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千夜十夜物語

終わりある永遠の中で

作者: 穹向 水透

23作目です。夢を見たら書き出すことにしています。



 僕はその白い錠剤を眺めていた。

 僕は薬が嫌いだ。でも、飲まないと眠れない。眠らないと死んでしまう。死なないためには飲まないといけない。

 水道水の注がれたコップを掴み、錠剤を口に放り投げる。人肌のような味が溶け出す前に水で押し流さないといけない。喉の上の方で小さな粒は波に揺られるように留まっている。僕は吐きそうになりながら、それを流し込んだ。

 喉が大きく動いて、錠剤は体内へ。

 僕は荒い息をしながら、ベッドに倒れ込んだ。天井がぐるぐるぐるぐる回り、僕も同じように回る。亜光速で稼働するメリーゴーラウンドみたいだ。止めどない吐き気を無理矢理押さえつけて、眼を閉じる。一度、入ってしまえば大丈夫。吐き気も何もない、ただ漠然とした幸せへ行ける。

 僕は僅かに現実に戻って考える。

 ああ、また、起きれないんだろうな……。



 ゆらゆらゆらゆら。

 風船を動力にしているみたいに、苛立たしく船は進む。透明な水の上を、透明な空の下を。まるで水晶のドームの中のようだ。

 もう、入っている。

 ここは幸せの入り口。

 限られた人々の楽園。

 船はふたつの透明が融合する場所をすり抜けて、薄暗い長い長い道に出る。そこに入ると、船は自然と消え、己の身体を使うことを余儀なくされる。しかし、苦痛や疲労は決して生じない。

 僕は道の脇にある長椅子に座った。

 少し説明をしよう。

 まず、ここに来ることができるのは、僕のような人々ばかりだ。

 ここは、ストレスか何かで眠れなくなった人、自分を失ってしまうことを恐れていたりする人、現実を現実だと認識できなくなった人が来る場所で、ある統合された夢の中の療養所なのだ。

 その夢にログインするためには、ある薬が必要だ。

「Eternal-Nuthouse」、通称「E-N」である。

 ネットのとあるサイトで買える、まぁ、あまり合法だとは思えない薬だ。値段は初回のみ千円で、四錠が送られてくる。

 この薬の知名度はネットを介して広がっているが、効果は誰も知らない。何故かと言うと、どういう基準なのか明確にはわからないけれど、薬を注文して、送られて来る人と送られて来ない人がいるのだ。どうやら、健常な精神状態、好奇心で注文した人は悉く入手できていないようだ。

 E-Nのキャッチコピーは「ひとつの夢で幸せをひとつ」で、薬の効果はまさにその通りだと言える。

 さて、ある程度の休憩と説明が済んだから奥へ行こう。

 道は長い。永遠のように長い。けれど、すぐに終わる。夢の中なのだ。長さなんて自由だ。

 道の先には漠然とした場所がある。境界線がファジーで、混沌とした場所だ。中央には純白の円卓があり、ログインしている人数に応じて、大きさと椅子の数が変化する。今のところ、椅子の数は七個。つまり、七人がログインしているのだ。

