『たすけて』
ようやく村に辿り着いたものの、村の様子に息を飲んだ。
なんだ、これはーー
「いっ、いやだ、いやだああああ!!」
人々の悲鳴、怒号、それらは断末魔のようにその体とともに言い表せぬナニカに取り込まれていく。
ナニカーーソレは、まるで霧のようで、しかし確かに目視できるほどに力強く、それでいて得体が知れない。
村の地面には大きな亀裂が走っており、そこからナニカが滲み出ている。
ブラックホールのようだと思った。ただ黒の単一色というわけではなく、不可思議な色をしていて、この世ならざる色彩が躍動し、蠢いている。
ソレに触れられた人々は泣き叫びながら、地面に這いずり、腕を伸ばして爪を立てる。しかしその体は徐々にナニカに侵蝕されて、そこから姿を消していく。消滅。死に際の号哭が耳につく。その恐ろしく、悍ましい光景に釘付けになっていたおれは、ロロが再度走り出すのにハッと我に帰る。
「ティア……ヘレナさん……」
ふたりの笑顔が脳裏に浮かぶ。いやだ、いやだ。
ロロはその俊敏さをもって、ナニカを避け、ヘレナさんの家へと走り抜ける。
「ティア!! ヘレナ!!」
家の中へ駆け込んで声を上げるが、返事はない。
……う、そだろ?
取り乱しそうになる気持ちを抑えて、家の中をくまなく探す。
村の地面に亀裂が入った関係で、ヘレナさんの家も崩れかけており、壁に空いた穴や、隙間から、例のナニカが入り込んでいた。
アレに捕まってはダメだ……
部屋をひとつひとつ、彼女たちの名前を叫びながら見回るが姿はどこにもない。最悪の想像をしては胸が苦しくなってくる。いや、聡明なヘレナさんのことだ。すでに避難しているのかもしれない。そろそろおれもここを出なければ捕まってしまう。
だが、最後に、最後に。
屋根裏部屋へと繋がるハシゴに手をかける。急く気持ちに足を縺れさせながらそこへ上がる。一抹の望みをかけて、屋根裏部屋へと上がった。
「ティア!!」
だがーー
ガラリとした屋根裏部屋。そこに誰もいなかった。宙に漂う不気味なナニカだけがある。
おれは部屋の隅の壁から、目が離せなかった。
嘘だ、そんな……
"ミシャ たすけて"
転がったチョーク。震えた文字。なあ、ティアはどこに行ったんだ?
壁の文字にそっと手を触れる。ヘレナさんはどうしたんだ? なんでティアは、こんなところで、おれに助けを。
吸い込まれるかのように、侵されるかのように、取り込まれ、消えていった人々。死体すら、残らない。
「なんでだよ……」
ふらふらと壁へ近寄り、力なく爪を立てる。ティアはひとりで、どんな想いでこの文字を書いたのだろうか。おれを助けてくれた赤毛の少女。ここで、ひとりでーー
俯く視界に、ナニカが写った。
「え?」
それは、おれの右腕に覆い被さっている。多くの人たちを、ヘレナさんを、ティアを消し去った、ナニカ。
ゾッと背筋が粟立った。腕に異様なものが乗っているというのに何も感じることがない。いや、感覚がすでにない。
ーー取り払わなければ。
反射的にそう思った。
ヘレナさんからもらった小型のナイフを左手に持ち、その正体不明のナニカに向けて、振り下ろすーー直前、それではいけないと思った。
このナニカはナイフすらも飲み込むであろう。そうしたらおれもこの腕から徐々に侵蝕されて、あの村人たちと同じように、死ぬ。
咄嗟の判断だから出来たことであった。そうでなければ、おれはそうすることはできなかっただろう。
「っあああああアアアアアア!!!」
絶叫が響く、振り被ったナイフはきれいにおれの右腕ーー肘下を切断していた。激痛。血が吹き出る。
"ミシャ たすけて"と書かれた文字が赤く塗り潰される。おれは生きたい。死にたくない。
ポトリと落ちたはずの己の右腕はあっという間にソレに飲まれて消えた。手放しそうになる意識をなんとか手繰り寄せて、ナイフを拾い、半ば落下するような形でハシゴを降りる。また意識が飛びかけるも、アドレナリンが大量放出しているのか、まだ繋ぎ止めていられている。
ハシゴの下に置いといた薬草の詰まった籠を左腕で背負い、辺りを漂うナニカに気をつけながら、家の外へ飛び出た。
「ロロ!!」
叫べば、少し遠くで走りソレから逃げ回っていたロロが、こちらへ駆けてくる。
一体全体、自分のどこにこんな力があったのか。火事場の馬鹿力というやつかもしれない。薬草の詰まった籠を背負ったまま、ロロの背中に飛び乗った。
「クエッ」
ロロが初めておれに乗られたときのような鳴き声を上げた。
「なるべく、遠くに」
薄れゆく意識。もう限界のようだ。止血をしないと、いけないのに……
「ティア、ヘレナさん……」
ロロの首筋に顔を埋めるように、おれは意識を手放した。
*
衝撃と激痛。
次に目を覚ましたとき、おれは地面に放られていた。
「ろ、ロロ……?」
座り込んだまま後ろを向けば、ロロが倒れていた。倒れるまで走ってくれていたのかーーそう思ったのは束の間で、村はまだ目視できる距離にある。意識を失っていた時間はそう長くなかったということと、そして、ロロの体の足が消えていることに気がついた。
ロロはおれを見て「クエー」と鳴く。
「なんでそんなこと言うんだよ」
ふらふらと立ち上がり、ロロの近くへ歩み寄る。
ロロはすでに腹辺りまで消滅していた。ロロを蝕んでいくナニカが、憎い。
「クエークエッ」
ロロは残った力で羽を動かし、おれにしっしっとやった。
「いやだ!」
そのロロの羽をグッと掴む。
「クエッ」
「いやだ!」
「クエックエッ」
「いやだ!」
「クエックエー」
「いやだ……」
子どものように、いやだいやだと繰り返し、泣き噦る。ナニカがおれの指先まで近づいてくる。いやだと言ったのはおれなのに、おれは結局その手を離した。
「クエッ」
ロロは鳥のくせに満足そうに笑い、消えていった。後にはナニカだけが残り、そこに漂っている。おれは後退ってソレから距離を取り、籠を引っ掴んで走り出した。
大量出血のせいで眩む視界、しばらく走ったところでようやく足を止めた。止血をしないと。
腰につけていたポーチを外し、二の腕にポーチのベルトをきつく締める。ナイフで左足のズボンを裂き、その布を右腕の切断部に当てた。
ドクドクと心臓が音を立てる。
目を瞑り、痛みをやり過ごそうとするが、今まで味わったことのないその痛みは紛れることなく、再びおれの意識を蝕んでいく。
「ぐっ……」
堪らず、その腕を薬草の詰まった籠に突っ込んだ。そしてそのまま、おれは気を失った。