「これは契約結婚だ。君は何もする必要はない」と言い渡された侯爵夫人、「ただの契約なら複数と結んでも良くない?」と気付き片っ端からお飾り結婚契約締結、大惨事へ
「結婚って、こんなものなのかな……」
はあ、とひとりのメイドが、深く溜息を吐いた。
ここはエレクセント侯爵領。侯爵邸。その離れ。
メイドの名はアナ。今年で十八になる亜麻色の髪の彼女は、侯爵夫人の部屋へと続く廊下をしずしずと歩きながら、しかし頭の中ではずっと、こんな台詞が響き続けている。
――――これは契約結婚だ。君は何もする必要はない。
幸せな結婚になるはずだと、そう思っていたのだ。
この地を治める貴族の名は、フェルディナンド・エレクセント。
銀髪碧眼に怜悧な美貌。若くして大領地を経営し、しかもその財政を好転させている若き大貴族。この領の出身でもあるアナは子どもの頃から彼のことを知っていて、彼が侯爵を継ぐのであればエレクセント領は安泰であると聞かされ、そして実際に彼に当主が交代してからさらに豊かになっていく出生地の姿を見てきた。
唯一、彼に足りないものと言えば妻だと言われ。
だからその彼が、『複雑な事情がありこれまで社交界に姿を見せなかった男爵令嬢』に自ら求婚した、なんて話を聞いてから、アナはずっとこう思っていたのだ。
きっと、ふたりの間には何か、すごく素敵なドラマがあって。
これからふたりは、世界で一番幸せになるはずなのだと――、
「――夢、見すぎだったのかな」
けれど、現実に侯爵が夫人に伝えた台詞は、先ほどから頭の中で反響し続けるアレ。
結婚の、しかも初日のことだった。
いきなり夫人を本邸からこの離れに案内して、そこで侯爵が言ったのがあの台詞――夫人付きの専属メイドに抜擢されたアナは傍に控えていたけれど、衝撃のあまり彼が他に何を言ったのかを覚えていない。ただ、侯爵と目を合わせることもできずにぎゅっと手に力を込めていた夫人の姿と、その横顔に流れる美しい金の髪だけが、記憶に残っている。
あんな人だとは思わなかった、とか。
いくらなんでも夫人が可哀想だ、とか。
もう結婚から三週間。様々なことが次々に頭に浮かんできて、アナは悩み続けていて――
「……ううん! 私だけでも、奥様を支えてあげなくちゃ!」
辿り着くのは、いつも同じ結論。
頑張るぞ、と彼女は朝陽を浴びて、頬を叩く。
それから再び、夫人の朝食を載せたワゴンをするりと動かし始めた。
夫人も自分とそう変わらない年齢なのだ。この誰も知らない土地でひとりこんな離れに押し込められて、どれだけ不安な思いをしていることだろう。
使用人という立場からは図々しいことかもしれないけれど、少しでも彼女の心を楽にできるよう、たったひとりの専属メイドとして張り切っていこう!
そう思って、彼女は。
ノックをしてから、侯爵夫人の部屋の扉を開ける。
「おはようございます、奥様! 今日の朝食のご用意が――」
「あ、本当? それじゃあそれ、移動しながら食べるから一緒に持っていきましょうか」
「え?」
すると、そこにはすっかり自分で支度を整えた侯爵夫人がいて。
「ええと……」
戸惑いながらアナが、
「どこへですか?」
訊ねると。
彼女は、こんな風に答える。
「別の家。これからもう一件結婚してくるから」
何を言われたのか、全然わからなかった。
「は、え? え……?」
結びつかない。『もう一件』という言葉と『結婚』という言葉が。どういう反応を返したら正解になるのか、全然わからない。
「朝食はこれ? ありがとう。ワゴンごと借りていくわね」
しかし夫人は止まらない。
茫然としているアナの隣をすり抜けて、ワゴンを手に取って。
すったかたったー、と廊下を走っていってしまう。
「ちょ、待――奥様ー!!」
そこでようやく、アナも己を取り戻すことができた。
何が起こっているのか全くわからない。
けれど今、この離れにいるのは自分だけ。衛兵も何も、少なくとも建物の周りには誰もいない。
だからアナは、こう思う。
自分が何とかしなければ!
「お、お待ちください! 奥様、何かご不満がありましたら私から旦那様に――」
彼女は走った。メイド服の裾を持ち上げて、何年ぶりだろうという全力疾走で。
「あら、一緒に来るの? それじゃあもうちょっと静かにして。気付かれるから」
そして夫人も、ものすごい速度で走っていた。途中でこっちの方を向いて、しーっ、と指を立てながら、しかしその走力をいささかも緩めることなく、走り続けていた。
あっ、すみません、とアナは口を噤んだ。
そのうち「『あっ、すみません』ではない」と気付いたが、その時にはすでに事態はかなり取り返しのつかないフェーズまで進んでいる。
アナは夫人を追いかけたまま、離れを出て、侯爵邸の塀をよじ登りながら敷地の外に出て、わけのわからない森の中を走らされて、最終的に彼女が何の躊躇いもなく飛び乗った得体の知れない馬車に同乗することになってしまった。
ぜはーっ、ぜはーっ、と。
前髪を額に張り付かせながら、息も絶え絶えで。
そして、ようやくそれを整えた段階では、すでにがらがらと馬車は出発してしまっているのだけど。
それでもアナは、言わなければならないことがある。
「お゛っ、奥様っ! ダメですよ、勝手に家を出ては旦那様に叱られます……!」
「なんでいい年して家を出ただけで叱られなきゃいけないの? 子どもじゃあるまいし」
素知らぬ顔で、夫人は朝食を平らげながら応える。
そしてその応え方で、アナは気が付いた。やはり、と。
奥様はきっと、侯爵様の酷い態度に傷付いてこんな行動を取ってしまったんだ!
何とかして私が、穏便にふたりの間を取り持って差し上げないと!
