なかよし
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1.夏期講習
中二の夏のことだった。
勉強の全くできない俺は、親に無理矢理、夏期講習に通わされることになった。もう申込みを済ませていると言う。
まじかよ。俺はがく然とした。勉強ができないのは勉強がきらいだからで、その勉強を強制されることに俺はどうしようもないイラ立ちを感じていた。なにより、そんなものに行っていたら、涼ちゃんと遊べない。
奥本涼平、涼ちゃんは俺のいちばんの仲よしだ。涼ちゃんは、実は俺よりも少しだけバカだ。けど、夏期講習には行かなくていいみたいだった。涼ちゃんの親は勉強を強制しないらしい。うらやましい。
そもそも、涼ちゃんは、顔で得をしていると思う。いかにもバカっぽい造りの俺の顔とは違い、涼ちゃんは賢そうな顔をしている。濃く長い睫毛はお人形さんみたいで、無表情が基本の愛らしい顔は、常にヘラヘラしている俺より断然物静かで知的に見える。
「涼ちゃん。俺、夏期講習行かなきゃいけなくなっちゃって」
学校帰りにガリガリ君を買って食べながら、俺は涼ちゃんに言った。太陽からの純粋な熱よりも、アスファルトからの熱気のほうが暑い。
「ああ」
涼ちゃんは気のない返事をする。
「夏休み、遊べなくなっちゃった」
「そっか」
そっけなく言って、涼ちゃんはガリガリ君を一心不乱に噛み砕いていた。
え、それだけ? と思った。もっと残念そうにしてくれてもいいのに。
「やっぱ、ぶどうよりソーダだな」
涼ちゃんは言った。それがガリガリ君の味のことだと気づくのに、少し時間がかかってしまった。俺の夏期講習はガリガリ君以下か、と少し寂しく思っていると、
「栄司は賢くなっちゃうんか」
涼ちゃんは、なんの感慨もなさそうに呟いた。俺は、それが夏期講習の話題だと気づくのに、やっぱり時間がかかった。涼ちゃんとの会話は予測力と想像力が要る。
ひと夏、講習に出たくらいで賢くなるわけないじゃないか、と思ったけれど、俺は黙っていた。
わけもわからずなんだか悔しくて、本当に賢くなってやろうかしら、と少し思った。
2.酒まん
昼休憩、トイレから戻ると、涼ちゃんが黒板を指さしながら熱弁をふるっていた。熱弁とは言っても、口調は相変わらず淡泊だし表情も無いに等しい。ただ、普段と比べものにならないくらい、ぺらぺらと口が動いているのだ。二、三人のクラスメイトたちが、笑いながらそれを聞いている。
涼ちゃんは、夏休みの間も暑い暑いと言いながら、それでも切ろうとしなかったくるくるのくせっ毛を振り乱して、黒板にがしがしとなにかを書いた。俺も適当な席に座って、黒板を眺めてみる。
結局、俺の夏休みの半分は夏期講習でつぶれてしまった。でも、毎日あるわけじゃなかったので、土日は涼ちゃんと河原で遊んだりすることができた。
夏期講習に行ったからと言って賢くなるわけじゃないと思っていたけれど、どうやら俺は『やればできる子』だったようで、夏休み明けの学力テストの点は、少しだけ上がっていた。とは言っても、数学や理科は相変わらずで、上がったのは国語や英語の点数だけだ。いままで、やらなさすぎたのかもしれない。
俺の五十二点の国語の答案を見て、
「栄司は賢くなっちゃったな」
と、涼ちゃんは言った。どんな顔をしているのかな、と思って涼ちゃんを注意深く見ていたのだけど、涼ちゃんは無表情だった。
涼ちゃんの答案には、十六点の赤文字がその存在感を主張していた。
黒板には、白いチョークでいびつな○がふたつ描かれていた。それぞれの○の上に、『酒まん』、『あんまん』と下手くそな字で記されていて、その間には、『>』という記号。
酒まん>あんまん
なんだ、それ。
「なにやってんの?」
いちばん近くにいた島田に尋ねると、
「涼ちゃんが、あんまんよりも酒まんのほうがうまいって言ってるだけ」
島田は笑いながら言った。
「オレら、みんなあんまん派だから、涼ちゃん必死になってんだ」
「なにそれ」
俺も笑った。涼ちゃん、なにやってんだ。
酒まんというのは、酒まんじゅうの略称で、地元の春明祭という祭りで必ず売られている名物まんじゅうだ。あんこがお酒の味のする皮で包まれている。
春明祭は毎年三月の寒い時期に行われるので、あたたかい酒まんがおいしい。でも、酒まんは少しくせがある味だから、やっぱりあんまんと比べてしまうとあんまんのほうが断然おいしい。
「栄司は酒まん派だよな」
涼ちゃんが白いチョークでこちらを指した。
「いや、俺もあんまん」
そう言って首を振ると、涼ちゃんは、納得いかない、というふうにくちびるを尖らせた。
その表情は、ちょっとびっくりするほどかわいかった。中から変な音がした気がして、俺は思わず胸をおさえた。
「もうおまえら、春明祭行っても酒まん食うなよ。一生あんまん食ってりゃいいんだ」
拗ねたように涼ちゃんが言い、みんなが笑う。
3.修学旅行
修学旅行は十月。
もう衣替えは終わっていたけれど、夏服で沖縄へ行った。台風がちょうど去るころで、風がとても強かった。飛行機は、なかなか着陸できずに空港の上空をぐるぐると旋回している。
「大丈夫?」
俺は、右隣の席でグロッキーになっている涼ちゃんに声をかけた。
「だいじょうぶじゃない」
涼ちゃんは言う。
「ちゃんと着陸できるん? このまま落ちるんじゃないん?」
無表情ではあるけれど、涼ちゃんの声は弱々しい。顔色も、すこぶる悪い。
「いままで黙ってたけど、離陸した時からもう気分が悪かったんよ」
涼ちゃんは言った。俺と、俺の左隣に座る島田は顔を見合わせる。
「知ってたよ」
島田が言った。
「なんだって!」
涼ちゃんが珍しく大きな声を出す。
「そこ、静かにしなさい」
それを先生の声が追いかける。
「知ってたんなら、なんでもっとおれの精神的ケアをしてくれんかったんよ」
