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その男、月光  作者: 荒巻 如才
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第二章 月光の存在

 第二章  月光の存在





私はなんとかひかり先輩をなだめて、月光さんを含めた三人で、事件があった現場へやって来た。比較的裕福な個人の邸宅で起きた強盗致傷事件である。

被害者は不動産会社を経営する、柴崎(しばさき) 龍蔵(りゅうぞう)氏。柴崎家は、古くからこの地域の大地主として知られている名家で、市内にいくつもの土地やマンションを所有している。


当然のことながら柴崎氏の邸宅はとても大きな家だった。二階建てではあるが、その建築面積はとても広い。壁はレンガで作られ重厚極まりないし、レンガの積み方が珍しいフランス積みなところをみても、歴史のある洋館に思える。庭もまた建物に見合った広さで、洋館に合わせて西洋風に整えられている。ウッドデッキは小さなパーティーを開くには申し分ない大きさだし、地面の芝生はよく手入れされており、庭木もオリーブを中心として手入れが行き届いている。家の周囲はブロック塀で囲われているが、洋館のおしゃれなレンガ壁と比べると、ややちぐはぐな気がする現代風の味気ないブロック塀だ。おそらく、後年増築されたのだろう。屋敷はブロック塀と門扉で隙間なく囲われているが、塀はそう高くはなく、身軽な人間なら苦も無く乗り越えられるはずだ。


私は今一度、操作資料に目を落とし、強盗の犯行ルートを確認する。(くだん)の強盗は、裏手の勝手口付近の窓ガラスを破って侵入したとみられている。庭は芝生と土だったが、硬い土だったので、犯人の足跡は家の外にも中にも見つからなかった。


家屋に入った泥棒が向かった先は、二階にある柴崎社長の書斎だ。そこには柴崎社長のコレクションである高級腕時計、十五点が保管されていた。時価二千万万円相当の品物である。しかし、書斎で盗みをはたらいている現場を、家主である柴崎社長に見咎められ、その場で取り押さえられそうになった。犯人は必死に抵抗し、辛くも逃げ出すことに成功した。柴崎社長は泥棒の反撃にあい、大けがを負ったばかりか、結局コレクションの時計もすべて盗まれてしまった。

鑑識は家屋の中も徹底的に捜索した。一番有力な手掛かりと思われた遺留品は、犯人は所持していた懐中電灯だった。犯人は柴崎社長とのもみ合いの最中に懐中電灯を落とし、それを回収し忘れたまま逃げ去っていた。有力な証拠と思われたが、どこにでも売ってある市販品である上に、指紋も発見されず、今の所、犯人へとつながる手がかりとはなっていない。

その他にも、鑑識があらゆる痕跡物を採集しているが、柴崎家は、来客や出入りの業者が多くあり、そのほとんどが事件現場である書斎に通されていた。そのため、髪の毛や指紋といった痕跡物も、多数の人間の物が入り混じっており、捜査を難航させている。

犯人が柴崎社長と無縁の人間なら、痕跡物から辿るのは容易かもしれないが、柴崎宅に出入りしたことがある人間であれば、書斎に指紋や髪の毛が残っていても、それだけでは証拠に乏しい。近隣住民への聞き込みでも、成果は上がっていない。そのため、事件から三日たった現在も有力な証拠、情報は得られていない。


私は被害者宅の正門に入ると同時に、月光さんに今日の予定を説明した。暴行を受け、入院していたこの家の主人、柴崎龍蔵氏が今日退院してこちらへ帰宅することになっている。そこで、柴崎社長の立ち合いのもと、再び事件の実況見分を行うことになっているのだ。


丁度その時、警察車両が正門から入り、私たちの隣に停まった。そして、後部座席から柴崎社長本人が現れた。背が高くがっしりした体つきで、精力的で自信に満ちた顔つきをしている。立ち振る舞いもまた、会社経営者らしく堂々としており、六十歳を過ぎた年齢とは思えなかった。白髪の多い頭部を除けば、四十代でも通用しそうなほどの若々しさだった。


「お待たせしたようで、申し訳ありませんな。入院で留守をしていた会社の様子を見る必要があったんで、来る前に少し会社に寄らせて頂いておったんじゃ」


言葉遣いこそ丁寧であったが、低く太い声と、尊大な話し方は、遅刻の非礼を詫びるよりも、自身の行動の正当性を主張する色合いが濃かった。


「いえいえ、私たちも今来たところです。お体の具合がよろしければ、さっそく実況見分に移らせていただきたいのですが」


 ひかり先輩は、そんな傲慢な態度の柴崎社長に対しても、丁寧に応対していた。


「体の方は問題ない。昔から頑丈なことだけが取り柄じゃったからな。もう少し若ければ、コソ泥なんぞに後れをとることもなかったんじゃがの。まったく忌々しい」


「龍蔵さん、あまり無理をなさらないで下さいよ。頭をケガしているんですからね。いくら体が頑丈でも、脳みそまで頑丈だなんてことはないんですからね」


「フン。大丈夫じゃて。あんたも全くお節介な人じゃな」


柴崎社長の後から、初老の男性が車から降りて来た。「あの、そちらは?」と、ひかり先輩は当然のことながら尋ねた。


「あ、申し遅れました。私は、龍蔵さんの主治医を長年務めている、内科医の宮園と申します。今回のケガは外科部門にあたるので、内科医の私には専門外ですが、主治医としてこうやって付き添って参りました。検査でも異常はなく、本人も大丈夫だとおっしゃっていますが、頭部打撲、それも気絶するほどのケガでしたからね。私も実況見分には立ち会わせていただきます。龍蔵さんの体調によっては、途中で打ち切らせいただくつもりですので、そのようにお取り計らいお願いいたします」


「わかりました。お医者様がいて下さるのは、こちらとしても有難いことです」


ひかり先輩はおざなりな挨拶を返す。しかし、柴崎社長も宮園医師も、心ここにあらずといった感じだった。そう、二人は先ほど、とあることに気づいて、そちらの方に視線がくぎ付けになっているのだ。それはもちろん、月光さんの存在だ。目を引くワインレッドのスーツに中折れ棒という服装の月光さんは、どう考えてもこの場にふさわしい人物には見えない。

警察の関係者には見えないし、記者なんかが堂々と実況見分に参加するわけがない。わざわざ泥棒役の役者でも雇ったのか? それとも有力な目撃者か? 二人の初老の男性が、そんな風に目を白黒させて逡巡しているのが、手に取るように分かった。月光さんに出会う人は、いつもそう考えるから。当の月光さんは、そんな二人の好奇の視線に対して我関せずといった感じで、脱いだ帽子を胸にあて、悠然と屋敷全体を眺めている。そして、ふいに切り出した。


「まぁ庭で立ち話もなんですし、早い所、ヘルメスの子分のしでかした事件の現場へ行くとしようじゃありませんか」


月光さんはたとえ初対面の相手でも自分のスタイルを崩さない。案の定、柴崎社長と宮園医師は。怪訝な顔で目を見合わせる。明らかに場違いと思われる男が、急に一同を先導しだしたのだから、当然と言えば当然だ。私は困惑する二人に、なんと説明したらよいかと迷っていた。とりあえず、ヘルメスとはギリシャ神話に登場するオリンポス十二神のひとつで、泥棒の神としても知られるということを説明した方がよいのだろうかと思っていると、ひかり先輩の方が早く対応した。


