第四章 月光の架ける橋
第四章 月光の架ける橋
「華ちゃん、悪いんだけど、柴崎社長を呼んできてくれないかな?」
月光さんは、なおも頭の上に存在しない帽子を整えるしぐさをしながら、私に頼んできた。よほど事件のことで頭が一杯なのだろう。私は笑いそうになるのをこらえるので精いっぱいだったので、無言でうなずいて柴崎社長が控えている隣の寝室へと向かった。寝室では、柴崎社長が巡査の一人と一緒に、調書の作成をしていた。柴崎社長の機嫌を損ねないように、巡査の青年は随分と丁寧な話しぶりだった。私もそれに倣って、慇懃にお呼びたてした。呼びつけられたことに腹を立てるかと思ったが、意外なことに、月光さんからの要望だと分かると快諾してくれた。
「あの変わり者の兄ちゃんが、まだワシに用があるじゃと? いいじゃろう。あの兄ちゃんは、なかなか面白い話をするからの」
私は、先に立って柴崎社長を書斎にお連れした。部屋に入った柴崎社長に、月光さんが愛想よく挨拶をする。
「ご足労をおかけします」
柴崎社長も、いつも通りのどっしりした声で、明瞭に返事をするのかと思いきや「う、ウム」と、何やらモゴモゴとした返事だった。原因はひかり先輩の頭だろう。
先輩はまだ月光さんの帽子を被ったままだった。ひかり先輩はそのことを忘れているらしく、真面目な表情のまま控えている。それがこの場には非常に不釣り合いで、とても奇妙な光景だった。柴崎社長が面食らうのも無理はない。
恐らく今日一日で、柴崎社長の中にある警察へのイメージは大きく変化したことだろう。
「オホン。で、聞きたいこととは何じゃ?」
それでも柴崎社長は、なんとか気を取り直し、威厳ある態度で月光さんに向き直った。
「はい、いくつか聞きたいことがあるんですが。まず一つは、犯人を見つけた時、犯人がバッグを身に着けていたか、もしくは、犯人のすぐ近くにバッグが置いてあるのを見た覚えはないでしょうか? いえ、バッグに限りません。ようするに盗んだ腕時計を入れた袋ですね。どうでしょうか?」
「うーん。いや、記憶にないな。いやつまり、身に着けていなかったという意味ではなく、どちらでもないという意味じゃ。身に着けておったかもしれんし、そうでないかもしれん。記憶していないということは、身に着けてなかったというのが正しい気がするが、定かではないな」
「では次は、盗まれた物品についてです。何度もお聞きして申し訳ないのですが、盗まれたのは本当に腕時計だけなのでしょうか?」
「それに関しては先ほど言った通りじゃ。盗まれたのは時計だけじゃし、そもそも、この部屋には腕時計以外に高価なものは置いておらん」
「えぇ、分かっております。しかし、申し訳ないのですが、今一度、部屋の中を確認していただけませんか。あなたには価値がないと思われるものでも、泥棒には価値があるものがあったかもしれないのです。それは物品に限らず、単なる書類かもしれません。我々としては、飾り棚の書類が漁られていたことが気になるのです。先ほどは、価値があるものが盗まれたという考えで捜索されたんではないでしょうか? 今度は、価値がないと思われるものも考えに入れて捜索していただきたいのです。特に、机の引き出しの中もしっかりとお願いします」
柴崎社長は、やれやれと小さくため息をついたが、泥棒を捕まえるとためとあっては仕方がなく、再び部屋の中を調べ始めた。しかし、どうやら結果は同じだったようだ。
「刑事さん。やっぱりワシには、時計の他に何も盗まれておらんとしか思えん。ただ、あんたが言うように、ワシが価値がないと思っているものが盗まれたとしたら、その限りではない。ワシが見落としておる可能性もある。勿論、この部屋にあるものはゴミやガラクタではない、捨てずに保管しておるんじゃからな。しかし例えば、ワシが昔は大事に思っておったが、今ではそれほど重要に思っていないものが盗まれたとしたら、ワシは気づくことができんじゃろう。はっきり言って、これ以上は無駄な捜索じゃと思うんじゃがの」