弱々しく言って、涼ちゃんは軽くえづいた。周りがざわつく。みんな腰を浮かしそうだったけれど、いつ着陸体勢に入るかわからない機内では、シートベルトを外せない。
「もうすぐ着陸するから、もうちょっとの我慢だよ」
背中をさすると、涼ちゃんはひとつうなずき目を閉じた。
「短い人生だった」
「大丈夫だってば。落ちないよ」
その時、着陸を知らせる機内アナウンスが入った。
「たすかった!」
涼ちゃんがまた大声を出し、先生の声が飛ぶ。
忙しく観光名所を回り、一日目の最後は美ら海水族館だ。
バスを降りて、美ら海水族館へ向かう道すがら、楽しそうにおしゃべりしているひとたちとすれ違った。早口で聞き慣れない言葉だった。
「沖縄弁って、なにしゃべってるかわからんね」
すっかり体調も元に戻った涼ちゃんが心なしか弾んだ声で言う。
「本当だねー」
と話していると、
「彼らは、外国から観光にいらした方々ですよ」
と、近くにいた先生に言われた。涼ちゃんと俺は、ぴたりと黙った。島田がふき出す声が聞こえた。
二日目は体験学習で、珊瑚でブレスレットを作った。
「誰にあげる?」
と涼ちゃんに訊くと、
「え。これ、誰かにあげんといかんの?」
と返された。
そんな決まりはないけれど、ブレスレットだから、母親とか姉妹におみやげにするつもりのやつが多かった。俺も、ばあちゃんにあげるつもりだった。
「じゃあ、栄司にあげる」
涼ちゃんは言った。
「おれだけあげるんは不公平だけん、栄司のをおれにくれ」
「あー、うん」
うなずきながら、困った、と思った。ばあちゃんへのおみやげは別に買わなきゃいけなくなったぞ。
三日目は米軍基地を眺めて終わり。
帰りの飛行機でも、涼ちゃんはグロッキーだった。
4.リボン
十二月の空気は、寒いというよりも痛い。外に出るのに、どうしても躊躇ってしまう。
放課後、だらだらと教室に居残っていた。涼ちゃんは女子に捕まって髪の毛をいじられている。椅子に座らされ、いやがることもなく、無表情にされるがままになっている涼ちゃんは、本当にお人形さんのようだ。
しゃんしゃんと暖房に熱湯が巡る音がする。古い型のスチーム暖房なので、音がうるさいのだ。
ずるずると伸ばしっぱなしの涼ちゃんの髪の毛は、いつの間にか肩のあたりまで伸びていた。前髪だけは、自分で切っているようでたどたどしく短い。
「髪切らないの?」
いつだったか訊いたことがあった。
「うん」
涼ちゃんは、くるくるでもさもさの髪の毛を揺らしてうなずいただけだった。
「できたよ!」
涼ちゃんの髪をいじっていた雪本さんが元気よく言った。
「かわいい!」
「なにそれ、やばーい!」
「えー、超かわいいんだけど!」
周りの女子からも、きゃあきゃあと歓声が上がる。
涼ちゃんは、差し出された鏡を受け取って、自分の髪形を確認している。相変わらず無表情で、いまどんな気持ちなのか全く読めない。
「米原くん、どう? 奥本くん、かわいくなったでしょ?」
雪本さんは俺に矛先を向けてきた。
「あー……」
俺は言葉に詰まる。
髪の毛をポニーテールにしてもらった涼ちゃんは、頭の上の薄桃色のリボンをもぞもぞとさわりながら、こちらをじっと見た。
「あー、うーん、に……にあってる、よ」
かわいい、と言うのはどうにも抵抗があって、俺はそれだけ言った。声が小さくなってしまう。
なぜか、女子たちがまたきゃあきゃあと騒ぎ出した。
涼ちゃんは、納得いかない、という表情で、くちびるを尖らせた。瞬間的に、おれの心臓が跳ねた。
やっぱり、ここから変な音がする。俺は胸を必死でおさえつける。
そもそも、涼ちゃんは、かわいいと言われてうれしいのだろうか。よくわからない。
「栄司、帰ろう」
学ランにポニーテールというシュールな格好で、涼ちゃんは立ち上がった。
「えー、奥本くん。その頭のまま帰るの?」
女子たちが色めき立つ。涼ちゃんは、モスグリーンのマフラーを首にぐるぐると巻いて、無表情にうなずいた。そして、
「これ、ありがとうね」
自分の頭を指さして、女子たちに言う。
「涼ちゃん、本当にそれで帰るの?」
俺が言うと、
「うん」
涼ちゃんは、やっぱりただうなずいただけだった。
校門を出たところで、雪が降り始めた。空を仰いでいると、
「栄司、冬休みも行くん?」
ふいに、涼ちゃんが言った。
「どこへ?」
「夏期講習」
涼ちゃんは、ポニーテールをふわんと揺らしてこちらを振り向いた。
冬休みに夏期講習はない。あるのは、冬期講習だ。
涼ちゃんは、バカだな。俺もバカだけど。
「行くかも。まだわかんない」
そう答えると、
「そっか」
涼ちゃんはそっけなく言った。
「これ、かわいくない?」
涼ちゃんは、自分の頭を指さす。俺は言葉に詰まる。
「そっか」
呟いて、涼ちゃんは薄桃色のリボンをするりと引っ張ってほどいた。あっ、と思う。なんだかもったいないような気がした。
色がなくなって、黒い髪の毛は黒いゴムで結われたままになる。
「女の子ならよかったのに、おれ」
涼ちゃんは無表情に言って、俺の短い髪の毛にリボンを結ぶ。ぎゅっと引っ張られた髪の毛が少し痛い。
「どういう意味?」
涼ちゃんは答えなかった。
次の日。涼ちゃんの髪の毛は、短くなっていた。
5.あんまん
冬期講習も親が勝手に申し込んでいた。結局、冬休みも勉強三昧だ。
学校帰り、あんまんを買って食べながらそれを伝えると、
「栄司は、そんなに賢くなってどうするん?」
涼ちゃんは無表情に言って、ガリガリ君をがりがりとかじった。真冬にまでガリガリ君を食べちゃう気持ちが、俺にはよくわからない。
「さあ」
俺は答える。
「初詣いっしょに行けるん?」
「あ、うん。行けるよ」
「そっか」
涼ちゃんが少し笑ったような気がしたので、その顔をじっと見た。
「なん?」
首をかしげる涼ちゃんは、もう無表情だった。
「さむいな」
あたりまえだ。ガリガリ君で冷えたんだ。
「髪切ったからかな」
違うと思う。
「あんまん食べる? ぬくいよ」