「あぁ、すみません。彼も一応警察官なんです。外国暮らしが長かったので、ちょっと日本語がおかしいんです! あと恰好も! ハハハ」


口にかすかな笑みを浮かべ、そう説明するひかり先輩。その微笑がうわべだけだというのは、固く握られた拳からも明らかだった。ひかり先輩は、いまだ訝しげな態度の二人を先導し、屋敷へと向かっていった。



屋敷の玄関を開けると、一人の男性が待ち構えていた。二十代前半の若者で、中肉中背。血色があまりよくなく、伏し目がちで、少し暗い雰囲気の男性だ。どこかおどおどしているようにも見える。


「おかえりなさいませ、社長。お体は大丈夫でしょうか?」と、青年はかしこまった声色で尋ねた。お辞儀をすると、かすかにタバコの臭いがした。


「フン。ワシをその変のじじいと一緒にするんじゃない。それよりも、表に出迎えに現れず、玄関内でお出迎えとは貴様も偉くなったもんじゃな!」


柴崎社長は、周りに私たちがいることも全く気にせず、青年を叱りつけた


「す、すみません。その、気が利かず……」青年は慌てて頭を下げる。


「フン、まったく最近の若者は礼儀がなっとらん。大体な、ワシが今日帰るということは事前に分かっていたことなんじゃから、出迎えるなら――。いや、今はそれどころじゃないか……」


柴崎社長は、まだまだ言いたいことがあったようだが、私たちがいたことを思い出してくれたらしく、その小言はそこで終わりになった。私たちにとっても、青年にとっても運がいいことだった。


「こちらの方は?」


だしぬけに月光さんが尋ねた。すでに捜査に取り掛かっていた私たちは、この青年のことを知っていたが、先ほど合流したばかりの月光さんは初対面となる。


「この方は、青松(あおまつ) (ゆう)(すけ)さんと言って、柴崎さんの秘書です。柴崎さんのお宅に間借りして、一緒に住まわれているそうです」と、私は説明した。


「秘書などという大層なもんじゃないわい。運転手や荷物持ち、まぁ付き人と言った方が適切じゃな」


柴崎社長の心無い発言で、青松さんの表情が先ほどに増して曇る。


「住み込みと言うことは、事件当時もいらしたんですか?」


月光さんは柴崎社長の悪態も気にせず、青松さんに尋ねた


「えぇ、いました。そもそもその、第一発見者というのでしょうか、私が朝起きて……」


「おいおい、そんな話はいつでもできるじゃろう。というか、なんで今更そんなことを聞くんじゃ? 知らんわけではあるまい。事件が起きたのは三日も前の事じゃぞ、それとも警察は、この三日間遊んでおったとでも抜かすつもりか!」


「申し訳ありません、柴崎さん。この男は、今日応援で合流したばかりなんです。余計な手間をかけないよう、後で言い聞かせておきます。それでは、時間を無駄にしないよう、さっそく実況見分に参りましょう。二階でしたね。青松さんも第一発見者ですので、ご一緒願います。」


柴崎社長の言い分はもっともだけれど、やはり露骨に罵倒されると嫌な気分になった。しかし、ひかり先輩は嫌な表情をすることもなく、素早く謝罪した。そして、すぐに話を実況見分にすり替えることで、柴崎社長の追撃を防いだ。柴崎社長はまだ不満げだったが、隣にいた宮園医師が、あまり怒鳴っては傷に触ると柴崎社長をなだめてくれたおかげで、矛を収めたようだった。月光さんはというと、非難などどこ吹く風で、超然として青松さんと柴崎社長を交互に見比べ、なにか観察しているようであった。


「あ、刑事さん、よろしければ帽子をお預かりしましょうか?」


私たちが靴を脱いで廊下に上がろうとしたとき、青松さんがうやうやしく月光さんに尋ねた。先ほど柴崎社長に、気が利かないとなじられたことへの汚名返上の行動かもしれない。



「いえ、お構いなく。大事な帽子なので人に預けないことにしているんです。父の形見でしてね」


「そうですか。では、何かお困りのことがございましたら、遠慮なくおっしゃって下さい」


月光さんが青松さんの申し出を丁重に断ったので、青松さんの汚名返上とはならなかった。それと同時にひかり先輩が、事件現場である二階に行きましょうと促したので、私たちはいそいそと二階へと向かった。柴崎邸は広いので二階に上がるのも時間が掛かる。

時間がかかるだけならいいのだけど、先ほど柴崎社長の癇癪(かんしゃく)がさく裂したせいで、一同には気まずい雰囲気が漂っていた。それを感じ取ったのかは分からないが、柴崎社長が再び口を開いた。


「刑事さん、先ほどは少しばかり口が過ぎてしまったようじゃ。堪忍していただきたい。ワシとしても、警察の方が腐心して捜査に取り組んでくれていることは分かっておるのじゃが、大切な時計が盗まれたもんで、ちょっと神経が高ぶっておるんじゃ」


「いえ、お気になさらないでください。こちらとしても事前の情報共有ができておらず、お恥しいばかりです」


「フム、刑事さんは、なかなか人ができておいでだ。青松よ、お前も見習わねばならんぞ」


「はい、すみません」


「ワシはの、確かに礼節にうるさいが、それは別にワシが他人にかしづかれて気持ちよくなりたいからというわけじゃないんじゃ。それは、お前のためでもあるんじゃぞ。人生を歩んでいく上で、礼儀作法ほど重要なことはない。頭が悪くても、体が弱くても、礼儀作法ができておれば、困ったときに助けてくれる人が必ず現れる。人生とはそういう風にできとるんじゃ。のう宮園先生」


「えぇ、全くその通りですね。最近は礼儀どころか、挨拶やお礼もまともに言えない若者が多くて困ったものですね。あ、青松君のことじゃないよ。僕はね、青松君は今どきの若者には珍しく、実直な人間だと思っているよ」


宮園医師は柴崎社長の意見に同調しつつも、青松さんへのフォローを忘れない。この人は波風を立てることを嫌がるタイプなのだろう。しかし、そんな宮園医師の気配りも、柴崎社長には届かなかったようだ。


「フン、実直ねぇ。まぁ、他の若者に比べればちっとはマシかもしれんな。うちの会社で新入りを雇う度に悩まされることじゃが、まるで礼儀作法のなってない若者の多いこと。そして、そういう奴に限って、こちらがアレコレ指導するとすぐ辞めてしまう。おまけのパワハラだの労働基準法違反だのなんだの、小賢しい法律など持ち出してきおる。全く、こっちは良かれと思って、まだ社会に出て間もない奴らに、社会の礼儀というものを教育してやっておるというのに、恩知らずと言うか、恥知らずというか……」


「史上最も「むごい教育」というのはどんなものかご存じですか?」


柴崎社長の小言がいつまで続くのだろうかとうんざりしていた時、突然、月光さんが話に割って入った。恐らく柴崎社長を含めた全員がギョッと驚いたはずだ。


「なんですか、それは?」と、誰も言わなかったが、月光さんは気にせず続けた。


「それは戦国時代の武将、今川義元が、幼き頃の徳川家康に行ったものとされています。ご存じの通り、幼少期の徳川家康は、人質として今川義元の下へ預けられました。その際に今川義元は、家康が将来自分の敵になるかもしれないと考え、家康に対し「むごい教育」を施せと部下に命じました。その教育というものは、家康が欲するものは全て与え、家康がすることを一切否定するなというものでした。このような教育を施せば家康は堕落し、適切な判断が下せないダメ人間になるはずでした。残念ながら今川義元の思惑通りにはいかなかったようですがね」


月光さんは、得意げに話を終えた。しかし、周りの人間はポカンと口を開けてあっけにとられていた。あまりに唐突に話に割り込んで、いきなり戦国武将の逸話を持ち出されたりしたら当然の反応なのかもしれない。一瞬の沈黙が流れる。


