第7話 母は強し
シェヘラザードと呼ばれた奥方の胸に抱かれた赤子の小さな紅葉の手が、確かに我へと伸ばされていた。赤子特有の白く柔らかな指先が虚空を掻き、何かを求めるようにふるふると揺れる。無意識に思える動きに見えて、どこか意志を帯びているようにも感じられた。
「…フランソワ?」
サンチェンスが不思議そうに赤子の顔を覗き込み、次いで視線を辿る。
「この子、アキト殿を見て…いる?」
「アキト殿…?」
その時、初めてシェヘラザードの視線がしっかりと我へと向けられるのを感じる。やや吊り上がった琥珀色の双眸は、涙で潤んでいるものの、王侯貴族特有の鋭い観察眼を失っていなかった。先ほどまで夫と子の無事だけを確かめていた彼女が、今度は神経を尖らせ『異物』を見定める目をしている。
我の簡素ながらも明らかにこの王国では見慣れない服装、紫色を基調とした東方連邦風の筒袖の羽織と指貫袴、腰に結んだ細帯、そして足元の草履を一瞥した。腰の小袋、最後に片刃剣を納めた鞘へ一瞬視線が留まる。
ブーツやコートといった王国や西方諸国で主流の様式と全く異なる旅装、異質と捉えても仕方ない。
彼女は赤子を抱いたまま、サンチェンスの袖をそっと引いて、顔を耳元に寄せる。
「あなた…」
「どうした、愛しのシェヘラザード」
夫の耳元で声を潜めて尋ねた。その声は震えの残る中にも、公爵家の令息に嫁した女性としての確かな品位を保っていた。
「あちらに立っていらっしゃる殿方はどちらでしょうか?このような辺境で、見かけぬ民族衣装ですが…」
血と賊の骸が散らばる道路で一歩引いた位置に佇む我に二人の視線が集まる。サンチェンスは妻の問いかけに、優しく彼女の肩を抱きながら答えた。
「シェヘラザード、こちらはアキト殿。我らの窮地を救ってくれた旅人さ。魔物呼びの笛で狂化状態だった魔物の群れを、一瞬で薙ぎ払ってくれた」
「では、賊と魔物を退けたのは」
「ああ、彼がいなければ、この場にいる多くの者が命を落としていた」
「まぁ…!」
夫の説明にシェヘラザードは驚きに目を見開き、改めて我を見据える。視線には畏れと警戒、そして確かな感謝を含んだものに変わった。さりとて我が無意識に纏う仙気を感じ取ったのか、ほんのわずか身を引くような姿勢をとった。決して露骨な拒絶ではない。得体が知れぬ未知なる者へ対する、母としての本能的警戒。
しかし大貴族の奥方、感情に流されるだけの女性ではない。彼女は優雅に深紅のドレスの裾を掴み、流れるようなカーテシーで礼を示した。草原の戦場跡には不釣り合いなほど、洗練された所作。
「初めまして。私はシェヘラザード・フォン・ヴァニシア。ヴァニシア公爵次期当主サンチェンスの妻にございます。お見知りおきを旅のお方」
我の様な平民には丁寧過ぎる名乗りに、我は膝を折って応じる。
「寛大な紹介、身に余る思いです。某はアキト、学もなき放浪の身にございます。ご無事で何よりです、奥様」
シェヘラザードは我の言葉使いを不快に思う様子もなく、小さく頷く。
「…旅人と仰いましたが」
琥珀色の瞳が我の格好へと向けられる。
「そのお召し物、そして立ち居振る舞い。どこかの国の騎士や魔術師とも、また流浪の傭兵とも違いますわね。東方の方なのでしょうか?」
探るようでいて、断定しない。
丁寧な問いかけ。質問の形を取った、洗練された観察。
「ご明察です。生まれは東の果て。今は国にも仕えぬ、ただの旅人に過ぎません」
本当は遥か上空の月だが、ウソは告げていない。生まれは日本なのだから。
「…そうですか。遠い国からおいでになったのですね」
シェヘラザードは、我の返答を一言一句聞き逃すまいとしている。一瞬だけ目を伏せ、何かを思案するように唇を結んだ。
その間にも、赤子のフランソワは相変わらず我から視線を離さない。小さな手が、再び空を掴むように動く。サンチェスは、妻の微かな緊張にも、赤子の不思議な行動にも気づいている様子だった。彼は一歩前に出て、場を和ませるように口を開いた。
「アキト殿、改めて礼を言う。妻も無傷であり、我が子も守られた。この恩は決して忘れぬ」
そう言い終えると同時に、少し離れた場所で負傷者の手当てにあたっていた騎士の一人が鎧の軋む音と共に歩み寄ってきた。甲冑にはまだ乾ききらぬ血の跡が残っているが、その足取りは打って変わって軽い。騎士は主君の前で跪き、息を整えて報告する。
「若様、報告いたします」
「うむ、聞こう」
「負傷者の応急処置は完了しました。重傷者三名も、アキト殿より頂いた薬のおかげで命に別状はありません。全員、意識を取り戻しております」
「そうか」
騎士の報告はサンチェンスの顔に刻まれた緊張の皺が緩むに値した。彼は深く息を吐き、張り詰めていた肩から力が抜け、胸の奥に溜め込んでいた息をゆっくりと吐き出す。
「ご苦労。皆に伝えてくれ、後ほど改めて労をねぎらうと」
「っは!」
力強く応じた騎士は踵を返して同僚の元へ戻っていった。その姿を見届けてから、サンチェンスは改めて我へ向き直る。
「聞いた通りだ、アキト殿。君の薬がなければ、多くの者が今も苦しんでいただろう」
彼の背後でシェヘラザードが安堵の息を漏らし、胸に抱いたフランソワをそっと揺らす。赤子は相変わらず我を見つめたまま。
「某の薬が役立って胸を撫で下ろしております」
我がそう答えると、サンチェンスは小さく笑みを浮かべ静かに首を振った。
「それだけではない。君が来なければ賊も魔物も退けられなかった。結果として、皆の命を救ったのは君の助力があったこそ」
その言葉に誇張も社交辞令もなかった。主君として、事実を事実として認める声音。
…だが感謝して終わらないのが貴族と言う物。
「ひとまずの危機は去ったが。一度の襲撃で終わらないと私は確信している」
彼は言葉を選ぶ。青い瞳を真っすぐ我に向ける。
「先に述べたが…我々と王都まで同行してもらえないか。報酬については、ヴァニシア家として必ずや相応の形で用意しよう」
「…お気遣いありがたき幸せ」
一拍置き、周囲の様子を改めて見渡し状況を分析する。
彼らの事情を我は知らない。恐らく政治的な公に出来ない裏が絡んでいると予想するが、明らかに情報が欠如している。
本音を言えばこれ以上貴族と繋がりを持ち、世俗に関わるのは御免被りたい。
「(王都へ向かう明確な用は無い…が、襲撃が繰り返すのは確実)」
所持が禁止された魔物呼びの笛を使った組織的な犯行。「一度の襲撃で終わらない」と感じているのは、我も同意。
心の内でそう思いつつ、我はゆっくりと口を開いた。
「某は護衛を生業としているわけではありませんが、ここで出会ったのも何かの縁。お引き受けいたしましょう」
そして、深く一礼した。
カチリと、誰にも聞こえぬ音がしたような気がした。それは、運命の歯車が新たに一噛みし、回り始めた瞬間だった。
シェヘラザードの腕の中で、フランソワはその小さな手をひらりと動かし、満足気にふにゃりと微笑んだ気がした。