俺が言うと、涼ちゃんは首をぶんぶんと振った。
「あんまんなんかに魂は売れない」
「おおげさな」
「酒まん大なり、あんまん」
涼ちゃんは、きっぱりと言った。酒まん>あんまん、か。
「まあ、いらないんならいいけど」
俺が言うと、涼ちゃんはおれの赤いマフラーを引っ張った。
「なに?」
「栄司のマフラーのほうが、ぬくいんじゃないか」
「同じだよ」
そう言ったのに、涼ちゃんはぐいぐいとマフラーを引っ張ってくる。
「かえっこしよう」
涼ちゃんは言う。
「かえっこ? マフラーを?」
うなずいた涼ちゃんに、
「やだよ。なんで?」
と訊くと、涼ちゃんは納得いかない、というふうにくちびるを尖らせた。
うわ、と思った。中から変な音がする。胸をぎゅっとおさえた。
「あ」
涼ちゃんが小さく声を上げる。俺の手から落っこちたあんまんを、涼ちゃんが空中でキャッチした。
「栄司、どしたん。どっか痛いん?」
涼ちゃんは言う。
「なんか、胸が痛い」
正直に言うと、
「胸? 肺か。深刻だな」
涼ちゃんは深刻な顔で俺を見た。
「病院行きーよ」
言われて、俺は曖昧にうなずく。
涼ちゃんがあんまんを差し出した。
「ありがと」
俺はそれを受け取って、口に押し込んだ。
6.酒まんふたたび
二月に入ってから、同じクラスの雪本さんに訊かれた。
「ねえ、米原くん。奥本くんは甘いもの好きかな?」
日直で、早く登校した日だった。雪本さんも日直で、日直じゃない栗田さんもなぜかいっしょにいた。
仲よしだからかもしれない。俺と涼ちゃんも仲よしだけど、日直まではいっしょにしない。女子って、変わってる。
「好きだと思う」
俺は答えた。
「ガリガリ君とか、梅のど飴とか、ラムネ菓子をよく食べてる。あとは、酒まんとか」
「酒まん? 春明祭で売ってるやつ?」
雪本さんの横にいた栗田さんが言う。
「うん。春明祭行ったら、いつも買ってる。こないだも、あんまんより酒まんだって言ってた」
「えー、かわいい」
栗田さんは歓声を上げた。
「かわいい? 酒まんが?」
酒まんのどこがかわいいのか、俺にはわからない。あれには、いかついダルマの絵が焼き印してあるのに。
「酒まん!? ちがうよ。かわいくないよ、あんなの。かわいいのは、奥本くん! 奥本くんがかわいいの!」
栗田さんが酒まんを全否定する。涼ちゃんが聞いたら拗ねそうだ。
「涼ちゃんが、かわいい?」
「そう。でも、髪切ってから、ちょっとかっこよくなったよね。かわいいし、かっこいい」
かっこいい? 涼ちゃんが? 涼ちゃん、結構バカだよ?
「俺はどうだろう。ほら、一般的に見て」
同じバカとして、一応意見を求めてみた。
「米原くんもかわいいよ。シンバル叩いてる、おさるさんのおもちゃみたい」
ほめられたのか? いや、けなされた? どっちだ。俺は考え込んでしまう。
でも、涼ちゃんは、そうか。かわいい、のかもしれない。
俺は、涼ちゃんの納得いかない、という表情を思い出す。確かに、あの表情は、ちょっとかわいい。尖らせたくちびるが、かわいい。
そう思ったら、急に胸がキリキリとネジを巻いたみたいになって、変な音がしそうになる。あわてて胸をぐっとおさえつけた。なんだか苦しい。
「わたしは酒まんよりあんまんだなあ」
言いながら、雪本さんは栗田さんを見る。
「あ、そうだった!」
雪本さんに促されるようにして、栗田さんが口を開いた。
「甘いものの話。そういうのじゃなくて、あのね」
栗田さんの目は真剣だ。
「奥本くんは、チョコレート大丈夫かなって」
ああ、と納得した。
「そうか、バレンタインかー」
栗田さんは、こくこくとうなずく。
「アレルギーとかあるひともいるでしょ? だから、奥本くんはどうかなって」
「チョコレートは……」
言いかけて、はたと気づく。そういえば、涼ちゃんがチョコレートを食べている姿を見たことがない。
「どうだろ。訊いてみる」
俺が言うと、栗田さんは頬を染めて、
「ありがとう。お願いね」
と手を合わせた。
涼ちゃんは、モテるんだな。
俺は少し複雑な気分になる。この、なにかがこんがらがったみたいな変な気持ちはどこから来るのだろう。
いつものように涼ちゃんは遅刻ぎりぎりで登校して来た。ホームルームが終わって、俺はさっそく訊いてみる。
「涼ちゃん、チョコレート好き?」
「くれるん?」
涼ちゃんは、眠たげに閉じそうになっていた目を見開く。ぐい、と、こちらに手を差し出してきたものだから、俺は思わずその手をはたく。
「あげない。持ってない」
「なあんだ」
涼ちゃんは、むすりとして言った。会話が噛み合わない。でも、とにかくいまは任務の遂行を優先させなければ。
「チョコレートにアレルギーある?」
「ない」
「チョコレート好き?」
「きらいじゃない」
それは、好きということでいいんだろうか。
「じゃあ、チョコレートと酒まん、どっちが好き?」
「酒まん。くれるん?」
「持ってないってば」
「じゃあ、なんでそんなこと訊くん?」
「あー、もうすぐバレンタインだから……」
俺は口ごもる。さすがに栗田さんの名前を出してはいけないのだろう。
「くれるん? バレンタイン」
涼ちゃんは、長いまつげをパシパシと瞬かせる。黒目がちの目が、きらきらしている。
「なんで?」
なんで俺が涼ちゃんにバレンタインしなきゃいけないんだ。そう思って問い返したのに、涼ちゃんはそれには答えず、
「おれ、チョコより酒まんがいい」
と、きっぱりとした口調で言った。これだけわかれば、じゅうぶんだ。
「わかった」
俺は、うなずいた。栗田さんの期待した答えではないかもしれないけど、とりあえず、ミッションコンプリート。
「チョコレートにアレルギーはないみたいだけど、チョコレートより酒まんがいいって」
栗田さんにそう伝えると、
「酒まん」
呟いて、栗田さんは複雑な表情を浮かべた。
「酒まんって、春明祭以外ではどこで売ってるのよ……」