「ハッハッハ。そうじゃ、そうじゃ。甘やかす教育などもっての他。厳しくしつけてやらねばな! お若い刑事さん、あんたはなかなか見どころがあるのう。どうじゃ、刑事の仕事をやめて、ワシの会社に来る気はないか。ワハハハ」


その沈黙を破るように、柴崎社長が豪快に笑った。我が意を得たり、といった口調からして、月光さんの言葉を自分への肯定意見ととらえたようだ。月光さんは、柴崎社長の思想信条を肯定したのではなく、自分の知識を披露したかっただけだと思うけれど。そしてふと青松さんを見ると、月光さんへ恨みがましい視線を送っていた。まぁ当然という気もする。そうこうしているうちに、ようやく二階の事件現場へ到着した。


柴崎邸は、大きくて広い屋敷ではあるが、凝った作りという訳ではなかった。箱型の二階建てで、構造は単純そのものだった。二階には、部屋が片側に四室並んであり、廊下が一本まっすぐ通っているだけだった。私たちが今上がって来た階段の他に、廊下の奥にも一階へとつながる階段がある。二階の部屋は、奥から柴崎社長の寝室、トイレと洗面室、柴崎社長の書斎、物置部屋と並んでいる。


強盗、というか泥棒が居たのは、柴崎社長の書斎だ。しかし、当日の柴崎社長の行動を把握するために、私たちはひとまず柴崎社長の寝室へと入った。特筆することもない、こざっぱりとした寝室だった。


「では、事件当時の行動を、できるかぎり詳細に再現してください」ひかり先輩が、柴崎社長へとお願いする。


「えーとじゃな。まず、時間は……。あまり正確なことは分からん、夜中にふと目が覚めてな、確かなことは言えんが、二時とか、三時とかそのへんじゃろう。いや、確証もなく、余計なことは言わんほうがよいのかもな。とにかく、夜中じゃ。目が覚めた時に、ちょっとトイレに行こうと思ったんじゃ」


柴崎社長は目を閉じ、その時の状況を思い出そうとしながら語る。


「さっき確認してもらった通り、トイレはワシの寝室の隣じゃ」


そういうと、柴崎社長はドアを開き廊下へと出る。古い屋敷だけど、ドアの建てつけは良く、音もなく静かに開く。


「トイレへ行こうと廊下へ出ると、真っ暗じゃった。外には外灯もないし、月も陰っておったのじゃろう。廊下には電灯があるのじゃが、あいにくスイッチは階段の所の壁についておる。古い屋敷じゃからそういった細かいところが不便なんじゃ。しかしまぁ、トイレまでは慣れた道じゃからな、わざわざ電気をつけるまでもないと、そのまま向かったわけじゃ。そのお陰で、書斎のドアの小窓から漏れた微かな光に気づいたんじゃ」


柴崎社長は書斎のドアを指さす。確かに、書斎のドアには五十センチ四方の曇りガラスが取り付けてあった。


「しかし、その時はまさかコソ泥が忍び込んでいようとは夢にも思っていなかった。電気を消し忘れておったかと思っただけじゃ。ところが、書斎の明かりは不自然な光を放っていた。点いたり消えたりというか、光がさまよっているような感じじゃ。懐中電動で周囲を照らすような感じじゃな。そこでワシはいよいよこれは怪しいと思い、忍び足で書斎へと近づいていった。もし泥棒がいるのなら、とっちめてやろうと思ってな」


 柴崎社長の話し方には、どんどん力が入っていった。


「そして、書斎のドアの前にやってきて、耳を澄ませば、なにやらガサゴソと音が聞こえる。これはもうコソ泥に違いないと考えて……。フン、今思えば、ゴルフクラブでも持って武装しておれば、結果は違ったんじゃろうがな」


柴崎社長は、当時の心境を思い出し、苦々しく吐き捨てる。


「とにかく、その時はもう頭に血が上ってしまっておってな。あの書斎には、ワシの大切にしておる腕時計のコレクションがある。コソ泥がそれを盗みに来たのじゃろうと考えると、もう怒りで我を忘れてしまっておった。今じゃ太って腹が出ておるが、ワシは若い頃ラグビーでならしておっての。コソ泥如き、一瞬で組み伏せてくれると自信満々じゃった」



「そして、ワシは、書斎のドアを一気に開けた。想像通り、コソ泥が一匹おったよ。目出し帽をかぶって、懐中電灯を片手に持ってな。暗がりじゃったし、目出し帽を被っていたので顔色は分からんかったが、それでもコソ泥の奴が仰天しておったのは、手に取るように分かった」


「ワシは「誰だお前は!」だとか「何をしている!」だとかのバカみたいな口上は一切言わなかった。コソ泥のような不届き者には問答無用という訳じゃ。ワシはもうそれこそ、猛牛のようにコソ泥へと突進してタックルをかましてやった。ラグビー仕込みの強烈なヤツをな」


柴崎社長は実際に、腰を落としてタックルの姿勢を作って見せる。流石に堂に入った感じの姿勢だった。がっしりとした体格も相まってなかなかの迫力だ。


「じゃが、暗がりでよく見えんかったのが災いしたのか、一発で組み伏せることはできんかった。まぁ、ワシの体がなまっていたせいもあるじゃろう。最近は全く運動不足じゃからの。とにかく、コソ泥の奴はワシのタックルから抜け出し、ドアに逃げようとした。ワシは逃がしてなるものかと、奴の手だか足だがを掴んだ。そこからはお互い、ごらんの有様の取っ組み合いじゃよ」


そう言って、柴崎社長は室内に一瞥をくれる。


書斎には、痛ましいほど格闘の跡が残っていた。かなり激しくもみ合ったようで、キレイに整列されていたと思われる机やテーブルは、元の位置から押しやられて、あらぬ方角を向いていた。椅子や観葉植物は倒れ、壁掛けの絵は床に落ち、飾り棚のガラスにはヒビが入っている。床には、置時計、写真立て、ペン、書類などが散乱していた。

柴崎社長は、強盗との格闘で倒れた拍子にサイドテーブルに頭をぶつけたと見られ、倒れたサイドテーブルと、その下の絨毯には血の跡がついていた。血の跡はそこだけだったが、その量はおびただしいほどだった。この部屋の荒れ方から見ても、いかに犯人が必死に抵抗したかが分かる。

そしてもうひとつ、犯人の慌てぶりが分かることがある。それは、犯人が揉み合いの際に、手に持っていた懐中電灯を落として逃げ出していたことだ。懐中電灯という重大な手掛かりを忘れて逃げ出してしまっているのだから、まさに犯人は死に物狂いだったと言える。


「それでは、まず初めに、盗まれたものが時計だけなのか、他にも何か盗まれたものがないか確認をお願いできますか? 一応、ご子息や青松さんの立ち合いのもと調べてはいますが、柴崎社長ご自身で、もう一度確認をお願いします。それとお手数ですが、現場保存の目的もありますので、できる限り現状維持でお願いします」と、ひかり先輩は丁重にお願いをした。


「ウム、わかった」


柴崎社長はうなずくと部屋を調べ始めた。部屋は散らかっているが、もともとそれほど物が多かったわけではないらしく、五分ほどで確認は終わった。その結果、腕時計以外に盗まれたものはないとのことだった。


