こうから香ばしい香りが鼻をくすぐる。
「これ、仙台のやつだ……本場の……!」
箸を手に取る。ひとくち、口に運ぶ。
「……おいし……」
そのまま、言葉が出なかった。
雪村と辰巳が見守るなか、澪はひと口ごとに表情を変えていた。驚き、感動、幸福――どれともつかない、けれどとても豊かな表情だった。
「満足そうだな」
雪村の一言に、澪は頷いた。
「……うん。生きてて、よかった……」
やがて二人が自分の部屋に戻り、澪はひとりベッドに身を沈めた。
天井を見つめながら、静かに目を閉じる。
この数日で、世界はとんでもなく変わってしまった。
怖いこと、つらいこと、理不尽なこともたくさんあった。
でも――
雪村さんと出会えて、本当によかった。
選定日が、ただの終わりじゃなくて、なにかの始まりだったと思える。
それだけで、今日はもう十分すぎるくらい幸せだった。
明日もきっと、楽しい一日になる。
明日はどんな街を歩けるだろう。
何を食べて、どんな人と出会って、どんな風に笑うんだろう。
澪はそんなことを考えながら、ふんわりと眠りに落ちていった。