第十八話 ベルゼバブとの戦い
迷っている暇はない。
俺は一気に距離を詰め、渾身の力で剣を振り下ろした。
ガィィィン!!
甲高い金属音がフロアに響き渡る。
俺の剣は、ベルゼバブの腕を覆う漆黒の甲冑によって軽々と受け止められていた。
「あら、いきなりだなんて乱暴ね」
ベルゼバブは涼しい顔で微笑んでいる。こちらの全力攻撃を、まるで羽虫を払うかのように防ぎ切ったのだ。
「くっ!」
やはりレベル差50は、相当の実力差だ。普通の剣では傷一つつけられない。
ならば、これならどうだ!
俺は道具袋から『キングコボルドの斧』を瞬時に取り出した。
右手に装備するイメージを浮かべるだけで、持っていた剣が光となって収納され、代わりに巨大な斧が掌に出現する。
「とらあああああああ!」
重量300キロの鉄塊。だが、今の俺の腕力なら、木の枝のように軽々と振り回せる。
1秒間に500回の連撃。暴風のような斬撃の嵐を叩き込む!
「いくぞォッ!」
必死の形相で攻め立てる俺に対し、ベルゼバブは余裕の表情を崩さない。
全ての攻撃を、腕の甲冑だけで的確に弾き返していく。
「うんうん。すごいですねぇ。まさか、わたくしに両手を使わせるなんて」
ベルゼバブは子供をあやすように言った。
その侮りが、奴の命取りになった。
「……ぐっ、あ!?」
次の瞬間。
ベルゼバブの顔が苦痛に歪み、見開かれた目が驚愕に染まった。
「油断したな!」
俺は勝利を確信し、叫んだ。
ベルゼバブの右腕が、宙を舞っている。
俺の一撃が、堅牢な甲冑ごと腕を断ち切ったのだ。
「この『キングコボルドの斧』は、255分の1の確率で攻撃力が倍になる。つまり、255回も振り回せば、一度は防御不能の破壊力を叩き出せるってことだ!」
俺の種明かしを拒絶するように、ベルゼバブは憎悪の眼差しで睨みつけてきた。
「油断しましたよ……。貴方が、いえ、人間風情がここまでやるとはね」
右腕を失ったことで、ベルゼバブの気配が明らかに弱まっている。
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【ベルゼバブ】
・討伐推奨レベル:220
・スキル:クイーンフライに分裂統合
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推奨レベルが下がっている!
このまま攻めれば勝てる!
俺は一気に間合いを詰め、トドメの一撃を振り下ろした。
バシュッ!
斧が空を切る。
ベルゼバブの姿が掻き消え、代わりに無数の黒い物体が弾け飛んだ。
――――――――――――――――――――
【クイーンフライ】
・討伐推奨レベル:35
・スキル:食人バエ召喚
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空を覆い尽くすほどの、大量のクイーンフライ。
その数、数百……いや、千を超えているかもしれない。
「いったい何が!」
俺が驚愕する中、無数の羽音が重なり合い、ベルゼバブの声となって響き渡った。
『わたくしの能力は、クイーンフライへの分裂。それでは、第二ラウンドといきましょうか』
大量のクイーンフライが、一斉に襲いかかってきた。
だが、分裂したことで個体の強さは大幅に低下している。
レベル300のボス相手より、レベル35の雑魚の群れの方が遥かに楽だ。
俺は斧を振り回し、次々とクイーンフライを叩き落としていく。
「ベルゼバブよ! 相当追い詰められているな!」
数さえ増やせば勝てると思ったか? その短絡的な発想こそが、敗北への近道だぞ!
『さあ、どうでしょうね?』
余裕たっぷりの声と共に、異変が起きた。
上空に残っていた大量のクイーンフライが一点に集まり、青い光を放って融合したのだ。
光の中から現れたのは、五体満足な姿のベルゼバブ。
失ったはずの右腕も、完全に再生している。
「な、なんだと……!?」
俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
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【ベルゼバブ】
・討伐推奨レベル:300
・スキル:クイーンフライに分裂統合
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全ステータスが回復し、推奨レベルも300に戻っている。
「ま、まさか……」
『お察しの通り。わたくしは分裂し、そして元に戻ることで、全ステータスをリセットして回復できるのです。分裂した瞬間に全ての分身体を同時に倒すことができれば、あるいは勝機はあるかもしれませんね?』
ベルゼバブは高らかに笑った。
分裂した時の数は千体以上。広範囲に散らばったそれらを、一瞬で同時殲滅するなんて不可能だ。
『では、イキますよ』
ベルゼバブは再びクイーンフライに分裂し、波状攻撃を仕掛けてきた。
俺は必死に応戦するが、数が多すぎて防ぎきれない。
「うぐっ!」
鋭い爪や牙が、俺の体を掠めていく。
一撃一撃は軽いが、チリも積もれば山となる。HPが確実に削られていく。
「くっ! 数が多すぎる……!」
◇ ◇ ◇
一時間は経過しただろうか。
俺のHPは、すでに半分以下まで削られていた。
『いいお顔ですよ。その苦悶に満ちた絶望的な表情……わたくしの大好物です』
ベルゼバブは安全圏から俺を見下ろし、愉悦に浸っている。
奴の戦法は徹底していた。
クイーンフライに分裂して俺を削り、数が減ってきたら合体して回復。また分裂して攻撃。
ヒットアンドアウェイの無限ループだ。
俺の斧による「即死攻撃」を警戒しているのだろう。
そして何より、徐々に弱っていく俺をなぶり殺しにするのを楽しんでいるのだ。
「くそっ……!」
俺は血の滲む唇を噛み締め、ベルゼバブを睨みつけた。
『まあ、なんて必死なお顔。もっと遊んで差し上げますよ』
ベルゼバブはそう言うと、残りの全魔力を込めて分裂した。
これまでで最大規模、視界を埋め尽くすほどのクイーンフライの壁が、津波のように俺に押し寄せてくる。
これが、ラストチャンスだ。
「かかったな! クイーンフライ!!」
俺は叫ぶと同時に、腰の道具袋を目の前にかざした。
袋の口を大きく広げ、念じる。
「収納ッ!!」
ヒュオオオオオオオオオッ!!
