最終章 月光の劇場
第五章 月光の劇場
ひかり先輩は、一階で青松さんと一緒にいた。月光さんの予想通り、柴崎家の次男、龍二さんの動向を調査していたようだ。結果としては、龍二さんはここ数年、日本に帰国していないことが判明した。月光さんの言う通りなら、犯人はこの家で暮らす四人の内の誰かということになる。
「全員集めるって、なんで?」
私は月光さんに言われた通り、全員を再び集めることをひかり先輩に報告した。ひかり先輩の疑問は当然の反応だったが、私はちょっと困ってしまった。正直に話すと、ひかり先輩の逆鱗に触れるのではないだろうか。
ひかり先輩は慎重派なので、有力な証拠や証言がない限り、強引な捜査はしない。月光さんの目論見を話しても、きっと賛同してもらえないだろう。だからと言って、ひかり先輩に嘘をつくわけにはいかない。どうにかして、上手く言い訳できないだろうかと考えてみるが、思いつかない。ひかり先輩はキョトンとした顔で私を見つめている。私はどうにもきまりが悪くなったので正直に話すことにした。
「はぁ~。まったく、あのバカは‥‥‥。しょうがないわね。まぁなんとかなるでしょ」
ひかり先輩は予想外の返事をした。怒って反対すると思っていたので、ちょっと拍子抜けしてしまった。ともあれ、スムーズに事が運ぶのなら、それに越したことはない。私はひかり先輩の気が変わらないうちにと思い、奔走した。
そして十分ほどかかってようやく、全員をもう一度、犯行現場である書斎に集めることに成功した。時間がかかった原因は青松さんだった。家中探してもいないので、途方に暮れていたが、家の門の外にいた。どうやらタバコを吸っていたようだった。
私が青松さんを部屋に連れてきたことで、関係者全員がその場にそろった。ふと月光さんを見ると、なぜか帽子を被っていた。どうやらそれがクライマックスにおける、月光流の正装なのだろう。全員が集まったのを確認すると、月光さんは大仰な動作で帽子を取り、胸の前へ持ってくるという慇懃なお辞儀をした。
「皆さん、お忙しい中お集まりいただき、誠にありがとうございます」
言い終えると、月光さんは再び帽子を被った。芝居がかったというよりも、完全にお芝居の一場面としか言えない月光さんの振る舞いに、誰か怒る人がいないかと私はハラハラとした。しかし、どうやら杞憂に終わったらしい。皆固唾を飲んで月光さんを見つめている。
私は全員を集めるときに、犯人に関する重要な手掛かりと思えるものが見つかったので、その検証を行うと周知していた。流石に、「今から全員を一部屋に集めて、犯人を言い当てます」なんてことは気恥ずかしくて言えなかったのだ。しかし、その甲斐あって、皆、今から何が話されるんだろうと、期待と興奮でソワソワとしている。意図せず、お膳立てが整ったようだ。そして、ついに痺れを切らして龍一さんが声を上げた。
「刑事さん。僕たちは、犯人に関する重要な手掛かりが見つかったという知らせを受けてやってきました。もったいぶらずに、早くその手がかりを教えてほしいんですが」
「重要な手掛かり?」と月光さんは、少し目を丸くして、小声でつぶやきながらチラリと私を見た。私は弁明できないので、無言で頭を下げた。
「えぇ、そうです。とても重要な手掛かりを得ることができました。皆さんのご協力のお陰です」月光さんは、私の説明に合わせてくれたようだ。
「その手がかりというのは、どのくらい犯人に迫るものなのでしょうか? 年齢や背格好を示しているんでしょうか?」
突如として話に割って入った声の主の正体に、私は少し驚いた。それは青松さんだった。あまり饒舌でない青松さんが、積極的に私たち警察の人間に話かけることは今までになかった。そんな私の驚きをよそに、青松さんは興味深々に目を輝かせて、月光さんを見つめていた。
「いえ、もっと具体的なものです。はっきり言わせてもらいましょう。僕にはもう、誰が犯人なのか分かっています。そして、犯人はこの部屋の中にいます」
当然のことだけれど、月光さんの発言によって室内は騒然となった。しかし、各自の反応は様々だった。柴崎社長と宮園医師は二人で困惑しながら顔を見合わせていた。雛田さんはオロオロと挙動不審に、辺りを見回していたし、龍一さんは、話にならないとでも言いたげに、失笑を浮かべていた。青松さんは、興奮気味に目を輝かせ、前のめりになって月光さんを見つめていた。そんな中、最初の反撃の口火を切ったのは龍一さんだった。
「いやはや、見た目通りのユニークな発想をする刑事さんですね。一体全体、どうしてそんな考えにたどり着いたのか。僕の知る限り、この家の住人にお金に困っているような人間なんていませんよ。皆ギャンブルなんか手も出しませんし、酒にも溺れない。なんとも慎ましい生活を送っていますよ。腕時計を盗む動機がないじゃないですか」
龍一さんの挑発に、月光さんは一歩も引き下がることなく応戦した。
「例えば龍一さん。あなたはご自分の車をサーキット仕様に改造したい、お金が欲しいとご友人たちに漏らしていたそうですね」
途端に、龍一さんの顔が曇った。
「驚いたな。いつの間にそんなことを調べていたんです? いや、ということは最初から僕たちの誰かが犯人だと疑っていたんですか?」
「我々は常に、あらゆる可能性を考えて捜査にあたっています」
「へぇ、警察も目ざといんですね。えぇ、そうです。それは認めますよ。それで? どうなるんですか? 僕がお金が欲しいと愚痴っていたからといって、僕が犯人なんですか?」
「あなたは背が高くて体格がいいですね。ところで、柴崎社長が泥棒におみまいしたタックルは、ほとんど不意打ちに近かったはずだ。しかも柴崎社長はラグビー経験者ときている。あなたなら柴崎社長のタックルを食らっても、跳ね飛ばして逃げ出すことができるのではないですか?」
「そんなのこじつけじゃないですか。父は自分で思っているほど若くない。もう何年もスポーツからは離れているし、最近は階段で息切れするほど体力が衰えている。青松君でも雛田君でも、父に力負けはしないでしょうよ。それに、こうも言えるんじゃないですか? 僕は体格がいいから、僕と父が組み合ったなら、簡単に突き飛ばすことができる。ということは、部屋がこんなに荒れるほど格闘が続くはずがない、ってね。それからさっきの、僕がお金に関して愚痴っていた件も同様です。あなたは僕の銀行口座の残高を知ってますか? 知らないでしょうね。もし僕の口座残高を知っていたらさっきの妄言なんて口にできるはずがないですからね。僕は自分にお金があることをひけらかすほど、無分別な男じゃないんですよ。あなたがやっているのは、自分に都合のいい情報だけを集めて、空論をでっち上げているだけだ。そういうのをチェリーピッキングっていうんですよ」
「これは、一本取られましたね。あなたは頭の回転が速い上に弁が立ちますね。では、龍一さんは犯人ではないとしましょう」
月光さんは苦笑いを浮かべて、あっさりと引き下がった。勿論、あんな杜撰な理論で、月光さんが本気で論戦を仕掛けているはずはない。あえて穴だらけの理論をひけらかして、相手の反論から情報や感情を引き出す。月光さんの巧妙なアイロニーである。
「では、次に青松さん」と、月光さんはくるりと向きを変え、青松さんに話しかけた。青松さんはそれまで、月光さんと龍一さんの論戦を興味津々に見つめていたが、突然自分に矛先が向いたので大いに驚いたようだ。
これも月光さんのいつもの作戦だ。暴論を披露したかと思えば、急に矛先をかえ、その場にいる人を翻弄する。やり込めたと思ったら肩透かしに合い、傍観を決め込めば不意打ちを食らい、逃げようと思えば絡めとられる。
私はこれをひそかに月光劇場と呼んでいる。誰も月光劇場に抗うことはできない。なぜなら――
月光劇場に(・)は(・)なに(・・)も(・)意味が(・)ない(・・)から(・・)!
