王宮への道
下エジプトの都メンフィスでは大勝利を遂げたファラオ・ラムセスの帰還に、街は歓喜に溢れていた。 輿に乗られ、数千の近衛兵、アメン軍団、ラー軍団を率いたファラオは離宮前広場で数万の群衆に聖なる姿をお見せになられる。 まさに神の如き尊きお姿。 群衆は「ホルス! ホルス! 神聖なるホルス!」と歓声を上げる。 ファラオは生きたホルス神なのである。 やがて、ファラオは離宮へと、お入りになる。
カーメフ将軍は、ファラオの閲見の間に恭しい姿勢で入室し、玉座におわします二重冠を戴冠され、聖なる杓丈を手にされるラムセス様に対し膝を突き「偉大なるファラオ、拝謁のお許しを頂き、幸せのいたり」 「カーメフ、苦労である」ファラオは静かに頷かれる。 「まことに恐れ多き願いながら、ファラオ出来ましたら、お人払いを?」 「良かろう、皆の者下がるがよい」
衛兵は、カーメフの武器不携帯を確認し、七名ほどいた廷臣達はラムセスに丁寧に礼をしてから下がり、隣室で控える。
カーメフは玉座に近ずき、床に膝を突く。 ファラオはどうしたことか表情を変え、杓丈を下ろし、威厳が消失してしまう。
「カーメフ様どうなるのですか?」 「よいか、こういう時も人の目があるのだ、注意するのだぞ」とカーメフは床に膝を突いたまま、顔を顰め小声で囁く。 「ファラオらしくするのだ。 ファラオと将軍が密談している様にせねば」
「ファラオは何時お戻りになられるのですか? 偽物と疑われないかと、恐ろしくて恐ろしくて溜まりませぬ。 身代わりは戦の時だけと、露見したらどうしたら良いのです?」 「もう少し続けろ、上手くやってるじゃないか、誰が見てもファラオとしか思えぬ」 「でもメンフィスに来てから武官達は消え去り、回りは廷臣と女官ばかりになってしまいました。 女官と言うのがどうにも困る。 この様な恐ろしき事、もう勘弁して下さい」 「ファラオの身の回りの世話は女官が務めるのが習わしなのだ、もうここは戦場ではないのだ」
「明日はテーベに向けて出発してしまいます。 風向きが良ければ、7-8日で都に着いてしまうのでは?」 「そうだな」 「着いてしまえばどうなるのです?」 「王宮にお入りに成るのだな」 「誰がお入りになるのですか?」 「ファラオがお入りになるのだな」 「どうなるのですか?」 「ファラオが王宮にお入りになる。 大丈夫だろう、それまでにお戻りに成られるだろう」 「ならば良いのですが。 これまでも何回も戻られると、おっしゃていたではありませんか? ファラオはどうされているのですか?」
カーメフは一瞬動揺した表情を浮かべるが、直ぐに気持ちを引き締め「今回は大丈夫だろう、お戻りに成られるだろう。 万が一の時には、今、二重冠を戴冠し、玉座におられる方がとりあえず王宮にお入りになるのだ」 「エ? それは困る! 恐ろしい! そんな大それた事を、この私が! どうか、お許しを!」 「̪シー、声が大きい。 その様な口を利く出ない、今は一応あなた様がラムセス様なのだ」 「・・・・・・・・」
「この務めやり遂げれば、奴隷から解放し、土地と莫大な財産が与えられるのだぞ。 暫し、務めるのだ」 「もしテーベに着いてしまえば王宮だけでなく、後宮と言うと所に入らねばならないのでは?」 「ファラオは夜は必ず後宮で過ごされるのが習わしだからな。 王妃ネフェルタリ様を始め、ご側室様方、王族の御婦人方、数百の女官達、数百の侍女達、宦官達、みなでファラオをお待ちだろう」 「そんな所に入れば、必ず露見してしまうのでは? 全て終わりでは? 考えるだけで、恐ろしさが込み上げてきます」「まあ大丈夫だ、あまり心配するなファラオよ」 「・・・・・・・」
「それよりラムセス様のカルトーシュは覚えたか? ファラオが、御自分のカルトーシュでサイン出来なければ変だ」 「それは。もう覚えました」
「明日からの船旅では武官達は離れ、後宮の女官達に囲まれることになる。 そうなると、わしの身分では煩雑に拝謁は出来ないかもしれない。 ウセルマアトラー・セテプエンラー・メリアメン、ラムセス様。 良い船旅を」
即位名で呼ばれ、セテムの背筋にはますます恐ろしさが込み上げて来るのであった。
カーメフは床に頭をつけ、ファラオ・ラムセスに丁重に儀礼してから、退出する。
廷臣達が入室すると、ファラオは冷たい威厳を取り戻すのであった。
ラムセス二世様が乗船される、ひときわ巨大で豪華な御座船には、百名近くの後宮の女官達を乗せ、ナイルをゆるりゆるりと着実に南へと進む。 御座船の脇には、警護の兵を乗せた小ぶりの船が十隻程並走する。
船の中心には、着飾った女官達に囲まれた、ファラオがおられる。 側室達は、メンフィスに召喚される事を期待していたようだが、ファラオからの沙汰は出なかった。 王妃様は、テーベでファラオの代理の任があるので、メンフィスに来ることは出来なかった。
噂では、ファラオのご寵愛は王妃ネフェルタリ様お一人に向かっていると言う事である。 しかし、王妃様にも他のご側室様にも懐妊の兆しはない。 ファラオ23歳、王妃様19歳の今、お世継ぎの事が少々心配の種に成りつつある。
後宮の高位の女官、宦官からは、ファラオの同腹の妹君イシス・ネフェルト様をご側室に加えてはと言う声が上っている。 王妃の位にも付ける御身分の方なので、第二王妃に即位されてはと言う声も多い。
先代のセティー様で十数名、アメンヘテプ三世様の時代など百名近くの側室が置かれた事に鑑み、ラムセス様の御側室様が六名だけというのは如何なものかというのが、後宮の総意になりつつある。 今回の大勝利もあり、更に多くの側室を置こうと、後宮の女官達は盛んに活動している。 ファラオにお世継ぎをもうけて頂く為にも、国中の貴族の美しい娘や他国の王女等、多数の者が候補に挙げられている。
御座船の中心で、数十名の美しい女官達に囲まれ、何かと世話を焼かれるファラオ(セテム)はこの世の楽園の主の様な立場であるが、内心は緊張し、怯え、辛い立場にある。 これまで、見たこともないような美しい女官に神の様に扱われ「今宵のお相手の者、ご用意いたしましょう」と言われた時は殆ど気が変になりそうだった。 「今宵は、いらぬ」と必死の思いで、返答するのであった。
御座船は北風を受けテーベを目指し、順調に快走するのであった。