「ありがとうございました。次に、事件当時のことですが、最初にその泥棒がいた場所は、どこだったのでしょうか?」


「そこにある、飾り棚の所じゃ」


柴崎社長はアゴをしゃくって示した。


「なるほど。その後もみ合いとなって、あなたは突き飛ばされ、倒れた拍子にサイドテーブルで後頭部を強打し、気絶したというわけですね?」


柴崎社長は、フンと鼻を鳴らしただけだった。泥棒に力負けをしたことがよほど悔しかったのだろう。


「そして朝方、部屋で気を失っている柴崎社長を発見したのは、あなたですね。青松さん?」


「え、えぇ」


青松さんは、気まずそうに答えた。柴崎社長が不機嫌になっているので、自分に八つ当たりが来るかもしれないと警戒しているのだろう。そういえば、月光さんがやけに大人しいと思って私は振り返った。どうやら月光さんは、これまでに作成された事件の書類に目を通しているようだった。


「それでは、その時の状況を話してください」


ひかり先輩は青松さんを促す。青松さんに関しては、すでに何度も話を伺っている。それでも再び事件の状況を聞くのは、実際に柴崎社長がそばに居ることで、何か思い出すことがあるかもしれないとの判断だろう。


「えっと、前にも言いましたが、その、柴崎社長は朝食を食べるため、毎日決まった時間に、一階のリビングに降りてこられるのです。その、毎朝七時ちょうどです。ですがその日は、七時十分になってもいらっしゃいませんでした。それで、その、寝ぼ……。とにかく、お呼びに行かなければならないと思いまして」


「寝坊したのかと思った」と言いたかったのだと思うけど、柴崎氏の機嫌を損ねるのを恐れたらしかった。どうやら青松さんは、柴崎社長のご機嫌ばかりが気になるようだった。こんな状態では新しい事実は聞き出せないかもしれない。


「それで、二階に参りますと……、書斎のドアが半開きになっており、それで部屋の中が見えました。はっきりとは分かりませんでしたが、何か人らしきものが倒れているように見えました。まさかと思い駆けてつけてみると、柴崎社長がその、倒れて気を失っておりました」


青松さんはチラチラと柴崎社長の顔色を伺うように答えた。柴崎社長はやはり、面白くなさそうな表情をしていた。


「どの位置に、どのように倒れていたかできる限り正確に思い出していただきたいのですが」


「飾り棚の前です。仰向けになっていました。服と髪が乱れており、後頭部からは出血していたようでした。はい、私が発見した時には、出血は止まっていたように思えます。しかし、絨毯に赤黒い大きなシミができており、ギョッとして思わず目を逸らしまた。しかし、そのまま目を逸らし続けるわけにはいかないので、すぐにかがんで、大きな声で、大丈夫ですかと声を掛けました。こういう時は、むやみやたらに動かさない方がいいと聞いたことがあったので、触ったり動かしたりはしませんでした。とにかくそれで、何度か声掛けしたら、社長がうーんと唸って、意識を取り戻したようでした。私は一安心しまして、その時初めて、部屋の中の様子をじっくりと見たのです。そこでようやく、この部屋がご覧の状況のように荒れていたことに気が付きました。最初に発見した時は、転んで頭をぶつけてしまったのだと思っていたのですが、部屋の様子や社長の状態からも判断して、強盗に違いないと直感しました」


既に何度も聴取していたことだったので、青松さんの説明には、よどむところがなかった。生来の生真面目さからなのだろう、青松さんは何度も聞かれていることなのに、一生懸命説明してくれていた。説明するうちに熱を帯びたようで、柴崎社長のことも気にならなくなったようだった。


「するとにわかに、社長が起き上がろうとしました。こういう時はすぐに立ち上がったりしてはいけないと聞いたことがあったので、社長にケガをなさっているので急に起き上がっては傷に触りますと伝え、動かないようにしてもらいました。それから、社長が倒れていたのは固いサイドテーブルの上だったので、なにか下に敷けるクッションのようなものはないかと部屋を探そうとしたんですが、こういう時は、現場を荒らしてはいけないと聞いたことがあったので、結局社長には申し訳ないですが、そのままの状態で我慢してもらうことにしました。なので、僕は部屋に入ってからは、なにも触っていませんし、動かしていません」


 青松さんは、そこで一旦、呼吸を整え、そして再び慎重に話はじめた。


「えーと、それから、社長に大丈夫ですか? なにがあったんですか? 強盗ですか? と尋ねました。社長の意識はまだはっきりしていなかったようですが、コソ泥がいた、というようなことをおっしゃったので、やはり泥棒に襲われたのだと確信しました。それで、社長にそのまま動かないでください、救急車と警察を呼びますと伝えました。そこでポケットを探ったのですが、どうやら携帯を一階に置いたままだったようなので、急いで一階に行きました。携帯は一階のリビングのテーブルに置いてあったので、すぐに救急車と警察に連絡をしました。また、大変な事が起きたので、皆に知らせなくてはと思い、一緒に住んでいる長男の龍一さんと、居候をしている(ひな)()さんを呼びに行きました。二人とも八時ぐらいにならないと部屋から出てこないのです。私はそれぞれの部屋のドアを叩いて、文字通り叩き起こすような形で呼び出しました。そして事件のことを伝え、それから私は再び二階へ戻ってまいりました。そして、二階に戻ると同時くらいに、先に救急車、次に警察の車が到着したという次第です。以上が私の行動の一部始終です」


 青松さんは、しゃべり終えると小さく息を吐いた。役目を果たしたという満足感と長々としゃべった疲労感の二つがその表情に現れていた。あまり血色のよくない顔が、ほんのりピンク色の上気していた。そして、またわずかに顔が赤くなったかと思うと、サッと顔を伏せた。どうやら皆の視線を一身に集めたことが気恥ずかしかったようだ。青松さんが一生懸命に話してくれたことには感謝しかないが、残念ながら新しい事実は発見できなかったように思う。


「何度もご説明いただき、どうもありがとうございます。それでは、他の方にももう一度話をお伺いしたのですが、今日は龍一さんも雛田さんもご在宅ですよね?  あらかじめ、そのようにお願いしていたと思いますが」


ひかり先輩は青松さんに対する労いの言葉を忘れずに伝えると、次の関係者の話を聞くべく丁寧に尋ねる。


「はい、二人とも一階の自室におられます」青松さんは安堵したような表情で答えた。自分の役目はこれで終わりだと考えているのだろう。


「ありがとうございます。それではできる限りその時の状況通りに、一階までお二人を呼びに行ってみてください」


「え? あ、はい。分かりました」


青松さんは目をパチクリさせて答えた。残念ながら、青松さんが事件の一連の流れに一番多く関与しているのだ。今日は一日中、青松さんの気の休まる時間はないだろう。残酷な運命に気づいたかは分からないが、青松さんの顔色は、もとの青白い色に戻っていた。しかし、それでも青松さんは文句を言うことなく、事件の状況を再現すべく書斎を後にした。私たちも全員後に続く。


「一階と二階を行き来する階段は、建物の左右両端にあります。この書斎から一階のリビングへは、建物に向かって左側の階段の方が近いので、私はそちらから一階へ向かいました。ちなみに、先ほど皆さんが上がってきたのも左の階段です。左の階段は、リビングからも玄関からも近いので、私はもちろんのこと、来客の方々も大抵はこちらを利用します。右側の階段は柴崎社長の寝室に近いので、社長自身は右側の階段を使うことが多いです」


青松さんは、何気なく語ってくれたが、これは今まで知らなかった事実だった。特段意味のある事実ではないが、こういった細かいことが案外事件解決の大きなヒントになることもあったりする。


「階段から降りてすぐの部屋が、柴崎社長の長男の龍一さんの部屋です。ですが、あの時はとにかく早く救急車を呼ばなければと思っていたので、龍一さんに声をかけることなく素通りしてしまいました」


