二話 ムンクの絵のようなドロドロに歪んだ世界
だから、わたしはそんな日の仕事帰り、美容クリニックの門をくぐった。きっと好奇心もあったと思うけど、毎日ガラス片のように積み上げられた、感情がその日わたしの杯を満たしたからよ。
綺麗になれば彼に振り向いてもらえるかもしれない。だって姫野さんとはあんなに仲良くしているんだもの。姫野さんが綺麗だから仲良くしているんだもの。
だからわたしはプチ整形ってやつをすることにした。プチ整形くらい高校生でもやってることだし、べつに珍しいことでもない。下手をすれば中学生でもやっているわ。
わたしが高校生だったころなんて、クラスの大半がプチ整形をしてたもの。当たり前のことなのよ。
誰かがポイ捨てをしている、だから自分もポイ捨てして大丈夫だ。つまりそれと同じ感情。だから、これと言って罪悪感や恐怖の感情は湧かなかった。
親にもらった顔を変えることに、罪悪や恐怖が湧かなかったってこと。
街を歩いている女性の大半は美容手術を受けているものだもの。院内はすごく綺麗で純白で、ドロドロの感情が渦巻くところだとは思えないくらい。
受付の女性も明るくて、待合室なんて(ここはホテルのロビーかなんかなの?)って勘違いしちゃうほど豪華で綺麗。
きっとホテルと間違えて入ってきた人がいるでしょうね。きっといるわよ。わたしが間違ってホテルに入ってきちゃったのかしら、って本気で思っちゃって受付の人に訊きそうになったくらいですもの。
だけどここは本当に美容クリニックの中で、ただの待合室だということだった。
わたし以外にも待合室に座っている人がいて、みんな顔を隠してた。綺麗になりたい、っていう感情が複雑にもつれて絡んで、そのドロドロが渦を巻いているのよ。
まるでムンクの絵のように、得体の知れないドロドロで景色が歪んでいるの。
気をしっかり保たないとそのドロドロの渦に飲み込まれてしまいそうなくらいに。
わたしの名前が呼ばれて、中に入ると先生は男性じゃなくて女性だった。どうして先生が男性だと思っていたのかしら? わたしは自分に呆れた。
こういうところなんだから男性よりも女医の方が多いはずよね。先生はまるで作った顔のように整った綺麗な顔を持っていた。整い過ぎて、ロボットみたいで気持ち悪いとさへ思うくらいに。
それからしばらく先生と話をして、治療に移った。怖くはなかったけど、少しだけ不安はあった。恐怖と不安は違う感情よね? 恐怖はないけど不安はあったの。
いったいどう変わっちゃうんだろう、って。大抵の人はそんな些細なこと気にしないと思うけど、わたしは神経質だから気になってしまう。
手術台の上に寝かされて、照明をあてられた。ちかりと一瞬眩しさに目をしばたかせたけど、すぐになれた。光の速さで気が付けが手術は終わってた。
一時間もかからなかったと思う。本当にあっという間。ウサギとカメで例えたらウサギの方くらいあっという間に終わった。
わたしがあっけに取られるほどよ。え? これで終わりなの? って。だからわたしは先生に訊いたわ。「本当にこれで終わりですか?」ってね。
先生は当たり前のように答えた。その答え自体が洗礼されていて、きっとわたしの他にも同じことを訊いた人がいるんでしょうね、って思われるほど洗礼されていた。
「ええ、これで終わり」って。
洗礼されてるでしょ。なかなか言えないセリフよ。ええ、これで終わりなんて、ね。
その足でわたしは家に帰った。そしていつものルーティンをする。ドレッサーの前に腰かけて、「魔女さん魔女さん」って魔女を呼ぶの。
鏡には少し雰囲気の変わった魔女があらわれた。
魔女さんに訊いたの。
「わたし綺麗になった?」って。
すると魔女さんは、「わたし綺麗になった?」って問い返してくるのよ。
こっちが訊いているのに、質問を質問で返すなんて頭おかしんじゃないかしら? わたしは少しイラっとして、金属バットが頭をよぎったけど、思い止まった。
