変化
あれは確か、始業式前日の夜中だったと思う。
「紗樹......」
誰かに名前を呼ばれたような気がして、私はふと目を覚ました。
初めて耳にしたはずなのに、不思議と親近感の湧く優しい声音。
ただ一つその瞬間に確信したことは、私は声の主を知らないが、それは特定の誰かであるということだけだった。
ゆっくりと上半身を起こし、眼に掛かった前髪を軽く払う。
もちろん、真っ暗な部屋には私の他に誰もいないし、両親が起きている気配も無い。
あらゆるものが眠っていて、どこまでも静謐な空気に沈んでいる。ごく普通でありながら、とても神秘的な深更だ。
私はしばらくベッドの上で眠そうに呆けていたが、ふと頬を撫でた風に導かれるように、自分の指先で無意識のうちに目元を拭う。
そして数秒遅れて違和感を覚えた。
なぜか、熱い涙が真っ黒な瞳の奥からとめどなく溢れている。
しかし、悲しさも、辛さも、寂しさも、孕んではいない。
その涙はなにひとつ感情を流してしまわず、逆に溜まったものを押し留めようとしているが、それでもなお零れ落ちる。
初めて経験する、私にはとても形容できない、有り余る感情が飽和した涙だった。
なにひとつ欠けていない様な満ち足りた気持ち、それは久しく忘れていた感覚を呼び覚まし、まるで私を導こうとしているようだ。
だが、一番大切な全ての理由を、私は夢の中に忘れてきてしまっていた。
「私、なんで泣いて......」
嗚咽はもらさず、ただ静かに火照った頬を滴が伝う。それはポタッと落ちて、真っ白なシーツに小さな跡を作った。
何分かして落ち着くと、私はようやく、もう一つの違和感に気付いた。
部屋の中に流れ込んでくる風だ。
昨晩は窓も扉も締め切ったはずなのに、浮いたカーテンの隙間から、ちらちらと月明りが見え隠れする。
なんとも不思議な現象だ。
普段なら、あまり深く考えずに布団を一枚余計に掛けて、すぐ夢の世界に戻るところだろう。
しかし今日に限って、それが気になって眠れないというのがまた不可解だ。
私はするりとベッドから降り、カーテンの端を腕で軽く持ち上げて、ベランダへと続く窓に目をやる。
それがいくらか開いていることを確認するや否や、私は眼前に広がる壮麗な景色に目を奪われ、息をのんだ。
夜の帳が下りた街並みは藍に呑まれ、その中で満月に照らし出された桜だけが幻想的に揺蕩う。
限りなく穏やかな情景が荒ぶる疾風となり、反射的にベランダに飛び出した私から、飽き飽きした日常を吹き飛ばした。
「綺麗......」
ため息と共にそんな言葉が口をついて出る。
だが同時に、いくら言葉を尽くしてもこの世界は表現できないと、問答無用でそう感じさせられた。
圧倒される程の美しさ、それを表す術を私は持っていない。それどころか、世界中の誰にも、この心の震えは言語化できないとさえ思った。
風に吹かれた花びらが雅やかに宙を舞い、着物のような春が私を彩る。
それは毎年見ている夜桜と、同じように見えて僅かに色調が違っていて、何かを伝えようとしている様だった。
私はすっかり放心してしまい、気がついた時には、夜風に容赦なく当てられた身体は冷え切っていた。
常識的に考えれば、この時期の夜に寝間着で屋外にいるのはどうかしている。
くしゅん、と小さくくしゃみをして、私は部屋に戻った。
布団にもぐって暖を取り、うとうとしていると、いつの間にか太陽が顔を出している。
起床していつも通り窓を開けると、眩しい朝日が、窓辺に散らばる桜の花びらを照らし出していた。
白いブラウスにグレーを基調としたチェックのスカート、首には茜色のリボンをするりと回し、髪はハーフアップにする。その上にベストとブレザーを着て、私は服の裾を軽く伸ばした。
いつも以上に時間に余裕を持たせて支度を整え、誰もいない家に「いってきます」と言って玄関を出る。
鍵をかけたことを確認し、急がない程度の早足で、私は四年目になる通学路をたどった。
自宅から学校までは電車で三十分程かかる。
もっと近ければ、と思うこともあったが。生徒の中には、一時間以上かけて通学する人もざらにいるから、私はまだ楽な方だ。
都会からは少し離れているから、緑もあって校舎は大きく、電車もあまり混雑しない。
偏差値も高く、学校同士で比較するとかなり条件は良い。
しかし、いつになっても学校そのものが好きにはなれない。
行くことに意味があると、そう思えないのだ。
学校に行き授業を受け、あとは部活に行って帰るだけ。そこに私が居ることの意味を、どうしても見出せない。