「あのですね……」
そう思って、アナは早速夫人の説得にかかろうとした。
「よいしょっと」
そうしたら、夫人がごく当たり前のように金髪の鬘を脱ぎ去って、深い黒色の髪を露わにした。
「…………????????」
「ああ、面倒臭い。また眉色まで変えないと」
言いながら、夫人は鏡を取り出すと、がたごとと揺れる馬車の中で、瞬く間に姿を変えていく。
本当に鮮やかな手つきだった。彼女の手にかかれば犬だって猫に見えてしまうに違いない。そのくらい素晴らしい手つきで、夫人はポーチから取り出した数々の化粧品を使いこなして、姿を変えていく。もうとにかくすごい。アナの理解では全く追い付かない。
そうして、気が付くと目の前から『金髪緑眼の侯爵夫人』は消え。
代わりに、『銀髪赤眼のご令嬢』が現れている。
「?????? …………????????」
「あっ、もう着いた? それじゃあ行きましょうか」
茫然としたまま、どのくらいの時間が経っていたのだろう。
馬車は停止し、夫人にぐい、と腕を引かれてアナは立ち上がる。実を言うとここがいわゆるポイント・オブ・ノー・リターンだったのだが、侯爵家の使用人としてそれなりの期間『偉い人の言うことは素直に聞く』という習慣を養ってきたアナは、まるでそのことに気が付かずお終いに足を進めた。
「よく来たね。我らが伯爵家の花嫁よ」
降りた先には、全く知らない顔の、あからさまな貴族の男が立っている。
若く、美貌の男――彼は目の前にいる夫人につかつかと歩み寄ると、すうっ、と顔を近付けて、耳元で囁くようにして、言った。
「でも、これは契約結婚だ。いい子だから勘違いせず、離れで大人しくしておくんだよ」
◇ ◇ ◇
「どっどど、どどどどどどどどど」
「土砂崩れ?」
「どういうことなんですか!!!!!!!」
部屋に行ってしばらくしてからのことである。
喉が渇いたわね、と夫人が言い出したのを聞いてようやくアナは「はいただいま」と動き出して、そしていつもの一連の動作で紅茶を給仕してから、ようやく今の自分が置かれている状況を把握した。
侯爵から任されて、離れにいる侯爵夫人のお世話をしていたら。
その夫人が突然走り出して、別の貴族と結婚していた。
で、自分は今、夫人が言うところの「昔から仕えているメイド」として、謎の貴族の屋敷に控えている。
把握したが、一体何が起こっているのかはさっぱりわからない。
なので、アナは不敬と思いつつもしかし、夫人に被り着くようにして問い詰めることにした。
「あ、ありえませんからね!? 旦那様に黙ってお屋敷を出たのもそうですが、さっきの……さっきの! 誰ですか、あれは!」
「伯爵?」
「伯爵なんですか!? 結婚がどうとか仰っていましたが!?」
そうね、と夫人は言った。
もう来ないでしょ、と言ってまた平然と銀髪の鬘を脱いで、深い色合いの黒髪を晒したりもした。
当然、そこについてもアナは問い詰めたい。
「大体、なんなんですかそれは! ま、まさか変装ですか!? 本当はあなたは夫人ではなく、私はまんまとここまで誘き出されたとか……!?」
「そんなことはないけど」
「じゃあどういうことなんですかっ!?」
事と次第によっては、とアナは思う。
いや、侯爵夫人を相手にして自分ができることは特にないけれど、状況が謎過ぎるから訊かざるを得ない。ただそれだけ。
焦り、困惑するアナに対して、夫人は非常に落ち着いていた。
「いい? 今からわかりやすく説明してあげる」
音も立てずに紅茶のカップをソーサーに置いて。
ゆっくりと、彼女は語り始める。
「まず、私はエレクセント侯爵と結婚することにした」
「はい」
「すると彼は、『これは自分が仕事に集中するための、形だけの結婚である』『君は契約結婚によるお飾りの妻なので、何もするな』と言ってきた」
「は、はい……」
お労しや、とアナは目線を伏せる。
そして、夫人は言う。
「そこで私は気が付いた。
『何もしなくていいなら、この形式の結婚はすればするだけ得するのでは』と」
「……………………」
絶句の手前くらいで、アナは止まった。
脳が「こいつ何を言ってんだ?」で思考を停止させたので、本気の絶句に至らなかったのである。
すると夫人は、親切なことにもう一度言ってくれる。
「そこで私は気が付いた。『何もしなくていいなら、この形式の結婚はすればするだけ得するのでは』と」
「いや聞こえてなかったわけじゃありませんよ!!!!」
それを機に、アナは再び動き出した。
んな、んな、んな……とわなわな手を震わせながら、いったい目の前のこの人に何を言うべきかと、パンクしそうな頭をどうにか動かして動かして、
「だっ、んなっ、……はあ!? どういうことですか!?」
「わからない? だからね、何もしなくても自動的に夫人遊興費とかが貰えるわけでしょ? それなら複数の契約を結んだ方が得じゃない」
あなたがそうなる気持ちもわかるけどね、と夫人は肩を竦めた。
「私もこれに気が付いたときは、思わず自分の頭の良さに感動したわ」
「いや犯罪犯罪犯罪!!!!! 頭が良いとかじゃなくてそれ犯罪ですから!」
誰も思い付けなかったんじゃなくて、思い付いてもやらなかっただけです、と。
果たしてこれまでこの国でどのくらいの件数の契約結婚があったかは知らないので何の根拠もないが、大いなる自信を持ってアナは言い募った。
「だってそれ……だって、犯罪でしょう! 重婚罪とか、そういうのがあるでしょう、多分!」
「あれって戸籍の問題でしょう? それなら大丈夫」
言って、夫人はアナの近くにある鞄を指差した。
いつもの習慣でアナがそれをテーブルの上に置くと、夫人はその鞄の鍵を開けて、複数枚の紙を取り出す。
「結婚件数分の戸籍は用意したから。ちゃんと結婚の名義は分けているから、何の問題もないわ」
「動かぬ犯罪の証拠ですからねそれ!!!!!!」
戸籍偽造罪でしょう、とアナは言った。
別に法律に一家言があるわけでもないし、そもそもどうして重婚罪が戸籍の問題なのかもわかっていないけれど、とりあえずそういう罪があるだろうと思って当てずっぽうで言った。少なくとも表沙汰にしてはいけないことのはずだ、と。
けれど夫人は、余裕の表情で、
「いいえ。元々これは私が作ったものではなく、正規に作られた架空の人物のものを私が取得しているだけだから。そして私がその戸籍に該当する人物として振る舞っているだけだから。大丈夫」
