後宮への道
ファラオが乗船された御座船を中心とした船団はテーベの北方、テーベからあと一日行程にあるデンデラの街に到着する。 デンデラは、愛と美を象徴するハトホル女神を守護神とする街である。 ファラオは、街の中心的存在である、ハトホル女神の本神殿を訪問された。 しばしばハトホル女神と同一視される、王妃ネフェルタリ様のカルテーシュが記された豪華な捧物が、ファラオにより奉納された。
ファラオの宿舎は、数百の衛兵により厳重に警護され、何人も侵入する事も脱出する事も不可能である。 その中では、百名以上の女官達がファラオに使えている。 もはや戦場ではないので、ファラオの宿舎は後宮と同じ扱いなのである。 相違点は宦官を同道̪していないことくらいだろうか?
ファラオは女官達に丁寧に沐浴させられ、聖なる油を全身に塗布される。 ファラオはまるで神の様に扱われるのだった。
「カーメフ将軍を呼ぶのだ」ファラオは一人の女官に命じる。 「カーメフでございますか? その様な身分の者を呼ぶのでございますか?」
「そうだ。 話がしたいのだ」 女官は少し不思議そうな顔をして外部に控える廷臣達に連絡に走る。
ネメス頭巾を着けた略装で、杓丈を手にされるファラオは閲見の間で十名ほどの廷臣達に囲まれている。
「カーメフ殿、ただいま到着致しました」 「よし、とうすのだ」 ファラオの威厳がある、静かな声が響く。
カーメフ将軍は床に膝を突き、丁重な儀礼をおこなう。
「明日は、いよいよテーベの都への御凱旋、まことに目出度き仕儀。 カーメフ、喜びの至り」
ファラオは静かに頷かれるが、テーベへの凱旋と言う言葉に、内心は激しく動揺する。
「この度の戦でのファラオのお働き、古のトトメス三世様、あるいは御父上セティー様を凌ぐほどのもの、カーメフいたく感嘆いたしました。ファラオのお姿、まさにアメン神、あるいはセト神の様でございました」
「余の力ではない、全て神々のお導きによるもの」
「ハー」カーメフはまた床に頭を落とし、儀礼を行う。
「明日の御凱旋の儀、まことに素晴らしきものになりましょう。 が、老いたる身、激しい戦いで消耗しております。 出来ましたら、これにて退出をお許しい頂けたらと」
ファラオは微かに、驚いた困った様な表情を浮かべられ、暫し沈黙があった。
「そうかカーメフ、疲れたか? しかし今宵、そちともう少し戦の話がしたいのだ。 皆の者、下がって良い」 廷臣達は丁寧に挨拶して、退出し、隣室に控える。
カーメフはそのまま床にひれ伏している。
「どうしたのだ、近くに寄れ」
カーメフは近ずき、ファラオの足元にひれ伏す。
「で、どうなるのです? 明日はテーベですよ」とファラオは小声で囁かれる。
「明日は都に御凱旋、まことに目出度き仕儀で」カーメフは平伏したままで答える。
「どうなるのです? ファラオは今回は、お戻りになられるのですね?」 「何の事でございましょう?」 「ファラオはお戻りになるのですね?」 「何の事で、ございましょう?」 「ファラオは?」 「合点がいきませぬ」 「ファラオのご帰還は?」 「困りました、何の事か?・・・・ファラオはここに居られるのでは?」
ファラオはじっと、将軍の顔を見つめられ、暫し奇妙な沈黙が支配する。
「どうしたのです? 私はファラオではありませんよ」
「ファラオ、何をおっしゃるのです?」 「・・・・・私はセテムですよ、あなたの奴隷の」 「セテム? 何の事でございましょう? セテムなどと言う奴隷は知りませぬ」 「何を言うのです、知らぬはずはありません。 冗談は止めて下さい」 「いや、知りませぬ」 「どうしたのです? カーメフ様? どうしようというのですか? 奴隷が、ファラオの身代わりを務める、その事自体がとんでもないことでしょう? まさか? まさかファラオがお戻りにならない? このままでは、奴隷の私がファラオのままなのですか? 何という恐ろしき事か! 何れ露見してしまいます、カーメフ様、お助け下さい。 私は、セテムです」
将軍は深い溜息をつき、辛そうな怒りに満ちた表情を浮かべ、短く深く深淵の様な沈黙があった。
「大変申し上げに難いのですが。 実は・・・あの戦の当日・・・あの方は行方がわからなくなったのだ」 「エ? 行方不明! 何と言う事だ! ファラオが行方不明! 私はどうなるのだ? どうしたら良いのだ?」大声をあげるそうになるが、このファラオはなかなか沈着冷静、自分を抑える力がある。