二度も部屋の中を捜索させられたこともあって、柴崎社長の機嫌は少し悪くなっているようだった。月光さんは「そうですか」と、顔を伏せて腕を組んで少し考えこんだ。そして、ふと思い出したように顔を上げた。
「おっとそうだ、忘れていた。鑑識に回しているから、今この部屋には無いものがあったんですね」
月光さんは、手元の操作資料から数枚の写真を取り出した。それは、盗まれた腕時計が収納されていたケースの写真だった。
収納ケースは、木製の枠とガラスの天板でできており、蓋を閉じた状態でも中が見えるようになっていた。木製の枠には、手彫りで文様が施してあり、手間がかかっていることが伺える。マス目上に区切られた枠の中に腕時計を収納する設計で、実物を見ていない月光さんには分からないかもしれないが、かなり大きな箱である。なにしろ腕時計を十五個収納してもまだ余裕があるほどなのだから。
「この収納箱に腕時計を入れられていたんですよね。それにしても、立派な箱ですね。とても市販品には見えませんが、特注品でしょうか? 使っているのは檜ですかね?」
「ほう、分かるかの。その通り、檜を使った特注品じゃ。そして、天板にはクリスタルガラスというものを使用しているらしい。写真で見ても、その透明度の高さがわかるじゃろう。このケースは、妻が生前プレゼントしてくれたものでな。妻がワシの机の引き出しにピッタリと収まるように採寸し、知り合いの工芸作家に作ってもらったそうだ。とても気に入っておる」
先ほど不機嫌になっていた柴崎社長の顔が、みるみるほころんだ。柴崎社長は上機嫌になって、自慢の収納箱の説明を始めた。月光さんも、いつものように芝居がかった大袈裟なリアクションを交え、感嘆の声を上げていた。
「この収納箱の良さに目が届いたのは、あんたが初めてじゃよ、お兄ちゃん。今まで多くの人間に、腕時計と一緒にこのケースを見せておるが、皆褒めるのは時計だけじゃ。箱には目もくれんよ。あんた、奇抜な恰好をしておるだけあって、なかなか目が肥えておるな」
「いえいえ、とても美しい品なので当然です。写真でみても分かるほどですよ。透き通るように美しい透明なガラスといい、控え目ながらも洗練された木材の木目の美しさといい、上品さがにじみでています」
月光さんは、なおも歯の浮くようなセリフで柴崎社長のお気に入りの箱をほめちぎった。コレクター気質の人には、そのコレクション自体ではなく、その付随品をほめられることをいたく喜ぶ人たちがいる。柴崎社長もそのタイプの人間のようで、先ほどの不機嫌な様子は消え去り、はた目でみてもすぐ分かるほど上機嫌になっていた。
月光さんは、おべっかが上手という訳ではなく、むしろ、場の空気を読まない発言で反感を買うことが多いのだが、どうやら柴崎社長に対しては巧みに機嫌を取ることに成功しているようだ。人は、機嫌が良い時には色々なことをしゃべってくれるものだ。一見取るに足らないことに思えることでも、意外と重要な手掛かりになることもある。
「そういえば、裏面にサインがありますね。Y・Hかな? 奥さまのイニシャルではなさそうですが」
「あぁ、それは作者の銘らしい。名前は知らんが、妻がひいきにしておった工芸家らしくてな。名の知れた作家という訳ではないらしいが、いい腕をしておる」
「そうですか。それでは写真で恐縮ですが、確認をお願いします。この収納箱の中から腕時計以外で無くなったものはないでしょうか? この箱の中には、清掃用の布やら薬品といった時計以外のものも収納されているようですし」
柴崎社長はしばらく、数枚の写真を見つめながら唸っていたが、やはり、盗まれたものはないという意見だった。
「分かりました。ところで、この腕時計の収納箱が入っていた引き出しには鍵はかけていたんですか?」
「いや、普段から掛けてない。書斎の部屋自体には、いつも鍵をかけているから大丈夫だと思っておったんじゃ。事件当夜も、部屋のドアには間違いなく鍵はかけてあったはずじゃ。しかし、コソ泥相手には鍵をしても意味はなかったようじゃな」