「………………」
何が大丈夫なのか、アナにはさっぱりわからなかった。
しかし人間は自信満々に難しいことを言われると「そういうものなのかな……」と思ってしまうという習性を持つ。アナも例外ではないし、これまでの人生で信じてきたことをいきなり覆されるのも嫌なので、一旦ここで争うのは分が悪いと認め、別の切り口から攻めることにした。
「い、いや! そもそも無理があるでしょう! ふたりと同時に結婚なんてしたらすぐにバレ――」
「ないわね。三週間あって一回も様子を見に来なかったし」
「…………」
「付いているメイドもひとりだけだし。それさえ丸め込んでしまえばそれでお終いでしょう」
確かに、とアナは思った。
確かに、本当にびっくりするくらい、契約結婚と言ってももう少しくらい構ったって罰は当たらないんじゃないかというくらいに侯爵は夫人に興味を示さなかった。
夫人の言う通りのことが、本当にできてしまうかもれない。
でも、まさかここで「これからあなたを丸め込むわ」なんて宣言をされている自分が、そのとおりになるはずもない。舐められたものだと――
思ったところで。
コンコン、と部屋の扉がノックされた。
「えっ」
「よろしくっ!」
「えぇっ!?」
そしてその音が聞こえるや、夫人はベッドに飛び込んだ。毛布を頭の方まで被って、鬘を脱いだ髪色を誤魔化すようにして、そこでこんなジェスチャーをしている。
メイド、行け。
「…………」
迷った末に。
アナは、行くことにした。
訪ねてきた人を待たせるのは良くない、という常識的な判断のためである。
「はい。……これは、旦那様」
「ああ。さっきのさっきだが、彼女はいるかな?」
そしてそこにいたのは、伯爵だった。
金色の髪に端正な顔立ち。これまでのアナなら裏でキャーキャー言っていたであろう美形の貴族。
しかし今は、それどころではなく。
アナは、思考を強いられている。
「奥様でしたら……」
考える。言おうかどうか。
奥様でしたら、実は侯爵夫人でもありまして、ちょうどその変装を解いたところなので伯爵とはお会いになれません、と。
「…………ご気分が優れないようでして。今はお休みに」
「おや、そうか。意外と繊細だね。そういうタイプには見えなかったが」
言えなかった。
アナは生来の事なかれ主義だからである。自分がそんなことを言ったことでものすごいカタストロフィが発生したらどうしようという不安に負けた。一旦ここは無難にやり過ごして、後からもっと傷のないやり方で物事を処理しようと考えていた。大抵そういうことをしているとより酷い事態が招かれるものだが、焦っていたのか彼女はそのことに気が付かなかった。
「ま、いいさ。僕がここに来るのもこれが最後だ」
「……と、仰いますのは」
「もうここに来る時間はない、ということさ。今日が結婚の初日だから、一応は来てみたんだけどね。向こうにその気がないなら仕方ない」
都合が良い、と言ってもいいが、と。
くつくつと、伯爵は笑う。
「君は、彼女の使用人として長いのかい?」
そして、重ねてそんなことを訊いてくる。
だから、反射的にアナはこう答える。
「はい。奥様がほんの小さな頃から、ずっとお傍に」
完全な嘘である。
完全な嘘であるが――しかし、ここで「いえ別に、三週間目くらいです」と真実を告げてしまうと、さっき夫人が馬車から降りた先で「これは私の使用人で、長く傍に置いている」「ゆえに身の回りのことは彼女に全てさせている」「伯爵家の使用人は不要」等と述べていたことが完全なる嘘八百であることが露見する。露見するととんでもないことが起こりそうなので……。
「そうか。なら、これからもふたりで楽しく暮らすといい。その分の金銭は渡しているわけだからね。増額も理由があれば喜んで。減額はもっと喜んで。彼女にもそう伝えておいてくれ」
「…………はい。旦那様からのお言葉、確かに奥様までお伝えさせていただきます」
よろしい、と伯爵は満足気に頷いた。
そして、彼は去ってゆき。
足音が聞こえなくなったあたりで、ようやくアナは夫人の方へ振り向く。
すると彼女は、すごくニヤニヤしていて、
「これで共犯ね」
「――はい?」
「今、自分で伯爵に堂々と嘘を吐いてたじゃない」
これで共犯、と。
もう一度言われて。
「――――い、」
アナは。
「いやいやいやいや!!!!」
「ちょうどよかったわ。いちいち現地で協力者を調達するのも面倒だったから。これからはあなたが相棒ね」
「勝手に話を進めないでください! やりませんよそんなこと!」
「いいえ。あなたはやるわ」
自信たっぷりの声色で、夫人は言う。
「今更本当のことを言って、伯爵や侯爵が許してくれると思う?」
「え、」
「堂々と伯爵に嘘を吐いたのに、今更『私はこいつの仲間じゃありません』なんて主張して、それを誰かが信じてくれると思う?」
そして、破滅的な気配を湛えた表情で。
彼女は、微笑みかけてくる。
「し、」
それでも懸命に、アナは。
「信じてもらえます! だって、私はただ奥様に――」
「唆されただけ! そうね、許してもらえると思うわ! だから――」
遮るように、しかし夫人は的確にこちらの言いたいことを読んで。
「もう少しくらい付き合ったって、同じことよね。
だって、私に唆されただけなんだもの。説明すれば、みんなわかってくれるわ」
悪魔に捕まった、と。
そのときアナは、確信した。
何かすごく酷いことになる――そのことが、肌にビリビリ来るくらいにはっきりとわかった。ここだ、と思う。ここだここだここだ、抜け出すならここだ、と思う。
しかし。
そういうことがわかっていて逃げ出せるなら、大抵の人間は道を踏み外したりなんてしないわけで。
「ようし! それじゃあ明後日は三件目に行くわよ!」
「ええっ!?!?!?!?」
どんどん事態は、収拾がつかなくなっていく。
◇ ◇ ◇
月日は流れた。
春夏秋冬。一ヶ月三ヶ月十二ヶ月。さらに巡って春夏秋。数え上げたら二十の月。
結んだ婚姻、実に六十二件。
そして舞台は再び、エレクセント侯爵家の離れの一室へ。
◇ ◇ ◇
もうこれは謝ってどうにかなる次元を遥かに超えているのではないか、とアナは思っていた。
「奥様。クライオン家からデーリッド家に借金の返済を待ってほしいという話があるようですが……」