 みんな、広場のあちこちで自由に動いている。夢の中だから、誰かに干渉されることはない。

 僕は椅子に誰かが座っているのを見付けて、近寄った。

 煤けた白のシルクハットに、真っ黒なタキシードの青年だ。勿論、姿も性別も自由に変化させられる。

「こんばんは、匪萃(ヒスイ)さん」

「ああ、こんばんは」

 青年はこちらを向いて帽子を取った。オッドアイが綺麗だ。

「調子はどうだい、アルゴンくん?」

 アルゴン、というのが僕の名前だ。E-Nの世界では本名は言わず、ハンドルネームを使うのが暗黙のルールだ。僕のアルゴンというのは、シンプルに元素のアルゴンからだ。

「ええ、最高ですよ」

 僕は答えた。

「えっと、みんなは?」

「さぁね? 各々、自由に動き回ってるんでしょう。あ、そういえば、あっちの方でエンプティくんが釣りをしていたよ」

「釣りですか、やったことないなぁ」

「そう? なら、やってみなよ。思ったより楽しいし。それに、あと、君はこれ何回目だっけ?」

「四錠目、最後ですね」

「じゃあ、悔いの残らないE-Nライフをね」

 僕は匪萃と別れて、エンプティの方へ歩いた。匪萃はお試しの四錠ではなく、通常の六十錠セットの利用者だ。確か、六十錠で二十万円だった筈。まだ、僕には手が出せない。

 僕は瞬間移動で、エンプティの元へ。夢の中ならではの移動法だ。

 エンプティは簡素な釣竿を水に向けていた。釣る気はないのかもしれない。いや、そもそも、釣りなんて、この世界では時間潰しでしかない。

「こんばんは、エンプティさん」

「ん、やぁ、アルゴン。あぁ、危うく寝るところだった……。夢の中で寝たらどうなるんだろうね?」

「現実に戻ったりして」

「ははは、最悪だね」

 エンプティも六十錠の利用者だ。

「いやぁ、釣りはいいね。君にも、この風景が見える?」

 彼が釣りをしているのは、夏空と池に面した雑木林の一角を切り抜いたような場所だ。

「見えますよ。いいですね。思い入れのある場所ですか?」

「うんうん、そうそう。ここはね、おれが友達を殺した場所。いやぁ、あんまり良くない思い出だねぇ」

「殺しちゃったんですか」

「そうそう。何でだっけな、忘れちゃったけど、それ以来、どうにも寝られなくてねぇ。十五年くらい経って、E-Nに出会ったわけだけど。あぁ、十五年間、無駄だったなぁ。あれ? アルゴンって何歳だっけ?」

「十六ですね」

「若いねぇ。いいなぁ、ちょうど、眠れなくなった頃だ。あ、君も眠れないんだっけ?」

「そうですね。でも、僕は人を殺したわけじゃないですよ」

「あぁ、そうだね。君の姿は穏やかだ」

 僕は自分の設定した姿を思い出す。

 ゴシック調の黒いドレスを着ている白猫だったか。

「いつも思うけど、可愛いよね。結局、自由つっても想像ができないとダメだから。おれには、そういう凝ったやつは夢見れないんだよなぁ」

 彼は自虐的に笑って、釣竿を投げた。

「リセット、リセット。ちょっと、身投げしてくるわ」

 そう言って、エンプティは水に消えた。途端に、夏空も雑木林も収縮するように消えた。僕は仕方がないので、歩き出した。

 少し歩くと小屋がある。いつも中から焦げた臭いがする小屋。小屋の主は天照(アマテラス)という少女の容姿をした人物。確か、火を怖れるあまりに生活ができなくなって夢に逃げ込んだ人、だった筈だ。

 僕はいつも小屋を素通りする。理由はないが、何となく避けている。天照に会ったのは一度だけ。真っ黒なエプロンを着けていて、髪も炭のように真っ黒だった。

 ああ、でも、今日は、最後なんだし、訪ねてみよう。

 僕は小屋の扉をノックした。

「はーい」と軽い返事がした。

 僕は扉を開いた。

 すぐに眼に入ったのは、ふたつの炭化した人型と、その傍で微笑んでいる天照だった。彼女は轟々と燃えるペチカの前にいた。

「あら、アルゴンくん、お久し振りね」

「こちらこそ、お久し振りです、天照さん。えっと、その人みたい形の炭は……」

「あ、これ? お父さんとお母さんだよ。私が火を怖れてる原因を作った人たち。哀れでしょう?」

「現実にいるんですか?」

「ううん。いないいない。もうとっくに燃えちゃった」

「燃えちゃったんですか?」

「正確には、燃やしちゃった。ああ、あれは綺麗だったなぁ。積もった桜の花と燃え盛る両親! ああ、感動的だった」

「何で、その両親がここに?」

「え? ああ、えっとね、生焼けだったら可哀想でしょう? あと、四十三錠残ってるから、なくなるまでここで炙ってあげるの」

「そうなんですね」

 僕は作った笑顔でそう言った。

 僕は不思議に思った。天照は火を怖れているのだろうか?

