第三章 月光の憶測
第三章 月光の憶測
月光さんは帽子を弄びつつ、しばらくの間考え込んでいた。そして、一分ほど思索をめぐらせていた。思索が終ると、月光さんはいつもの穏やかな声で私に言った。
「まぁ今は細かいことは置いておくとしよう。とにもかくにも、捜査資料も読んだし、当事者の話も聞いた。これでようやく僕も君たちに追いついたわけだ」
月光さんは、得意げに言いながら、手にもっていた帽子を慣れた手つきで頭に被っていた。そして今度は、くるりと向きを変え、ひかり先輩を見て言った。
「ところで、どっちだと思う?」
「どうかしらね。私はまだ半々かな」と、ひかり先輩は漠然と答えた。
「へぇ。僕はもう内部だと確信しているけどね」
「ほんとあんたって自信家よね。間違ってたらどうするのよ」
「間違っていたら戻るだけだよ」
「もどれない道ってのもあるもんよ」
「なんの話ですか?」二人の会話の内容が分からなかったので、私は尋ねた。
「内部犯か、外部犯かという話さ。僕は内部犯だと確信しているけどね」
「え? 内部犯⁉」私はまたしても素っ頓狂な声を出してしまった。内部犯、つまり月光さんは、柴崎家の住民の中に犯人がいると考えているらしい。私は一度だってそんなこと考えたことがなかったのに。
「でも、どうして内部犯だと思うんですか?」
「うーん。色々と理由はあるけれど、まぁ大きくは三つかな。例えばこの操作資料にもあるけど、犯人は懐中電灯を落としている。懐中電灯はよくある市販のもので、指紋もなく、手掛かりは得られていないらしいけどね。これがまず内部犯と思われる理由の一つ」
なぜ懐中電灯を落として逃げると内部犯になるのだろうか。訳が分からず私が困惑していると、月光さんがそれに気づき、補足をしてくれた。
「僕の記憶の間違いがなければ、まぁ間違いはないんだけど、事件のあった三日前は新月の日だった。月明りはなく、外に外灯もなく、廊下の電灯は消されている。柴崎社長も言っていた通り、この書斎や廊下はほとんど真っ暗闇だったはずだ。住み慣れている人間だったら苦も無く移動できるだろうけど、外部の人間ならそうはいかない。いくら逃げることに必死で、我を忘れていたとしても、この暗闇に出会ったら面食らうはずだ。そして必ず、懐中電灯のことが頭をよぎる。暗闇を照らす明かりが欲しいし、なにより、懐中電灯という物的証拠を残して逃げるのはリスクがある。社長は昏倒しているんだから、一旦部屋に戻って懐中電灯を取った方が自然だと思うね。懐中電灯を取りに帰らなかったということは、犯人は暗闇の家の中で苦も無く移動できるほど、家の構造に慣れていた人物。つまり、内部の人間だということさ」
私は感嘆のあまり、拍手をしてしまいそうだった。最新の科学捜査や、地道な聞き込みといった旧来の人海戦術をもってしても、あの懐中電灯からは、犯人への手がかりを得ることができなかった。それを月光さんは、頭のなかで理論を構築するだけで、犯人にたどり着く、わずかな道筋を見つけ出した。
私は感慨にふけりながら、チラリとひかり先輩を見た。しかし、先輩はそんなことは当然分かっているといった面持ちだった。ということは、この理論はひかり先輩も想定していたことなのだろう。ひかり先輩は慎重居士の人なので、軽々に一つの憶測に飛びつくことはない。
確かに、先ほどの月光さんの理論は、かなり可能性が高いが、絶対と言い切ることができるほど完璧ではない。いくら新月でも、外灯の明かりがなくても、完全な暗闇というのはなかなか存在しない。私が生意気にも、心のなかで反駁していると、月光さんが、さらに自説に補強をかけて来た。