「この書斎のカギは通常のディスクシリンダー錠ですからね。素人でも、ちょっと知識をつければ簡単に開けることができます。ピッキングという言葉をお聞きになったことがあると思いますが、案外簡単な技術なんですよ、アレは。玄関と同様にディンプルキーに交換していれば、あるいはコソ泥も入り込めなかったかもしれませんね。アレはそこいらの泥棒に開けることのできるものではありません。そういえば、玄関の鍵は雛田さんが最新のディンプルキーに交換をしたと言っていましたね。普段からそのような、ちょっとした大工仕事を任せているんですか?」
「あぁ、そうじゃの。ちょっと排水管が詰まったとか、ドアの建てつけが悪くなったとかいった小さなことなら、大抵あの男に任せておる。なにせ手先が器用じゃからな。それに当然の仕事とも言える。なにせあの男は、この家に住むのに一銭も金を払っておらん。妻が生前そのように取り計らっておったし、妻は遺言でも、あの男をよろしく頼むと言い残しておったから、仕方なくそうしておる。とはいえ、タダ飯食らいには違いない。ワシは妻ほど甘くないからな。働かざる者食うべからず、じゃ。妻に義理立てして、家賃を払えなどと迫ることはせんが、雑用は言いつけておる」
「あまり雛田さんのことを快く思っていないようですね」
「当然じゃ。タダ飯食らいもさることながら、あのウジウジして覇気がない性格が気に入らん。正直、もうこの家から追い出そうと考えておる。妻の三回忌に合わせてそれを言い渡すつもりじゃ。三年も無償で住まわせたんじゃ。よろしく頼むという妻の遺言にも、これで十分報いたことになるじゃろう」
「そのことは、他の人には相談していないんですか?」
「龍一には相談しておる。龍一は反対しておるが、ワシの考えは変わらん。あそこまでウマが合わない男と、同じ屋根の下で暮らすのは無理というものじゃ。妻が生きておるときは、そこまで感じなかったがな」
柴崎社長は、毅然とした態度で言った。確かに、柴崎社長と雛田さんでは絶望的に性格が合わないだろう。雛田さんには可哀そうなことだが、一緒に住むのはやめたほうがいいだろうと、私はお節介なことを考えていた。
「ウマが合わないといえば、青松さんはどうなんです? 柴崎社長は青松さんのことも快く思ってらっしゃらないですよね?」
「ワシが? 青松を? なぜそう思うんじゃ?」
「え? でも事あるごとに青松さんを叱ってらっしゃいますよね?」
月光さんの問いに、柴崎社長はポカンと口を開けていた。
「何を言っておるんじゃ、あんたは。ワシは青松のことを買っておる。なにせあの男は、早くに両親を亡くし、それでもくじけることなく、誰に頼るでもなく、たった一人で自分の生活の基盤を整えておった。なかなかガッツのある男じゃ。フム。確かにあんたの言われる通り、度々叱っておるが、それはあの男の将来性を考えての事。あれだけガッツのある男じゃ。鍛えれば将来は大物になるじゃろうて」
今度ポカンと口を開けたのは私たちの方だった。どうやら柴崎社長は、嫌がらせや憂さ晴らしの意図など全くなく、むしろ、すべて青松さんのためになるとの思いから、あのような厳しい態度をとっているらしかった。
「それは失礼しました。ところで、柴崎社長には、もう一人息子さんがいらっしゃるようですが?」
「ん、あぁ。龍二といってな、今は外国で働いておる。それがどうしたんじゃ?」
急に月光さんが、次男の龍二さんの話を始めたので、柴崎社長は訝しがったようだった。それは私もひかり先輩も同様だった。次男の龍二さんに関しては、外国に住んでいるということで、報告書には名前と簡単な経歴しか載っていない。月光さんは、一体、何を聞き出そうとしているのだろうか。
「差し支えなければ、龍二さんが、どんな人物か教えていただけないでしょうか? 今回の犯人はピンポイントで柴崎社長の書斎だけを荒らしています。つまり、柴崎社長の書斎に腕時計があることを知っていたのです。こういったことはあまり言いたくないのですが、柴崎社長は勿論のこと、もしかするとご家族、同居人の、知人友人から、柴崎社長の腕時計の件が漏れたことも考えられます。となると、次男の龍二さんの交友関係も捜査しておきたいのです」