「商店街の和菓子屋さんにあるんじゃない?」
雪本さんが元気づけるように言った。
「こんどの土曜日、見に行ってみようよ」
栗田さんは、複雑な表情のままうなずいた。それから、気を取り直したように、にっこりと笑って言った。
「米原くん、ありがとう」
言われて、俺も複雑な気持ちになる。
どこかで、なにかが、こんがらがっている。
7.バレンタインデー
バレンタインデー当日、栗田さんは本当に酒まんを買ってきていて、涼ちゃんを本気で喜ばせた。でも、それだけでなく、涼ちゃんは他の女子からもチョコレートを何個かもらっていた。かぞえたら、酒まんの包みを含めて六個あった。なんだかリアルにすごい数だ。
「すっげーな、涼ちゃん」
放課後の教室、帰り支度を済ませた島田が言った。ほっぺをふっくらとほころばせて、涼ちゃんはうれしそうだ。
だらだらしているうちに遅くなった。残っているのは、もう俺たち三人だけだ。
「だいじに食べよう」
涼ちゃんは言った。
「是非、そうしろ」
島田が言う。
「妹にも分けてやろう」
涼ちゃんは言った。
「いい心がけだ」
島田が言う。
「島田は?」
涼ちゃんの言葉に、島田は顔いっぱいに笑う。余裕の表情だ。
「今年は、いっこもらえた。雪本からの義理チョコだ」
ありがたい、と島田は言う。
「あ、俺も」
言って、俺はチョコレートの箱をふたりに見せる。
俺も、雪本さんからもらった。俺がもらったのも、このいっこだけだ。小さくてかわいい、赤いリボンがついた箱。
「トモチョコだからね」
と言われ、「うん」と、うなずいたものの、トモチョコというのがなんなのか、よくわからなかった。
「ありがとう」
お礼を言うと、雪本さんはにっこりとさわやかに笑った。
「これトモチョコって言われたんだけど。トモチョコってなんだろう」
涼ちゃんはどうせ知らないだろうから、島田に訊く。
「友だちにあげるチョコ。女子同士で交換してただろ。まあ、義理チョコみたいなもんだ」
「なるほどー」
納得した。
俺は、箱を大事に鞄にしまう。その時、島田が言った。
「栄司の箱のリボンだけ、赤い」
「ん?」
俺は島田を見る。
「オレのと」
島田は自分の鞄から、雪本さんのチョコレートを引っ張り出す。
「涼ちゃんの」
そして、涼ちゃんの机のチョコレートを指さす。
「青いだろ」
「うん。そうだね」
確かに、島田と涼ちゃんの箱についているリボンは青い。
「蒲田のも目黒のも、青かった」
島田は言う。他人のチョコレートまでよく見てるな。なんでそんなにリボンの色にこだわるんだろう、と俺は首を捻る。
「だから、なに」
「栄司のは、特別ってことだ」
島田はニヤリと笑った。
「トモチョコに見せかけた、本気チョコ」
「うーそだあ」
俺は思わず、そう言った。雪本さんが、俺を? うーそだあ。
「まあ、どうかわかんないけどな」
島田は言った。
「どっちにしても、チョコはありがたい。大事に食べるんだぞ」
俺はうなずいた。言われなくても、そのつもりだ。
涼ちゃんを見ると、納得いなかない、というふうにくちびるを尖らせている。
俺の胸は、ぎゅん、と大きな音を立てて、苦しくなった。かわいい、と思った。というよりも、俺はいま涼ちゃんをかわいいと思っているのかな、と思った。なんだか、ややこしい。涼ちゃんも、赤いリボンがのほうがよかったのかもしれない。
「帰ろうか、涼ちゃん」
胸をおさえ、深呼吸をしながら言うと、涼ちゃんは黙って帰り支度を始めた。モスグリーンのマフラーをぐるぐると首に巻く。
「じゃあ、お先」
島田が教室を出て行って、教室には、俺と涼ちゃんのふたりだけになる。
「栄司」
涼ちゃんが俺を呼んだ。
「酒まんは?」
言われて、俺は首を捻る。
「酒まんは、栗田さんにもらったでしょ?」
「ちがう」
涼ちゃんは、ぷるぷると首を振った。
「栄司の、バレンタイン。酒まんくれるって言った」
「え。言ってないよ」
言ってない。覚えがない。
「言った。チョコより酒まんがいいって言ったら、わかったって言った」
涼ちゃんは、上履きで床を二回、軽く蹴った。イライラしているみたいだ。
それは、言った、かも。栗田さんからのミッションをコンプリートした時だ。でも、あれは、そういう「わかった」のつもりはなかった。
「あれは、そういう意味じゃないよ」
そのままを口に出すと、涼ちゃんは、ふにゃ、と顔を歪ませた。
「くれるって言った」
「言ってないって」
涼ちゃんは、黙って下を向いてしまった。
「涼ちゃん」
「栄司、くれるって言った」
うつむいたまま、涼ちゃんは呟く。だから、言ってない。会話が噛み合わない。
「涼ちゃん」
もう一度呼ぶと、のどが詰まったような、ひっかかった音が返ってきた。
「涼ちゃん?」
どうしたのかと思って、うつむいた顔を覗き込むと、涼ちゃんは、ぼたぼたと床に涙を落とした。濃く長いまつげが、ぐっしょりと濡れている。
うわあ、と思った。驚いた。なんで泣くの、このくらいのことで。
どうしていいのかわからず、俺はあたふたと周りを見る。慌てて、椅子にかけてあった赤いマフラーをひっつかんで、涼ちゃんの顔をごしごしと拭う。
「痛い」
涼ちゃんから抗議の声が上がった。
「ごめん」
涼ちゃんは、俺の手からマフラーを乱暴に奪い取って、自分のマフラーの上から、ぐるぐると巻きつけてしまった。
「これ、もらう」
「え?」
「バレンタインに、これもらう」
赤いタータンチェックをぎゅっと握る涼ちゃんの手は、意外にも結構ごつごつしている。
「うん。じゃあ、いいよ。あげる」
俺は言う。そのマフラー、結構気に入っていたんだけど、もういいや、と思った。あげてもいいや。
なんだかわからないけれど、涼ちゃんを悲しませてしまった。涼ちゃんが泣いた。その事実は、思ったよりもダメージがでかかった。なんというか、涼ちゃんが泣くとしんどいな、と思った。だから、素直に従った。
涼ちゃんは、「んふ」と、うれしそうに鼻を鳴らした。