仮に私がいなくても、全てのことが普通に回っていくだろう。
駅の構内に入っていけば、寂れた駅ながらも結構な数の学生やサラリーマンが足早に行き来している。
このうちの一体何人が動いていて、何人が動かされているのだろう。
分からない。だが結局は同じことだ。
私も一歩踏み出してその群れの中に紛れ込み、空気に溶けて誰からも見えなくなった。
ホームに立つ私の前に電車が滑り込んでくる。
それで起きた風は長めのスカートをはためかせ、髪をサラリと横になびかせるが、そこに私などいない。
朝の駅に人が一人増えようと一人減ろうと、電車は定時にやってくるのだ。
キイキイと音を立てるシートに座り、古びた車両に揺られながら、私は大抵読書に耽る。たまに勉強をしたりもするが、今日はそのどちらでもない。
イヤホンを耳に付けて音楽を聴いていた。
どこかで耳にした曲の歌詞に惹かれ、ネットで検索してみると、それはボーカロイドという音声合成技術を利用したソフトで作られたものらしい。
それを使えば誰もが楽曲を創作できる、という特徴を持つボーカロイドは、ボカロの愛称で親しまれ、数多のプロデューサーによって様々な世界観が構築されていた。
これまでに創られた曲数は、数万は確実にあり、十万を越えるとも言われている。そして今も増え続けているのだ。
私はそのことを知った時、あまりの数の多さに戦慄した。
創られた数にではない。創られても、有名にならずに消える曲の数に、だ。
実力が無ければ認められず、実力があっても運が無ければ他人の目に触れない。
そんな厳しい世界で、次々に曲が新しく創られ続けることの意味が、私には分からない。
ひとたび有名になれば違うのかもしれないが、それまで、どうやって報われるかも分からない努力を続けられるのだろう。
少なくとも私には到底無理だ。
しかしそうして洗練されているからか、ボカロは聴けば聴くほど、本当に良い曲が多いとも感じる。
いわゆるポップの曲とは正反対の、内面に刺さる曲が多い。真昼の音楽に対して、深夜の音楽とでもいうような、世界の裏側を歩く感覚があるのだ。
現代的なメロディーに、はっきりそれとわかる特徴的な歌声、そして歌詞には、欠けた心が表れる。言葉にできない渇きを一生懸命に表現しようとする意志が伝わって来て、私はそれに心を打たれた。
なぜなら、それは自分の気持ちを代弁してくれているようだったから。
そして私は思うのだ。
私にとっての欠けた心は「熱意」だろうと。
そこまで分かっていても自信が持てない。何かに対して夢中にもなれない。
欲しないで逃げてばかりで、それで自分を誤魔化してしまう。
『私って何だろう?』
その問いに答えられないうちは、何も変わらない。他人に従ってばかりの嫌いな自分のままだ。
だが、どうすればいいのかなんて、皆目見当もつかない。
従う以外のことなんて、教えられていないのだから。
ボカロは、よく支配や従属と闘うことを歌うが、私はもう一人で動く力も失ってしまったのかもしれない。
動かされなければ動かない、ただの歯車になってしまったのかもしれない。
昔は力に満ちていた。見た夢は純粋で綺麗だった。
だが今はどうだろう。
夢などとうに忘れ、明日が来てほしくないなんて思っている。
なら、なぜ生きているのか。死んだって同じじゃないのか。
誰もが辿り着くその疑問に、誰も答えは出せていない。
だから皆、何かを遺そうとするのだ。せめてもの生きた証として。
目を閉じて、流れる曲に耳を澄ませれば、誰かの想いが押し寄せてくる。
何度も聴いた曲、馴染んだリズム、だが今日は何かが違った。
音階に乗せられた言葉の一つ一つに、一瞬にして消える僅かな音に、聴こえる全てに、命の重みが感じられた。
無力な私はそのまま流される。
そして、その奔流が私の眼を開けた。
永遠の愛などあるはずもなく、大切な命は儚く散る。
正しさなんて簡単に曲げられて、我が物顔で理不尽が通る。
生きている意味すら、すぐに忘れてしまう。
ただ、そんな世界でも美しかったんだ。
他人がいつしか他人でなくなり、人が人を生かすのは、ただの理想として語るには美し過ぎた。
また、私も悟るには若すぎた。
ふと顔を上げれば、車窓からは晴れ渡った空の向こうに、山々の美しい稜線が望める。
それを越えた先には海があるのだろうか。
空に映った群青色に想いを馳せながら、私はなぜか出会いを予感した。
電車を降り、足取り軽く学校へ向かう私は、無意識のうちに少しだけ微笑んでいた。