猛烈な吸引力が生まれ、襲い来る目の前のクイーンフライたちが、次々と青い光の粒子となって道具袋の中へ吸い込まれていく。
俺の周囲半径百メートル。
その空間にいた数百体のクイーンフライが、一瞬にして消滅した。
残ったクイーンフライたちは、慌てて上空へ退避し、渦を巻いてベルゼバブへと戻った。
『いったい何をやるかと思えば……。同時に三百体ほど消したところで無駄ですよ。こうやって全て元通り……』
ベルゼバブの言葉が止まった。
異変に気づいたのか、その表情が驚愕に凍りつく。
『な……体が……戻らない!?』
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【ベルゼバブ】
・討伐推奨レベル:150
・スキル:クイーンフライに分裂統合
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ベルゼバブの体が半透明になり、明らかに力が半減している。
「ま、まさか。なぜ……なぜ回復しないのです!?」
俺はキングコボルドの斧を構え、動揺するベルゼバブへ突撃した。
「俺の道具袋の中でお前の一部は『生きている』からだ! だから、回収して元に戻ることができないんだろう!」
この道具袋は、中に入れたものの時間を停止させる。
つまり、吸い込まれた数百体の分身は、死んだわけでも消滅したわけでもなく、「存在したまま」隔離されている状態なのだ。
全てのパーツが揃わなければ、完全体には戻れない!
「これで終わりだあああああ!」
俺の会心の一撃が、ベルゼバブの胴体を深々と切り裂いた。
「ぐわあああああああ! こんな……こんなことがあってたまるかあああ!」
ベルゼバブは絶叫し、断末魔を上げた。
その体は維持できなくなり、無数の青い光の粒子となって霧散していく。
静寂が戻った。
塔のフロアには、何もなかったかのようにただ風が吹いている。
「はぁ、はぁ……。危なかった」
俺はその場に座り込んだ。
今回は本当にギリギリだった。道具袋の特性を活かせなかったら、負けていたかもしれない。
まだまだレベルアップが必要だと、痛感させられた。
「……えっ!?」
ゾクリ。
消えたはずの気配。いや、もっと強大で、底知れない何かが、背後に迫っていた。
振り返ると、どこからともなく現れた無数のクイーンフライが集合し、再びベルゼバブの姿を形成していた。
「お見事です」
その姿は、先程までのベルゼバブとは少し違っていた。
威圧感がない。殺気もない。
ただ静かで、深淵のような底知れなさを漂わせている。
何より、ステータスが見えない。
つまり、今の俺より数段格上ということだ。
「わたくしの分身は、どうもすぐに感情的になり、品性に欠けていていけませんね」
「ど、どういうことだ……?」
「先程まで貴方が戦っていたのは、わたくしが作り出した『分身体』。ご存知の通り、クイーンフライの集合体で作った精巧な操り人形に過ぎません」
レベル300のベルゼバブが、レベル35のクイーンフライに分裂した時、その数は計算上合わないほど多かった。
おかしいと思ったら、そういうことだったのか。
本体の強さは、分裂した分身体の比ではない。レベル数千と言われても驚かないほどのプレッシャーだ。
勝てない。
本能がそう告げている。
孤児院を救うこともできず、ミキにも会えないまま、俺はここで終わるのか……。
「貴方がここへ来た理由はわかっています」
ベルゼバブは音もなく俺の目の前に移動し、穏やかに言った。
「まさか人間が、あたくし達異世界の者のために命をかけるとは、思いもよりませんでしたよ。……実を言うと、元々あたくしもあの孤児院を取り壊すのは気が進まなかったのです」
「え……?」
「あそこには、純粋な魂が集まっていますからね。……いいでしょう。これまで通り孤児院を残すよう、あたくしが責任を持って約束しましょう」
取り壊さない?
俺が呆気にとられていると、ベルゼバブはフッと笑みを浮かべた。
「では、また会いましょう。面白い人間さん」
ベルゼバブの姿が霞み、次の瞬間には完全に消えていた。
フロアには、俺一人だけが取り残されていた。
◇ ◇ ◇
「ヒサシ、何としてでもあの孤児院を守りたいの」
学校への帰り道、何も知らないミキが決意を込めて言った。
「ああ、もちろん。俺も協力するよ」
俺は微笑んで答えた。
タワーから戻った後、俺たちはその足で孤児院へと向かった。
孤児院へ到着すると、院長のお婆ちゃんが満面の笑みで駆け寄ってきた。
「ああ! お二人とも! ちょうどよかった!」
「どうかしたんですか?」
ミキは身構えたが、お婆ちゃんの言葉は予想外のものだった。
「この孤児院は、残されることになったんだよ!」
「えっ!?」
ミキが驚きに目を見開く。
「さっき連絡があってね、未来永劫ここは孤児院として利用していいと、上の方から正式に許可が出たんだってさ!」
「よかった……! 本当によかった……!」
ミキは安堵のあまり泣き出し、お婆ちゃんと抱き合って喜んでいる。
「本当に……約束を守ってくれたんだな」
俺は空を見上げ、あの不可解な魔王、ベルゼブブのことを思った。
敵なのか味方なのか、底知れない存在。
だが、今はただ、このささやかな平和に感謝しよう。