事件を解決するのなら、ただちに犯人を指摘し、逃れようのない証拠を突きつければそれで終わりだが、月光さんはそれをしない。
回りくどく、冗長な独演の果てに、私たちはようやく犯人を知ることできる。月光劇場の目的はただ一つ。
それは、月光さんが目立つということ!
ただそれだけのために上演されるのである。そんな無意味なことに反撃する術を、人類はもっていない。夏休み前の校長先生の訓示と同じように。おそるべし、月光劇場。
「青松さん、あなたも金銭面で不満がおありじゃないんですか? 住み込みということで、家賃や食費は免除されているようですが、その代わり朝から晩まで働かせられ、明確な休みが存在しない。その割には給料は安い。おそらく時給換算したら最低賃金を割って……。いや、この話は、管轄外ですね。とにかく、あなた給与はお世辞にも良いとは言えない。その上、あなたはお金だけじゃなく、待遇にも不満があったんじゃないですか? あなたは職場だけでなく、家に帰ってからも雑用をさせられています。なにか不備があれば、柴崎社長のお叱りを受ける。さながら丁稚奉公だ。金銭面と待遇への不満。立派な動機だと思いますが、どうですか?」
私がひとり感嘆しているのをよそに、月光さんは青松さんを詰問していた。
「そ、そんなことはありません。僕は柴崎社長を尊敬しています。なんの取柄もない僕を拾って下さり、雇ってくれました。感謝こそすれ、社長を恨んだり、ましてや社長が大事にしてらっしゃる腕時計を盗んだりするなんてことはしません」
「待遇に不満を抱くことは一度もなかったんですか?」
「そ、それは‥‥‥。僕も人間ですから、不満を感じることはあったことは認めます。お金だって、そりゃ、欲しくないといったら嘘になります。でも、柴崎社長の大事になさっている腕時計を盗むなんて、そんな恩を仇で返すことは絶対にしません」
青松さんは、額に汗を浮かべ必死に否定した。横目でチラチラと柴崎社長の顔色を窺っている。当の柴崎社長は、青松さんの主張には大して注意を払わず、その代わりに月光さんを真剣な眼差しで見つめている。そして月光さんは、それ以上青松さんを追求することなく、今度は居候の雛田さんへ向き直った。
「さて雛田さん。金銭面ということに限って言えば、あなたが一番厳しいと思われます。本業は振るわず、ほとんど内職をして糊口をしのいでいるようですが?」
「い、言いがかりです。そ、その。た、確かに今は、売れない原型師ですけど、昔はこれでも、第一線で活躍していたんです。だ、だから、その時の蓄えがあって、その。そんなにお金に困っているということはないんです。本当です。僕はそんなに物欲があるほうじゃないですし、お金のかかる趣味は持っていません。断じて僕は盗みなんてしません」
雛田さんは必死に否定していたが、内向的な性格のためか、その目は月光さんをまっすぐ見つめることができないようだった。目を伏せうつむいたまま、不審なほど落ち着かない様子での抗弁していた。これではまるで、後ろめたいことがあると言っているようなものだ。
いや、あるいは本当に雛田さんが……?
「さて、それでは最後に柴崎社長ですが……」
しかし月光さんは、雛田さんには構わず、柴崎社長に向き直った。口元にはいつものように微かな笑みを浮かべている。状況が状況だけに、不敵な笑みにも見える。対する柴崎社長は、眉間にしわを寄せムスっとした表情を浮かべている。
「おいおい、親父まで疑っているのかい? 刑事さん。親父がどうして自分の時計を盗む必要があるんだ? もしかして、親父の次は宮園先生にも疑いの目を向けるんじゃないだろうね?」
皮肉を言いながら割って入ったのは龍一さんだった。月光さんのじれったい演出に、ウンザリとしたのだと思う。しかし、その程度の野次では、月光劇場を閉演に追い込むことはできない。月光さんは構わず続けた。
「柴崎社長。あなたは大変な資産家ではありますが、その資産の大半は現金化が容易でない土地利権であり、現金はそれほど潤沢にお持ちではない。そして、高価な腕時計に熱を上げてらっしゃる。つい魔が差して、保険金搾取という線も――」
「この若造め! このワシを詐欺師呼ばわりするとは良い度胸じゃ!」
月光さんの言葉が終らぬうちに、柴崎社長の憤怒の声が轟いた。隣では、宮園先生が必死になだめている。
「お気を悪くなさらないでください。僕は単に、ここにいる全員に動機が存在するということを指摘したかっただけなんです。もちろん宮園先生は除きますが」
「刑事さん。それはいくらんでも考えが足りていませんよ。そりゃ、保険金目当ての犯罪なんてゴロゴロあるでしょうよ。でも、この部屋の荒れようはどう考えるんですか? 父の頭のケガは? 泥棒に時計を盗まれたと自演するのに、ここまで部屋を荒らして、自分の頭を傷つける必要なんてないでしょう? 父が犯人だなんて可能性は、真っ先に排除するのが普通の考え方ですよ」と、またしても、龍一さんが割り込んできた。月光さんは龍一さんに向き直ると、悠然と微笑みを浮かべて返した。
「おや? そうでしょうか。実をいいますと、僕は今日の実況見分を見て、真っ先に柴崎社長が犯人だと考えました」
「ハハハ。もうダメだ。話にならない。ねぇ、他の刑事さん方、すみませんがこのユニークな刑事さんにお引き取りを願うことはできませんかね? このままじゃラチがあかない」
龍一さんは、右手で頭の後ろをかきながら、やれやれといった表情で私とひかり先輩に懇願した。柴崎社長も、憤然として顔を真っ赤に染めながら私たちを睨んでいた。
「おっと、気を悪くされたのなら謝ります。誤解を招く発言でしたが、僕は真っ先に柴崎社長を犯人だと考えましたが、すぐにその考えを変えなければなりませんでした。そのところをちょっとお話させて頂きたいのですが」
「フン。とにかく喋ってみるがいい。その代わり、しゃべったら、すぐにこの家から出ていってもらうぞ。それだけじゃない、二度とこの事件に首を出さないようにしてもらうからの!」
月光さんが柴崎社長を疑っていないと言ったので、柴崎社長は幾分か態度をやわらげたようだったが、その怒りの炎は簡単には消えそうになかった。