「ああ、そう。茶会を開いて根回しをっていう話? 面倒よね、そこ。興味がないとか言っておいて、瀬戸際になると急に頼ってくるんだから」
「面倒なら離婚したらどうです?」
「いやね。そんな簡単にできないわよ。結婚じゃないんだから」
うふふ、と夫人が言うので。
そうですねえアハハ、とアナも笑う。
そうですねえアハハではない、と自分でわかっている。
が、もう事態の深刻さを直視すると胸が潰れて死にそうなので、そうですねえアハハで通すしかない。そういう状況になっていた。
「それで、どうされますか? 私は茶会の準備に取り掛かった方が?」
「もうやり方忘れてるんじゃないの? いつも通りでいいわ。どうせどっちも私なんだし、書面でだけ開いておいて、何か一筆作っておいて」
「承知しました」
どう考えても承知してはいけないが、もう日常の雑務のひとつになってしまっているので、訊き返すこともなくアナはそれを受け入れてしまう。
『どっちも私だから』――どういう状況だ、と訊かれれば、アナはこう返すしかない。その言葉通りの状況です、と。
クライオン家とデーリッド家という二つの家があり。
クライオン家はデーリッド家に借金の返済を待ってほしいので、クライオン家の妻からデーリッド家の妻を通して、その働きかけをしてほしい、という話がある。
そして。
クライオン家の妻も、デーリッド家の妻も、どちらも目の前にいるこの侯爵夫人だから。
特段会って話す必要もなければ、茶会を実際に開く必要もない。
ただ書面で『開いたことにして』、後は適当に『この部屋の中で』調節してしまえば、それで十分なのだと。
絶対にヤバい、とアナは気付いている。
何かとんでもないことを夫人はしていて、自分はそれに加担しているというか、片棒を担いでいるというか、そういう状態になっている。そのことに気が付いている。
「そうね。準備期間を考えるとだいたい十日後くらいに報告しておけば……あっ、」
「そうですね。そのあたりはテントリオ家で向こうのお義母様と面会が設定されていますから。両方に奥様が出向かれることは不可能かと」
「めんどくさ……。あそこ、権力構造が変な捻れ方してるのよね。面倒な親族しかいなくていっそ一面雪景色みたいな美しさがあるわ」
「どうなさいますか?」
「あなたが行ってきてくれる?」
「どちらに?」
「借金の方。そっちの方が接触時間が短いから気が楽でしょう。ちょっと移動時間が長くなるけど」
ええ、助かります、とアナは言った。
そう。最近はこういうこともしている。
つまり、夫人の替え玉になって貴族に面会したりもしている。
最初にやらされそうになったときは本当に泣きそうになった。というか泣いた。完全に無理無理無理無理無理です~と元凶に泣きついた。元凶は何も問題はないという顔でこう宣言した。大丈夫。
だいたい、人間の顔なんて化粧を寄せて背格好が似てたら後はみんなそんなに見てないから!
あと毎回結婚のときに顔を伏せたりしていい感じに見えないようにしてるし!
滅多に会わない相手の顔なんてどうせ記憶の中で適当に補正されてるし、会ったときにさらに補正されるんだから、全然平気!
こんな顔だったっけ……とか思っても、よっぽど失礼じゃない限りそんなこと言ってこないから!
言われたら堂々として、強気で行け!
んなわけないだろ、とアナは思った。
んなわけないだろバレたら奥様のせいですからね決して私のせいではないふざけるなよ、と言いながら、結局丸め込まれて替え玉に向かった。
そして、本当に特にバレることはなくやり過ごせてしまった。
それ以来、もう月1~2くらいで替え玉をやる羽目になっていて、しかも一度もバレていない。たまに「そんな顔だったっけ」と直球で失礼なことを言われたりもしたが、本当に「そうです」と壊れたオルゴールのように繰り返していたら乗り切れてしまった。
だから今は、夫人からのこの依頼も軽く受けて。
何なら、こんな風に言って笑う余裕もある。
「それにしても、なんだかんだ言って忙しくなっちゃいましたねえ。髪が白くなっちゃいますよ」
「ねえ。結局契約結婚で済ませたい人たちって、周りがバタバタしてるのよね。ここの侯爵はそういうのも全部自分の周りで処理するから、拠点に持って来いだけど」
「はは……旦那様は本当に人間に興味がないだけのお方みたいですから」
「あら。言うようになったじゃない」
「言いますよ~」
「うふふ」
「あはは」
そう、こんな風に。
ふたり仲良く、笑い合うことだって――
「――いや『うふふ』じゃないんですよ!!!!!」
できるわけがない。
「へらへらしてる場合じゃないんですよ――わかってますか!? 私たち、とんでもないことをしてるんですよ!?」
「出た。発作」
「出たじゃないんですよ、そりゃ出ますよ発作くらい!!!!」
どう考えても、とアナは思っている。
どう考えてもやってしまっている。一線を越えている。どうしようもないくらいに、本当に――、
「なんだか流されてこんなところまで来ちゃいましたけど、本当にこれはとんでもないことですからね!」
「なんで流されたの?」
「あなたが流したんでしょうが!!!」
氾濫する川の流れのように私をぶわーっと!と。
ちょうどぶわーっ!のところを再現するようなダイナミックな身振り手振りで、アナは訴えかける。
「だいたい――だいたいね! あなたそもそも男爵令嬢でも何でもないでしょう! 私が気付いてないと思ったら大間違いですよ!?」
「あら。どうして?」
「優雅な言葉遣いしちゃって……そりゃあこんなにぽんぽんぽんぽん偽の戸籍が出てくればわかりますよ! 最初に自称してたやつだって嘘なんでしょう!」
「え~。そんなことないわよ~」
ものすごく整っている一方でものすごく腹も立つという凄まじいバランスの表情で、夫人はわざとらしく視線を右上の方に上げながら言う。
「ほら、この計画って思い付いたのは契約結婚を言い渡された直後だし。それ以前に偽の名義を名乗る必要なんてないじゃない?」
「じゃああの金髪の鬘はなんだったんですか」
「お洒落」
「馬鹿にしてるんだ私を!!!」
そんなものに騙されませんよ、とアナは言う。
無意味にその辺に置いてあるベッドライトを手に取って、ぶんぶんと振り回し、威嚇したりもする。