「懸命に捜索してきたがどうしても見つからぬ。 更に悪いことに、ヒッタイトの捕虜になり連行された事が判明し、確定してしまった」 「救出する方法はないのですか?」 「試みているが、可能性は殆どないだろう。 捕虜は直ぐに都に連行され見世物にされ、奴隷にされてしまう。 神殿で神に捧げられてしまう場合さえある。 生死も不明だ、どうしようもない」 「ファラオの身分は発覚しないのですか?」 「しないだろう? ファラオの身分を示すものは全て、あなた様がお持ちだ」 「ご自分で話されるのでは?」 「それはないだろう、言えば、大変な目に合うし、恐らく殺されるだろう。 捕虜になるなど、大変な屈辱だ。 あの方も誇り高い方だ。 とにかく大変な事が起きてしまったのだ、ファラオ捕虜など古来一度もなかったことだ、大変な事態だ。 国の危機だ。 発覚してしまえば戦の勝利も全て水の泡だ」 「どうするのですか? 事実を公表しないのですか?」 「それも考えた。 だが、公表すれば大変な事になる。 国は大混乱に陥るだろう、王朝の存続すら疑わしい。 お前の命も保証は出来ない。 と言うよりも、恐らく、殺される事になるだろう」 「どうしたら良いのです? もう嫌です、こんな事。 話が全然違います」 「逃げ出したいのか?」 「・・・・・・」 「だがな、ファラオは数百の兵に常時厳重に警護されている。 このことは、反対に逃亡が難しい事を意味する。 お前は今の立場から簡単には逃げられないな」
セテムは辛そうな表情を浮かべ、溜息をつく。
「ましな選択としてはな、今のファラオが当面ファラオを代行することだ」 「まさか!」 「やむおえないとしか言いようがない」 「でも、お戻りになられないとすれば、どうなるのですか?」 「どうなるのかな?」 「ファラオをずっと続けることになったしまうのでは?」 「そうなるかな」 「何時まで、続けるのですか?」 「当分の間」 「当分とは、いつまで?」 「ファラオとして、王家の谷にお入りになるまで続くのかな?」 セテムは引き攣った様な表情になる。
が、直ぐに、ファラオの冷たい雰囲気を取り戻す。
「それでは、私がファラオになり替わるのですか? 卑しき私が! 奴隷の私が! その様な事、神々がお許しには、成らないでしょう!」
カーメフはまた苦しそうな表情を浮かべる。
「こう考えては如何でしょう? ヒッタイトで捕虜になったのは奴隷のセテム。 あなた様こそセティー様の御子ファラオ・ラムセス様であると、考えては。 入れ替わりなど、最初からなかったのです」
ファラオ、いやセテムは呆れたと言う表情を浮かべ、肩をすくめる。
「良いではないか、ファラオに成れるのだぞ。 女だって抱けるぞ、素晴らしい女達がいくらでも抱けるのだ」 「止めて下さい、女の事など。 ますます恐ろしくなるだけです」 「神々など、本当は存在しないのだ、恐れることはない。 お前がファラオに成ることが、国を救うことになるのだ、恐れる事などない」
「明日はどうしたら良いのです? 宮殿での事は、これまでの経験で何とかなるかもしれないが、夜になれば後宮と言うところに入らねばならないのでは、それが何とも困る。 後宮! 何という事だ! 男はファラオ以外、絶対に入れない場所に! ファラオが数多くの女達と通じて、世継ぎを儲ける為の後宮! 必ず、露見してしまうのでは? 恐ろしい、唯々、恐ろしいばかりだ!」 「ファラオの後宮の事など、わしも何も知らぬ。 口にできる身分ですらない。 しかし既に、あなた様は後宮の女官達に囲まれて暮らしているのです。 意外と何とかなるのでは? こう成ってしまえば後宮にも入るしかないのでは? 堂々としていれば少し変に思われても、偽物だとか誰が言い出す輩がいるだろうか? それには大変な勇気がいる。 明日の晩は、王妃ネフェルタリ様の寝室で休まれては?」 「そのような、不遜な恐ろしき事を!」 「操るのです! 王妃とか言っても、所詮は唯の小娘、ファラオが操るのです。 抱かなければ良いのです、始めのうちは。 最初の晩は、戦の話でもして、疲れたとか言って直ぐに寝てしまうのです。 誰も懐妊していないし、あまり盛んではなかったのでしょう。 王家は世継ぎが不在で、大きな問題になっております。 何れは、あなた様が、王妃様、御側室様を? いや、これは話が、早すぎますな。 万が一、事が露見しそうになれば、このカーメフ介入したします。 その為テーベで控えております。 万が一の時は、この事のやむおえない必要性を説きます。 命をかけて説きましょう。 出来るだけの兵を揃え、テーベで控えております。 今後は身分が違いすぎるので、こちらから拝謁の願いは難しいかと思われます。 必要でしたら、ファラオがお呼びつけ下さい」
セテムは観念して、明日に向けた決意を固めるしかない。
「ファラオ、夜も更けました。 これにて下がる事お許しいただけたらと」 「良かろう。 しょうがない。 もう下がって良い」
カーメフはファラオの足下に頭を垂れ、儀礼を済ませ退出する。
セテムの立場は、身代わりから、真のファラオへと変質しつつある? しかし、事が露見しない条件が必要である。
「明日の凱旋の儀、遺漏なくなく執り行うのだ。 そち達の求めに応じ、凱旋の式典の居り、宮殿前にて余の言葉、数多くの者達に与えることに致そう」
ラムセス二世様は、廷臣達に、明日の凱旋の儀式に関する指示を示すのであった。