「ありがとうございます。それでは先ず、なぜ僕が真っ先に柴崎社長を疑ったのかを説明させてもらいます。柴崎社長。あなたはここに控えている僕の同僚、日野ひかりというんですがね。彼女が盗まれた腕時計に関して、あなたに調査の依頼をした時のことを覚えていますか? 盗まれた時計の中に、正確な型番が分からないものがあったので、調査をお願いしたのです。その時のあなたの返答は、明日の昼までには調べておくというものでした」
私は一瞬息を飲んだ。柴崎社長は確かにそう言っていた。「これはとてもおかしなことだと思いませんか?」と、月光さんが再び語りだした。
「普通、総額二千万円もする大事な時計が盗まれたとなれば、一刻も早く取り返して欲しいと思うのが人情だと思います。盗まれた時計が、すぐに質屋や古物商に売り飛ばされる可能性はかなり高いです。本来なら、すぐにでも調べ始めてもおかしくないはずです。それなのに柴崎社長は明日の昼までというとても悠長な返事をしました。なぜ、こんなに悠長に構えていられるのだろうか? まだ事件発生から三日しかたっていない。諦めるには早すぎる。もしや柴崎社長は腕時計の行方を知っているのではないか? つまり、彼自身が盗んでいるのだから、腕時計の心配など全くしていない。だから、明日の昼までという悠長な返事をしてしまったのではないか? そう考えて僕は真っ先に柴崎社長に目星を付けたのです」
「なにが目星を付けた、だ。この若造が!」柴崎社長は、がなり声をあげながら反論した。
「そのことなら簡単に説明できるわい! いいか、その型番不明となっている腕時計はビンテージものだが、それほど希少な品ではない。全部あわせても被害額の五分の一にもならんのじゃ。価値のある時計の型番はすでにあんたら警察に知らせてあったし、どうせ見つかるまいという一種の諦めの思いがあったから、図らずも悠長な返事をしてしまっただけのことじゃ。それにな、もうこれ以上、詐欺師扱いされるのは我慢ならんから言うが、あの腕時計には家財保険の類は一切掛けていなかったんじゃ! 疑うのなら調べてみるがいい! あの時計が盗まれたところでワシは一円ももらうことができんのじゃ!」
柴崎社長は口角泡を飛ばしながら、今にも掴みかからんばかりの勢いで月光さんに詰め寄った。
「そうでしかたか。まぁ、予想通りですね。あなたの潔癖な性格からして、保険金詐欺のような犯罪に手を染めるとは思っていませんでした」
柴崎社長の鬼のような形相を前にしても、月光さんは少しも揺るがなかった。
「といっても当初は、柴崎社長の潔癖さを知らなかったので、真っ先に柴崎社長の自作自演を疑っていた訳です。しかし、その後に行われた実況見分と、事前に作成された操作資料を読むうちに、どうにも辻褄が合わないように思えました。龍一さんもおっしゃってましたが、自作自演をするのに、現場をここまで荒らす必要はどこにもない。その上、頭に大ケガを負うなんて、手が込みすぎている。そもそも泥棒と鉢合わせて、取っ組み合いになったという演出をする必要なんてないはずだ。泥棒が部屋を荒らしたように見せる自作自演をしている時に、うっかり転んで大けがをしてしまい、とっさに泥棒と鉢合わせたと嘘をついたのだろうか。しかし、やはりこの部屋の荒れ方は尋常じゃない。ガラスは散乱し、サイドテーブルは倒れ、家具はあらぬ方向を向いている。どう見ても泥棒がちょっと家探ししたという形跡ではない。自作自演でこんな痕跡を残そうとするはずがない。やはり、ここは柴崎社長以外の人間がいたと考えるべきだと思いました」
「フン。だからいったじゃろうが。本当に泥棒がおったんじゃ」
柴崎社長はそれ見たことかと吐き捨てるように言った。
「はい、おっしゃる通りです。それで僕は、柴崎社長が自作自演をしたという疑いを、頭からスッパリと消しました。そして、本当に泥棒がいたという前提で推理を組みなおすことにしました。しかし、そうすると今度はまた別の問題に当たったのです。その問題とは、こちらの飾り棚にある骨董品の数々です」
月光さんはそう言って、飾り棚の上部にある品々を指さした。
「おかしいと思いませんか? 泥棒がお金目当てで忍び込んだというのなら、なぜ、この品々を放っておくのでしょうか?」
「お前さんには記憶力ってものが無いのかのう、刑事さん。前にも言ったが、そこに飾ってあるのは、友人からの貰い物や付き合いで買ったもので、大した品じゃないんじゃよ」
「えぇ、確かにあなたにとってはそうでしょう。しかし、一個数万円の品です。これだけの数があれば数十万円にはなる。壺や絵画といったかさばる品物ならともかく、この位の大きさならリュック一つでもあれば、十分詰め込めます。泥棒に入るというリスクを冒している以上、少しでも多く金目の物を盗むのが普通の感覚でしょう。ちなみに泥棒がこちらの飾り棚の品に気づかなかったということはありません。なぜなら、飾り棚の下段にある書類を漁っている形跡があるわけですからね。目と鼻の先に、いかにも高価そうに飾られているにも関わらず、なぜ泥棒は飾り棚の品を盗まなかったのか。時間なんて一分もあればリュックに詰め込めるはずです。宝石、骨董類は足がつきやすいから盗まないという泥棒もいますが、それならそもそも腕時計を盗んだりしません。腕時計を盗んでおきながら、飾り棚の品を盗まなかったという理由を、僕はどうしても説明することができませんでした。そこで、飾り棚の品が盗まれなかった事実に関しては一旦考えるのを辞め、もう一つの事実に目を向けました。それは、泥棒が飾り棚の下段の書類を漁っていたということです。柴崎社長によれば、そこにあったのは、社長の個人的な日記やアルバム、会議の資料等であり、金銭的に価値があるものはないとのことでした。僕も少し調べてみましたが、確かにその通りでした。もっとも、我々警察に教えることができない、やましい理由のある書類が隠されており、それが盗まれていたということも考えられます。しかし、そのようなものをこんな人目に付きやすいところに隠すとは思えません。となると、金銭的価値はないが、泥棒にとっては価値があったものを探していたと考えられる。そこで僕は、柴崎社長に腕時計の他に何か盗まれたものがないかしつこく聞いてみました。残念ながら答えはノーでしたが、泥棒が何らかの書類を漁っていたのは間違いないでしょう」