「どうせ最初から結婚詐欺か何かをするつもりだったところで契約結婚を持ち掛けられたからアドリブで計画を変更したとかなんでしょう! どっちにしろあなたは犯罪をするつもりだったんだ! 完全無欠の犯罪者め!」
「想像力が豊かね。犯罪者の助手に向いてるんじゃない?」
「職業選択の自由! 職業選択の自由!」
言いながら、アナは思った。これほど虚しい言葉もない、と。
そう思ったら、急にしくしく泣けてきた。
「うう……。どうしてこんなことに……。あなたのせいで私の人生めちゃくちゃだ……」
「いいじゃない。楽しくなって」
「いいわけないでしょ!」
「そう?」
そんなこともないと思うけど、と。
言って、夫人はベッドから腰を上げた。
「な、なんですか……」
「いい? よく考えてみて」
「か、考えてますよ、毎日。これからのことを……」
じゃあもっと考えて、と。
ベッドライトを取り上げられて、しかも壁際まで追い込まれて、
「どうせあなたの人生なんてずっと何かに流されて、死に際に『ああ、なんだか自分で決めたことって全然なかったなあ』とか思い返して終わりでしょ」
「なんてことを!!!!!!!!」
「声うるさ。……その点、今の生活を考えてみなさいな。ほら、昨日の夜は何を食べた?」
言われてアナは、思い返す。
思い返すが、なんだか自分にとって都合の悪い記憶だったので、思い返さなかったことにする。
「ほら、それ。いくらだった?」
「昨日食べたものとか覚えてないです」
「お婆ちゃんなの? まあいいけど……」
じゃあそこの、と。
夫人は、ベッドサイドに置かれた瓶を指差して、
「ワイン。あなたが朝からぐびぐび飲んでるのは一体……」
「美味しいぶどうジュースですねえ。いやあ、貴重貴重。ただのメイドの給料にはなかなか痛い出費でしたよ」
じっ、と。
じっ、と夫人に見つめられる。
だからアナは視線を逸らして――シミひとつない壁紙を見ながら、冷や汗をかきながら口笛を吹く。
するとぽん、と両肩に手のひらが置かれて、
「犯罪者の才能あるわ、あなた」
「ありませんよ!!!!!」
何て失礼なことを、とアナは猛反発した。
「よしんばあったとしても、それを目覚めさせた人が悪いんでしょうが!!」
「そうね。はいはい私が悪い私が悪い」
「本当ですよ! 反省しろ!」
はいはい反省反省と言いながら夫人は肩を竦める。
本当に腹立つなこの人、とアナは思う。
「バレたら『この人にやれって言われましたぁ~!』って言えばいいだけの話じゃない」
「今の私の真似ですか?」
「別に最初からそのつもりだったんでしょう? それに、別にそこまで悪いことをしてるわけじゃないもの。そんなに重い罰にもならないわよ」
「今の私の真似なんですか?」
あのね、と夫人は言う。
「結局これって、ビジネスみたいなものだから」
「『みたいな』がついてる時点で怪しいんですけど……」
「でも、誰が損をしてるの? 契約結婚を持ちかけてきた貴族はみんな目的が達成できて円滑に日々を過ごせてる。私とあなたはお金がたくさん貰えて嬉しい。そして他の貴族のお嬢様たちも愛のない結婚で精神を擦り切らせることもない。ほら、誰が損していて、何が悪いことなの?」
「メイドだからメールボックスの確認に行こーっと」
「あ、逃げた」
危ない危ない、と思いながらアナは夫人に背を向けて逃げ出した。
なんだか聞いていると本当に自分たちが悪いことをしていないような気がしてくる。直感的には悪いことなのだけど、ああいうことを懇々と説かれているとそのうち直感が覆されてしまう。
しかも夫人は二週間前に本を読みながら「へえ。悪いことをさせるのに一番効率的なのは『それが正しいと思わせる』ことなんですって」とか言っていた記憶がある。貴族の家で様々な文献に親しむことでどんどん性質が悪くなっている。油断してはならない。
廊下を歩いて、ポストを開ける。
珍しく一通だけ、封筒が入っていた。別に取らないで『奥様傷心中』とか適当な言い訳をして無視してもいいのだけど、ここまで来たからには一応、とそれを手に取っておく。
帰る途中で思い付いたから、部屋に戻ってアナはすぐ言った。
「そもそもあなたは、一体どうやってこの生活を終わらせる気なんですか?」
「ん?」
「いや、だって……」
普通に考えたらわかるでしょう、と。
「長くやればやるほど、バレるリスクも高まるわけじゃないですか。だいたい、ヨボヨボになったらこんな移動ばかりの生活なんて耐えられるわけないですし……」
「ああ、そのこと」
うーん、と彼女は顎に指を当てて、
「まあ、正直よく考えてないけど」
「正気ですか」
「でも、適当なところで切り上げればいいんじゃない?」
「適当って……仮にも貴族の夫人ですよ?」
「『急速に老いて死にました~! ううっ、悲しいです~!』とか言えばいいじゃない」
「それ白黒はっきりさせましょう。私の真似なんですか?」
というか絶対にそんなことを言う役は引き受けたくない、現場にひとりだけ取り残されているじゃないか、とか。
そういうことを言い募っていると、「これなーにっ」と夫人は話を無視してアナの手にある手紙を奪い取ってきた。
「あっ、もう……本当に仕方のない人ですね」
「そうね。仕方ない仕方ない。……あら。すごいわ、これ」
「何がです?」
「王家の封蝋。どうして侯爵宛てじゃなくて私宛てに来てるのかしら」
開けてみよっと、と言って夫人が手のひらを差し出す。
反射的にアナは、その手にペーパーナイフを置く。すると夫人は鼻歌混じりに、それをピッと空中で簡単に切ってしまって、
「…………『交流会のお知らせ』?」
「うわっ、めんどくさいやつですか?」
「…………うーん……」
珍しく、夫人の言葉が煮え切らない。
だからアナは不思議に思って、彼女の後ろから手紙を覗き込んだ。
するとそこには、ざっくり言ってこんなことが書いてある。
【みんなへ
最近結婚した貴族たちの夫人が、びっくりするほど全然社交界に出てこない。
これはちょっとなんだかなあという感じなので、一度くらい集まらせようかと思う。
王家主催の夜会をするので、体調が優れないとかそういうことがない限りは絶対に出席するように。
王より】
これは、と。
思わずアナは声に出していた。
「マズくないですか。これって、だいたい奥様のことでは……」
「ねえ。っていうことは、他の屋敷にも来てるのかしら」