「そしてもう一点。こちらの方が分かり易いかな。いくら夜中とはいえ、四人もの住人が在宅している家に忍び込む泥棒なんてそうそういない。仮に犯人がこの家の壁やドアが分厚くて、ちょっとの物音は聞こえなくなってしまうと知っていたとしても、普通は在宅中に泥棒なんて入らない。泥棒の別名は、空き巣なんだからね。まぁ確かに、日中は雛田さんが在宅仕事をしているので、忍び込む隙がないかもしれない。でも、辛抱強く待てば、一家が不在の時間帯を狙うことは不可能じゃないし、その方がずっと安全だ。ちなみに犯人がそんなことまで頭が回らない短絡思考の愚か者だったり、計画性のない行きずりの犯行だったりということは有り得ない。ピンポイントで高級腕時計のある書斎が荒らされているし、足跡の痕跡も残していないし、遺留品の懐中電灯からも、なにも手がかりがでていなことを考えると、犯人は事前に調査を行い、きっちりと計画を立てて行動できる人物ということになる。つまり、わざわざ住人が在宅中に犯行に及んでいることから考えられる可能性は二つ、犯人の経済状況が切迫しており、すぐにでも金目の物が欲しかったか、あるいは犯人が内部の人間だったから。内部の人間だったら、この家の住人の生活習慣や、防音性の高さを知っているから、夜中でも低リスクで盗みを働くことができる。むしろ内部の人間にとっては、日中に犯行におよぶことの方が危険かもしれない。例えば、雛田さんは、日中は一人在宅している。日中に時計が盗まれたら、状況によっては真っ先に疑われる。他の三人も同様だ、彼らはこの家の住人なんだから、平日の昼間にこの家の付近にいたっておかしくない。でも、盗みのあった当日の昼間に、この家の付近で目撃されたとなれば話は変わってくる。やっぱり夜中の方が安全だと考えるだろうね」
月光さんは人差し指をピンと立てて、微笑んだ。手足も長ければ指も長いのだなと、私はなぜかそんなことを考えていた。反論が思い浮かばなかったからだろうか。ポーっとしている私をよそに、月光さんはさらに補強を続けた。
「最後の一点。これは理屈としては、まぁちょっと弱いかな。操作資料によると、屋敷の外はもちろんのこと、屋敷の中にも犯人のものと思しき足跡が一切残されていなかった。見ればわかるけど、屋敷の庭は大部分が土だ。しかし、とても硬い土なので、雨でも降らなきゃ足跡は残らない。だけど、いくら硬い土だっていっても、歩けば靴底に砂が付着する。だから靴のまま屋敷に入ればどうしたってその痕跡が残るはず。しかしなぜか一切残っていなかった。つまり泥棒は屋敷に入る際、わざわざ靴を脱いで手に持つか、違う靴へ履き替えるか、あるいは、わざわざ靴底をきれいにふき取ったということになる。わざわざそんな手間をかける理由なんてあるだろうか。靴跡なんて、そうそう重大な証拠にはならない。大量生産されている靴を用意すればいいし、サイズだって普段と違うサイズの靴を履けば分からない。それに、そこまで慎重にどんな痕跡も残そうとしない犯人が、あっさりと懐中電灯を落としていくなんてことも考えられない。つまり犯人は、そもそも靴を履く必要がなかったということ。以上三つの理由から、犯人は内部の人間だと推定される」
なるほど、後の二点は最初の理論より説得力に劣るが、先ほどの懐中電灯の件と合わせて考えるとより一層内部犯の可能性が高まるように思えた。一つだけならそういう不可思議な行動をする犯人もいるかもしれないと思えるが、流石に三つも並びたてられると、もはや犯人は内部犯で間違いないように思えた。
「そして、あともう一つ付け加えるなら」私が月光さんの話に感服していると、ひかり先輩が口を開いた。
