8話 屋敷妖精
翌日、いつもより低い天井を見上げて一瞬意味がわからなかった。
障子の向こうを慌ただしく動く足音も、表通りのエンジン音も聞こえない。畳の、い草の匂いもしない。時代がかった無骨な梁も見当たらない。
ただカーテン越しに、透明な早朝の日が入ってきている。
「そうか、異世界か」
そう呟いて……ふと元の世界の家族を思い出した。
泣いただろうな。こんな世界だからか、家族や部下との繋がりは深い。虎之助も家族とは仲が良かった。だから余計に、悲しませただろうな。
天井に伸ばしたデカくてゴツい手を見上げて、せめて今の俺は痛くもなくて、新しい世界で思うように生き始めたって知らせてやりたい。だから、安心しろって言ってやりたかったな……。
そんな事で少し感傷的になってから、何事もなかったかのように起き出してクローゼットを開けた。何故かこのクローゼット、開けると新しい服が入っている。昨夜のパジャマもそうだ。
でもまぁ、犯人は予想がついている。今も、とても香ばしいパンの匂いがしているのだ。
「さて、まずは仲直りか」
用意された服を着て、虎之助は一階のリビングへと降りていった。
途中身支度もしてリビングに行くと、そこには誰もいない。
だがダイニングテーブルの上にはバスケットに入った焼きたてのパンが幾つかあり、まだほっこりと温かい。
キッチン台の上には今朝用意されたと思われる新鮮な卵がある。
そして、息を潜めるような気配もあるのだ。
とりあえず、用意してくれた物を美味しく食べるのが流儀だろう。せっかく温かいんだ。
冷蔵庫を開けて漁るとベーコンを見つけた。これを数枚切り、フライパンでカリッと焼く。その上から用意された卵を割り入れて蓋をして弱火で。クツクツと音を立てるフライパンの中で薄ら黄身に白い膜が張った所で火を止め、皿に盛り付けて完成だ。側に牛乳も置き、パンを添えれば完璧な朝食になる。
「いただきます」
手を合わせて僅かに頭を下げ、いただく。産みたての卵は黄身が濃くて美味しい。これが白身と、塩味のあるベーコンに絡むとまろやかに包み込んでくる。
手に取ったパンは小さな丸パンで、味としてはブールのようなハード系だ。表面はパリッとしていて、中は白くもっちりとして少し潰しても戻ってくる。噛めば小麦の優しい甘みと香ばしさ、僅かな塩味もしっかりと広がる。
「うま! マジか、異世界レベル高いな」
家では父親の好みで米が多かった。虎之助も好きだが、同じくらいパンも好きだ。惣菜系でガッツリもいいし、ディニッシュにチーズクリーム、その上に果物を敷き詰めるのもいい。
でも食事と合わせるならこういうシンプルな物が断然好きだ。
「なぁ、ありがとうな」
誰もいない虚空に視線を向けて声をかける。確信はないが、おそらくこれで通じるだろう。そんな気がする。実際空気が揺れた。
「昨日は悪かったな。あれ、俺が壁叩いちまったからだろ? 大事なもんに手ぇ出されちゃ怒るのも無理ねぇよな。悪かった」
心からそう思う。大事な物をぞんざいに扱われれば誰だって嫌な気分になる。昨日の虎之助の行動はこの相手にとってそういうことなのだろう。
許してもらえるか。そう思っていると不意に近くで気配が動くのを感じ、そちらを向いて驚いた。
そこには半透明の男がいた。長い紫がかった髪を下ろし、執事のような服を着た整った顔の男で、左目にモノクルをしている。
彼は折り目正しく虎之助に頭を下げていた。
『こちらこそ、新たな主に対しあのような失礼な態度を取りました事を、深くお詫び申し上げます。本来ならばこちらが追い出されても仕方の無い事をいたしました』
「いや、いいって。お前も最近、前の主を亡くしたんだろ?」
この問いかけに、半透明な青年は沈痛な顔をする。眉根を寄せ、ぴんとしていた指先が僅かに握られる程に。
ネオ曰く、許可は取っているという。だが、それと感情はイコールじゃない。こいつの中ではまだ、何も腑に落ちていないんだろう。