うわあどうしよう、とアナは頭脳を働かせる。この手紙がもし旦那様の方にも届いているとしたら幾人か離れを訪ねて来そうな面々に心当たりがある。緊急の人避けができるような準備はしているつもりだけれど、不在がバレたらどう誤魔化そうか……いや、それより。
「どうするんですか、これ」
「全員体調不良ってわけにはいかないわよね」
「いや、流石に全員が全員は……欠席の理由リストから適当に見繕いますか?」
「あなたの作ったアレ、便利よね。……でも、理由があったところで、結局全員欠席って時点で怪しくなってしまうから……」
まあ、と言って。
ぱさり、と夫人はその手紙をベッドの上に放り捨てた。
「何とかしましょ。ひとりならともかく、あなたもいるんだから何とかなるわよ」
「ええ……なりますかあ?」
「二人も六十人も同じ複数人のカテゴリでしょ? なるわよ。なるなる」
本当かなあ、とアナは思う。
けれどよくよく考えてみれば、これまで無理そうだと思ったこともなんだかんだで切り抜けてこられたのだから、と。
「ま、確かに! なるようになりますか!」
「そうそう! なるようになるわよ!」
なるわけがなく、普通に捕まって裁判が始まった。
◇ ◇ ◇
「こいつこいつこいつ!!!!! こいつにやれって言われました!!!!」
「うう……。そ、そうです。私がやりました……。あの、こう言えば弟の命は助けてくれるんですよね……?」
「ええっ!? 何その演技! ふざけるなよ!?」
「被告人は静粛に」
カンカン、と裁判のときに鳴らされるアレ(名称:ガベル)の音が響き、それに従いアナは黙る。
なぜなら彼女は、すっかり被告人だからだ。
王宮の中にある、ものすごくでっかい法廷でのことである。
アナは夫人とふたり、被告人席①に座らされていた。ついさっきまで儚い嘘泣きをしていた夫人は今はすっかり普通の表情に戻って、開廷の合図を待っている。
ちなみに被告人席②には貴族の旦那様方が詰め込まれていて、様々な表情を披露している。ちょっと直視に耐えないのでアナはそっちの方は見ないことにする。
「さて、ここからが正念場ね」
さっきの嘘泣きどこへやら、いつもの冷静な声色で夫人は言った。
「弁護人はなし。ここから逆転無罪を勝ち取れるかは私たちの弁舌にかかっているわ」
「『たち』?」
「もちろん。あなたも一緒にやるのよ。さあ、裁判官を華麗に論破して自由を勝ち取りましょう」
「裁判ってそういうシステムだったかな……?」
判然としないのは、アナが一度も裁判傍聴に行ったことがないためである。裁判傍聴に行ったことのない人間は全員こういう目に遭うに決まっているのだ。
「さあ、まずは裁判長の話す言葉に合わせて合いの手を入れるのよ。リズミカルに入れれば入れるほど芸術点が加算されて有利になるわ!」
「私のこと馬鹿にしてるでしょ」
「うふふ」
「被告人は静粛に!」
カンカン、ともう一度裁判のときに鳴らされるアレ(名称:ガベル)の音が響いてしまう。
こんなところで目を付けられて負けたなんてことになったら死んでも死にきれない。アナは隣にいる意味不明な女のことは完全に無視して、大人しく目を伏せた。
裁判長の黒髪の若い男は、「えー、」と呆れたような顔で、手元の紙を見つめて言う。
「此度の事件概要について――」
そして読み上げられたのは、だいたいアナが知っているのと同じようなこと。
意味不明な女――夫人が突如侯爵と結婚。そこからさらに別の人間とも結婚。結婚結婚結婚。結婚しまくり。そして計六十二件、計一年八ヶ月に渡る多重結婚生活を送ってきた、と。
改めて聞いてもわけがわからない、とアナは思う。
改めて読んでもわけがわからんが、という顔を裁判長もしている。
「流石にこんな珍事を何の咎めもなしに、というわけにはいかんだろう。今回は貴族の身辺関係に関する事件であるから、規則に従いこの宮廷裁判所における特殊裁判にかけることにする。指名されたものは各々自身の立場を主張し、事件及び己の罪状を明らかにせよ。都度こちらから質疑も挟むので、名誉にかけて、虚偽の発言は行わないように」
では、と彼は言って、
「まずは被告人席②――代表者、誰か」
「では、ここは私が行きましょうか。頼りになる侯爵殿はそれどころではないようですしね」
立ち上がったのは、金髪の貴族。
見覚えがある――というか、アナからすれば全く忘れられない顔だ。
この人さえ最初に気付いてくれていたら、私もこんな目に遭わずに済んだのに、と夢にまで見る人。
夫人のふたり目の結婚相手。テントリオ伯爵。
「まず、今回の事件の概要については裁判長の仰る通り。しかし、あえてここで私たちは主張させていただきましょう。全く、我らは被害者であると!」
「ほう、と言うと?」
「貴族家の令嬢と聞いて、戸籍まで揃っていて、誰が婚姻の相手を『まさか偽者?』なんて疑うのか、という話です」
彼は大袈裟な身振り手振りとともに語る……ちょっとカッコイイな、とアナは思った。
「貴族を相手取った重婚詐欺なんて、古今東西聞いたことがありません! ただでさえ広大な王国です。変装されて、髪と目の色も違うとなれば噂も広がりようがない。少なくとも結婚の段階において、私たちがそれを予防しうる手段はありませんでした!」
「ふむ。となると、完全無罪を主張するということか?」
「いいえ」
しかし伯爵は、そこでふっと苦々しい表情になって首を振り、
「結婚してからは気付く機会があった……。これもまた、疑いようのない事実です。聞けば、彼女たちはほとんどそれぞれの屋敷にいることはなかった。ほんの少しでも我々が、婚姻の相手に対する興味を、あるいは気遣いを持っていればこうはならなかった。この点、我らは大いに過ちを犯しております」
「ほう。それで、その罪に対する罰は如何と見る」
「単なる家庭問題であれば警告、あるいは離婚と財産分与で終わりましょう。ただし我々は婚姻によって、あの得体の知れない人物に対し国家の中枢である貴族階級への影響力を持たせた。このことは重く見るべきと考えます。……あとは王国法に基づき、適切な処分をいただきたく存じます」
それで着席した伯爵に、えっ、とアナは思う。
ので、隣の得体の知れない女に訊ねる。
「なんかこう、だから懲役何年で~みたいな話ってしないんですか?」
「しないみたいね。こっちは話すだけ話して、量刑は裁判官任せみたい」
「よろしい。被告人②側の意見は分かった。では、①の側」