「刑事さん、それは結局のところ、当て推量なんじゃないですか? こういうことがあったのかも知れないと言うだけなら、どんなことでも言えるんじゃないでしょうか? 具体的な証拠がない限り、何があったかなんて証明できないと思うんですが」
割って入ったのは、秘書の青松さんだった。彼の物言いは、嫌味というよりは純粋な好奇心から聞いているようだった。私はずっと彼は気が小さくおとなしい若者のように思っていたが、どうやら違うのかもしれない。ここにきて随分と積極的に話に加わっている。確かに月光さんの話は一見、とても筋が通っており、納得のできる話のような気がする。しかし、青松さんが言うように、それを示す具体的な証拠というものは一切でてきていない。
「おっしゃる通りです。ここまでの話は、仮定の話、当て推量であることは否定しません。僕も具体的な証拠が見つからなかったら、この憶測は破棄するつもりでした。内部犯という前提も破棄して、ここの住人と全く関係ない、あまり頭のよくないコソ泥が迷い込んだ可能性だって視野に入れる予定でした。高価な腕時計はしっかり盗むのに、小金になりそうな品は放置し、その上なぜか書類の束を漁るという奇怪な泥棒をね」
「ということは、なにか具体的な証拠がみつかったというんですね。是非それを教えていただきたいですね」
青松さんは好奇心に目を輝かせて、先を促した。
「ええ、説明しましょう。僕は何か具体的な証拠がないか操作資料を読み、部屋を捜索しました。事件から三日ほど経過していますが、幸いなことに現場のものは一部の証拠品を除いて、当時のままでした。そこで、ある発見をしました。こちらを見てください」
月光さんはそう言って、書斎の机を指さした。先ほど私たちも話題にしていた、机の下に敷いてある絨毯の皺のことを指摘しようとしてるようだった。しかし、あの皺の件は、結局よく分からないまま終わったはずだけど。
「こちらの机の脚元。絨毯に皺が出来ているのが確認できると思います。これをご覧になって何かお気づきになる方はいらっしゃいませんか?」
月光さんは一同を見回して尋ねた。皆一様に絨毯の皺を眺めるが、首をかしげているようだった。「IQクイズでもやるつもりか」と柴崎社長が文句を垂れた時、「あっ」と声を上げた人がいた。それは青松さんだった。
「もしかして、この机、一旦後ろに押された後、前に戻されている……?」
自信なさげだったが、それは、先ほど私たちが思ったことと同じだった。他の皆も府に落ちたように、なるほどとうなずいた。龍一さんだけは、先を越されて負けたと思ったのか、少し悔しそうな表情を浮かべていた。
「その通りです。よく気づかれましたね。青松さん」
「実は推理小説が好きで、シャーロック・ホームズなんかはよく読んでいるんです。アブダクションっていうんでしたっけ? 結果から過程を推理する手法のことを。ホームズは過去へ遡っての推理なんて言ってましたが。状況からして、この机は一旦壁際まで押しやられてから、前に戻されていますね。争いの最中だとしても、そんな動きをするとは思えませんから、これは、争いの後、犯人が机を動かしたことを示している。といっても、それから一体なにが分かるんでしょうかね? 社長の腕時計は机にしまわれていたのだから、犯人は争いの後、大急ぎで腕時計を盗んだということですかね? 別に変なことでもないと思われますが……」
青松さんは、色々と思考をめぐらしていた。
「青松さん、推理を組み立てるときは、一つの事柄だけを参考にしていてはいけませんね。複数の事実を組み合わせ、矛盾なく繋ぎ合わせなければ、真実にたどり着くことはできません。お忘れのようですが、腕時計のケースはあちらの飾り棚の付近、正確には柴崎社長とサイドテーブルの下敷きとなっていたんですよ」
「えーと。ということは、腕時計はすでに盗まれた後ということですね。つまり、腕時計ではなく、なにか他の物を探しに机を動かしたと……。なんだか、結局先ほどの話に戻ってませんか? 結局は、泥棒が腕時計の他にも、なにかを探していたという所に行きつきますよね。飾り棚を漁っていたのと同様に、書類かノートなどを探していた。そして、その何かっていうのは、柴崎社長も知らないっていうんだから、犯人以外分かりっこないんじゃないでしょうか?」
「青松さん。またしても大切な事実を忘れています。思い出してください、当時部屋は真っ暗でした。懐中電灯の明かりはありましたが、懐中電灯は置き去りにされています。さて、この事実を矛盾なく組み合わせるには、どうすればよいでしょうか?」
「うーん……。降参です。どうやら、僕の役回りはフランボウやヘイスティングズのような引き立て役みたいですね」
その時、私は「あっ」と声を上げてしまった。皆の視線が一気に私に集まってくる。私はちょっと恥ずかしくなって耳まで顔が赤くなっているのが自分でもわかった。月光さんは肩をすくめて、私のほうに優しく微笑みかけている。どうやら、私が気づいたことを話してもいいよと言っているようだ。しかし、ここから先の話は、事件の核心に迫るところ。言ってみれば《見せ場》なわけである。その舞台の中心に居るのにふさわしい人物は月光さんを置いて他にいない。私はそっと顔を横に振った。
「それでは、僕が説明しましょう」と月光さんは高らかに宣言し、帽子を被りなおした。
「考えてみてください。事件当夜は新月で真っ暗でした。あるのは懐中電灯の明かりだけ。そして、懐中電灯は置き去りにされている。この状況からどんなことが考えられるか。まず一つ、泥棒が柴崎社長との格闘の後に、机を漁ったということ有り得ません。床に転がったままの懐中電灯の明かりだけでは、机を漁れるほど光量が確保できない。泥棒が懐中電灯を手にもって机を漁ったのなら、懐中電灯が置き忘れられることはない。次の可能性は、泥棒がバッグなどの所持品を拾うために机を動かしたということです。柴崎社長との格闘で、所持品などの重要なものを机の下に落としてしまい、それを拾うために机を動かした。これなら、確かに床に転がったままの懐中電灯の光量で間に合います。しかし、所持品を拾って、懐中電灯を忘れるということがあるでしょうか。確かに、泥棒にとっては人生の危機です。パニックになっていたに違いないのだから、懐中電灯だけを忘れるとこともあると言えるかもしれません。しかし、その可能性はほとんどないと言っていい。なぜならその場合、柴崎社長を気絶させた後、少なくとも泥棒には三度、懐中電灯を落としたことに気づく瞬間があった。机を動かさなければならないと思った時。次に机を動かしている時。最後に目的のものを拾った時です。そのすべてで、一度も懐中電灯のことに気が付かないということは、まずあり得ない。人は落とし物を拾う時、必ず他に何か忘れていないかと確認するものですからね。つまり、机を動かしたのは何かを拾うためじゃない。いえ、そもそも机が動かされたのはずっと後のことだった――」