「あのさ。とりあえずここに住むのは、いいか? この世界に来て今日が一日目みたいなもんでよ。流石に追い出されちゃ生きていけるか心配なんだ」
『勿論です。前の主からもそのように、指示を受けました』
「前の主は死ぬ前から俺がここに来るのを知ってたのか?」
『いえ、死後に会いました。私は妖精、実体を持たないものですので、幽霊などとは相性がよいのでしょう。主は亡くなった後でこの事を神に頼まれ、了承したと言っておりました』
マジか、幽霊か……あんま得意じゃない。
だがまぁ、相手次第とも言う。虎之助もきっと家族が挨拶回りに来たなら怖くないだろうと思う。
『……本当は、受け入れがたい思いもあったのです。突然いなくなり、そのまま戻ってはきませんでしたので。何処かでまだ、あの方は生きているのではと思いたかった』
「お前、死に目に会えてないのかよ」
驚いて問えば、彼は沈痛な面持ちで首を縦に振る。僅かに肩を震わせながら。
だが、それなら納得はできないだろうな。さて、どうしたものか。できるだけ早く強くなって引っ越してやれれば、こいつに思い出の家を明け渡してやれるが……。
というか……。
「なぁ、お前の前の主人は出先で死んだのか? 死体は?」
『戻ってきておりませんし、おそらく食われてしまったでしょう。襲われた場所は聞いておりますが、私は屋敷妖精。この屋敷の柵から外には出られません』
「マジかよ!」
思わず立ち上がってしまう。そんなに世話になった相手の遺体や遺品すら回収できてないなんて、酷な話だ。それに、場所が分かってるなら何も無くても墓くらい建てて参りたいのが人情だ。それも出来ないなんて。
何か、こいつを自由にしてやれる方法はないか?
考えているが、それをさえぎるように激渋ボイスが聞こえて舌が止まった。
見ればクリームがソファーで寝ていたらしく、今はふよふよと浮き上がりこっちに近付いてきている。
「おはよう、主」
「おう、おはよう。お前、昨日ソファーで寝てたのか?」
「あぁ。ぬいぐるみがベッドで寝るのもどうかと思ってな。それにこれだけ小さな体になればソファーも快適だ」
確かに、ソファーにぬいぐるみは可愛すぎて爆ぜるな。
真剣に納得してしまう虎之助の側に立った屋敷妖精へとクリームの目が行く。一瞬流れた緊張の空気。
だが直ぐにクリームが頭を下げた事でそれは収まった。
「昨日は突然攻撃して悪かったな。これでも主従の身なのだ。契約している主が傷つけられたので憤ってしまった。察してくれ」
『こちらこそ、新たな主に向かい攻撃した未熟者です。お気になさらずに』
両者が丁寧に非を詫びた。これでどうにかこの家の中も落ち着くんじゃないだろうか。
そういう事で牛乳も一気に飲み干す。さて、今日の予定だが……。
「まずは敷地の周辺をぐるっと回って、魔物の強さを確かめようと思う」
まずはこれが急務だと、昨日ベッドで結論づけた。虎之助としては今ここにある生地や毛糸だけでも十分何かを作る事は可能だが、それではじり貧だ。何より自分がどれくらい、この世界で動けるかを確かめておかなければならない。
幸いこの家には強固な結界があり、柵は腰くらいの位置。逃げ込もうと思えば乗り越えて逃げる事も可能だ。
更にクリームとの連携も確認しておきたい。
虎之助の提案に屋敷妖精は丁寧に頭を下げ、クリームはもふもふの手に拳を握った。
「よし、俺の出番だな!」
『装備を見繕いましょう。リーベ様が残された武器は幾つか御座いますので』
「悪いな。えっと……」
そういえば名前を聞いていなかった。
気づいて聞いたら、彼は苦笑してしまった。
『名はございません。これまでは主と二人でしたので、「ねぇ」で事足りておりました』
「マジか……」
いや、確かにそういう所はある。虎之助の両親も「お前」「アンタ」で会話をする事が多かったしな。
だが……不便だな。
「今度、俺が名前をつけてもいいか?」
問うと彼は眉を上げて驚き、曖昧な様子で消えていった。