王妃ネフェルタリ
ナイルの悠久なる流れ。 偉大なるテーベの都。 東岸に壮大なるアメン大神殿(カルナック神殿)。 その南、少し離れた位置に華麗なるアメン副神殿(ルクソール神殿) 両神殿に挟まれる位置に、ファラオ・ラムセス二世の王宮殿がそそり立つ。 王宮の最深部、ファラオの後宮の奥に、鮮やかな色彩に彩られた華麗なる王妃の居住スペースがある。
一人の若い女が、十数名の侍女に囲まれ、香水沐浴を済ませ、王妃の白い長衣を着付けられ、豊かな黒髪を侍女の器用な手捌きで、細く数多い束に編み上げられていく。 侍女達の手慣れた甲斐甲斐しい働きに、若い女はただ身を委ね、美しい顔にたおやかな微笑みを浮かべている。
一人の侍女が、硝子や象牙の容器に盛られた鮮やかな色彩の様々なコールと様々な化粧具材を恭しく抱えてくる。 「王妃様、お化粧をさせて頂きます。 高貴なる御顏に触れることお許し下さい」 「エー、お願い」女は物憂げにため息をつく様にうなずく。
まだ少女のあどけなさの残る女の顔は、王妃にのみ許される化粧が施され、次第に高貴な王妃の雰囲気に変貌していく。 紫の孔雀石のアイシャドウ、アイライナーがほどこされるとあどけなさは消失し、エジプト王妃の気高い冷厳な表情に変貌してしまう。
銀のブレスレットが細い優雅な上腕に着けられ、金細工の豪華な胸飾りが若い王妃の胸に装着される。 最後に王妃の冠が戴冠される。
「王妃様、女神の様な美しさ、気高さ、たとえ様もございません。 まさに、生きたハトホル女神様でございます」と侍女たち。 「そう、ありがとう」王妃は冷たく、そっけなくうなずく。
『私は女神なんかじゃない。 唯の女。 ハトホル女神だとかアメンの娘だとか言われるけど、重荷なだけ。 ファラオは神で王妃は女神だとか言われるの、辛いだけ。 ファラオもそうだと思う。 王妃にだって成りたくて成った分けじゃない。 先代のセティー様が決めた事。 ファラオは繊細で、大変優しくて、良い方だけど。 女の体には、殆ど興味がなくて、婚姻して五年に成るのに、私は殆ど生娘のまま。 これじゃあ、お世継ぎなんか産めそうもない。 他の側室たちもそうみたい、どうなるのかしら? お世継ぎが出来ないと、大変』と女は心の中でため息をつく。
部屋の外に人々の気配がする。 「王妃様、女官長と宦官の長でございます。 拝謁を願い出ております。 どういたしましょう?」「良い、とうすのじゃ」と女は女官に命じる。
女官長と宦官の長は床に跪き、恭しく挨拶する。
「王妃様、重大な御報告でございます。 素晴らしき、知らせにございます」 「どうしたのだ? 申してみよ」
「神聖なるファラオ率いる我がエジプト軍は、ビブロスの北方カデシュの地にて、ヒッタイト王率いるヒッタイト軍を殲滅いたしました。大勝利でございます」 「そうか、それは素晴らしい、嬉しい、大勝利とは! で、ラムセス様はご無事か?」 「勿論でございます。 それどころか戦の終盤、御自ら近衛兵を率いて突撃し、敵は一挙に総崩れになったそうでございます」宦官の長は誇らしげに答える。
「何と、自ら兵を率いて突撃とは。 あの気弱な、臆病なラムセス様が。 いえ、こんな事言ってはいけませんね」王妃は少し慌てる。
女官長と宦官の長は、優しそうに王妃を見つめ、少し微笑む。
「この知らせ、後宮全体に告知せよ。 神殿の神々に感謝の捧げ物を用意せよ。 わたくしが神殿に参り、自ら捧げる」
居室に戻ると、王妃は侍女達を下がらせる。 一人になると喜びが更に込み上げてくる。 『ラムセス様が、あのラムセス様が! あの気弱で臆病でしょうがないラムセス様が! 今回の戦でも恐れ怯え出陣を嫌がり。 このわたくしなども励ましてやっと出陣されたラムセス様が、自ら近衛兵を率いて突撃し、あのヒッタイトの戦車部隊を打ち破るとは! 自ら太刀を振るい弓を射て、多くの敵兵を討ち倒すとは!』
王妃は、気弱で臆病ではあるが、繊細で優しい夫を心より愛しているのである。 喜びに身を振るわせ、笑みを浮かべるのであった。
『ラムセス様お強くなられて、本当に良かった、嬉しい。 早くお帰りになって欲しい。 それから・・・・・』 王妃は或る想像に胸を高鳴らせ、少し顏を赤らめるのだった。
『もしかして、この戦を契機にラムセス様もっとお強くなられて、もっと責任感を持たれるようになって。 私の事だって、決してお嫌いじゃないのだし。 お世継ぎの事も、もっと積極的になられるのでは? またお誘いしてみよう。 もっと綺麗にならなくては。 王妃の衣装、お化粧で気に入って頂けるかしら? でも王妃の立場では、あまり娘の様な姿にはなれないし』
美しき王妃ネフェルタリは愛する夫ファラオ・ラムセスの帰還を心より願うのであった。
丁度その時刻、ビブロスからの軍船に揺られ、下エジプト・メンフィスへの帰還の途にあるファラオの姿をさせられた奴隷セテムは、王妃ネフェルタリの絵姿を目にして、強い感動に揺すぶられた。
『それにしても王妃様って美しいな! とても人とは思えない。 まさに女神様だ! 俺は何時までこの役をすれば良いのだ? 疑われたら、どうするのだ? ばれたら、どうしたら良いのだ? このままテーベの都まで連れた行かれたら? この女神様に会うのかファラオの振りをして、この俺が! 女神様には全て見ぬかれてしまうだろう。 恐ろしい、だだただ恐ろしい』