「つまり、柴崎社長と泥棒が格闘をした、そのずっと後に、誰かが机を動かした」
皆が驚愕の表情を浮かべた。そして月光さんは、ゆるりと体をその中の一人に向け、静かに言った。
「その誰かとは、あなたじゃないんですか? 青松さん」
月光さんは、挑むように青松さんを見つめていた。
「な、な、なんで僕が、そんなことをするんですか」
「つまり、柴崎社長が気絶した時、まだ時計は盗まれていなかった。泥棒は腕時計よりも先に書類を漁っていた。というより、そもそも泥棒の目的は書類を盗むことだった。その途中で柴崎社長に見つかり、紙一重で格闘を制して逃げ出した。何も盗むことなくね。そして、朝になって青松さんが、気絶している柴崎社長を発見する。青松さんは、状況からして、強盗だと考え、柴崎社長のコレクションの腕時計が盗まれていないか確認した。しかし、予想に反して腕時計は盗まれていなかった。そこでふと、邪な考えが首をもたげる。今なら腕時計を盗ぬすんでも、強盗の仕業にすることができるとね。こうして、あなたはた腕時計を盗んだ上で、柴崎社長を起こした。そして、何食わぬ顔で龍一さんと雛田さんを呼びに行った。第一発見者は青松さんで、龍一さんと雛田さんは、一緒に柴崎社長の部屋に行っているから腕時計を盗む隙はない。その上青松さんは、救急箱を探すとかいう理由で、五分間も不在にしている時間がある。本当はその時間に、腕時計をどこかに隠したのでしょう。何か反論はありますか、青松さん?」
月光さんは話の後半、やけに陽気な声でしゃべっていた。
「大ありです!」と青松さんが、今まで聞いたこともない大きな声を上げた。
「こうなったら白状しますが、あの時の五分間、実はタバコを吸いに外に出ていたんです。柴崎社長が倒れているのを発見した後、救急車を呼んだり、皆を起こしていたりしたので、どっと疲れがでて、どうしても一服したかったんです。でも、柴崎社長の一大事に呑気にタバコを吸っていたなんて知れたら、とんだ大目玉です。だから嘘をついたんです。僕は腕時計を盗んでなんかいません。大体、腕時計の収納ケースは柴崎社長とサイドテーブルの下敷きになっていたって、あなが言ったんじゃないですか。どうして腕時計がずっと後に盗まれたって言えるんですか。それに、あなたの推理には致命的な欠陥があります。それは、僕が第一発見者だとは限らないということです。誰かが僕より先に柴崎社長を発見し、社長を介抱することもなく、腕時計を盗んで逃げ去ったという可能性だってあるじゃないですか!」
青松さん顔は、いつもの血色の悪さからは考えられないほど、真っ赤になっていた。
「アハハハ。流石ミステリマニアですね。一瞬で僕の暴論の穴を突きましたね。その通りです。龍一さんや雛田さんにも機会はあったはずです。大変失礼しました。あなたがミステリマニアだと言うものですからね。そういった方は、自分に嫌疑が向けられた場合、どのようにそれを晴らすのか興味があったんですよ。あなたは大変見事に論駁されましたね。普通の人が今みたいな嫌疑をかけられたら、オロオロしたり、情に訴えたりするばかりで、まともに反論できなかったでしょうね。」
月光さんは悪びれることなく言い放った。当の青松さんは目を白黒させている。これには、その場にいた全員があきれたようだった。
「刑事さん、あなたはふざけているんですか? さっきから何一つ証拠も出さず、あれこれ想像でものを言っているだけじゃないですか! 何一つ確実なことは分かっちゃいない。おまけに、突然青松君を茶化したりして。こんなの茶番もいいところだ!」
かなりきつい口調で詰め寄ったのは龍一さんだった。しかし、月光さんはやはり悠然とした姿勢を崩さなかった。
「不快な思いをされたのならお詫びします。しかし、今までの話は、どうしても必要なことだったのです。今からお見せする証拠と、そこから導き出される答えを信じていただくためにね」
そう言って月光さんは、手に持っていた操作資料から数枚の写真を取り出した。
「こちらをご覧ください。柴崎社長には先ほどお見せしましたが、社長が腕時計を保管していたケースの写真です。これが紛れもなく、この事件を解決へと導く証拠です」
「そのケースが一体なんだっていうんです? まさか、そのケースから犯人の指紋がでたなんて言いだすんじゃないでしょうね? 言っておきますが、僕はそのケースに何度も触ったことがあるんです。指紋がでたからといって、僕を腕時計泥棒に仕立て上げられたら困りますよ」
龍一さんはなおも、不快の色を隠さず月光さんに噛みついた。他の人たちは、写真に写ったケースを不思議そうに眺めるだけだった。
「フム。どうやら、皆さんお気づきにならないようですね。このケースがどこにあったかお忘れですか? このケースは、飾り棚のそばに散乱した書類の上にあり、さらにその上にサイドテーブルが倒れ、そのまた上に、気絶した柴崎社長がそれを覆うように倒れ込んでいたのです。おっと、青松さんは気づいたようですね。そうです、このケースは綺麗すぎる(・・・・・・)んです。サイドテーブルと柴崎社長の体の下敷きになったというのに傷一つ入っていません。サイドテーブルと絨毯にはおびただしい血の跡がついているのに、このケースには血がついていません。ガラスや木目の美しさがまったく損なわれていません。こんなことがあり得るでしょうか。いえ、あり得ません。ならばなぜ、こんなことが起きるのか。答えは一つしかありません。誰かが後で、それも、柴崎社長の出血が止まり、血が乾くほど時間が経った後で、サイドテーブルの下敷きになるように置いたのです」