「これは、証拠能力に欠けるから操作資料には載ってないんだけれど、ウチの鑑識がいうには、犯人が侵入の際に壊したと思われる窓ガラスなんだけど、鑑定してみると、どうやら家の内側から割られている可能性が高いらしいの。ただし古い屋敷で、窓ガラスも古く劣化して変形していたので絶対とは言えない。だから残念だけど、証拠としては扱えないようだけどね。恐らく、犯人の計画では柴崎社長の腕時計を盗み、それを自室に隠すわけには行けないから屋敷外へ持ち出す予定だった。そして屋敷の外へ持ち出す際に、外部から泥棒が入ったと見せかけるために、勝手口のガラスを割る予定だった。しかし、不運なことに柴崎社長に見咎められてしまい、慌てて逃げだした。辛くも逃げ出した犯人は、とにかく大急ぎで外部犯に見せかけるためにガラスを割ったが、焦っていたために内側からガラスを割ってしまった。そんなところかしらね。まぁ、私はまだ外部犯説を捨てた訳じゃないけどね」
ひかり先輩のダメ押しによって、もはや私には内部犯の仕業としか思えなくなっていた。月光さんが私たちに合流してからまだ一時間とたっていないはずだ。それなのにこれほどまで迅速に事態を把握し、事件の核心と思われるところに迫るとは、やはりこの人はただの変人ではないのだ。そしてもっと驚くのは、これほど状況証拠が積み重なっても、ひかり先輩が、まだ外部犯の可能性を捨てていないということだ。ひかり先輩は仕事でミスをしたことがないと、もっぱらの評判だが、その秘訣はこの用心深さなのだろう。
「だけど、あんたよく三日前が新月だなんて覚えてたわね」と、ひかり先輩が不思議そうに月光さんに尋ねた。
「おや? 君は夜に星を眺めたりしないのかい?」
「だぁああ! ウザイ! 聞いた私がバカだったわ!」
「あぁ! 先輩、またしても御髪が!」
月光さんはいたずらっぽく言ったが、ひかり先輩に与えたダメージを大きく、ひかり先輩は、またもや髪をかき乱していた。私はそっと手で乱れた髪を撫でつけてあげた。
しかし、懐中電灯を残していってしまう失態に加え、窓ガラスを内側から割ってしまうとは、犯人はよほどのパニックに陥ってしまったとみえる。確かに、犯罪の現場を見咎められているのだから人生の一大事といえるのか。私にはちょっと想像の出来ない状況だけど。
そこで私はふと、犯人の可能性がある人物は誰か考えてみた。秘書の青松さん、甥っ子の雛田さん、長男の龍一さん。三人とも前科歴はない。それは、「柴崎家の住人の知人」が犯人である可能性を考え、住人の過去や友人関係を調査していたので間違いはない。この三名に関しては、幼少期から真面目に育ち、素行の悪い人間とも付き合いがない。彼らのように真面目に生きて来た人間が、ふと魔が差して犯罪に手を染める。別に不思議な事ではない。
では、彼らのなかで、緊急時にパニックになり、重大な失敗を犯すのは誰だろう。青松さんは気が利いているようで、どこか抜けているところがあるから、そんなミスをするかもしれない。雛田さんもいつも自信なさげだから、パニックに陥りやすいだろう。でも雛田さんは、一番犯罪とは無縁に見えるタイプだ。龍一さんはとても自信家だし、堂々としているから、不測の事態に強いだろう。いや、あのようなタイプの人ほど、非常時にテンパってしまうのか? いや、そんなことを言い出したら誰だって……。
私の頭の中で、下手な考えがグルグルと回っていた。私を思考の迷路から引き戻したのは月光さんの柔らかな声だった。
「まぁ、そういうことで、住人全員の調査を優先すべきだろう。もちろん柴崎社長も含めてね。柴崎社長は被害者だが、腕時計に盗難保険を掛けており、それを搾取するために自作自演の騒ぎを起こしたとも考えられる。だから容疑者からは外せないね。まぁしかし、この部屋の荒れようは、自作自演って感じはしないけどね」
言われてみれば確かに、柴崎社長を容疑者から外すのは早計かもしれない。しかし、月光さんも指摘した通り、この部屋の荒れ方は自作自演には思えない。泥棒が部屋を荒らしたように見せかけるのに、ここまで部屋を荒らす必要はないだろう。それに、そもそも自作自演をするとしても、わざわざ、泥棒と鉢合わせになったという演出をする必要がない。朝起きて、気が付いたら腕時計が盗まれていたと証言すればよいだけだ。