 僕は訊ねた。

「火は苦手ですか?」

「うーん、まぁ、少なくとも、夢の中だから、これだけ近くにいられるって感じかな。今となっては、こっちが現実みたいなものなんだけどね」

「火、怖かったですか?」

「そうだね……。実はね、燃やした後、仕返しされるかなって思うと怖かったんだ。だからね、それも含めて、ふたりがもう二度と動かないように、丁寧に丁寧に焦がしてるの」

 僕は彼女に会釈をして、小屋を出た。夢の中だけれど、息苦しい場所だった。僕は思いっきり、夢の酸素を吸い込んだ。呼吸なんて概念はここには本来ない。まず、あらゆる概念が存在しない。存在させるには、持ち込まなければならないのだ。夢を共有するもの同士が様々な概念を持ち込んで成り立つ世界、それがE-Nだ。

 僕は一度、中央の円卓に戻った。そこでは、まだ匪萃が座って虚空を見つめていた。匪萃の顔は、時々、モザイクがかかったように隠されてしまう。彼の潜在意識の仕業だろう。

 僕は椅子がふたつ増えていることに気付いた。

「ふたり、後から来たよ」と匪萃。

「今日は多いんですね」

「ひとりは四錠のやつで来てて、もうひとりは六十錠の人だ。どっちもどっちで、まぁ、現実じゃ関わりたくない感じだったね」

「そういえば、天照さんのところに行ってきました」

「それはそれは、アルゴンくん、最後だからって攻めてるね。どうせなら、今いる全員と話してみたら? 今後の君に影響を与えるかもしれないよ。僕が言うのもあれだろうけど」

「ありがとうございます。でも、最初からそのつもりですよ。もう来れないかもしれないから、悔いの残らないように楽しみますよ」

「うんうん、それがいい、それがいい。あ、ねぇ、ところで、エンプティくんを見てないかい?」

「どうしたんですか?」

「いや、チェスの相手が欲しいんだ」

「あぁ、なるほど」

「アルゴンくんでもいいよ?」

「すいません。チェスのルールがわからないので」

「そっか。でも、大丈夫だよ。夢なんだからさ、ルールなんて可変だよ。あってないようなものなんだから。かく言う僕も、ルールなんて把握してないわけだし」

 彼はクイーンの駒を握り締めて、全ての駒が融合したような奇形の駒を作って、僕の手に置いた。

「これ、強そうだよね」

「そうですか?」

「うん。敵味方関係なさそうだからね」

「じゃあ、また後でやりましょう。今は全員と話してみたいので」 

「うん。いいよ。それじゃあ、もし、途中でエンプティか、そうだな、あとは総統かな。見つけたら、匪萃が探していたと伝えてくれ」

「わかりました」

 僕は円卓から離れて、さっきとは違う方向に進む。

 向こうから、浴衣姿の人が来るのが見えた。顔には般若面、右手にレイピア、左手にカンテラ、足はハイヒール。ちぐはぐな姿だ。

「ハロー」とその人。

「えっと……」

「うん、わかんないか。誰も私のことはわからないんだよね。定まった服装をしてないからかな?」

「あぁ、もしかして、モルグさん?」

「そうそう、正解。ああ、いいなぁ、君のドレス。それにしよう」

 そう言った次の瞬間には、モルグの服装は浴衣から僕と同じゴシック調ドレスに変化していた。他のパーツも変化して、ハイヒールは安全靴になり、レイピアは林檎飴になった。

「なかなかの着心地。うんうん、いいね」

「あの」

「何?」

「どうしていつもバラバラの服装をしているのですか?」

「あぁ、うーん、何だろうな、多分、現実の反動。現実じゃ、コンクリートの箱に押し込められたような私も、ここなら自由になれる。息が楽なんだ。確か、アルゴンくんは今回で四錠目だよね?」