「それができたのは柴崎社長。あなた以外にいません」
月光さんは冷徹な眼差しで柴崎社長を見つめた。この時ばかりは、口元の微笑みも消えていた。
「な、なにをまた、バカな話だ。それは……。誰か他の人間が、やったに違いない。さっきあんたも認めておったじゃろう。誰にでも機会はあったはずじゃ。この家の者に限らん。どっかの不届き者が侵入して来た可能性だって――」
「いいえ、あなた以外にいないのです。サイドテーブルと絨毯にはあなたの頭部から出血した血がべったりとついていました。他の場所に血痕はありません。誰かが気絶したあなたや、倒れた家具を動かしたということはありません。そして、腕時計の収納ケースをサイドテーブルの下に置くには、最初に気絶している柴崎社長を抱き起し、その次にサイドテーブルを持ち上げなければなりません。そんなことをする人間はいません。もし仮に、そんな奇妙な行動をする人間がいたとしても、ガラス製の収納ケースに傷がつかないほど丁寧に扱うとは思えません。それに、サイドテーブルの重みだけなら傷はつかないかもしれませんが、その上にあなたの体重が乗ったとしたら、まず間違いなくヒビが入ったでしょう。あなたが腕時計を盗み、あなたがケースを置いたのです」
月光さんは、淡々と続ける。柴崎社長の顔色は、みるみる青くなっていく。
「これで、すべての事柄が説明できるのです。あなたは、腕時計が盗まれたというのに、我々が型番聞いても悠長に構えていました。それはやはり、あなた自分で腕時計を隠したから。侵入者が、飾り棚にある品々を盗まなかった理由は、そもそも金目の物を盗むためではなかったから。最初から飾り棚の下段にある書類だけが目的だった。あなたが泥棒のバッグを目撃しなかったも当然です。書類を盗むのにわざわざバッグを持ち運ぶ必要はなかった」
「バカなことをいうんじゃない! ワシがなんで自分の時計を盗む必要がある! さっきも言ったように、ワシは腕時計に一切保険を掛けていないんじゃ! 一文の得にもならんのじゃぞ!」
「それは、書斎に侵入した犯人を守るためでしょう。腕時計が盗まれたのなら、警察は金銭目的の泥棒だと判断し、見当はずれの捜査を行うことになる。とっさに考えたにしては妙案かもしれませんが、やはり杜撰な計画だと言わざるを得ませんね。腕時計の型番の件もそうですが、柴崎社長、あなたは実況見分の時も変だったんですよ。泥棒の服装ははっきりと記憶しているのに、なぜか泥棒の体格に関しては全く分からないとおっしゃった。どう考えてもおかしい。これだけ部屋が荒れるほど組み合えば、相手の体格に関しておおよその想像はつくだろうし、相手の唸り声、悲鳴、うめき声なんかも聞いたはずです。それなのに、我々には一切情報を提供しなかった。まるで、犯人を突き止めて欲しくないとでも言うようでした」
月光さんは、柴崎社長の反論を、一手一手、正確に突き崩していく。
「つまり、真相はこういうことです。柴崎社長は、泥棒と組み合った際、相手の正体に気づいたのです。しかし、時すでに遅く、必死に逃げようとする泥棒に突き飛ばされ、気絶してしまいました。そして、青松さんに起こされた際、うっかり泥棒に入られたと言ってしまい、また青松さんもそれを聞くとすぐに警察へ通報しに行ってしまいました。柴崎社長はそこでまず、自分の大事にしている腕時計を確認したはずです。その時、机を動かしたため、例の皺が出来たのです。しかし、不思議なことに腕時計は盗まれていませんでした。柴崎社長は一体どういうことなのか理解できなかったはずですが、とにかく、侵入者を守らなければならないと思ったのです。その時、柴崎社長の脳裏に、最近駅前で発生したひったくり事件がよぎったのでしょう。腕時計が盗まれれば、そのひったくり犯へ捜査の矛先が向くと考え、腕時計を盗まれたように見せかけたに違いありません。もっとも、運悪くそのひったくり犯は僕が捕まえたので、捜査を誘導することはできませんでしたがね。ちなみに、勝手口のガラスを割ったのは泥棒の方でしょう。柴崎社長は二階から動けなかったはずですからね。あれだけの乱闘ですから、他の住人が起きだした可能性もある。そう思って、外部から泥棒が入ったと見せかけるために、大急ぎでガラスを割り、大急ぎで自分の部屋に帰った。時間がなく慌てたため、窓ガラスは家の内側から割られていたのです」
「ただの妄言じゃないか! まるで証拠もないのに、よくもそんなことが言えるもんじゃな!」
「いいえ、証拠ならあるんです。柴崎社長。あなたは、青松さんに起こされるまで気を失っておられたし、青松さんがいなくなった後は、すぐに龍一さんと雛田さんが二階へやってきました。それからすぐに、救急車が到着し病院に直行しました。そして、今日こちらに戻ってきたあとは、ずっと我々と一緒でした。ご存じでしょうが、僕らと別れた後もあなたには巡査が付きっきりで張り付いていました。あなたがとても怪しかったので、そう命令しておいたのです。つまり、あなたには腕時計を屋敷の外へ持ち出す暇はなった。そう、腕時計はこの屋敷にまだあるのです。僕と彼女の給料全額賭けましょう」
「ちょっと! なんでそこに私が入るのよ!」
後ろで静かに控えていたひかり先輩が、大慌てで抗議した。しかし、柴崎社長の声の方が大きかった。
「馬鹿馬鹿しい! そもそもワシはコソ泥に突き飛ばされて、こんな大けがをしているんじゃぞ。なぜそんなヤツを庇う必要があるんじゃ!」
「そうです。それが、書斎に忍び込んだ泥棒が誰なのか示す手がかりです。あなたがそれほどの大けが負ってなお、庇う必要があったのは誰か。まず、青松さんではあり得ません。柴崎社長は、青松さんに惚れ込んでいるようですが、柴崎社長は礼儀に厳しく、不正を絶対に許さない性格です。青松さんが自分の部屋の無断で侵入し、その上、自分に大けがを負わせたとなったら絶対に許しはしないでしょう。可能性があるのは、龍一さんと雛田さんです。二人は柴崎社長の親類です。柴崎社長は、家名というものをとても気にしており、やんちゃものである次男の龍二さんに対しても、なんとか、更生させようと手を尽くしています。身内から泥棒が出たなどという話になれば、柴崎家にとっては汚名に違いありません。しかし、雛田さんは、柴崎家とはかなり繋がりが薄いです。彼は柴崎社長の甥っ子ではなく、奥さんの甥っ子です。まぁ厳密にいえば、義理の甥は三親等の傍系姻族なので、親族扱いになりますがね。しかし、苗字も違いますし、仮に雛田さんが何かしらの罪を犯したとしても、柴崎家の家名に傷がつくことはないでしょう。何より、柴崎社長は雛田さんのことをあまり快く思っていないようでした。柴崎社長が雛田さんを庇うとは考えられない。つまり、柴崎社長がどうしても庇いたかったのは、長男の龍一さんしかいないのです」