「はい」
言って、夫人が立ち上がる。
その直前、アナが「大丈夫なんですか」という視線を送れば、「任せておきなさい」と言いたげに、不敵に彼女は笑った。
「自身の立場を主張し、事件及び己の罪状を明らかにせよ」
「では、僭越ながら。
……私もまた、被害者であると主張させていただきます」
ざわっ、と法廷がどよめいた。
だからお決まりのように、カンカン、と裁判のときに鳴らされるアレ(名称:ガベル)の音が響き渡る。
「静粛に! 被告人①。続けて」
裁判長の言葉に、夫人は「はい」と頷いて、
「そもそも、私たちふたりが何の罪を犯したというのでしょうか」
巻き込まれた、とアナは思った。
「重婚罪、と伯爵は仰いましたが、王国法における重婚は『戸籍上の既婚者が新たな婚姻を結ぶこと』です。私はそれぞれ別の戸籍を用いて婚姻を結んでおります。ゆえに、重婚罪には当たりません」
ほう、と伯爵が目を見開いた。
それでアナは思った――どうやら的を射てるらしいぞ!と。
「しかし、戸籍は一人に一つ。ゆえに被告人には、戸籍偽造の罪があるのではないか」
「いいえ、裁判長。この戸籍はそもそも、私が作ったものではありません。これは、それぞれの貴族から買い取った、確かなものなのです」
ここでもアナは、思っていた。
ざわつくところだろうと――だって、貴族が偽の戸籍を持っていただなんて、とんでもないことだ。少なくともアナは子どもの頃から、『そういうこと』は悪いことで、公にしてはいけないはずだと信じてきた。
けれど。
彼女の予想に反して、法廷は静まり返っている。
みんな知っていたのか、と思えば。
少しだけ、アナの肩から力が抜けた。
「心当たりがおありでしょう」
その理由を説くように、夫人が言った。
「これはつまり、予備の戸籍です。貴族の間では、ここ数十年の間これが横行しています。私のような人間を妻に迎えると決めながら、各々の旦那様方がろくな素性調査も行わなかったのはこれに慣れていたからです。裁判長はすでにご存じかと思いますが……」
「いや。被告人の口から聞かせてもらおう」
では僭越ながら、と夫人は語る。
初めは事実婚の愛人の子を押し込めるための枠として。
そののちはさらに、たとえばこうした契約結婚を結んだ貴族が、後継者に選んだ身分の低い養子を当主に据えるための枠として。
「私は確かにいくつもの偽の戸籍を持っています。そしてそれを利用もしました。しかし、その偽の戸籍は各貴族がそれぞれあらかじめ用意していたものです。何ら私はこの一連の流れの中で、不法を行ってはおりません」
「ほう。では、その偽の戸籍の人物に成りすましたのは如何とする?」
「偽の人物も何も、そもそもそんな人間はおりません。実在の人物ならいざ知らず、架空の人物として振る舞うことが罪になるでしょうか?」
「なるだろ」
裁判長は言った。
「詐欺だろう。それも」
「……………なるほど」
そして、夫人は。
「じゃあもういいわ。好きにしたら?」
「ちょいちょいちょいちょい!!!!!!!!」
びっくりして思わずものすごい大声を上げながらアナは立ち上がってしまった。
今の夫人の声は誰かに聞こえてしまっただろうか――不安に思いながら、目線を法廷中に巡らす。そして夫人の耳元に口を寄せる。
「ちょっと!! 何を自棄になってるんですか! さっきの『任せて』みたいな空気はどこにいったんですか!」
「だって、考えてたのがダメって言われちゃったし」
「み、見通し甘ぁっ! 『言われちゃったし』じゃないでしょう! いつもの瞬発力はどうしたんですか!?」
肝心なところでこんな弱気になられても困る。
アドリブを利かせてくださいアドリブを、とアナが詰め寄ると、しかし夫人は、
「でも、ほら。なんだか飽きてきちゃったから。そろそろ私たち、次のステップに行ってもいいと思わない?」
「絞首台へのステップならひとりで昇ってくださいよ……!」
ギリギリと締めあげても、まるで夫人は堪えない。本当に飽きてきたからもう終わりにしたいみたいなオーラを出している。とんでもない犯罪者だ、とアナは思う。こんな人間が一年八ヶ月もの間を貴族夫人(複数融合体)として稼働できていたのだから、あれこそが天職で逮捕も裁判もやるべきではなかったのではないかと強く思う。
が、思ってばかりもいられない。
ここは自分が瞬発力を見せ付ける時だ、と彼女は。
「さ、裁判長! 発言の許可を!」
「認めよう」
「私はこの被告人席に座ってはおりますが、決してこの得体の知れない人物の仲間ではないのです! ただやれと言われてやっただけで――」
「異議あり。裁判長」
「何かな、テントリオ伯爵」
「彼女は非常に早い段階で私と接触していますが、その際に申告された経歴は後程私がエレクセント侯爵家から得た情報とは異なるもので――」
マズい!
アナは思い、今の発言をなかったことにすると決めた。
「やれと言われてやっただけですが、しかし奥様が一体何の不利益を皆様にもたらしたというのでしょうか!」
「ほう。どういうことだ」
「誰も損をしておりません! 貴族の旦那様方は当初のお申し出の通り契約結婚をされました! そして奥様は貴族夫人としての役割をまっとうに果たしております! ここに契約は正しく履行されているではありませんか!」
ふむ、と裁判長は頷く。
「そしてそして、何よりは他の貴婦人の方々です!」
「ほう?」
「愛のない結婚を強いられ、離れに押し込められ誰との交流もなく……そのことこそ如何なる非道でしょうか! 本当に誰でもよいのなら、何もしなくてよいのなら、それは人形を求めているのと同じ――いえ、初めから意志なき人形を求めた方がまだ人道的というものでしょう! 契約結婚の相手役を奥様が一手に引き受けたことは、むしろたくさんの御婦人方に訪れるはずだった悲しみを未然に防いだのです!」
ふうむ、とさらに深く、裁判長は頷く。
もう一息だ!
「私は傍付きのメイドとして奥様を見てきました。だからこそわかるのです! 突然契約結婚を言い渡された彼女が、複数の婚姻を結ぶようになるまでの心の変化を……彼女が己に降りかかった悲しみを優しさに変えるまでの経過を! 裁判長、これは――」
これで決まりだ、と。
アナは、高らかに言った。
「己以外の誰をも幸せにしようとした彼女の、優しさと憐れみが起こした事件なのです!