月光さんはもっともらしい理由を述べたが、本当の目的は別にあるのではないかと私は思った。
「フン。龍二の昔の悪友か。じゃが、もう奴は悪友とは縁を切ってるはずじゃがな」
「外国に行かれたのは、なにか理由があるんですか?」
「そうじゃ。龍二の奴は、昔からやんちゃでな。高校の時には喧嘩騒ぎで停学になったこともあった。なんとか高校を卒業した後も、当然大学に行くような頭はもっておらんから、就職するしかなかった。ワシの会社で性根を鍛えなおしてやろうと思ったが、奴はこのワシをクソ親父などと罵って家を出て行った。どうやら高校の悪友のツテを頼って、自分で就職先を見つけたようじゃった。しかし、その会社も上司ともめ事を起こして一年で辞めてしまいおった。まったく、処置無しのバカ者じゃ。よほど、親子の縁を切ろうかと思ったが、勘当したとしても、他人から見れば、奴は柴崎家の人間だ。よそでまたもめ事を起こすと、我が柴崎家の名折れじゃ。そんなことは許されんから、仕方なく友人に頼み込んで雇ってもらった。中国から家具やらを輸入して販売している会社じゃ。そして、外国に行けば悪友との縁も切れるし、性根も鍛えなおされるだろうと思って、中国に送ってもらった。それが功を奏したようで、今の所まじめに働いておる。五年ほどになるかな。じゃから、奴の悪友を辿っても意味はないと思うがの。それにワシはその悪友を知らんからな。どうしても知りたければ、龍一に聞いてみろ。多少は知っておるじゃろう」
「そうですか。ちなみにですが、龍二さんは最近帰国されたということはありませんか?」
「かれこれ一年以上帰っておらんな。よぼど向こうの水が合っているんじゃろう」
「それは確かですか? 柴崎社長の知らない間に帰国していた可能性はありませんか?」
「それはない。ヤツが帰国するときは、必ず向こうの社長がワシに連絡をくれる手はずになっておるからな。まぁそんなに知りたければ、向こうの会社へ問い合わせてみるんじゃな。連絡先は青松に聞いてくれ」
「わかりました。あとで聞いてみますね。余談ですが、龍二さんと青松さんは年齢が同じですが、高校も同じだったりしませんか?」
「ん? よく分かったな。ワシも青松を雇うまで知らんかったんじゃがな。どうやら、同級生らしい。小中は違う学校だったし、高校の間も同じクラスになったことはないから、お互い特に親しいということはなかったらしいがの。それがどうしたんじゃ?」
「いえ、大したことではありません。それでは次に、柴崎社長自身の交友関係をお伺いしたのですが、ご友人で、お金に困っている方などはいらっしゃいますか?」
「ハハハ。随分と単刀直入に聞くもんじゃな。大した若者じゃ。まぁ、ワシも回りくどいのは嫌いじゃから、ええがの」
月光さんの歯に衣着せぬ物言いに、柴崎社長は機嫌を損ねるどころが、笑いだしてしまった。
「ワシの知り合いに金に困っておるのはおらんな。皆成功して財を成しておる人間ばかりじゃ。もっとも、ワシは自分のコレクションを、取引先の人間などにも見せておるからな。そういった輩のなかには、金に困っておった人間もいたかもしれん」
「では、参考までにお聞きしたいのですが、社長ご自身、仕事やプライベートな付き合いで、誰かの恨みを買ったという経験はございませんか?」
「なんじゃと?」
「お気を悪くしないでください。確かに窃盗ということは、まず考えられる動機はお金だと思います。しかし、たまに、嫉妬や恨みといったことから、相手の物を盗むということもあるんです。嫌がらせのようなものですね。なので、社長にそういった相手に心当たりがあるようでしたら教えていただきたいのですが」
「ワシは人から恨みを買うような下劣な人間ではないわい。今までまっとうに生きて来たからの」
柴崎社長は不機嫌に、しかし自信満々に言い放った。
「しかし、やはり人間知らず知らずのうちに恨みを買うということもあると思います。特に柴崎さんのように成功されている経営者は、色々と商売上のいざこざがあることと思いますが?」