「あなたは綺麗よ」ってわたしはうわべだけ答えた。
心の中では誰があんたなんか綺麗なもんですか、って思ってたけどそんなこといったら、魔女さんとの友情が壊れてしまうからいうことはできないわ。
わたしがそういうと魔女さんも、「あなたも綺麗よ」って言ってくれたわ。そうよね。だってわたしは今日整形をしたんですもの、綺麗になっているのだもの。
地顔は化粧で変えられないけれど、整形は地から変えてしまえるんですものね。わたしは何時間も自分の顔に見惚れていた。何時間も見ていると、ゲシュタルト崩壊のように自分の顔が歪んで識別できなくなってしまったの。
眼だけが異様に大きくなったり、鼻だけが小さくなったり、口裂け女みたいに口だけが裂けちゃったり、仕舞に福笑いのように自分の顔のパーツがどこにあったのかわからなくなっちゃった。
そのときわたしは思ったわ。なんなのこの化け物は! って。それが自分の顔だと知っていなかったら、きっと金属バットでたたき割っていたことでしょう。
翌日わたしは生まれ変わった気持ちで出勤したの。みんなわたしの変化に気付いてくれるかな、って。整形をしたことを隠す人がいるけど、隠すくらいなら整形なんかしなければいいとわたしは思うのよ。
だって人によく見てもらいたくて、整形するんでしょ? だったらどうしてみんな整形したことを隠しちゃうの? 女優や男優、芸能人のほとんどがそうよ。
大抵の芸能人は整形しているのに、整形したことを隠しているわ。隠すくらいならどうして整形するの? わたしはそれが不思議でしょうがないの。
わたしは不安だったけど、それでもドキドキしながら誰かが気付いてくれるのを待った。けれど出社時間になっても誰も気づいてくれなかった。彼も気付いてくれなかった。
いや誰も気づいてくれなかったというのは誤りね。一人だけ気付いてくれたわ。史郎くんっていって、同じ職場で働く男性がね。史郎くんは何故かわたしに好意を持ってくれているらしくて、困ってる。
史郎くんは長身で眼鏡をかけた割とカッコいい男性なのだけど、わたしは彼に興味ないの。わたしって真面目だから一度好きになった人に一途なの、だからね。
史郎くんのほかは誰も気づいてくれなかった。まあ、仕方のないことなのかもしれない。一重を二重に変えただけだもの。だけど雰囲気的にはすっごくかわったのよ。本当よ。
帰宅路には毎回あのクリニックの看板があるの。毎回クリニックからはお客さんが出てきているの。顔を隠して。
わたしは寄り道する人間じゃないから、いつも真っすぐに家に帰る。お酒も飲まないし、ギャンブルもやらない。本当に真面目なのよ。いままで遊びという、遊びをしたことはないわ。
高校時代も同級生の女子たちは賑やかに遊びに行くけど、わたしはおとなしく家に帰るの。まじめちゃんっていうあだ名は付いていなかったけど、そういうあだ名が付いてもおかしくないほど真面目だった。
大学でだって他の女子たちは男の子たちと遊んだり、コンパにいったり、性的にはじけてたけどわたしは、そんなこと一度もなくて真面目だった。
見た目から真面目だもの。銀行員のようにテキパキして、真面目なのよ。わたしは家に帰っていつものように、ドレッサーの前に腰かけ鏡に訊くの、「わたしって真面目かしら?」って。
すると鏡の奥から魔女さんがあらわれたわ。
そしていったの、「わたしって真面目かしら?」って。
それはわたしが訊いていることなのに、腹が立った。玄関に置いてある金属バットで鏡を粉末にしてやりたい気分になった。けれど真面目な人はそんなことしないわよね。
わたしはぐっとこらえ、「あなたは真面目よ」って、答えてあげた。すると魔女さんも微笑んで、「あなたは真面目よ」って言ってくれたわ。そうよ、わたしは真面目なんだから。
わたしは今日あったことをすべて魔女さんに話した。辛かったこと、楽しかったこと、悲しかったこと、嬉しかったこと。そしてみんなわたしが綺麗になったことに気付いてくれなかったこと。
