プロローグ
電車を降りて、駅前の雑踏に足を踏み出す。吐き出されたように人々が行き交うなか、雪村隼人はゆっくりとした足取りで改札を抜けた。
スーツ姿の大学生──この時期の駅前にはよくいる風景の一部だが、彼の顔にはわかりやすい疲労の色が浮かんでいた。
第一志望の企業。業界研究も企業分析も、かなり力を入れたつもりだった。
手応えは──悪くなかった。おそらく、合否のどちらが出てもおかしくない。
だからこそ、余計に疲れる。考えたところで結果が変わるわけでもないのに、頭の中では想定問答の反省会が延々と続いていた。
乗り換えを経て、最寄り駅にたどり着く。そこから五分ほど歩き、ボロアパートの薄いドアを開けたとき、ようやく肩の力が抜けた。
脱ぎ捨てるように革靴を投げ出し、カバンを床に置き、スーツの上着を背中から引き剥がす。
「飯、風呂……まあ、明日でいいか……」
独り言の声もかすれていた。
着替えすら放棄して、ワイシャツとスラックスのままベッドに倒れ込む。
枕を引き寄せる余裕すらないまま、目を閉じる。まぶたの裏に残っていた駅の明かりも、街灯の光も、すぐに闇のなかへ溶けていった。
──その瞬間だった。
『飽きた。もはやこの世界にさしたる変化は望めぬ。
1万人に1人、力を授ける。好きにやれ。
最後の遊びだ。我を、楽しませよ』
脳に直接響くような、低く、そして反響するような声だった。
雪村はベッドの上で微かに眉をしかめる。
(……夢? にしてはリアルすぎる。……ていうか、俺、まだ寝てなかったか?)
そのまま意識は、闇の底へと沈んでいった。
──翌朝。
「……ふぁ……」
目を覚ました雪村は、軽く伸びをして、ぼんやりと天井を見上げた。
妙にスッキリしている。昨日の疲労がまるで嘘のように抜けていた。
「寝起き良すぎ……。ていうか、身体、軽っ」
起き上がりながら肩をまわす。筋肉が張っていたはずなのに、まるで運動した直後のような快活な感覚が残っていた。
そして、ふと、昨夜の“声”が頭をよぎる。
──好きにやれ。
──力を授ける。
「まさかとは思うけど……あれ、夢じゃなかったってことか?」
ゆっくりと息を吸い、拳を握る。途端に、体の芯からうねるような力が湧き上がってくるのを感じた。
全身にみなぎるエネルギー。ただ立っているだけなのに、筋肉が内側から膨張するような感覚がある。呼吸一つにしても、空気が爆発的に取り込まれるような異様な鋭さがあった。
(……謎の声が言ってた、“1万人に1人に力を授ける”ってやつ。自分がその中に入ったなんて、信じがたいけど──)
けれど、この力。この異常なまでの冴え。
自分が“その一人”になっていないはずがない。疑いようもなく、確かな実感がそこにあった。
それでいて、気持ちは驚くほど冷静だった。
力が湧いてくる──それも、暴走ではなく、意識のもとで制御された流れだった。
筋肉にほんの少し力を入れる。その感覚はこれまでと変わらない。違うのは、出力の規模だけだ。
ペンを折らずに握るように、握手で相手の手を潰さないように。
人間は普段から、自分の力を無意識に抑えて生きている。
今の自分も、それと同じように、力を扱えている。
ただ、ほんのわずかに力を込めるだけで、壁の一枚や床の一角を破壊できる──そんな確信がある。けれど、使い方はちゃんと、理性のもとに握っている。
ニュースアプリを開けば、トップ記事はどれも同じ話題で埋め尽くされていた。
《深夜、日本全国で奇怪な“声”》
《幻聴? それとも……集団催眠?》
《1万人に1人、力を授ける──ネット上で証言相次ぐ》
(まあ、そうなるよな……。あの声が本当なら、日本だけで1万人近くの“力持ち”が生まれてるってことになる)
頭を軽く振って、スマホを置く。
時間はいつも通り、まだ授業には余裕がある。
「行くか……」
棚の上にあった交通系ICカードを手に取り、数秒後、テーブルに戻した。
(……いや、今日は走ってみるか)
身支度を終え、スニーカーの紐を締める。ドアを開け、冷えた空気のなかに足を踏み出す。
人通りの少ない路地に立ち、少しだけ深呼吸をしてから、一歩、踏み出した。
風が切れる。視界が流れる。
地面を蹴るたびに、景色が音を立てて後ろに消えていく。
たった二分で大学の裏門に到着した。
まだ誰も登校しておらず、門の周辺は静かだった。
通行人に見られたかもしれないが、おそらく、黒い影が駆け抜けたようにしか映らなかったはずだ。
(これが“力”……1万人に1人の……)
高揚感と、ほんの少しの怖さが入り混じる。
自分に課されたルールも制約もない。ただ、力があるというだけ。
(この世界は、これからどうなっていくんだろう。……俺は、この力を、どう使うべきなんだろうな)
キャンパスに続く道を歩き出しながら、雪村は静かに思索を巡らせた。