涼ちゃんは、赤が好きなのかもしれない。そう思って、俺は雪本さんにもらったチョコレートの箱を取り出し、赤いリボンをほどいて言った。
「涼ちゃん、これもあげる」
どこかに結んであげようと思ったのだけど、涼ちゃんの髪の毛はもう短い。迷ったあげく、左手の小指に結んであげた。そこが、いちばん邪魔にならないと思った。
涼ちゃんは、黙って、そのリボンをじっと見つめていた。
8.らぶ
「もしかして、奥本くんにあげちゃった?」
「え?」
「違ってたらごめんね。わたしがあげたチョコレート」
雪本さんにそう言われたのは、バレンタインデーから一週間ほど過ぎたころだった。掃除の時間、美術室の廊下の端っこで話しかけられた。
「ううん。大事に食べたよ。おいしかった。ありがとう」
俺が言うと、雪本さんはうなずいて、自分の左手の小指を立てた。これは? と口が動く。そうか、と思いあたる。苦笑いが漏れた。
「リボンはあげちゃった。涼ちゃん赤いの好きみたいだから」
お気に入りだった赤いマフラーも取られてしまった。新しいマフラーをねだるのは気が退けて、じいちゃんのマフラーを借りている。昆布みたいなマフラーだけど、きらいじゃない。前のよりあったかいし。
「そう」
雪本さんは、ほっとしたように笑う。
「ごめんね」
リボンもあげたらまずかったかな、と思いながら謝ると、
「いいよ。チョコ食べてくれたんだったら」
雪本さんは、にっこりと笑った。
「奥本くん、バレンタインの次の日から、ずっと小指にあのリボンつけてるね」
そうなのだ。涼ちゃんは、あれからずっと小指にリボンをつけたままなのだ。
風呂の時はどうしてるんだ、と訊いたら、風呂の時はほどいて上がったら妹に結び直してもらっている、と返事があった。変な兄ちゃんだ。妹のみくちゃんも、よく言うことを聞く。トイレの時はどうしているのかも気になったけれど、さすがにそれは訊けなかった。
「あのリボン、米原くんが結んであげたの?」
雪本さんに訊かれ、おれはとりあえずうなずく。まあ、最初の時は確かにそうだ。いまのはみくちゃんが風呂上がりに結んだんだろうけど。
「いま奥本くんがしてる赤いマフラーも、あれ、米原くんのだよね」
「うん。あれもあげちゃった」
俺は、またうなずく。
「奥本くん、本当に赤いのが気に入ってるのね」
雪本さんは言った。
「あたしも、酒まんに赤いリボンかけたらよかったなあ」
雪本さんの隣にいた栗田さんがため息みたいに呟いた。栗田さんは今週は掃除当番じゃないのに、なぜか雪本さんの掃除を手伝っている。俺なら、掃除当番じゃないなら掃除なんてしたくないけど。女子って本当にわけがわからない。
そして、ふと思いついたように栗田さんは言う。
「もしかして、奥本くんは米原くんのこと好きなんじゃないの?」
栗田さんは、きゃあ、と楽しげな歓声を上げ、足をジタバタと動かした。目がきらっきらしている。
「え、うん。そりゃ、友だちだし」
きらわれてはいないだろう。好かれているとは思う。たぶん。
俺の答えに、栗田さんはぶんぶんと勢いよく首を振った。
「そういうんじゃないのよ」
じゃあ、どういうんだろう? 俺が首を捻っていると、栗田さんは、
「ライクじゃないのよ。ラブよ、ラブ」
ひそひそと俺と雪本さんに、内緒話のように耳打ちする。
「らぶ」
雪本さんが呟いた。
「ラブ? 愛ってこと?」
俺は訊き返す。
「そう。奥本くんは米原くんを愛してるのよ」
俺は目を剥く。なんてこと言い出すんだ、栗田さんは。
「だって、米原くんにもらったリボンをあんな大事に毎日ずっとつけてるのよ。マフラーだって。それ以外になにが考えられるの? あんなこと、いまどきロマンチストな乙女でもやらないよ。邪魔くさい」
栗田さんは意外にドライなことを言う。雪本さんは苦笑いだ。
「でも米原くんが相手なら、あたし、あきらめられるかも。他の子だったら悲しくて苦しくてやりきれないだろうけど、米原くんなら……」
「ちょ、ちょっと待って」
俺は栗田さんの言葉をさえぎった。
「ないよ、それ。ない、ない」
俺は、ほうきを持ってないほうの手をぶんぶんとスイングさせる。
「えー」
栗田さんは、なぜだか少しがっかりしたようだ。
「だって、涼ちゃんだよ。男同士だよ」
反論すると、
「そんなの。いまどき普通だよ」
さらっと言い返されて、おれは唸る。
「うそだ」
「うそだよ」
雪本さんが笑いながら言う。
「全部うそ。この子の言うこと本気にしちゃだめだよ」
「ひどーい」
言いながら栗田さんもきゃっきゃと笑っている。
なんだ、冗談だったのか。俺はほっとして、力が抜けた。
「そうだ。あのね」
雪本さんが、改まって俺を見る。
「わたしも、米原くんのこと、栄司くんって呼んでいい?」
そう言われ、俺は、
「いいよ」
と、うなずく。それなら、俺も雪本さんのことを名前で呼んだほうがいいのだろうか。そう思い、
「さやかちゃん」
下の名前を呼ぶと、雪本さんの顔が真っ赤に染まった。
「え」
俺もつられて赤くなる。
それを見て、栗田さんがうれしそうに笑っていた。
9.名前
三月初旬の春明祭には、毎年、涼ちゃんとふたりで行く。
でも、今年は雪本さんに誘われてしまった。名前で呼ばれるのはいいけど、呼ぶのはなんだか照れくさいので、俺は結局「雪本さん」と呼んでいる。
「四人で行かない?」
放課後、帰り際に靴箱のところで雪本さんと栗田さんに呼び止められたのだ。
「栄司くんと奥本くん、かの子とわたし、四人で」
かの子ちゃんというのは、栗田さんのことだ。
「俺はいいけど、涼ちゃんはどう?」
隣の涼ちゃんを見ると、涼ちゃんは無表情だった。そして、なにも言わない。返事くらいしてくれたらいいのに。
雪本さんの横に立つ栗田さんが、祈るように両手を組み合わせて息を詰めている。
「涼ちゃん」
呼ぶと、
「栄司がいいなら、別にいい」
と、ぼそりと言った。