「あなたが綺麗になっていないから、誰も気づいてくれなかったのよ」
魔女さんは冷たい氷のような声でわたしに言ったわ。
「わたし綺麗になってないかしら? だから彼も気付いてくれなかったのかしら?」
「そうよ、あなたは綺麗じゃないのよ。だから彼も気付いてくれなかったのよ」
魔女さんは冷酷に言い放ったわ。触れれば切れるナイフのような声。
すると魔女さんは、「自分の顔をよおく見てみなさい。あなたは綺麗? 綺麗じゃない? 綺麗? 醜い?」
すると鏡に映った私の顔は別人のように感じられた。本当にこれわたしの顔だったかしら、ってね。だけどそんなこと誰だってあることよ。自分の顔を他人の顔だと思ってしまったことくらい。
鏡に映った自分の顔を他人の顔だと思ってしまったら、自分の顔はどこにあるのかしら? 自分の魂はどこにあるのかしら? きっと鏡の向こうにいる他人が本当の自分で、鏡をのぞいている自分が他人なのね。
そんなことを考えていると訳がわからなくなっちゃって、考えるのを辞めたわ。それからいつものように簡単な自炊をして、お風呂に入る。そして歯を磨いて、眠る。
規則正しい生活よね。わたしって真面目なのよ。計画的で真面目なの。翌日毎日決まった時間に目覚めた。
カーテンのすき間から差し込む、光で目覚めることほど気分のいい目覚めはないと思うの。
目覚まし時計の耳障りな音で目覚めるより、小鳥のさえずりで目覚めた方が気持ちよく目覚められるでしょ、あれと同じ。
わたしはいつもと同じ時間に出勤した。今日こそは誰か気付いてくれるかな、ってワクワクしながら待ってたけど誰も気づいてくれなかった。わたしは絶望した。
誰も気づいてくれなかったから、絶望したんじゃないのよ。そんなこと些細なことだもの。わたしは絶望した本当のわけとは、姫野さんと彼が口づけをしていたことに、よ。
間がよかったのか、悪かったのか、彼らは階段の裏手で口づけをしてた。わたしはどうしていいのかわからずに、慌てて隠れた。それからの記憶はないわ。
気付けばわたしは家の鏡の前に立っていたの。魔女さんはわたしにいったわ。「あなたが醜いから、お姫様に先をこされたのよ」って。
「わたしが醜いからかしら?」って、わたしは半泣きで訊いた。
「ええ、あなたが醜いからね」
魔女さんは遠回しにいうでもなく、きっぱりと言った。
「じゃあ、もっとわたしが綺麗になれば彼を取り戻せるかしら?」
わたしはもう泣きそうだった。本当よ。もしこの怒りの感情がなかったらベッドに顔をうずめて泣いていたでしょうね。
「ええ、あなたが綺麗になれば彼を取り戻せるのよ」
魔女さんはきっぱりと言ってくれた。
きっぱりと言ってくれたことは、わたしにとっての救いだった。だってあやふやに言われるよりは、きっぱりと言ってくれた方がいいでしょ?
わたしは決めたの全面整形をしようって。そうすれば彼を、あの白雪姫様から取り戻せるんかもしれないんだもの。あの白雪姫より綺麗になれば、彼は振り向いてくれるに決まっている。
だって男は綺麗な女に弱いんですもの。綺麗になった自分の姿を考えると、わたしは笑いが抑えられなくなった。鏡の魔女さんもわたしと一緒に大笑いをした。わたしたちは涙が出るほど笑いあったのよ。
こういうのを本当の友情っていうのね、って思った。
わたしは今まで真面目に働いてきて有給休暇をとったことがなかったから、このさい十日連続で休暇を取った。全面整形をしたら、顔がしばらく腫れるって聞いたから。
べつにわたしは整形したことを隠す気はないけど、腫れぼったい顔でみんなに会うのは嫌なのよ。だから十日休めば少しは腫れもましになっているでしょう。
わたしを担当してくれた先生は前と同じ女医だった。ほとんど間を開けずに再びやってきたから、わたしのことを先生もよく憶えていてくれた。
「一度整形しちゃうと、色々粗が気になっちゃいますよね」って、先生は言ったわ。