しかしまぁ、考えようによっては、自作自演中に転んでケガを負って気絶し、その言い訳として、泥棒と鉢合わせて格闘になったのだと話したとも思える。その場合、随分と派手に転げ回ったことになるのだけれど。
「可能性としては、金銭目的ではなく、柴崎社長に対する嫉妬や恨み、もしくは嫌がらせ目的で、時計を盗んだとも考えられなくもないが、まぁひとまずは金銭面から調査しよう。とにかく四人の経済状況が知りたいね。借金があるとか、ギャンブル癖があるとか。もしかしたら、誰かに弱みを握られて、恐喝されているなんてこともあるかもしれない。そうなってくると、なかなか表には出てこないから、綿密な捜査をしなければいけないな。時間がかかるだろうし、応援が必要かもね」
「それなら、もうやってるわよ」
月光さんが前途を憂いているところ、ひかり先輩が事もなげに返答する。そして「はい」と、手にしていた書類ケースの中から新たな書類の束を取り出した。どうやら、その書類に関係者の経済状況が書かれているらしい。私は関係者の前科と交友関係の調査を任されていたのだが、どうやら別の捜査員に経済状況の捜査をさせていたようだ。
ひかり先輩の捜査に手抜かりはない。これには月光さんも舌を巻いたようだ。
「素晴らしい。流石だねぇ、アマテラス!」
「甘いカステラ?」
「天照大御神は日本の神話に出てくる、太陽を司る女神の名前です」ひかり先輩は私に問いかけたわけではなかったが、私は反射的に答えた。
しかし、ひかり先輩は月光さんに、資料を見せてほしければ、後でカステラを奢れと要求していて私の話を聞いていない様子だった。そして月光さんは、そんな駆け引きなどよそに、「カステラはポルトガルから伝わったお菓子だが、ポルトガルにはカステラという名前のお菓子も、カステラと同じ見た目のお菓子も存在しないんだ」という雑学を披露し始めた。
ひかり先輩はウンザリした様子で、「へー、そうなんだ。凄いわねー」と言いながら資料を譲り渡した。私は月光さんといっしょにその資料に目を通させてもらった。そこには、柴崎家に住む四人の住人の金銭面に関する情報が、詳細に記載されていた。
先ずは、家長である柴崎龍蔵氏に関して。柴崎家は江戸時代から続く地主であり、柴崎不動産は、この辺りでは名の知れた会社である。柴崎社長は一見して豪快な人間に見えるが、商売に関してはかなりの慎重派らしく、堅実な事業にしか手を出さず、無理な投資なども全くしていなかった。また、自身は成金などではなく、名家の長だという自負があるらしく、交友関係は潔白すぎるほどだった。調査した限りでは、黒い噂のある人物、企業とは一切付き合いがなかったようだ。そのため、会社および、柴崎社長本人の財政状況、交友関係はまず間違いなく健全だと言っていい。ただし、その堅実な経営ゆえに、実入りは決して多いとは言えず、大金持ちとは言えない。さらに資産も大半は土地や有価証券であり、現金資産は潤沢ではないとのことだ。
次は長男の龍一さんだ。三十三歳という若さであるが、柴崎不動産の役員に名を連ねている。給料も破格とまではいかないが、同世代の平均年収を上回っている。結婚歴はなく、子供もいない。見た目通り遊び好きで、友人たちと一緒に派手に飲み歩くことも多々あるという。直接の友人に悪い噂のある人間はいないが、友人の友人を辿って行けば、良からぬ人間もいるだろう。ただ、仕事人間としての一面もあり、率先して新たな宅地開発のプロジェクトを立ち上げ、時には休日返上してまでそれに尽力しているとのことだ。趣味は車で、(ひかり先輩の記述によれば)何が違うのか分からない、似たようなスポーツカーを二台も所有しているとのことだ。借金などはないようだが、車にお金をかけているらしく、最近は、自身の車をサーキット仕様にしたい、それには、金が要ると知人にこぼしていたという。