そういって月光さんは龍一さんに向き直った。
「全くの当て推量ですね」龍一さんの声には、まったく揺らぐところがなかった。
「確かに父が庇うとしたら、僕である可能性が一番高い。でも、証拠なんてない。父が弱みを握られていたとか、なにか引け目を感じている相手だったとか、いくらでも他の可能性が考えられるじゃないですか。雛田君や青松君に限らず、外部の人間かもしれない。証拠がなければ、単なる空想と同じです。違いますか?」
龍一さんは怯むことなく、堂々と胸を張り、まっすぐに月光さんを見つめ返した。
「証拠ならありますよ。あなたの体にね。これだけの取っ組みあいです。体にいくつかアザができているはずだ。そのアザは、この部屋での格闘の形跡と、間違いなく一致することを請け合います。恐縮ですが、今から身体検査をさせてもらいます。そのあとは、家宅捜索をして消えた腕時計を見つけだします。この二つの動かぬ証拠をもって、僕の論理が正しいことを証明します」
月光さんは、決して威圧的でなく、柔らかく、凛とした態度で答えた。龍一さんはまっすぐ月光さんの瞳を見つめ返した。黒目の大きな瞳には、怒りも、恐怖も、どんな感情も宿っていないように見えた。やがて、ゆっくりと瞼を閉じると、大きく息を吐いた。
「やれやれ。変な刑事さんだと思って、バカにしていたんですけどね。どうやら、一番の馬鹿者は僕自身だったようですね……」
「龍一! なにをふざけたことを言っておるんじゃ! この馬鹿者!」
先ほどまでの挑戦的な態度は鳴りを潜め、龍一さんは肩を落とし、力なくうな垂れてしまっていた。完全に白旗を揚げたようだった。柴崎社長はあくまで、でっち上げだとして戦うつもりだったのか、龍一さんが降参したことに不満だったようだ。
「もういいよ、親父。ゴメン。迷惑かけちまった」
「全くこのバカ息子が!」
「ところで龍一さん」月光さんは龍一さんに声をかけた。
「よろしければ、一体なにを探しに書斎に忍び込んだのか教えてくれませんか?」
「さすがにそこまでは、刑事さんの慧眼も及びませんか?」と、龍一さんは乾いた笑いを浮かべながら返した。
「完全な当て推量でよければ、申し上げることもできるんですけどね」
「いえ、自分で説明します。なんともお恥ずかしい話ですがね。ご存じかどうか知りませんが、親父はガサツに見えて、潔癖症な所がありましてね。会社の事業に関しても、金儲け第一主義ってわけではないんです。とにかく世間体というものを非常に気にしてるんです。そして、最近僕は、新規の区画整理に関連した事業を立ち上げたのですがね。父がそれに難色を示しはじめたんです。どうも世間様の評判がよろしくないといってね。この事業は、僕の長年の夢でもあった。どうしても頓挫させたくなかった。そこで、なにか父の弱みを見つけて、押し通そうと考えたのです。しかし、潔癖な父ですからね。身綺麗なもんです。会社の事務所を漁っても、父がなにか不正を犯したような証拠は一切見つからなかった。そこで、父の私物がある書斎を漁れば、なにか弱みが見つかるかもしれないと考え、父の日記やアルバムなどを漁っていたという訳です。今思えば、愚かなことだと思います。しかし、僕はどうしてもあのプロジェクトを成功させたかった」
「この馬鹿者が! そんな下らん事のために……」
「ゴメンよ。親父。俺はどうしようもない馬鹿だったよ。でも、親父もバカだよ。俺なんかさっさと警察に突き出せばいいものを。時計が盗まれただなんて、バカなことでっち上げるなんてさ」
「フン。別にお前のためにやったんじゃないわい。柴崎家の家名に傷を付けたくなかった。ただそれだけのことじゃ」
「あぁ、わかってるよ。でも、世間体のためだと分かっていても、俺のことを守ってくれてるようで、ちょっとは嬉しかったよ。もし、許してもらえるなら、これからは、柴崎家の名に恥じぬよう。誠心誠意働くよ」
「全く。バカ息子が……」
「『父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す、直きこと其の内に在り』孔子の『論語』に書かれている言葉です。簡単にいうと、身内の犯罪を隠蔽することは正直なことだと言っているのです。儒教思想というのは家族愛を説いていますから、犯罪の隠蔽も、家族を愛する正直な心から行われたのなら、責めることはできないということですかね。現代ではあまり褒められた行為ではないと思いますが」
月光さんはここぞとばかりに、遠い目をして、おだやかにゆっくりと語った。完璧なタイミングだったが、誰も聞いていなかった。皆、柴崎社長と龍一さんの二人に釘付けになっていたのだ。
柴崎社長はしばし、力なくうなだれていた。肩を落とし、大きなため息を吐いた。しかし、次の瞬間には、吐いた息よりも多くの空気を取り込み、胸を張り、肩をいからせ、力強く顔を上げた。そして、月光さんの方に向き直り、いつものように威風堂々とした態度で話しかけた。
「刑事さん。一つ、司法取引といきませんかのう?」
「司法取引?」
突然の提案に、月光さんは驚いたようだった。私とひかり先輩も、困惑して互いに顔を見合わせた。しかし、柴崎社長はこちらの当惑などものともせず、威風堂々と続けた。
「さっきあんたが言ったように、ワシは家名や世間体というものを非常に気にしておる。今回のこのごたごた騒ぎは、言ってみれば親子間のちょっとした諍いのようなものじゃ。本来ならば、犯罪というほどの事件ではない。しかし、ちょっとした思い違いから、ここまでの大騒動に発展してしまった。あんたがた警察の皆さまにも大変な迷惑を掛けてしまった。ワシは法律には詳しくないが、虚偽通報だとか、公務執行妨害だとか、よくわからんが、そういった罪に問われてしまうのじゃろう。しかし、本当に自分勝手なことではあるのじゃが、できれば穏便に済ませて頂きたい。柴崎家の家名に傷を付けたくはないのじゃ」