「フン! もしワシが商売によって恨みを買うことがあったとしても、それは逆恨みというものじゃ。自分でいうのもなんじゃが、ワシは商売においては不正も不義理も働いたことはない。疑うのなら、ワシの会社の帳簿を徹底的に調べてもらっても構わん。ワシは一切不正をしておらん。じゃから誰からも、恨みを買われる覚えはない」
「それでは、従業員の方はどうでしょう? 意見が衝突したことや、誰かが社長の座を狙っているなんてことは?」
「ワシは従業員を皆家族だと思って接しておる。確かにたまには、意見が衝突することもあるが、後腐れなどは残らん。家族じゃからな。ウム。ワシは従業員から恨まれるような男ではない」
柴崎社長の自信はどこから来るのだろうか? その自信を私にも少し分けてもらいたい。なんてことを私が考えていると、医師の宮園さんが話に割って入って来た。
「あの、すみません。よろしければ、少し休憩なさいませんか? 龍蔵さんも、今日はかれこれ二時間はずっと立ちっぱなしだ。病み上がりの人だから、この辺で少し休憩をはさんだ方がいいと思うんですがね」
「おいおい、ワシを見くびってもらっては困るよ、先生。体はなんともないし、むしろ、今まで病院のベッドで横になっていた分、立っていた方が体に良いくらいじゃ」
「いや、しかしね、龍蔵さん」
宮園先生が、困っているところで、月光さんが助け船を出した。
「そうですね。とりあえず、聞きたいことは以上なので、柴崎社長には休んでもらって構いません。そうそう、先ほどお願いしていた、盗まれた腕時計の型番の件はどうなりました?」
「あぁ、あれか。スマンが、カタログがまだ見つからんのじゃ。寝室にもないから、一階の物置部屋か、もしくは屋外の倉庫にあるのかもしれん」
「では、柴崎社長には、一旦休憩してもらって、引き続き部下と一緒に盗まれた品のカタログ調査をお願いします」
柴崎社長は病人扱いされることに不満だったようで、宮園医師に小言を漏らしていた。柴崎社長、宮園医師、制服警官の三人が書斎から退出し、部屋にはまたしても、私たち三人が残った。
「随分と変わった社長だね。尊大で傲慢で自己中心的な所は、いかにも世襲のワンマン社長といったところだけど、それでいて人情味あふれて潔癖なところもある」
「そんなことより、一体どうしたのよ。急に次男の話もちだしてさ。他にも変な質問ばっか」
月光さんの人物評論を無視して、ひかり先輩が尋ねた。確かに月光さんの一連の質問の意図はちょっとよく分からなかった。突然、今回の事件に関係なさそうな次男の龍二さんの話をしたかと思うと、柴崎社長の交友関係やら従業員との関係やらを聞き出そうとした。そもそも月光さんはこの家の住人が犯人だと考えていたはずなのに、なぜ柴崎社長の交友関係を尋ねたのだろうか。
「いかにも事件と関係がありそうな証拠が、実は全く関係なかったり、逆に、全く関係なさそうな証拠が、実は重要な意味をもっていた。なんてことは、よく経験してるだろう? 僕としては、さっきの会話で結構な収穫があったよ」
「ふ~ん。まぁ真面目にやってくれるんなら、なんでもいんだけどね。くれぐれも、ゲームやパズルを解くみたいな気持ちで、捜査に臨まないでよね」
「そこは信用してもらって大丈夫さ。ふざけているように見えるかもしれないけど、僕は僕なりに真面目に捜査にあたってるんだよ。そもそも犯罪捜査はパズルのように単純じゃない。英語圏じゃ推理小説のことを『パズラー小説』って言ったりするけど、実際の捜査はパズルとは大違いさ。パズルだったら必要な証拠は全てそろっているし、不要な証拠というものがほとんどない。タバコの吸い殻から薄汚い布切れは勿論のこと、不気味な猫の鳴き声が聞こえたんなら、それにだってちゃんと意味がある。でも実際の捜査は違う。必要な証拠は全て自分たちの手で見つけださなければならないし、それが都合よく手に入るとも限らない。それに、何よりも不要な証拠が多すぎる。