次は、居候の雛田さんである。柴崎社長の亡くなった奥さんの甥であり、フィギュアの原型師という仕事についている。最初から柴崎家に居候していたわけではなく、もともとは別の地域で独立して仕事をしていた。十年ほど前は人気原型師として第一線で活躍しており、それなりの稼ぎがあったらしいが、新人の台頭や海外に仕事を取られるなどして、徐々に知名度と収入が落ちてきているようだ。生活も苦しくなったところを、叔母である柴崎社長の奥さんに手を差し伸べられ、柴崎家へ居候させてもらえるようになった。それが三年前。そのお陰で、不安定な状況からは脱したが、最近では人気も凋落し、本業での依頼はほとんどなく、アクセサリー作りなのどの内職をしている。当然、稼ぎは少ない。人見知りするため、この地域での交友関係はほとんどなく、もっぱら柴崎邸の自室にこもっている。借金はない。
最後に、秘書の青松さんだ。彼は柴崎家に縁もゆかりもない人間だ。彼を柴崎社長に紹介したのは、柴崎社長の友人だ。青松さんは、高校生の時に両親を亡くしたため、大学進学をあきらめて働くしかなかった。しかし、不況の折り、正社員の職に就くことができず、アルバイトをいくつか掛け持ちして食いつないでいた。アルバイト先の一つである居酒屋の常連が、柴崎社長の友人であり、青松さんを不憫に思ったのか、柴崎社長に雇ってあげてくれと頼み込んだらしい。柴崎社長も、持ち前の親方気質を発揮して、即断で雇うことを決めたそうだ。青松さんに、自宅の部屋を無償で貸し与えるほど、手厚く支援している。ただその代わり、社員というよりは丁稚のように、使い走りや雑用を任されているようである。給与面もあまりいいとは言えないようだ。地元出身なので、小中高と友人はいるのだが、ご両親が亡くなった時から人付き合いをさけるようになったようで、友達と遊び歩くことはない。休日は趣味の読書で部屋にこもることが多い。借金はなし。
大体以上のような内容であった。柴崎社長を除く三人は、自らの経済状況に満足しているとは言えない。しかし、調査の限りでは三人とも借金をしているような情報はなく、危急の支払いを求められて、盗みを犯すほど切羽詰まっていることもない。直近の生活態度にも異常はなく、何者かに恐喝されている感じもしない。もし三人のうち誰かが犯人だとしたら、目の前の欲に目がくらんだということだろう。
となりに立っている月光さんを見ると、例のごとく両手の中で帽子をクルクルと回しながら唸っていた。
「フム。金銭目的だとしたら、柴崎社長は除外される可能性が高いかな。他の三人は、急を要するほど金に困っているわけではないが、つい魔が差して、という可能性が考えられる。しかし、つい魔が差してと言うならば、柴崎社長だって除外するわけにはいかないかな。重要な情報だけど、これだけじゃ、犯人にたどり着く手がかりにはならないね。 まぁ地道な捜査をする手間が省けただけよしとしよう。次はちょっと部屋の中を調査してみようかな。部屋の中は事件当時から動かしてないんだろう? ひかり」
「そうね。ほとんど事件当時のままよ。さっき柴崎社長に、他に盗まれたものがないか確認してもらった時も、ちゃんと元通りにしてもらったしね。でも犯人が落とした懐中電灯とか、腕時計の収納ケースとかは、調査のために鑑識に回してるけどね。何か気になることでもあるの?」
「うん、ちょっとね。例えば、この床に散らばっている書類やノート類。柴崎社長の証言によると、犯人は書類やノート類を漁っていた可能性が高い。時計を盗んだのは分かる。お金になるからね。では書類を漁っていたのはなぜだろうか。金庫に保管されている書類ならまだしも、ただの棚に収納されている書類をいちいち引っ張りだすなんて、随分と物好きな泥棒に思える」