 事件当日の行動を忠実に再現するために、私たちは、龍一さんの部屋を素通りし、家の中央に配置されている広いリビングへ向かった。二十帖はあると思われる広いリビングだ。中央に配置されている、見るからに高級そうなテーブルが存在感を放っていた。


「このテーブルの上に携帯がありました。とにかくすぐに救急へ電話し、次に警察に通報をしました。かかった時間は五分くらいだと思います。そして、二階へ戻ろうと思って再び階段へ向かった時に、龍一さんや雛田さんにも知らせなければと思いたったんです。それで最初に、龍一さんの部屋のドアをノックしました」


そういって、青松さんは階段の昇り口付近にある、龍一さんの部屋のドアを強めにノックした。


「龍一さん、警察の方がお見えです」と、龍一さんを呼ぶ声も少し大きめだった。すると中から微かに返事をしたような声が聞こえた。


「この家は壁もドアも厚いので、ノックや声も少し大きめになるんです。勿論、事件当時はもっと強くノックしましたし、もっと大きな声で呼びました。その時も、今と同じように龍一さんはすぐに返事をしてくれましたし、すぐに出てこられました」


青松さんが説明を終えると同時に、ガチャリとドアが開いて龍一さんが現れた。背の高い男性で、日に焼けた肌と短めの髪、目つきは多少鋭いが、愛想のいい笑顔を浮かべている。動作はキビキビとして、背筋もピンと伸びていて、見るからに自信家といった人だ。


「ご苦労様です。犯人は見つかりましたか?」


龍一さんは開口一番言い放った。やわらかい声色と屈託のない笑顔だったので、冗談で言ったのか、私たち警察に対する嫌味だったのかは判断がつかなかった。


「申し訳ありません。目下鋭意捜索中なのですが、未だ犯人逮捕に至りません。それで、本日もこうして……」


「いえいえ、お気になさらず。あ、おかえり、親父。その様子じゃケガはもう大丈夫そうだな。流石にタフだねぇ」


龍一さんはひかり先輩の慇懃(いんぎん)な返答を遮り、父である柴崎社長に声をかけた。しかし、柴崎社長は未だ不機嫌なままなのか、それとも単純に親子仲が良くないのか、フンと鼻を鳴らしただけだった。


「えーと、それで今日はどういう要件でしたっけ? 実況見分とかいうヤツでしたっけ?  できるなら早く済ませて欲しいですね。勿論、僕自身に被害がなかったとはいえ、家に泥棒が入ったなんて気味が悪いし、腹立たしいことこの上無いわけですから、協力を惜しむつもりはありません。ですが、もう三日も同じようなことを聞かれ、同じようなことを話しているわけです。流石に堂々巡りになっているんじゃないかと個人的には思っているわけです。いえ、勿論、警察の捜査方法に口出ししようっていうわけじゃないんです。ただ、僕は仕事を休むわけにはいかないんですよ。なにせ、社長である父が入院していたんですからね。仕事もたまり放題ってわけです。今も自室で作業していたのですが、在宅ではできることが限られてしまうんです。おっと、話し過ぎですね。早く済ませろと言ってる奴がダラダラ長話してたんじゃ救えない。どうぞ刑事さん、捜査をお進め下さい」


龍一さんはマシンガンのようにまくし立てた。声色と言葉使いは丁寧だが、この状況を面白く思っていないことは明白だ。勿論、未だ犯人を逮捕できていない我々にも非はあるし、被害者の方は精神的に参っていることが多いので、警察に当たることはよくある。こういう時は神妙にしておくしかない。しかし、そこで私はあることに気づいた。そう、今は月光さんがいるのだ。目立ちたがり屋の月光さんは、何か揉め事が起きそうになると、高確率で割って入ってくるのだ。私は身構えて月光さんを見た。しかし拍子抜けしたことに、月光さんは未だに事件の関係書類を熱心に読み込んでいた。


「それではお手数ですが、龍一さんの事件当時の行動を、できる限り正確に再現していただけますか」


 ひかり先輩はやんわりとした口調で龍一さんにお願いした。ひかり先輩は、怒鳴られようが、嫌味を言われようが、冷静さを失うことがない。ひかり先輩の気を乱すことができるのは月光さんただ一人だ。

龍一さんは、ひかり先輩に当てこすりは通用しないと察したのか、改まった態度で、説明を始めた。


「はい、それでは、できる限り正確に説明をさせて頂きます。事件当時、僕は熟睡していましてね。賊が忍び込んだ時の物音も聴かなかったですし、賊と父が争った物音も聴いていません。事件のあった書斎は、僕の部屋の斜め上なんですがね。この家は古いですが、頑丈に作られてますから、かなり壁が厚いんです。おまけに僕は眠りが深いタイプの人間なんです。それで物音も聞こえなかったんでしょう。青松君が朝呼びに来た時にはじめて事件のことを知りました。えーと、前日に寝た時間は十二時前ですね。夜更かしは出来ないタイプなんですよ。こうみえてね。いつも十二時には寝ています。それでええと、青松君が起こしに来てから……」


 龍一さんは青松さんと真逆で、かなり口数が多い。よくしゃべってくれるのはありがたいが、こういうタイプの人は結構大雑把に話すことが多いので、注意して、そして何度も話を聞かなければ正確な情報が得られない場合がある。


「えーと、寝ぼけまなこだったんでね。はじめは青松君が何を言ってるのか、よく分かりませんでしたね。それに、青松君は青ざめた顔で、早口でまくし立ててましたからね。おっと、青松君を責めてるわけじゃないからね。誰だってこんな事件に出くわしたら、しどろもどろになって当然だよ。まぁそれで、ちょっと間はあったものの、僕にも事件の重大さが呑み込めたってわけなんです」


 龍一さんは一旦呼吸を整えた。先ほどはちょっと敵意が感じられた対応だったが、今は丁寧な口調で、身振り手振り使って話してくれているので、とても分かり易いし好感が持てる。父親である柴崎社長は、いかにも我の強い、傲岸不遜な社長といった感じだが、龍一さんはその気の強さを受け継ぎつつも、同時にとても柔らかい物腰を身に着けているようだ。


「救急車や警察には、青松君がすでに連絡したっていうんでね。それで、まぁすぐに父の容態を確かめに行かなきゃなって話になりました。ただ青松君が、雛田君にも伝えないといけないって言いだしましてね。で、青松君は自分は先に父の所へ戻るから、僕に雛田君を呼びに行って欲しいと頼んできました。それで二手に分かれることになり、僕は雛田君のところへ行きました。えーと、雛田君の部屋は、リビングを挟んで向こう側にあります。位置的には父の寝室の下ですね。まぁ部屋の大きさは、父の寝室の半分なんですがね。その向かいが、青松君の部屋。つまりは、父の寝室の下に、青松君と、雛田君の部屋が分かれてあるって寸法ですね」


そう言って、すたすたとリビングを横切っていく。


「おーい。雛田君、いるかい? 刑事さんたちが来たよ!」


そういって、龍一さんは、やはり大きな声と強めのノックで呼びかける。


出て来た男性は、背はあまり高くはなく、少し太っていた。髪はボサボサ、視線は伏し目がちで、明らかに社交的なタイプではなかった。挨拶をしてくれたようだったが、声が小さく聞き取れなかった。普段から声が小さいのか、それとも警察官を相手に緊張しているのか、おそらくは両方だろう。