どうぞ、彼女に寛大な処置をお願い申し上げます!」
そしてついでにちょっと共犯っぽい自分も無罪にしてください、と。
そういう気持ちで、アナは言った。
名演説に感じ入ったのだろうか。しばらく裁判長は言葉もなく。
けれどやはり――彼は最後に口を開く。
「被告人」
「は、はい」
「ひとつだけ、訊いておきたいことがある」
何でもお訊ねください、とアナが言えば。
じっ、と裁判長とふたり、見つめ合って。
「それならどうして、侯爵との最初の対面から彼女は金髪の鬘を被っていたんだ」
「お洒落です」
追放された。
◇ ◇ ◇
「調子に乗って嘘を吐きすぎると良くないわね」
「ど、どの口が言ってんだ!?」
ガラガラと馬車は行く。
アナの心のアンニュイな空模様に対して、びっくりするくらいの大快晴。清々しいくらいに春と夏の匂いが漂うそんな日に、何が悲しいのか彼女は得体の知れない人間と同じ馬車に乗って、二度とこんな空は拝めなくなるような場所まで連行されていた。
暗黒領域。
王国辺境、瘴気によって荒れ果てていると噂される地である。
「でも、なかなかいい線行ってたじゃない。そもそもこの制度が横行しているのが悪いっていうのは良い攻め筋だったわ。脚色を抑えたら情状酌量がいけたんじゃない?」
「……ご講評ありがとうございます。次に活かしますよ」
「そうね。次に活かしましょう」
「あはは」
「うふふ」
そして、アナは。
「――いや『うふふ』じゃないんですよ!!!」
いつもの感じで。
「次なんてあるわけないでしょう! あなたのせいで私の人生めちゃくちゃだ~!」
「あるわよ。あるある」
「適当言うな!」
あのねえ、と。
もしかしたらこの人は妙に抜けているところがあるからわかっていないのかもしれない、と思って、
「暗黒領域って、人が生きていけるような場所じゃないんですよ。実質死刑です、死刑!」
「あら。そんなことないわよ。誰から聞いたの? そんなこと」
「有名な話でしょう! あなたこそ誰から聞いたんですか、そんな適当なこと!」
「自分」
「はい?」
「だって、故郷だもの。生まれは知らないけど、育ちはそこよ、私」
やっぱり重い罰にはならなかったわね、死刑とか、と。
さらり、と元夫人は言う。
だからアナは反応に戸惑って、その間に、
「あ、ほら。見なさい。あっちに侯爵……元ね。元侯爵と元伯爵がいるわよ」
そんなことを言って、元夫人は窓の方を向いてしまう。
いや今の話……とアナは思うけれど、しかしそっちもそっちで気になったので、恐る恐る彼女と一緒にそれを覗き込んで、
「ええ~……。なんでこんなに近い距離に……どうします? いきなり『お前らのせいで!』って殺しにかかってこられたら」
「ないんじゃない? ほら、元伯爵なんか、こっちに手を振ってるもの」
振り返してあげましょう、と元夫人は言う。
そんな馬鹿な、と思いながらアナが目を凝らすと、確かにそこにはこちらに向けて、屈託のない笑みで手を振る彼の姿がある。
「怖……なにあの人……」
「あそこの家って、もうどれだけ当主が優秀でもどうにもならないくらいに拗れてたもの。本人も解放されて嬉しいな、くらいのところなんじゃないかしら。裁判でもなんだかそういう感じだったし」
アナはそれで、思い返す。
元夫人が「あの言い方だと、最初から自分と侯爵で収めるつもりで打ち合わせてたんじゃないかしら」と言ったこと。
確かにあのとき、元伯爵の主張はこうだった。『結婚時点で気付くのは不可能』『しかし結婚生活の中で気付けなかったことが自分たちの落ち度』――これをそのまま受け取るなら、最も今回の事件で過失があったのは最初に婚姻を結んだ元侯爵、そして二番目が元伯爵ということになる。
そして実際に。
貴族側の責任の多くを被るような形で、元侯爵と元伯爵のふたりは当主の座を退き、暗黒領域への追放処分となった。
ふたり。
そう、ふたりが――、
「それに、」
元夫人は。
元伯爵と乗り合わせている、もうひとりの元貴族を見つめながら。
「もう片方は、あなたのお兄さんじゃない」
そんなに気にしてないみたいよ、ほら、あっちも手を振り出した――なんて。
何でもないような口調で、元夫人は言うから。
「……いつから、わかってたんですか」
「さあ? でも、ヒントはたくさんあったんじゃないかしら」
たとえば、と。
「不思議なくらい私のことを隠そうとするのは、同じくらい後ろめたいことがあったから。侯爵家のメイドとして働いてたはずなのに、不在でも全然バレたりしないのは、そもそも浮いた存在だったから。予備の戸籍は優秀な養子の経歴の誤魔化しにも使われているけど、当然その養子にだって家族はいる。遠ざけておくより、手元に置いた方が安心することもある……」
「…………遠回しなヒントばっかりじゃないですか?」
「じゃあ、『ずっと楽しそうだったから』。これは?」
なんですかそれ、と。
言いながら、アナは元夫人の隣に並ぶ。
確かにそこでは、元侯爵が――兄が、戸惑うような表情でこちらに手を振っていた。
「……全然、お喋りした記憶とか、そういうのはないんです」
まさかあんな人とは思わなかった、と。
アナは、契約結婚を申し出たときの彼の姿を、思い浮かべたりもする。
「近くにはずっといたんですけど、それだけで……。私、それから屋敷の外に出る許可も、ほとんど取れなくて」
子どもの頃から聞いていた。
彼が侯爵を継ぐのであれば、エレクセント領は安泰だ、なんてことも。
だから、お前は決して彼の――なんてことも。
「でも、奥様があのとき『子どもじゃあるまいし』って言ったじゃないですか」
「言ったかしら」
「言いましたよ。……なんか、あれでスッとしちゃって。そこからも結構、色々悩むことはあったんですけど、色々ほら、えいやーってしてたら、こんなところまで」
裁判長を務めた国王は、これを機に貴族の契約結婚や予備戸籍の横行に大々的に手を入れていくつもりだと言った。
これからどうなっていくのかは、アナにはわからない……より良い状態になってくれたらいいな、とは思う。悪くなったら嫌だな、とも思うし、何も変わらなかったら、それはそれで、なんて。
あまりに多くのことが関わって、物事は複雑で、誰かひとりの力ではどうしようもなくて――だから、流されてばかりの人生だった自分には尚更、想像がつかない。
けれど――、
「悪いことしちゃいましたね、旦那様には」
「そう? 案外喜んでるかもしれないわよ」
「まさかあ」
ガラゴロと、馬車は行く。
揺られながら……確かにかつての場所から遠ざかりながら、アナは進んでゆく。
「暗黒領域で暮らしてたって、本当ですか?」
「私が嘘を吐いたことがある?」
「嘘の擬人化みたいな人でしょう、あなた」
「そうよ」
「言ってること滅茶苦茶だ……」
どういう人なんですかあなたは、なんて。
名前も知らない相手に、返ってこないに決まっている問いを投げたりしながら。
「でも、本当に暮らしていけるなら、それこそ『次のステップ』ですね」
「そうね。今度はあっちのふたりも使えるようになるから、もっと大きなことをしましょう」
「げっ……あっちのふたりも巻き込むんですか? やだなー……」
というかもっと大きなことって次は何をするつもりなんですか国家転覆?
うふふ、なんて言葉を交わしながら。
闇市でもするつもりか、新しい領地でも作るつもりか、はたまたもっと想像もつかないことになるのか――そんなことを、思いながら。
再会した兄に、手を振りながら。
あなたに任せておくとろくなことになりませんから、なんて前置きをして。
アナは、笑って言った。
「次に何をするかは、私も決めますよ」
(了)