「さぁね。私も調べてみたけど、その書類は柴崎社長が言っていたように、会議の資料だとか柴崎社長の個人的な日記だとか、時計のカタログ、友人からの手紙、亡くなった奥さんの日記帳なんかで、お金になりそうなものは何もなかったわよ」
「フム。ということは考えられる可能性は三つ。この書類は何も価値のないものだが、犯人はそれを知らず、何か金目のものがないか調べていた。もしくは、柴崎社長にとっては何も価値のないものだが、犯人にとっては価値のあるものだった。もしくは、柴崎社長が嘘をついており、本当は価値のある書類もしくは物品があり、それは盗まれていた。しかし、それは警察に被害を届けることはできないものだった。君はどれだと思う?」
「私は憶測を立てない主義なの」
「ご立派な主義だね。むやみやたらに憶測を立てるべきでないということには、僕もおおむね同感だけど、時は憶測こそが必要だ。手がかりがなく、捜査に行き詰っている場合は特にね」
「そうね。賛同はしないけど、否定もしないわ。じゃあ聞くけど、奇天烈帽子男さんの憶測では、どの回答が正しいのかしら?」
「まだ憶測は立てないよ。憶測を立てるのは、行き詰った時だ。僕はまだこの書類を調査していない。君に尋ねたのは、書類を調査した君が、どういう憶測を立てるのか気になったからさ。まぁ、とりあえず僕は書類を調査してみるから、帽子を預かっといてくれ」
月光さんはそう言うと、手に持っていた帽子をひかり先輩の頭に被せた。
「もう! 勝手に人の頭に帽子を被せないでって、何度言ったら分かるのよ!」
ひかり先輩の抗議をよそに、月光さんは早速書類を調べ始めた。ひかり先輩は不満顔で頬を膨らませていたが、すぐさまいつもの明るい表情に戻って、不格好に被せられた帽子をいそいそと両手で整えていた。月光さんの帽子はひかり先輩にはちょっとだけ大きい。
帽子を整えながら、ひかり先輩は私に相談を持ち掛けて来た。ひかり先輩も、内部犯の可能性はそれなりにあると考えており、今日は引き続き、この家の住人を調査をしたいということだった。調査の方法や順番を、アレコレ話し合っていると、突然月光さんが声を上げた。
「おや? 変だな。ねぇ、ひかり。この机は事件当時から全く動かされてないんだよね?」
月光さんは、飾り棚の下に散乱した書類を調べていたはずなのに、いつの間にか、柴崎社長の机のそばに移動していた。
「んー? そうじゃない? 操作資料に当時の写真があるから見比べてみれば」
ひかり先輩はめんどくさそうに返事をした。部屋にあった鏡を見ながら帽子を整えるのに夢中なようだ。月光さんは写真と見比べてみて、そしてやっぱり変だなともらした。
「何が変なのよ?」ようやく帽子が整ったのか、ひかり先輩は月光さんに向き直る。
「この机の脚元。絨毯に皺ができている」
月光さんが言う通り、机の脚の前面に皺が出来ており、絨毯が盛り上がっていた。
「そりゃ皺もできるわよ。こんだけ派手に乱闘したならさ。机も斜めに押し出され……」
そこでひかり先輩の言葉が止まった。私にもようやく理解できた。柴崎社長の机は、元々壁を背にして配置されていた。絨毯には、元々の配置の跡が残っているから、それを見ると、壁からは百センチは離れていたはずだ。それが乱闘の影響で、机は壁際へ大きく押し出され、壁と机の隙間はわずか五十センチほどになっていた。また、元々は壁と並行に配置されていた机も、押し出された結果、若干斜めに傾いていた。
これほど、押し出されているのだから、絨毯が寄って皺ができるのは不自然なことではない。しかし、机の皺は前面にできていた。机は後ろの壁に向かって押しやられているのに、だ。つまり、机は一度、後方へ大きく押し出された後、少しだけ前へ戻されたことを意味していた。
なぜだろう?