「はい」

「六十錠セット買ってみたら?」

「……そうしたいんですけど、お金がないので」

「あぁ、そうか、擲つなら簡単だけど、そもそも、ないのはどうしようもないものね……」

 僕は頷いた。

 E-Nの効力は最大で十二時間。それが過ぎると、自動的に現実に引き戻される。その瞬間は地獄に落ちるような感じだ。

 ああ、二十万か。誰かから奪って、ここに逃げ込めば、誰も僕を咎められないかな……。夢の世界は自由で不干渉だ。

「アルゴンくんは、これから何処へ?」

「最後なので、全員と話してみたくて」

「あぁ、なるほどね。さっき、イバラちゃんには会ったよ」

「そうですか、ありがとうございます」

 モルグは手を振りながら、円卓の方に歩いていった。ゴシック調ドレスを揺らし、林檎飴を舐めながら。

 僕はモルグが来た方を進んでいく。イバラならすぐにわかるだろう。彼女はいつも寝ている。

 視界に緑色をした異形の塊が現れる。それはイバラでできた繭のようなものだ。その中でイバラは寝ている。

 繭の前に誰かが立っていた。見慣れない姿だった。恐らく、後から来たふたりの内のひとりだろう。

「こんばんは」と僕。

「こんばんは」と相手。

「初めまして」

「ええ、初めまして。あなたは?」

「僕はアルゴンと申します」

「希ガスですね。えっと、私は元宝草(ホトケノザ)と申します。えっと、アルゴンさんは、どんな事情でここへ?」

「全然、眠れなくて。元宝草さんは?」

「えっと、えっと、まぁ、ちょっとね」

「教えて下さいよ」

 元宝草は顔を顰めた。だが、訊かれたことには答えないといけない。そして、嘘はいけない。それがE-Nの唯一にして最大のルールだ。破ると、出禁になるらしい。

「仕方ないか……。えっと、簡単に言えば、人殺しですね。最近、死刑囚にE-Nを投与するって実験があったのご存知です?」

「いえ、ニュースとかの類いはまったく」

「えっと、まぁ、その被験者が私なんです」

「E-Nを医学的な面で使おうとしているんですかね?」

「わかりません。病的な犯罪者の更生でも狙ってるのかもしれません。私は無駄だと思いますけど。あ、そうだ、アルゴンさんは、nuthouseって単語の意味はご存知ですか?」

「いえ、あんまり考えたことがないですね」

「そうですか、この単語、ふたつ意味がありまして、ひとつはごちゃごちゃした場所って意味と、もうひとつは、精神病院って意味があるんです。もしかしたら、E-Nは最初から精神的に苦しむ人々を癒そうとしているのかも知れませんね」

 僕は意味こそ知らなかったが、何となく、そんな気はしていた。ここはテーマパークではない。疑似太陽の灯るサナトリウムなのだ。

 僕はゆっくりと何度か頷いた。

「ところで、元宝草さんはここで何を?」

「ああ、えっと、これ何だろうって」

 元宝草は緑の繭を示す。

「これは、イバラさんの寝床ですよ。イバラさん、夢の中でも眠りたいって人なんで。僕もイバラさんに会いに来たけど、無理かな?」

「うーん、会ってみたいですね。火を点けたら出てきますかね?」

「無理ですよ。この繭には誰も干渉できません。イバラさんに起きる意思がない限り、誰もこの繭を壊せないし、イバラさんを起こすこともできないんです」

「流石、夢の中ですね」

 彼は感心して言った。

 僕はイバラと会うことを諦めて、別の場所へ向かうことにした。

 繭から暫く歩くと、宙にバルコニーが浮かんでいて、軍服姿の少年が何かを叫んでいた。バルコニーの下には十五センチくらいのミニチュア兵士がずらりと規則正しく並んでいた。

 僕は兵士の最後列に座った。

 少年はすぐにこちらに気付いたようで、バルコニーから飛び降りた。きっと、多くのミニチュア兵士が圧死したことだろう。

「アルゴンじゃないか!」と嬉しそうに寄ってくる少年。彼の通った後にはミニチュア兵士の残骸が残されていた。

「やぁ、久し振りだね、総統」

「あぁ、久し振りだ。おや? アルゴンは今回が最後だっけ?」

 彼は首を傾げた。

 総統、というのはハンドルネームではない。彼の名は「アドルフ・ベニート・ニコラエ・金・ヨシフ・ポト」。独裁者の名を連ねた名なのだが、長いので誰もそれでは呼ばない。

「うん、最後だよ。総統は何してたの?」

「演説さ。やっぱり、このご時世、頼りになるのは腕っぷしなんかじゃなくて言葉なんだよ。人々は武力よりも知力の後を追うのさ。ああ、でも、悲しいことに、現実の僕にはそんなものはない、両方ない。だからこそ、ここで僕は鍛練を積んでいるんだ。いつかの現実で、僕が人々を率いることができるように」