「こちらが(ひな)() 雄一(ゆういち)君。父の甥ッ子です。いや、正確に言うなら亡くなった母の甥っ子ですね。彼は手先が器用でね。フィギュアの原型師っていうなかなか珍しい仕事をしてるんですよ。フィギュア、分かります? アニメキャラクターとかの人形なんですけどね。まぁ人形といっても奥が深いらしくてね、僕も詳しいわけじゃないんですが、それなりの市場規模があるらしくって、原型師にも個別のファンができたりするらしいんですよ。ミュージシャンと同じですね。この雛田君も実はその界隈で結構有名らしくってね。おっと。この話は以前もしましたかね。えっと、それじゃ雛田君。刑事さんが、君の事件前夜から当日朝までの行動をもう一度詳細に知りたいそうだから、説明してあげてくれ」


 龍一さんはまたもマシンガンのようにペラペラと喋りはじめ、あげくには勝手に指示を出し始めた。意図的か無意識か、龍一さんは、場の主導権を握りたがる癖があるようだ。


「は、はい。その、えっと、その、事件があった前日の夜は、十一時くらいに寝ました。いつもこの時間に寝ています。僕は朝型の人間なんです。物音は聞きませんでした。書斎は、この部屋の斜め上だとは思うんですが、なにぶん壁が厚いもので。まぁお陰で、フィギュア制作の音漏れを気にしなくていいので助かりますが。あ、話がそれました。えっと、朝は六時半に起きました。いつも大体それぐらいです。起きるとまず、トイレに行ってすぐ部屋に戻りました。トイレは僕の部屋のすぐ横です。朝食が八時からなので、それまでは自室でその日の作業計画を立てます。朝食の前に作業で手を汚すわけにはいきませんし、朝計画を立てるとスムーズにいくんです」


 雛田さんは最初こそしどろもどろで声も小さかったが、次第に話慣れて来たようで後半はとても聴き取り易い声になった。事情聴取自体は何度もしているので、話の内容はとても整理されていた。


「それで、計画やらを練っていると突然ドンドンとドアがノックされたんです。とても強いノックだったので、びっくりしてすぐさまドアを開けました。そして、龍一さんから、強盗に入られて、おじさんがケガをしたって話を聞きました。第一発見者は青松君で、彼が色々とバタバタと対応していたらしいんですが、その物音にもやっぱり気づきませんでした。さっきも申しましたが、この家は壁が厚くて、その上、青松君がバタバタとしていたのは、リビングを挟んで向こう側だったので」


そこまで言って、雛田さんは、おずおずとひかり先輩を見た。次の指示を待っているのだろう。しかし、後を継いだのは、龍一さんだった。


「なるほどね。壁が厚くて騒音に強いのが、このボロ家の唯一の利点だと思っていたけど、こういった時には困ったものだ。まぁ、それはさておき調査の続きをしますか。次は僕と雛田君が一緒に二階へ上がる場面かな。ハハハ。実況見分なんて退屈の極みだと思ってたけど、なかなか面白いもんですね。さぁ行きましょう」


龍一さんは、まるで自分が捜査責任者になったかのように勝手に話を進め始めた。私としてはあまり気分のいいものではなかったけれど、ひかり先輩は龍一さんへ抗議はしなかった。まぁ確かに、雛田さんも青松さんもあまり社交的とは言えないので、警察官である私たちよりも、身内である龍一さんが主導しているほうが、何か重要なことを思い出したりするのかもしれない。


「えっと、それで僕と雛田君は連れ立って二階に行ったわけです。もちろん、向こう側の階段ではなくこちら側、父の寝室側の階段です。こっちの方が近いのだから当然ですね」


そして、私たちはさきほどとは違うルートを通って、再び二階へと向かった。いつの間にか結構な大所帯になっていた。ひかり先輩に月光さん、私、柴崎社長に宮園医師、秘書の青松さん、長男の龍一さん、甥っ子の雛田さん。さらに、柴崎社長を車で連れてきていた二人の巡査の内一人が後ろに控えていた。しかし、それでもあまり窮屈さを感じないほど、この家は広かった。


「しかし泥棒に入られるとは運が悪かったな。こんなことになるなら、母さんが言ってたように、警備会社に依頼して警報装置をつけていればよかった。なぁ、雛田君」


沈黙が嫌なのかおしゃべり好きなのか、龍一さんは雛田さんへと話かけた。しかし、雛田さんはもごもごと不明瞭な相槌を打つだけだった。


「そういえば、高級な腕時計があるのになぜ警備会社と契約していなかったんですか? 玄関や勝手口には最新式の鍵に取り換えてあったのに」


ひかり先輩が口を開いた。


「まぁ父が時計に凝りだしたのはここ五、六年ほどですからね。父の腕時計コレクション以外にこの家に高価なものはないんですよ。ウチは皆倹約家とはいいませんが、そういう高価な物をコレクションする趣味をもっているのは父だけです。それに、この辺はそう都会というわけじゃないですし、泥棒騒ぎなんてそうそうないから警備には無頓着だったんです。ところが、覚えてますかね? 三年くらい前に、この近辺で泥棒騒ぎがあったでしょう? まぁその泥棒はすぐつかまりましたが。おっと、嫌味じゃないですよ。まぁなにせ、それで母が急に怯えだしましてね。ディンプルキーとかいう泥棒対策用の鍵へ交換したんです。ちなみに取り付けは雛田君がやってくれました。彼は器用ですからね。しかし、母はそれだけでは満足せず、防犯ガラスにした方がいいだの、警備会社に依頼したほうがいいだのと、アレコレ言い出したんですね。しかし、そうこうしている内に母が亡くなってしまった。もともと心臓に持病があったんですが、突然の事でした。それでまぁ、色々とバタバタとしているうちに有耶無耶になってしまったという訳です。まぁ、今更そんなことを後悔しても遅いですがね」


「泥棒騒ぎと言えば」


ここで話に入って来たのは青松さんだった。青松さんは、自分から積極的に話しかけるタイプではないけれど、青松さんは龍一さんとは仲が良いようで、気安く話しかけていた。


「つい二週間前くらいに、駅前でひったくり事件があったみたいですね。原付に乗って、女性を後ろから襲ってバッグをひったくるという姑息な犯人だそうですけど、もしかしたら、ソイツがこの家に盗みに入ったなんてことはないでしょうか?」


「いや、それは有り得ないと思いますよ」


 答えたのは月光さんだった。これまでずっと沈黙を守っていた月光さんが突然しゃべったので、皆驚いて一瞬足を止めてしまった。


「どうしてあり得ないと思うんですか?」と、青松さんは不思議そうに聞いた。


「実はそのひったくり犯は先ほど逮捕しました。ここへ来る前に、僕がね。犯人自体には早々に目星がついていたのですが、随分と逃げ回られましてね。ようやく捕まえることができたんです」


「逮捕されたのは、さっきなんですよね? この家に泥棒が入ったのは三日前なんですから、その犯人がこちらの事件の犯人であってもなにも不思議ではないと思うんですが。逃げ回っていたというのなら、なおさら破れかぶれで罪を重ねたとも考えられますし」


「ところがその犯人は女性でしてね。四十代のとても細身の女性でした。可能性はゼロとは言いませんが、柴崎社長を突き飛ばして逃げ出すことができるタイプにはみえませんでしたね」