乱闘の最中に机を掴んで引き戻すか、もしくは、乱闘中に机の後ろ側、要するに椅子側に回って前へ押し出すかしなければ、こうはならないだろう。しかし、そんなことは有り得そうにない。柴崎社長の証言では、部屋はほとんど真っ暗であり、乱闘中はほとんど掴み合って密着していたはずだ。そして、部屋の状況からして、乱闘は部屋の中心だけで起きている。乱闘の最中に机が後ろに押し出されることはあっても、前に移動することはないだろう。つまり、乱闘の後に、誰かが机を後ろから前へ押し出しているのだ。
机。机。机。
そう考えているうちに私は合点がいった。月光さんが「この机は、一度後ろへ押されて、その後少しだけ前に戻されている。なんでだろう?」と疑問を口にしたので、私はそれを説明しようと、自信満々に一歩踏み出した。
「あぁ、分かったわ。それはちゃんと説明できる」
しかし、ひかり先輩の方が早く答えた。あぁ、せっかく見せ場がやってきたと思ったのに……。
「その机の真ん中の引き出し。そこに、柴崎社長の腕時計コレクションが収納されていたのよ、ケースごとね。つまり、犯人は柴崎社長を突き飛ばした後、引き出しを開けて時計を盗もうとした。だけど、机が壁際まで押しやられていたから、前に押し戻して引き出しを開けたんだわ。だから前面に皺が寄っているのよ」
「いや、待ってくれ。それだと、さらに変なことになる。その腕時計の収納ケース、どこにあった?」
「……確かに、変ね」
月光さんの質問に、ひかり先輩もアゴに手を当てて考え込んだ。それは、確かにとても奇妙なことだった。なぜなら、腕時計の収納ケースは、机の引き出しにはなく、散乱していた書類の上にあったのだから。
収納ケースの蓋はガラス製で、蓋が閉じた状態で床に置いてあった。そして、収納ケースの上には、木製のどっしりとしたサイドテーブルが倒れていて、その上にさらに、気を失った柴崎社長がのしかかるように倒れていたのだ。
つまり、犯人は最初に、柴崎社長の机からケースごと腕時計を取り出した。そして腕時計を盗んだ後、次に飾り棚の書類を漁り始めた。そこを柴崎社長に見つかり、乱闘が始まった。泥棒に突き飛ばされた柴崎社長が、サイドテーブルに頭をぶつけ気絶し、散乱していた書類や腕時計の収納ケースの上に倒れ込んだのだ。
すなわち、犯人が乱闘の後に机を動かした理由は、腕時計を盗むためではない。他に理由があるのだ。
「と、なると」ひかり先輩は、そう言いながら机へ近づく
「柴崎社長を突き飛ばした後、犯人は机を動かす必要があったということかしら? まだ盗むべきものがあったのかしら? 机の引き出しにあるものと言えば、やはり書類……?」
そう言って、ひかり先輩は机に引き出しを開けていく。
真ん中の幅広の引き出し、腕時計の収納ケースが入っていた引き出しには、時計の手入れ用品が収まっていた。ピンセットやら布やら掃除用の薬品類である。机の右手には四段の引き出しがある。一番目の引き出しは、文房具入れのようだった。ハサミ、カッター、万年筆、クリップ、朱肉等。二番目は、腕時計のカタログや保証書が入っていた。三番目に引き出しは切手、封筒、収入印紙。一番下の四番目の引き出しには、古いファイルがぎっちり詰まっていた。調べてみると、過去の従業員の名簿であった。
「わからないわね。飾り棚の書類といい、犯人の目的が腕時計だけじゃなかったのはどうやら確からしいけど。手がかりがないわ。柴崎社長が時計の他に盗まれたものは無いと言っている限りはね。ここから先は憶測なるから、私はパス」
ひかり先輩は肩をすくめて諦めの言葉を口にした。月光さんは、どうやら深く考え込んでいるようだ。その証拠に、両手が空中でもぞもぞと動いている。しかし、その両手が求めている帽子は、ひかり先輩の頭にある。
「あー!」私は、あることに気づいて自分でもちょっと恥ずかしくなるような大きな声を出してしまった。
「ど、どうしたのよ、華」