「じゃあ、行こう。四人で」
ふたりのほうに向き直って言うと、雪本さんと栗田さんは手を取り合って歓声を上げた。
「待ち合わせとか、また決めようね」
栗田さんが言う。
「じゃあ、栄司くん。また明日」
雪本さんが手を振って、栗田さんも手を振った。
「うん。また明日」
俺も手を振り返す。涼ちゃんは微動だにせず、棒立ちのままだ。手くらい振ったらいいのに。
俺は、靴箱からスニーカーを出して足を突っ込んだ。
「栄司」
涼ちゃんが俺を呼ぶ。
「んー?」
返事をすると、
「栄司」
また呼ばれた。
「なに」
「栄司」
「だから、なんだよ」
「栄司、えいじ、えいじ、えいじ、えいじ」
涼ちゃんは、俺の名前を連呼する。
「どうしたの、涼ちゃん」
「名前、呼んでた」
涼ちゃんは、ぼそりと言った。
「栄司くんて言ってた」
雪本さんのことか。
「ああ、うん」
どう返していいのかわからず、ただうなずくと、涼ちゃんは顔をふにゃりと歪ませた。
「いつのまに、そんなになかよしになったん?」
涼ちゃんは弱々しく呟いて、そして、
「つ」
と、くちびるを突き出す。
「つ?」
「つ、つ、」
根気よく待つ。
「つつ、つき、つきあっとるん?」
ため込んでいるものを吐き出すことに躊躇したように、涼ちゃんは用心深く言った。左手で首もとの赤いマフラーを掴んで、その小指を、リボンごと右手でぎゅっと掴んでいる。
「わあ。つきあってないよ!」
慌てて両手を振ると、涼ちゃんは今度は安心したように顔を歪ませる。
「ふは」
と、息を吐き出す音がした。
「わからん」
涼ちゃんは唐突に言う。
「どうしたらいいんか、わからん」
涼ちゃんはスニーカーで、地面を蹴った。なににイライラしているのだろう。
「涼ちゃん?」
涼ちゃんは、うーうーと唸っている。
前みたいに泣かれたら困るなあ、と思ったけれど、かと言ってどうしたらいいのかもわからない。俺は、ただ立ち尽くす。
「栄司、えいじ、えいじ、えいじ、えいじ」
涼ちゃんは、俺の名前を連呼する。
「えいじ……」
俺だって、どうしたらいいのかわからない。
「えいじ」
「うん。どうしたの、涼ちゃん」
涼ちゃんは、うーうー唸る。
「しんどい。痛い。苦しい。もういやだ」
涼ちゃんは学生服の胸をおさえて言った。
「もういやだっ」
「え、大丈夫?」
「栄司のせいだ」
涼ちゃんはそう言って、泣き出してしまった。うわあああああん、と大声を上げて。周りにいた生徒たちの視線が一気にこちらに集まる。
「ちょ、涼ちゃん」
俺はおろおろと涼ちゃんを呼ぶ。涼ちゃんは泣き止まない。うわあああああん、と怪獣みたいに泣いている。
いたたまれなくなって、俺は、涼ちゃんの左手を掴んで走った。
「うわああああん」
涼ちゃんは走りながら泣いている。校門を出ても、まだ泣いていた。
俺は歩調を緩める。ゆっくり歩く。
「涼ちゃん、泣かないでよ」
努力はしているようで、涼ちゃんは、うぐぐ、と、のどを鳴らしてこらえている。
もういいか、と思って手を離そうとしたら、ぐっと握り返された。
「う、ぐ、」
涼ちゃんはなにかを言いたいみたいなんだけど、涙をこらえているためか言葉が出てこないようだった。
「え、え……じ」
呼ばれたんだろうな、と思って返事をする。
「うん」
「こ、うぐ、ま、ひっく、……と、て」
なんて言ったんだろう。
「ひぐ」
涼ちゃんののどが鳴る。
「こ、うぐ、この、ぐ、まま」
「このまま?」
涼ちゃんはこくこくうなずく。
「に」
このままに。
「ひぐ、し、うぐ、しとい、ぐ、」
うぐうぐとのどを鳴らしながら、必死で言葉を絞り出している涼ちゃんは、なんだかひどく幼く見える。
かわいい。……のだろう、俺にとって、いま、涼ちゃんは、きっと。そう思っていると、やっぱり、俺の胸から大きな音がしそうになった。苦しい。
「て」
涼ちゃんは、そこで黙った。のどが鳴る音だけがする。
「このままにしといて?」
確認すると、こくこくとうなずく涼ちゃんが、俺の手を強すぎる力でぎゅうっと握る。少し痛い。
「うん」
俺はただうなずいて、涼ちゃんの家のほうへ向かって歩いた。
涼ちゃんのごつごつした手が、俺の貧弱な手をしっかりと握っている。まるで、迷子が母親を見つけた時みたいだ。
はたからみたら、変な光景なんだろうなと思ったけれど、不思議とあまり気にならなかった。
涼ちゃんは家に着くまでの間、長くて濃いまつげを濡らして、うぐうぐとのどを鳴らしていた。
10.春明祭
「あ、もう来てるよ」
涼ちゃんに言うと、涼ちゃんは、
「ああ」
と、そっけない返事をした。
春明祭の待ち合わせは、神社の鳥居の前になった。一昨年、塗り替えられたばかりの朱色の鳥居のところで、雪本さんと栗田さんが手を振っている。俺も手を振り返し、涼ちゃんを急かしながら人混みをかき分けて走った。
春明祭は、午前十一時に花火と共に始まり、夜の十一時まで通りを賑わせている。子どもの頃から定番の、わくわくするイベントのひとつだ。今日は四人で、お昼から夕方までぶらぶらする予定になっている。
大泣きした次の日、涼ちゃんはけろりとして、いつものとおり遅刻ギリギリで登校して来た。
「昨日、涼ちゃん大泣きしてたって?」
島田に言われ、俺はうなずいた。
「しんどいって言ってた」
「ふうん。体調悪かったのかな」
「よくわかんない」
本当に、よくわからなかった。でも、学生服の胸をおさえた涼ちゃんの姿が、涼ちゃんをかわいいと思っている時の俺と、少しダブった。しんどい、痛い、苦しい。そういう感じだ。
「ごめん。遅くなった」
ふたりに謝ると、ふたりは同時に首を振った。
「大丈夫だよ」
白い息がふんわりと浮かぶ。
「行こうか」
言って、歩き出す。毎年のことだけど、すごい人だ。初詣の時よりも多い。
「栄司。はぐれるから、手持ってて」
涼ちゃんがこちらに手を差し出してきたので、
「栗田さんに繋いでもらいなよ」