「女性が犯人だったんですか。ひったくり犯だから男だとばかり思ってました」


青松さんが驚くのと同時に、龍一さんが口を開いた。


「あの、さっきから気になっていたんですが、そちらのお兄さんも刑事さんなんですか?」


 「ハハハ。ハイそうなんです。ちょっと変わってますが、一応刑事なんです。コレでも」と、ひかり先輩が引きつった笑みを浮かべながら答えた。


「へぇ。随分と酔狂な恰好をした刑事さんもいるんですね。ひったくり犯が女性ということよりも、あなたが刑事さんだということのほうが意外性がありますね。おっと、別に嫌味という訳じゃありませんよ。ある種の称賛ですね。警察というのは旧態依然とした組織だとばかり思っていましたが、少しは見方が変わりましたね」


そんなことを話していると、私たちは二階に到着した。龍一さんは、ここでも主導権を譲るつもりは無いようで、先頭に立って話始めた。


「さて、雑談はおしまいにして、実況見分の続きを開始しましょうか。えっと、先ほどのルートを辿って僕と雛田君は二階に来たわけです。勿論、大急ぎでね。そして書斎の前に来てみたんですが……。いやはや、肝を冷やしましたね。親父は、部屋の真ん中で座り込んでいました。倒れていたわけではないので、一瞬なんともないのかと思いましたが、その顔色をみて仰天しましたよ。汗をダラダラとかいて、顔面は蒼白、目は虚ろで、呼吸も乱れていました。本当にもう死ぬんじゃないかと思って、こっちは気が気じゃなかったですね」


そういって、龍一さんはチラリと柴崎社長を見た。当然というか、柴崎社長は苦虫を噛み潰したような表情だった。弱っている姿をありありと語られるなんて、柴崎社長にとっては屈辱でしかないのだろう。


「しかし、まぁ、父もタフですよ。あれだけのケガを負っても死ななかったですし、それに、僕たちが駆けつけると、すぐに正気を取り戻し、立ち上がろうとしましたからね。まぁ、立つと傷に障るだろうから、横になってくれと言いましたけど」


 龍一さんは、柴崎社長の表情が曇っているのをみて、すかさずフォローした。勿論、そんなことで柴崎社長の機嫌が上向くことはなかった。


「まぁ、それでひとまず安心して、雛田君と一緒に、父に体の具合やら事件のことやらを尋ねました。強盗は一人だったのか複数なのか、どんな背格好だとかをね。そして改めて書斎を見回すと酷い荒れようでしたね。血の痕跡なんかもあって、実を言いますと僕なんかはちょっと気が動転しちゃいましたね。それに比べて雛田君は冷静でね。僕がうっかり部屋のものに触ろうとしたところを制止してくれてね。こういう時は、なにも触っちゃだめだ、現場は保存しとかなければいけいと注意してくれた。だから誓って僕と雛田君は、事件の後には部屋の物には振れてませんよ。勿論、ドアくらいには触れたかもしれませんがね。まぁ、そんなこんなと言った感じで三人で救急車の到着をまっていると……」


「ちょっとまって下さい。青松さんは、その時どこにいたんでしょうか?」


ひかり先輩の声が鋭く響いた。そう、この時初めて事前の調査と食い違いが出たのだ。先の調査では、青松さん含めた四人で救急車の到着を待っていたはずだ。


「え、あぁ、青松君もいましたよ、当然。まぁちょっと遅れてきましたけど」


「遅れて……? でも、青松さんは、先に二階へ上がっていたんじゃないですか?」


ひかり先輩が青松さんを訝しがって見る。つられて皆の視線も青松さんへ集まる。


「あ、いえ、その、確かに、僕は先に柴崎社長の所へ戻ろうとしていたんですが、途中で、救急セットを持って行こうと思いなおしまして。社長がケガをされていたので、気休め程度でも応急処置ができればと思って」


「でも、手ぶらで上がって来たよね? 青松君」不思議そうに、龍一さんが問う。


「それが、その、探したのですが、見つからなかったので。すみません」


「なるほど。そうですか。ちなみにどれくらい遅れて到着したかわかりますか?」


「さぁ、5分くらいかな。」と龍一さんが答えた。青松さんもそれに同意した。


「ま、そうこうしている内に、救急車、それから警察の御仁が来なさって、後はまぁ、てんやわんやといったところですね」と龍一さんは続ける。


ひかり先輩は特にそれ以上追及することはなく、メモを書き取っていた。


「これで、大体の流れが把握できました。ありがとうございました。引き続き、柴崎社長に当時の状況をもう一度詳しくお伺いしたいと思います。龍一さん、青松さん、雛田さんは、自由にしてもらって結構です。ただ、屋敷からは離れないようお願いします」


 ひかり先輩の指示に、青松さんと雛田さんは、ほっとした感じで胸をなでおろしていた。龍一さんだけは、やはり、屋敷内に拘束されるのが不満のようで、不承不承といった感じで退出していった。


「刑事さん、ワシはさっき、事件当時の事をきちんと説明したはずじゃがの。また、同じことを説明せねばならんというのか?」


 柴崎社長は、自分の屈辱の場面を、何度も説明させられることに嫌気がさしているようだった。


「恐れ入りますが、もうしばらくお付き合いください。細かい点をはっきりさせたいのです」とひかり先輩は丁寧にお願いした。


「それと、先日もお伝えした通り、盗まれた腕時計の半分ほどは詳細な型番等が分かっていません。青松さんも必死に調査してくれたのですが、どうしても分からなかったそうです。その情報も教えて頂きたいのですが」


「あぁ、そうだったな。ワシのコレクションの半分はアンティークでな。新品のように箱やカタログがあるわけではない。青松が分からないのも無理はない。ワシが撮った写真とコレクション図鑑で突き合わせるか、倉庫をさがせば、骨董屋で買った明細が残っているはずじゃ。まぁ夕方……。遅くとも明日中には情報を提供しよう。とりあえず、先に実況見分を終わらせるとするかの」


「承知しました。それでは、さっそくですが、その泥棒の外見等、なにか思い出されたことはありませんか? 事前の調査では、泥棒の外見的特徴を覚えていないとのことでしたが、こうして実際に現場を振り返ってみて、何か気づいたことがあれば、どんな些細なことでもおっしゃっていただきたいのですが」


「うむぅ……。ダメじゃな。なにせ、ほとんど真っ暗闇だった上に、コソ泥の奴に突き飛ばされて気を失ってしまっているからな。どうも記憶が飛んでいるようなんじゃ」


「なるほど。では、実際に再現してみましょう。なにか思い出すことがあるかもしれません。ちょっと、月光!」


ひかり先輩の声ははとても穏やかだったが、月光さんを呼ぶ時だけはとても鋭い声をだした。


「なにか用かな?」月光さんは、熱心に読んでいた捜査資料から目を上げると、物憂(ものう)げな表情で返事をした。


「出番よ、泥棒役、やってよね!」ひかり先輩は有無を言わさずといった感じで言った。


「フム。そうだな。たまにはそういう役柄も悪くないかもしれない」


そう言って月光さんは、最初に泥棒が居たとされる飾り棚の前へと進み出た。正直これはとても意外なことだった。月光さんはこういう汚れ役は普段やらないし、やるとしても、いつものように長々と色々と高説を語ってからのはずだ。ところが、今回はなんの高説もなくすんなりと承諾した。そのため、依頼した張本人のひかり先輩ですら、キョトンと目を白黒させていた。


「だいたいこういった姿勢でしょうか? 柴崎さん」


私たちの驚きをよそに、月光さんは粛々と泥棒役を演じ始めた。帽子を大事そうに左手で抱えていたので多少不格好であったが、とても真面目に演技していた。


「ウム。まぁそうだな。そんな姿勢でかがんでおったな。お、今思い出したが、犯人は黒っぽい上下揃いのジャージを着ておったな。ただ、部屋は暗くて、懐中電灯の明かりしかなかったから、絶対に黒とは言えんな。濃い灰色かもしれんし、暗い緑色ってこともあるじゃろう」