ひかり先輩が、驚いて目を丸くしながら私に言った。私は興奮と恥ずかしさで、耳まで赤くなっていたと思う。でも、ようやく見せ場が回って来たのだ。二人がうっかりと見逃し、私だけが気づいたこと。私は気恥ずかしながら、それでもちょっと得意げに言った。
「でも、この部屋ほとんど真っ暗だったはずですよ。真っ暗のなか、机の引き出しを物色することは出来ないはずです。懐中電灯はありましたが、懐中電灯を使って物色したなら、懐中電灯を置き忘れるはずがありません。勿論、部屋の電気を点けた可能性もありますが、この大乱闘の後に悠長に電気を点けるでしょうか。それに、仮に電気を点けたにしても、それだけ落ち着きを取り戻していたなら、やはり懐中電灯を置き忘れるはずがありません」
「あ、しまった。そうね、うっかりしてた。やるじゃない、華」
「えへへ。いや~、そんなことないですよ」
憧れのひかり先輩に褒められて、私は嬉しくてたまらなかった。
「あれ? でもそうすると、どうなるんでしょうね。机はなんで移動しているんでしょうか」
得意げになったのも束の間、私には結局、机が移動した理由は分からなかった。
「そもそも、机が漁られているという考えが間違っているのかもしれないな」月光さんは、あごに手を当てながら呟いた。
「懐中電灯の明かりがあったから、完全な暗闇じゃなかったわけですよね。だったら、ちょっとした落とし物くらいなら拾えたと思います。もしかしたら、何かを、例えばバッグや書類なんかを拾うために机を動かしたんじゃないでしょうか」と、私は思い浮かんだことをそのまま言った。
「バッグや書類は拾うけど、懐中電灯は忘れていっちゃうの? 随分おっちょこちょいな泥棒ね」ひかり先輩の指摘は的確だった。
「とんでもないパニックに陥っていたんじゃないでしょうか。捕まるか逃げるかの一大事ですし」私は反論したいわけではなかったけど、とりあえず、捜査の進展を促すために自論を述べることにした。
「こうは考えられないでしょうか。犯人は柴崎社長との乱闘の前に、懐中電灯以外の物、例えば盗んだ腕時計を入れていたバッグを机の上に置いていたのではないでしょうか。ひょっとすると、先に机の引き出しを漁っていて、目的の書類の一つを机の上に置いていたのかもしれません。とにかく、そういったものが乱闘の影響で机の後ろ側に落ちてしまった。それを拾うために机を移動させたんじゃないでしょうか。柴崎社長との乱闘で、犯人の頭の中には、逃げることと、バッグのことしか残っていなかった。だから、バッグは忘れなかったけど、懐中電灯は忘れてしまった」
「まぁ、話の筋は通ってるわね。なにか証拠があればいいんだけどね」ひかり先輩は、私の持論を認めてくれたが、やはり具体的な証拠が欲しかったようだ。
「バッグで気づいたんだが」月光さんは、両手をもぞもぞ動かしながら話しはじめた。「そういえば柴崎社長は、犯人が黒っぽいジャージを着ていたことや、懐中電灯を持っていたことは指摘していたけど、バッグを持っていたかどうかに関しては証言していないな。でも、腕時計が盗まれているのだから、絶対にバッグを持っていたはずだ。懐中電灯や服装に気づいているのに、バッグについて証言していないということは、バッグは泥棒の近くにはなかったと考えられる。とすると、バッグが机の付近にあったとしても不思議ではないね」
「うーん。二人ともちょっと憶測しすぎよ。具体的な証拠もなく、アレコレ考えてもラチがあかないわよ」ひかり先輩の判断は手厳しかった。
「憶測だからこそ、検証をしなくちゃね。とくにバッグがどこにあったかというのは、非常に気になるところだ。どうやらもう一度、柴崎社長に話を聞く必要がありそうだ。バッグの件だけじゃない。他にもまだ、見逃している事実があるように思えてならない」
月光さんは、軽く弧を描くように、右手を頭の上に振り上げながら言った。恐らく、帽子を被るしぐさなんだろうと思うけど、月光さんの帽子は、未だひかり先輩の頭上にあった。