 彼は演説をするようにそう言った。

「君の演説には力が籠っていていいと思うよ。でも、兵士を蹴散らしちゃダメだよ。君の駒なんだからさ」

「あ、そうか。それもそうだな。じゃあ、要らないや」

 総統は全ての兵士を消し去った。

 ここで、僕は思い出した。

「駒と言えば……、匪萃さんがチェスの相手を探してたよ」

「何? 匪萃が? それはいい。よしよし、今回こそ打ち負かしてやるぞ、覚悟しろよ、匪萃!」

 総統はそう言いながら、円卓の方に向かって消えた。

 僕は自分の足元に消されなかったミニチュア兵士がいるのに気付いた。兵士はライフルを杖のようにして、蹌踉めきつつ立ち上がった。そして、僕に敬礼をした。僕は屈んで、その兵士を摘まみ、四肢を捥いだ。兵士は甲高い叫びと共に息絶えた。

 その時、僕は背後に気配を感じて振り返った。

「こんばんは」

 その気配は言った。不思議の国のアリスのような青いドレスを着た、ブロンドの髪の少女だった。フランス人形のような風貌だ。

「こんばんは、初めましてですね?」

「ええ、私はマリー。あなたは、アルゴンでしょう?」

「僕を知っているんですね?」

「勿論。私は全員を把握しています」

「それは凄いですね。六十錠の人なんですか?」

「いいえ」

「へぇ、それならもっと凄い」

「質問をしてもいいですか、アルゴン?」

「勿論。マリーさんが知りたいことをいくらでも」

「では、早速。あなたは、E-Nを楽しんでいますか?」

「え? 勿論です。楽しくなかったら一回で止めてると思います」

「服用してから効果はどの程度で現れますか?」

「すぐですね。あの瞬間が僕にとっての最高の幸せなんです」

「覚醒後、身体はどうですか?」

「少し怠いですね。でも、それは、薬の効果というか、こんな幸福な夢から引き戻されたら誰だって憂鬱になりますよ。ああ、こんな現実をまた行くのか、ってね」

 マリーは微笑みながら頷いた。陶器のような白い肌が僅かに歪んでいる。ガラス玉のような青い眼は静謐として、それでいて狂気を孕んでいるように見える。何しろ、美しい。イデアの世界から来たみたいだ。

「アルゴン、私はあなたを知っています」

「それはさっきも言っていましたね。全員を把握しているんでしょう? 普通じゃないですね。あ、褒め言葉ですよ」

「ありがとうございます。実は、知っている、というのはE-Nの中だけの話ではありません」

「え?」

「私は、E-N利用者の現実を把握しています」

「それは、どういう……」

真砂雪晴(まさご ゆきはる)。それがあなたの名前です」

「え、えっと、合ってますね」

「二月四日生まれ、十六歳の高校生。だけど、学校には去年の十月から登校していない。原因は、精神的な故障。極度の睡眠障害。これがE-Nに興味を持った理由でもありますね?」

「うん、合ってます。不思議なんですけど、十月に入ってから、急に眠れなくなっちゃって。そうしたら、人と人との区別ができなくなっちゃって、何だか世界が怖くて、何処にも行けなくなりました。同じような人がいないかな、と調べているうちに、E-Nに辿り着きました。今、思えば、あの時、迷わずにクリックして正解だったんですね。してなかったら、今頃は自殺でもしていたでしょうし」

「ちゃんと、届いて良かったですね」

 マリーはそう言って、また微笑んだ。

「では、本題です」

「本題?」

「アルゴンは、この世界を楽しんでいますか?」

「うん」

「現実には戻りたいですか?」

「あんまり。戻っても良いことなんてない」

「夢の中にいられるなら、それでいい?」

「うん、そうですね。ずっと、こうしていられるなら、それで僕は幸せでしょう。もう、この世界は僕にとっての現実ですし」

「そうですか。では、提案です」

 マリーの手にアタッシュケースが出現する。彼女は変わらない表情で僕に言った。

「ここの管理人になりませんか?」

 僕は一瞬、停止した。

「管理人?」

「はい。管理人です」

「それは、何をするの?」

「何も。ただ、ここにいればいいのです。ただ、特別な権限は与えます。それに、夢ですので、基本は今までと変わらず、あなたの思い描いたことをしていて構いません。単純に、固定された、そうですね、楔のようなパーツが必要なのです。E-N世界は不安定ですので、誰かが常にいる必要があるのです。そうしないと、リセットされてしまう」