 柴崎社長は、眉間に手を当て、必死に思い出そうとしながら話した。


「お、そうじゃ、あんたが左手に持っている帽子で思い出したが、コソ泥の奴は懐中電灯を左手に持っておったな。そして、ワシが部屋に突入した時は、床を照らしていたように思える」


「なるほど。かがんだ状態で、懐中電灯で床を照らしていたということは、この床に散らばっている書類。これを漁っていたとみるのが自然ですね」


月光さんは、足元に散乱している書類やノート類をさした。


「この飾り棚。上の方はガラス張りで、物を飾るようになっていますが、下段は書類棚になっていますよね。そして実際に書類やノート等が収納されていますし、犯人がここから書類を漁りだしていることは明白です。ここに何か重要な書類や、金目の物があったのでしょうか?」


「いや、帳簿であったり、顧客情報であったりといった重要書類は、会社の金庫に保管してある。そこにあるのは大した物じゃない。社内会議の資料であったり、個人的な日記であったりじゃな。まぁ、コソ泥の奴はなにか金目のものが紛れてると思ったのじゃろうがな」


「そうですか。では次は、取っ組み合いの場面ですね。あなたはすぐに泥棒に飛び掛かったのですか?」


「ウム。えーとだな。ワシはコソ泥の奴を見つけて激昂して掴みかかった。ウム。そう、速攻掴みかかろうとした。それで向こうは反射的に立ち上がった。今思えば、ちと距離がありすぎたんじゃな。相手には立ち上がるだけの時間があった。相手が立ち上がる前にタックルが決まっておれば勝ちじゃったのじゃがな。そういった訳で相手が立ち上がって上手いこと防御したせいで、組み伏せるには至らんかった。そこからは、ワシとコソ泥とでもみくちゃよ。今こうして見ても、我ながらよく暴れたもんじゃと思うわい」


柴崎社長が言うように、部屋はひと悶着どころではない荒れようだった。


「なるほど。ところで、そのコソ泥ですが、なにか特徴はありませんでしたか? 背が高かったとか、太っていたとか」


「背格好までは分からんな。犯人の落とした懐中電灯があったとはいえ、室内は真っ暗じゃし、ワシは怒りで興奮しておった。無我夢中で組み付いておったから、相手の背格好までは覚えておらん。もちろん女でないのは確かじゃ。いくら老いたとはいえ、このワシが女に後れを取るわけがない。その筋で言えば、ワシより若く体力があるということも確かじゃろうな。若くて体力のある男。それしかワシには言うことができん」


「それではどうでしょう。実際にちょっと、取っ組み合いの再現をしてみませんか? 実際に組み合えば、なにか思い出すかもしれません。僕と、そうですね、すみませんが宮園先生ご協力お願いできませんか? 僕は長身で宮園先生は中背ですから、なにか違いを感じて思い出すかもしれない」


月光さんは、後ろで静かに控えていた医師の宮園さんに声をかけた。宮園医師は快く承諾した。そして柴崎社長は、月光さんと宮園医師と交互に、腕と掴んだり四つに組んだりした。月光さんは、帽子を抱えたまま組み合う訳にもいかないので、頭に帽子を被っていた。柴崎社長も暗闇を再現すべく、目を閉じて組み合うという念の入れようだった。しかし、せっかくのアイデアも実を結ぶことはなかった。


「刑事さん。申し訳ないが、やはり分からんよ。これは実際に経験してみないと分からんと思うが、暗闇の中じゃ相手の背格好なんて判別できんな。お互い必死に組み合っていたら特にの。ただ、一つ言えることは、桁外れの体格でないことは確かじゃ。二メートルを超す大男だとか、力士のような巨漢だとかいうことは絶対ない」


「そうですか。まぁ、なかなか事件のことを詳細に記憶している人というのはいませんからね。人によっては捜査のプレッシャーからか、誤った証言をしてしまう人もいます。だからあなたのように、分からないことは分からないとはっきり言っていただけるタイプの人は助かるんです。証言の間違いが少ないですからね。ところで話は変わるのですが、こちらの飾り棚の品について、ちょっとお伺いしたいんですが……」


月光さんは、捜査が進展しなかったことを残念がることもなく、別の話題へと移った。月光さんが指さしたのは、最初に泥棒がいた場所にある飾り棚だった。足元には書類が散乱してるが、飾り棚の上段には小さめの壺、皿、湯飲みといった骨董品と思われる品々が、十個ほどキレイに飾られていた。

柴崎社長と泥棒との攻防で受けた被害は少なかったようで、飾り棚のガラスにはヒビが入っていたが、幸いにも、飾り棚の中の品々は倒れて壊れることなく並んでいた。


「これらの品々は高価なものでしょうか?」


「いや、大したものじゃない。ワシの趣味は腕時計一つと決めておってな。時計には金をだすが、その代わりに時計以外には金を使わないと自分で律しておるんじゃ。そこに飾ってあるのは、付き合いで買った品や友人から贈られた品じゃな。そうやって飾っておると、いかにも高級そうに見えるが、それぞれ一個数万円くらいの価値しかないもんじゃよ」


「そうですか、分かりました。それでは、とりあえず一旦、これで立ち合いは終了とさせて頂きます。次に、今の立ち合いの調書を作成しないといけないので、ちょっと部下を呼んできますね」月光さんは、書斎のドアを開けて外に控えている、制服警官を呼んだ。


「ふぅ。流石にちょっと汗をかいたの」


途中、月光さんや宮園先生と取っ組み合いの真似したこともあり、柴崎社長の額には汗がにじんでいた。そういえば、月光さんがひかり先輩の許可なく、立ち合いを打ち切ったけど大丈夫なんだろうか。ひかり先輩を見ると、特段気にした風でもなく、熱心にメモを取っていた。


「お待たせしました。それではお手数ですが、部下と一緒に、調書の作成をお願いします。それとついでに、腕時計の型番の件も調査をお願いします」


「ウム、分かった。刑事さんも、捜査の方よろしく頼みますぞ」


柴崎社長は月光さんに軽く頭を下げた。尊大で怒りっぽくて、すぐに不機嫌になる柴崎社長が、頭を下げるなんて珍しいと私は思った。そういえば、先ほどから柴崎社長は、月光さんに対しては態度が柔らかい気がする。教育に関する話の時に、月光さんが自分の肩を持ってくれたと思って気を許しているのかもしれない。月光さんのたわごとも、役に立つことはあるようだ。柴崎社長は、宮園医師そして巡査といっしょに退出した。事件現場の書斎には、私たち三人だけとなった。


「ねぇ、華ちゃん」


「へ? あ、はい!」急に月光さんから名前を呼ばれたので、私は思わず素っ頓狂な返事をしてしまった。


「盗人に とり残されし 窓の月――これって誰の句だっけ?」


「それは越後の名僧 (りょう)(かん)和尚(おしょう)の読んだ句ですね。良寛和尚が泥棒に入られた時のエピソードといっしょに語り継がれています。良寛和尚の寛大さと純朴さがとてもよく表れているお話ですね」


私は反射的に答えたが、なぜ急にそんなことを聞いてきたのか不思議でならなかった。聞いてみようかとも思ったが、月光さんは、「あぁそうだったね、ありがとう」と、言いながら、例のごとく帽子をいじっていた。こういう時の月光さんはなにか考え事をしているので、質問はしない方がいい。その時、ふいに月光さんが独り言を言った。よく聞き取れなかったが、こう言ったように聞こえた。



「でもあれは月じゃない」と……。





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