と言うと、納得いかない、というふうに唇を突き出した。俺は、瞬時に乱れた呼吸を整える。胸から変な音がする。
涼ちゃんは栗田さんを見て、無表情にその手を取った。
「あ。わわ。あわわわ」
栗田さんがものすごくテンパっていて、雪本さんが吹き出した。あわあわ言っているひとを、俺は漫画以外で初めて見た。
「手、ちっさ」
涼ちゃんがぽつりと呟いて、栗田さんは、ずっとあわあわ言っていた。俺はそれを見て、なんだか苦しくなって、また深呼吸をした。ごまかすように、俺は雪本さんに手を差し出した。
「俺たちも繋いどこう。はぐれちゃいけないから」
「え」
雪本さんの顔が真っ赤になる。
「え」
手を繋ぐって、そんな赤くなるようなことだっただろうか。
雪本さんが俺の手を取ろうとした瞬間、涼ちゃんが雪本さんの手を取った。
「え?」
俺と雪本さんの声がハモる。
「おれがつなぐ。栄司はひとりで歩く」
涼ちゃんは、むすりとして言う。雪本さんも栗田さんもぽかんとしている。もちろん、俺も。
「行こう。酒まん」
涼ちゃんは歩き出す。雪本さんと栗田さんも、ぽかんとしたまま歩き出した。
「ええ!?」
俺は慌てて後を追う。右手に栗田さん、左手に雪本さんの手を引いて、涼ちゃんはすたすたと酒まんの屋台を目指す。
どの屋台からも、おいしそうであたたな湯気が立ち上っている。人だかりができているのは、なぜか金物屋さんの屋台だ。包丁を研いでもらうのに行列ができているみたいだった。
「栄司、ポッケからサイフ出して」
酒まんの屋台の前で、涼ちゃんはふたりの手をぎゅっと握ったまま言う。俺は、涼ちゃんのダウンのポケットからサイフを出す。
「酒まん五つください」
涼ちゃんが屋台のおじさんに言う。
「両手に花だね、ぼく」
おじさんは笑う。涼ちゃんは、「はな」と呟いて、
「そう。りょうてにはな」
と、うなずいた。たぶん、涼ちゃんは意味がわかっていない。雪本さんと栗田さんが、こらえきれないという感じでくすくすと笑った。
紙袋に入れてもらった酒まんを俺が受け取り、涼ちゃんのサイフから代金を払う。紙袋はあたたかくて、酒まんのお酒とあんこの混じった独特の匂いが鼻をくすぐった。
「栄司、あげて」
涼ちゃんに言われ、俺は雪本さんと栗田さんに酒まんをひとつずつ配った。ありがとう、と、ふたりは口々に涼ちゃんにお礼を言う。
「栄司のがいっこで、おれのがにこ」
涼ちゃんが言うので、俺はひとつを自分の口にくわえて、
「あ」
と大きく開けた涼ちゃんの口に、ひとつ押し込む。
「きゃあ。なにそれなにやってんの」
栗田さんがうれしそうな歓声を上げ、雪本さんは苦笑い。涼ちゃんは満足そうに酒まんを頬張っていた。
結局、途中で面倒くさくなったのか、涼ちゃんはふたりの手を離してしまい、残った酒まんをちゃんと自分の手で持って、はふはふ言いながら食べていた。
ひととおり屋台をひやかして、ふたりとさよならしてから、涼ちゃんと手を繋いで帰った。涼ちゃんが俺の手を無理矢理に握って離さなかったのだ。
右手に俺、左手に酒まん。口許は満足そうに緩んでいる。
「栄司」
涼ちゃんが俺を呼ぶ。
「うん」
返事をすると、
「好き」
涼ちゃんは言った。そして、酒まんを頬張る。
「ああ、うん」
俺は、ただうなずいた。酒まんのことだと思ったから。
11.祭りのあと
四月になった。
俺たちは、三年生になった。島田とはまた同じクラスになったけれど、涼ちゃんとはクラスが離れてしまった。
春休みの春期講習で、俺はなんとか真ん中くらいの成績に食らいついていた。学年始めの実力テストでも、国語や英語や社会は、八十点台を取ることができた。理数系は、五十点台だったけど。
答案が返ってきた日の放課後、涼ちゃんが教室にやってきて、九十一点の数学のテストと、九十八点の理科のテストを見せてくれた。
「すごい?」
涼ちゃんは、俺と島田に問いかける。
「すごい!」
俺と島田は、ちからいっぱいうなずいた。
「おれ、やればできるんだぜ」
涼ちゃんは得意気に胸を張る。
「国語とかどうだった?」
島田に言われ、涼ちゃんは無表情になる。
「国語……」
涼ちゃんは、オウム返しに呟く。
「そう。国語」
島田がうなずく。
「三十八点」
涼ちゃんは、ぐしゃぐしゃになった答案を、鞄から出して見せてくれた。
「やってもできなかった」
涼ちゃんは言う。
「そういうことのほうが、多い」
そう言って島田が見せてくれた国語の答案は、百点だった。そんな点、どうやったら取れるんだ、逆に島田ってバカなんじゃないの、と思ったのもつかの間、次に見せてくれた数学の答案は、十三点だった。
「努力が報われないことだってある」
島田は真面目な顔でうなずいている。
「それに、涼ちゃん、日本語不自由だしな」
島田が笑うと、涼ちゃんはほっぺたをぷくりとふくらませた。
「社会は、六十七点取った。英語は五十二点」
涼ちゃんは、答案をそれぞれ見せてくれる。
「覚えるだけのは、国語よりは簡単」
俺は驚いていた。春期講習を受けていた俺と、家で勉強していたらしい涼ちゃんの成績はたいして開きがなかった。
「涼ちゃん、そんなに賢くなってどうするの?」
俺が言うと、涼ちゃんは真顔で言った。
「栄司と同じ高校行く」
俺はあっけに取られ、島田は笑った。
春明祭のあと、春休みに入ってから、涼ちゃんの家に遊びに行った。春期講習も、土日は休みだ。
「栄司くん、いらっしゃい」
涼ちゃんはいなくて、妹のみくちゃんが出てきて言う。
「お兄ちゃん、やっと勉強を始めたんだよ」
そして、ゲームキューブのコントローラーをひとつ、手渡された。
「だから、お兄ちゃん最近ゲームやんないの」
相手をしろ、ということらしい。
奥本家は、PSPやDSとは無縁だ。未だにゲームキューブといういつの機械かわからないハードで、なんの不満もなく遊んでいる。どうも、お父さんのものらしいそのゲームキューブは、どんどん出てくる最新ハードを意に介さず、奥本家の最先端を行っていた。