「それで、管理人が必要なんですね?」

「はい」

「えっと、今までは誰が? 今いるうちの誰かがE-Nの維持をしてきたんですよね?」

「はい。今までは、匪萃こと六科蛍流(むじな けいりゅう)が管理人を務めてきましたが、現実において、近々、死を迎えるそうなので、それに伴って管理人を辞めたいと申し出がありました」

「死ぬとダメなんですか?」

「いえ。辞めたりするのは本人の自由なので。別に、死んで夢の中に留まることも可能です」

「それなら、ここにいればいいのに」

「それは、その人次第ですよ」

 マリーは笑う。

「そうですね。えっと、それじゃあ、僕、管理人やりますよ」

「本当ですか?」

「はい。どうせ、現実に僕は必要ありませんから。せめて、夢の中で必要とされる存在になりましょう」

 僕がそう言うと、マリーは深く頷いて、アタッシュケースを開いた。中には一枚の紙が入っていて、マリーはそれを僕の前に提示した。

「それは?」

「契約書です。形だけですけど」

「ああ、なるほど」

「これに、指を押し付けて下さい。それだけでいいです」

 僕は言われた通りに、契約書に指を押し付ける。契約書には「私はE-Nの楔となることを嬉しく思います」とある。たった今、僕はこの世界を保つためのパーツになったのだ。

「ありがとう、アルゴンくん」

 後ろから声がした。

 振り返ると、匪萃が立っていた。彼は僕に深く頭を下げた。

「匪萃さん、死んじゃうんですか?」

「うん。そう、死ぬんだ」

「チェスはどうなりました?」

「総統の勝ちだよ」

 彼は満足そうに頷いた。

「アルゴンくん、君は『怠け者』なんかじゃない。たった四回しか会ってないけど、君のことは信頼している。この夢の世界をよろしくね」

「はい、頑張ります」

「じゃあね。僕は、夢とは違う漠然とした世界へ行くけど、また、何処かで逢えたら、お茶でも飲みながら、チェスをしよう」

「わかりました。お疲れ様でした、匪萃さん」

 彼は軽く手を振り、消えた。もう二度と会うことはないだろう、と僕は思った。死と夢は似ているけれど、平行線なのだから。

「それでは、今からはアルゴンが管理人です。まず、あなたが目覚めないようにしないといけません」

「ああ、そうか。本来なら十二時間が限度だからね」

「はい。それで、あなたは、この世界にずっといたいと仰っていましたね。それならば、私は現実のあなたに干渉してきますが」

「干渉?」

「はい。端的に言えば、殺す、ということです。眠っているあなたに、致死量の液状E-Nを注射します」

「それで、死ぬんですね?」

「はい。現実が死ねば、あなたが引き戻されることはありません」

「あれ? 匪萃さんはどうやってたんですか?」

「彼は、植物状態になることで、リミットを無効化していました」

「なるほど。いいですよ。殺して大丈夫です」

「わかりました。では、すぐに……」

「あの、ひとつだけ訊いていいですか?」

「はい」

「マリーさんは、何者なんですか?」

 彼女は一瞬、そのガラス玉を揺らめかせた。

「……私は、言うなれば、行商人です。お客様のニーズに沿った商品を提供します。E-Nの販売元も私どもです。E-Nを楽しんでいただけるのは何よりです」

「何でも売ってるんですか?」

「そうですね。基本的には。あとは、依頼さえあれば、人を殺すこともしますよ。勿論、少し値段は高くなりますけど……」

「へぇ、それは凄い。そうか、行商人だから、ここの管理人はできないんですね?」

「そういうことです」

「なるほど。わかりました。教えてくれてありがとうございます」

「他には大丈夫ですか?」

「はい。ひとつだけ、と言いましたし」

「わかりました。では、私は行くので、管理人、よろしくお願いします。この終わりのある永遠を最大限に楽しんで下さい」

 マリーはそう言って消えた。

 終わりのある永遠。でも、終わらせたくはないない。

 そう思いながら、歩き出した。現実よりも確かな足取りで。

 最初は、チェスのルールを憶えよう。僕はそう思った。

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