犯罪捜査における証拠は、まさに玉石混交だ。犯人へたどり着く重要な証拠もあれば、捜査を惑わせる不要な証拠もある。髪の毛、指紋、足跡、布切れから紙切れ、たばこの吸い殻、マッチ、ライター、アリバイ、動機、ありとあらゆる証拠らしきものが噴出する。ノイズだらけだ。その中から正しいものだけを選び抜かなければならない。さらに言うなら、犯人を逮捕するということ自体、この世でもっとも危険かつ責任重大なお役目の一つだ。とてもパズルみたいに気楽に挑戦できるものじゃない。パズルだったら、犯人を当てて、ハイお終い、って話だけどね。もし仮に、何かに例えるとするならば。僕は「橋渡し」に例えよう。落ちれば助からない奈落の谷。その向こう岸に犯人がいる。犯人にたどり着くには橋を架けるほかはない。まずはどうしようか。地盤を調べる必要がありそうだ。崖の距離や高低差を寸分違わず測らなければいけない。つまり、被害者を取り巻く状況や事件現場の調査、鑑識が証拠になりそうなものを拾い集めるようにね。そして次は橋の種類をどうするか決める必要がある。桁橋か? 吊り橋か? それともアーチ橋だろか? これは事件の動機の選定だ。痴情のもつれか、怨恨か、金銭目的か。そして次は橋の工法の選定、トラッククレーンベルト工法とか、送り出し工法とかいろいろ存在する。犯罪捜査でいうところの捜査手法と言える。地道な聞き込み調査、帰納法や演繹法、心理学や科学捜査やプロファイリングと様々な手法が存在する。そして大事なのは材料だ。木か? 石か? レンガかコンクリートか? 材料の選定ミスは許されない。腐った木、欠けた石、強度不足のレンガ、ひび割れたコンクリート。もしそんなものが混じったとしたら、橋はたちまち崩壊してしまうだろう。一つでも間違った材料を組み込むことは許されない。これは犯罪捜査における証拠と同じだ。一つでも誤った証拠を採用したなら、犯人を捕まえられないばかりか、下手をすると全くの別人を誤認逮捕してしまう恐れがある。我々警察官にそんなことは許されない。疑念を抱く余地のない、確実な証拠に裏付けされた、論理の橋を構築しなければならない。そして、橋を架けて終わりではない。僕らはその橋を渡らなければならないんだ。犯人逮捕という重責を背負ってね。文字通り重い責務だ。だから頑丈な橋を架けなければならない。堅牢な論理の橋をね」
「でね。ここのケーキが激うまなの。今度一緒に食べに行こうよ」
「あ、はい。ぜひ」
ひかり先輩がスマホ片手に新しくできた喫茶店のケーキの話をしていたので、私は月光さんの独演の終わりに相槌を打つことができなかった。しかし、いつも飄々としている月光さんが、心の中ではしっかりとした信念を持っていることが分かり、私はなぜかうれしくなった。やはりこの人は、尊敬に値する人物なのだ。
「フム。犯罪捜査を橋架けに例えるのは、なかなか趣きがあって良いと思ったんだけど、どうもウケが悪かったみたいだね」
月光さんはそう言って、ひかり先輩の頭の上にある帽子を手に取った。
「もう、勝手に人の頭に帽子を乗せたり取ったりしないでよ。私はあんたの帽子掛けじゃないんだからね!」
「ごめん、ごめん。あんまり丁度いい高さに君の頭があるものだから、ついね。」
ひかり先輩の抗議もどこ吹く風で、月光さんはいつものように、両手の中で帽子をクルクル回して弄んでいた。どうやらそのためだけに帽子を取り戻したらしかった。
「あんたさぁ、そうやって帽子をクルクルするのやめなさいよ。子供じゃないんだからさ。そんなんだから、奇天烈帽子男とか言われるのよ」
「君以外の人間に、そのあだ名で呼ばれたことはないんだけどな。それに帽子で遊んでるんじゃないんだよ。これはルーティン。決まった動作をすることで、集中力を高めて、頭の中をクリアにするのさ。するとどうだろう。ケルビムがその囁きをもって、僕に天啓を授けてくれるというわけさ」
「ケバブ?」
「ケルビムは智を司る天使です」と、私は補足した。
「中東の肉料理はさておき、ねぇ、ひかり――」