柴崎社長は、幾分か沈痛な面持ちで話した。しかし、頭を下げることはなかった。懇願することに慣れていないのかと思ったけど、どうやら先ほどの主張通り、対等な立場での「取引」を求めているようだった。だけど、どう考えても対等な立場で交渉ができる状況ではないはずだ。それは月光さんも同じ考えだったようで、大仰に肩をすくめて柴崎社長に話しかけた。
「なるほど。柴崎さんが望まれていることは理解しました。しかし、我々は対価として何を受け取ることができるんですか? 当然ですが、我々警察官が金銭などを受け取るなんてことは有り得ませんよ?」
月光さんの主張は当然のことだった。警察官が賄賂を受け取るなんてあってはならないことだ。資産家の柴崎社長が、お金に物を言わせて私たちを買収できると考えていたとしたら、それは全くの考え違いだ。私は、当てが外れたであろう柴崎社長が、激昂するのか消沈するのか、どちらだろうかと気になった。しかし、柴崎社長の顔に浮かんでいたのはそのどちらでもなかった。血色のいいその顔には、不敵な笑みが浮かべられていた。
「あんたがたが受け取らないんじゃない。ワシ(・・)が(・)受け取らないん(・・・・・・・)じゃ(・・)よ(・)。刑事さん」
「あなたが受け取らない……? それは一体どういうことでしょうか?」
「刑事さん。あんたの先ほどの推理、大変見事なものじゃった。ワシの行動を細大漏らさずに指摘なさった。あんたの言われた通り、ワシは青松に起こされた後、なによりも真っ先に時計の有る無しを確認しに動いた。それと同時に、昨夜のコソ泥が龍一に間違いないという確信も持った。龍一がなぜ時計を盗もうとしていたのか、なぜ時計が盗まれずに残っていたのか。盗む前にワシが止めに入ったからか。それとも、別の物を盗みに入ったのか。ワシは考えを巡らせたが、とても理解が追い付かなかった。なんにせよ、青松が警察を呼びに行ってしまっている状況であり、このままでは、龍一がコソ泥として捕まってしまうことは間違いないと思われた。それはまさしく、この柴崎家の家名に泥を塗ることじゃ。ワシはなんとかせねばと考えた。その時、急に駅前でのひったくり騒ぎが頭をよぎったんじゃ。そして、時計が盗まれたことにすれば捜査が攪乱され、龍一が捕まらずに済むのではないかと、愚かな考えを持ってしまった。もちろん、皆の前で龍一を問い詰め、すべてを明るみにだすことも考えた。しかし、そうすれば警察や救急隊の方々の知ることにもなり、どうやっても噂は広まってしまう。ワシとしては、全てを隠し通したかったのじゃ。愚かにもほどがあったがの」柴崎社長は、自嘲するような薄笑いを浮かべた。
「とにかくワシは偽装工作を始めた。素早く腕時計を取り出し、手近な袋にしまい、腕時計の収納ケースは散乱した書類の近くに置いた。そうすれば、泥棒が書類と腕時計の両方を漁ったように見えると思ってな。サイドテーブルの下に敷いたのは、争いの前に泥棒が腕時計を盗んだと見せかけるためじゃった。しかし、これはとんだ失敗だったようじゃな。もちろん、一つ大きな問題があった。それは龍一自身がどう出るかじゃった。もしかしたら、自責の念からすべてを白状するかもしれんかった。そうなれば、潔く汚名を被るつもりでおった。フン。結果としてはこのバカ息子は、コソ泥の正体が自分だと、とっくにバレているなど考えもしていないアホ面をひっさげて、ワシの書斎にやって来たわけじゃがな」
柴崎社長は、龍一さんを一瞥して叱責するように言った。
「さて、どこまで話したかの。そう、腕時計を隠そうと思ったところまでじゃったな。しかしながら、ワシはそこで困ってしまった。一体どこに腕時計を隠してよいのやら。すぐ見つかるところに隠したのでは警察に発見されてしまう。かと言って、秘密の隠し金庫なんて洒落たものはこの家にはない。ケガした頭はズキズキ痛むし、汗はダラダラ出るし、思考は全然まとまらないしで、ワシはまごついておった。そうこうしている内に、雛田と龍一の奴が何食わぬ顔でこの部屋にやって来た。さらに救急車のサイレンの音も近づいてきた。ワシはもうどうしようもなくなってしまい、手に持った袋には、着替えが入っているとうそぶいて、腕時計をそのまま病院まで持って行ったのじゃ。この三日間というもの、刑事さんたちが事情聴取をするため何度も病室に来たが、実はワシの枕元に、件の腕時計があったというわけじゃな。流石のワシも、いつ見つかるものかとビクビクしておったものじゃ。そして、今朝退院してこの家に来る途中、引率の警察官に無理を言って、会社に寄ってもらい、事務所の金庫に腕時計を隠してきた。そう。お分かりかな? 腕時計はこの家にはないんじゃ。そして、覚えておられるかな? 刑事さん。あんたは先ほど、腕時計は間違いなくこの家にあると言った。あんたらの給料をすべて賭けると言ってな。ワシとしては、そのような金銭を受け取るのは本意ではないのじゃが……?」
柴崎社長は、勝ち誇ったような笑みを浮かべて語りかけた。
月光さんを見ると、いつも絶えず微笑みを浮かべている口元は、真一文字に結ばれ、大きな目はより大きく開かれ、薄茶色の瞳は小刻みに左右に揺れている。
高速で動く瞳の奥では、同じように高速で脳が回転し、柴崎社長が突いた推理の穴を、どうにか埋めようと逡巡しているのだろう。これほど焦っている月光さんの姿を見たのは初めてかもしれない。しかし、月光さんならこの窮地を乗り切れると私は信じていた。
そして、私の期待に応えるように、月光さんは早くも落ち着きを取り戻していた。焦りの色は消え、口元に再び微笑みを浮かべていた。
そして、ゆっくりと、隣にいるひかり先輩を見て言った。
「どうしよう……」
「それはこっちのセリフよ! もう!」
月光さんの不甲斐ない発言を、ひかり先輩あきれた声で咎めたてた。どうやら打つ手はないようだった。下手すれば始末書案件かもしれない。あれ? この場合は、私も巻き込まれてしまうんだろうか……?