ソフトは、マリオカート。みくちゃんは、重量系とは思えない速さと小回りで、クッパを操っている。
「これじゃ、誰も敵わないよ」
俺のマリオは、驚くくらい離されてしまった。
「あたし、十八になったら絶対マニュアルで免許取る」
小学生とは思えない発言だ。
「涼ちゃんは?」
「いま、スーパーにジュースとかお菓子買いに行ってる」
みくちゃんは、ふいに真面目な顔をして俺を見た。
「春明祭の日、お兄ちゃん帰ってきて大泣きしたの」
「え?」
俺は驚く。帰り道、涼ちゃんはご機嫌そうに見えたのに。
「お兄ちゃん、栄司くんのことが好きで好きで、仕方ないんだよ」
みくちゃんは言って、自分の小指を立てる。
「あれで気づかなきゃ、栄司くん馬鹿野郎だよ」
涼ちゃんの左手の小指には、未だに俺のあげた赤いリボンが結ばれているのだ。
「酒まんのことじゃなかったのか」
俺は呟いた。みくちゃんが首をかしげる。
「涼ちゃんに、好きって言われた」
「まじで。栄司くん、なんて答えたの?」
「うんって、うなずいただけ」
「スルーしたんだ」
「そういうつもりじゃなかったんだけど」
みくちゃんの言動は、本当に小学生とは思えない。涼ちゃんと足して二で割ったらいいんじゃないかと思う。
「お兄ちゃんのこと、気持ち悪いって思わないでね。いままでみたいに、いっしょにいてあげてね」
みくちゃんは、いっしょうけんめいな目で俺を見る。
「うん」
俺はうなずいた。気持ち悪いなんて、思わない。
コントローラーを握る手が、じっとりと汗ばんでいた。
12.最終問題
最近、ずっと涼ちゃんのことばかり考えている。涼ちゃんのこと、というより、俺は涼ちゃんが好きなんだろうか、ということを。
五月に入って、雪本さんに告白された。
「わたし、栄司くんのことが好き」
雪本さんは、結構さらっと言ってのけた。
日直で、早く登校した日だった。雪本さんは、珍しく栗田さんといっしょではなくて、口数も少なかった。
「どうしたの? 元気ないね」
と言ったあとの、「好き」だった。
考える前に答えていた。
「ごめん」
雪本さんは、うふふ、と笑った。
「そんな食い気味に言わなくても」
そして、「いいよ」と、うなずいた。それから、
「かの子も失恋かなあ」
と、わざとらしく呟くので、聞こえないふりをした。雪本さんは、そんな俺を見て、また笑った。
涼ちゃんの背は、中三になってからどんどん伸びている。いままでずっと同じくらいの身長だったのに、涼ちゃんの身長だけが、どんどん自己新を記録しているのだ。
「栄司は小さくなっちゃったな」
涼ちゃんが言うので、俺はむすりと黙った。
「栄司も、高校に入ったら伸びるよ」
そう言って、島田が笑う。
島田の背も、涼ちゃんほどじゃないにしろ、少し伸びていた。クラスが違っても、放課後の教室で三人ダラダラするのは変わらない。毎度のことながら、教室にはもう、俺たちしか残っていなかった。
「じゃあ、お先」
島田が手を振る。手を振り返しながら、俺は涼ちゃんを見た。ほんの少し見上げなければならないのが癪だ。
お人形さんみたいだった顔も、少しだけ男っぽくなっている。そう思ったら、胸がぎゅう、と締めつけられたみたいになる。俺は、胸をおさえる。
「栄司、どっか痛いん?」
涼ちゃんの問いかけに、俺はまた、
「胸が痛い」
と答える。
「涼ちゃん見てたら、胸が痛い」
涼ちゃんは、首を捻る。そして、なにか言おうとするみたいに口を開いてまた閉じた。
「栄司」
涼ちゃんが俺を呼ぶ。
「うん」
返事をすると、
「おれのこと、好き?」
そう訊かれた。俺は、黙ってしまう。
それは、未だ考え中の問題だった。まだはっきりとした答えが出ていない。そのまま黙っていると、涼ちゃんは、納得いかない、というふうにくちびるを尖らせた。
俺の胸から大きな音がする。涼ちゃんに聞こえるんじゃないかと不安になって、俺はまた、胸をおさえる。
「その顔……」
「ん?」
呟いた俺の声に、涼ちゃんが反応する。
「涼ちゃんの、その顔、好きかもしれない」
涼ちゃんが目を見開いた。
「どっ、どの顔?」
慌てたように涼ちゃんが言う。
「おしえない」
涼ちゃんは、あっけに取られたように、口をぽかりと開けていた。
教室を出ようとした俺の背後から、
「おれは、栄司が好き」
涼ちゃんの声が追いかけてくる。
「知ってる」
俺はうなずいて、涼ちゃんを見た。涼ちゃんの目は、なんだか頼りなげに揺れている。
俺も、涼ちゃんが好き。
考えるよりも先に、言葉が浮かんだ。だから、きっとそういうことなんだ、と俺は思う。でも、その言葉は声にはならなかった。
俺は、ニヤリと笑うと、涼ちゃんの小指のリボンをほどいて、自分の制服のポケットにしまった。
「え」
涼ちゃんは、ぽかんと俺を見る。
「かえして」
涼ちゃんが、焦ったように俺のポケットに手を伸ばす。俺はその手を取って、ぎゅっと握った。
「もう、なくてもいいんだ」
そう言うと、涼ちゃんは口を開けたり閉じたりしたのち、
「どういう意味?」
眉間にしわを寄せて問いかけてきた。どうやら、本気で尋ねているようだ。
俺はただ笑って、涼ちゃんの目を見る。涼ちゃんは複雑そうな表情で、
「どういう意味?」
と、もう一度言った。
よく見たら、涼ちゃんの手首には、修学旅行の時に交換した珊瑚のブレスレットがあって、俺は思わず赤面した。
涼ちゃん、相当だな。ここまでされたら、ちゃんと言わないとわるいような気がする。
俺は涼ちゃんの手をさらに力を込めて握りなおし、
「こういう意味」
そう言って、それから小さく、
「好き」
と続けた。声にしてしまうと、急激に恥ずかしくなって、俺は涼ちゃんの手を離し、今度こそ教室を出る。
「栄司」
涼ちゃんが呼ぶ。
「もっぺん言って」
絶対いやだ。
振り返ると、涼ちゃんは泣いたみたいに笑っていた。
了
ありがとうございました。