月光さんは、しばらく帽子を回したあと、不意に振り向いてひかり先輩に話しかけた。しかし、月光さんが後を続けるよりも早く、ひかり先輩が返答した。
「はぁ、もう。分かったわよ。その代わり、また一つ貸しだからね」
ひかり先輩はそう言うなり、部屋からさっさと出て行ってしまった。私には何が何だかさっぱりだったが、二人の間には言葉にせずとも通じるものがあったらしい。
阿吽の呼吸、以心伝心、ツーと言えばカー。やはり二人は名コンビなんだと私はちょっと感激した。それはそれとして、ひかり先輩が何をしに出て行ったのか気になったので、私は月光さんに聞いてみた。
「ひかり先輩はどこへ行かれたんですか?」
「さぁ、分からないなぁ……」
「へ……?」
「いや、僕はひかりに、誰が犯人だと思う? って聞こうと思っただけなんだけど……。なんだろう。多分、青松さんの所に言ったんじゃないかな? さっき僕が、次男の龍二さんが最近帰国していないか聞いていたから、それを確定させたいんだと思う。まぁ、どんな些細な可能性も見逃さない彼女らしい判断だとは思うけど」
「あ、ハハハ……。そうですか……」どうやら今回は、以心伝心とはいかなかったようだった。
「まぁいいや。ねぇ華ちゃん。悪いんだけど、ひかりに付いて行って、ひかりの用事が終ったら、関係者全員をもう一度、この部屋へ集めてくれないかな?」
「はぁ、構いませんが、どうして全員をもう一度集めるんですか?」
「誰が犯人か分かったからだよ」
「えぇッ⁉」
月光さんがとんでもないことをさらりと言ったので、私は甲高い声を出してしまった。
「まぁ、別に全員集める必要もないんだけれど、古き良き探偵の作法に則ってね」
あなたは探偵ではなくて刑事じゃないですかと思ったけど、そんなことを口に出す余裕がないほど、私は混乱していた。
一瞬、月光さん特有のハッタリかとも思ったけれど、今私相手にハッタリなんてしても意味がない。だから月光さんは、本当に犯人が分かっているのだろう。空論や憶測ではなく、絶対確実な理論と根拠があるのだ。実際に月光さんが、鮮やかな推理で事件を解決したことは今までに何度もあった。信用しないわけにはいかない。それにしても、まだ月光さんが私たちに合流して半日と経っていなというのに、なんとういう早業だろう。
「一体誰が犯人なんですか?」
私はたまらず聞いてしまった。月光さんがなんて答えるのかは、予想できていたけれど。
「古き良き探偵は、決して最後まで、誰が犯人か他人に教えないものなんだよ」
予想が当たったので、私は思わず苦笑いしてしまった。その〈古き良き探偵〉達は、最後まで犯人を明かさないことを釈明するのに、大いに骨を折っていたのだけれど。
「それじゃあ、ヒントを」と月光さんが私に語りかけた。もどかしそうにしている私を不憫に思ってくれたのかもしれない。手にした帽子を頭にかぶり、人差し指で帽子のツバをクイっと突き上げ、いたずらっぽく言った。
「孔子の書いた『論語』を読んだことはあるかな? 答えはそこに書いてある」
月光さんは子供のような人懐っこい笑みを浮かべた。もしかしたら、本人は挑発的な笑みを浮かべたつもりだったのかもしれない。私には挑戦を受けて立つ器量なんてないけど、せっかくヒントまでもらったのだから、正解にたどり着きたい思いもあった。私はたっぷり三分は考えたと思う。しかし、どう考えてみても、誰が犯人かは分からなかった。『論語』は読んだことあったのだけれど、どういう理由で犯人につながるのか皆目見当がつかなかった。そもそも、全員に犯行が可能だし、私には全員が疑わしく思えた。
私はちょっと悔しかったので、せめてもの抵抗として、月光さんの言葉の揚げ足取りをすることにした。
「衒学的に言わせてもらうなら。『論語』を書いたのは、孔子じゃありません。孔子の弟子たちが書いたものです」
私は精一杯あざとく笑ってみせたが、月光さんはいつものように、悠然と微笑んだだけだった。一矢すら報いることができなかった私は、とりあえず、皆を集めるため、ひかり先輩の所へ向かうことにした。