戦場②
「ファラオ、戦局はわが軍に有利に推移かと」脇にいる武官は説明するが、両軍が砂塵を巻き上げ激突するのが見えるだけで、俺には味方が有利とは少しも思えない。
ファラオの鎧をつけさせられ、教えられたとうりにファラオに見える様に振る舞い、本営にいる。
戦を眺めながらふと思う。 もし負け戦ならどうなるのだろう?
俺は奴隷なのだから、本来はこの戦とは無関係だ。 でも負け戦ならファラオとしてここにいるのだから、当然ヒッタイトは攻めかかってくるだろう。 俺を殺そうとしてくるのだろう? そうなったらどうすれば良いのだろう? あるいは、負け戦で殺される役なのか、俺は? それは嫌だ、奴隷だって死ぬのは嫌だ、恐ろしい。
その時、カーメフ腹心の部下で、俺を入れ替わらせた武官がが近ずいてくる。 真剣な表情の彼は地に膝をつき一礼する。 「ファラオ! 時期が熟して来たように思われます。 我らも、戦闘に参加すべきでは?」
俺は何と答えて良いか分からず、暫し沈黙し、躊躇し、戸惑い、恐れ、怯える。 ところが如何したことか本来奴隷であり、弱く惨めなはずの俺のなかから、何かが突き上げて来るのを感じた。 恐れが怒りに、躊躇が勇気の様なものに変貌して来るのであった。 俺だって、殺されるのは御免だ。 それならいっその事、戦った方が良い。 戦おうではないか。
「分かった、総攻撃に移ろう! 戦車を用意しろ、余も戦闘に参加する!」と奴隷のぶんざいで答えてしまう。
それを聞いた、近にいる将兵達から「ファラオ、御自らの指揮で総攻撃とは!」感激し喜びに満ちた声が響き渡る。 その声は忽ち周囲に伝播し、「ファラオ! ファラオ! 偉大なるファラオ!」と言う叫び声が親衛軍全体に轟くまで、あまり時間はかからなかった。
俺の前に、ファラオ・ラムセスの戦車が用意され、その戦車に恐る恐る俺は移乗する。 数百両の戦車、数千の歩兵集団が、俺の戦車の周囲を幾重にも囲む。 突如、ファラオ親衛軍の士気は、噴火する火の山の様に吹き上げたのであった。
まるでファラオであるかの様に、偽ファラオの俺は「アメン神の導きにより、仇敵ヒッタイトに懲罰を加えん。 者ども、進め、総攻撃だ!」とこれまで出した事がない程の大声で叫ぶのであった。
ファラオ親衛軍は物凄い勢いで、ヒッタイト歩兵部隊の陣に、突入して行く。
俺の戦車は前へ、前へと前進し続ける。 それに合わせ、周りの兵達は「ファラオをお守りせよ! ファラオをお守りせよ!」と叫びながら、前進を続けるのであった。
其れまで、精強に戦い続けてきたヒッタイト軍は、ファラオ親衛軍の急激な一撃に狼狽する。 指揮官達は懸命に部隊を引き締めるようとする。 が、ファラオ親衛軍の更なる、攻撃、急襲、突撃。
「ファラオ! ファラオ!」と叫びながら前進して来るエジプト兵に抵抗していたヒッタイト歩兵部隊の一部に恐怖の叫びが起こり、やがて戦闘を放棄するものが現れ、恐慌はヒッタイト全軍に広まり始め、指揮官達は引き締めようとするが、逃亡しようとする自軍の兵を殺害し部隊を支えようと試みるが、逆に混乱は広がり、ヒッタイト軍は崩壊して行くのであった。
戦車上の俺は青銅の剣を抜き「討て! 討て! 突撃せよ!」と狂った様に叫び続けた。 ヒッタイト兵の放つ弓矢が飛来し、何本かは俺の戦車にも命中するが、どうしたことか全然恐ろしくはない。 奴隷が何故、こんなことをするのか? 頭にはあるのだが、無我夢中でファラオの姿をした俺は叫び続けるのであった。
やがて、俺の目にもヒッタイトの本営が視認出来るようになってきた。 ヒッタイト王の姿が見える。 40前後の体格の立派な、威厳に満ちた男だ。
「王を討て! ムワタリを討て! ヒッタイトを滅ぼせ!」俺は狂ったように叫び続ける。
エジプト各軍団は、崩壊したヒッタイト陣を抜け、ムワタリの本隊に迫り、肉薄する。 ムワタリの本隊は戦いながら後退して行くが、後ろにオロンテス河が流れる。 もはや、王も万事窮すか? 千名程のヒッタイトの槍部隊が防衛線を築き、立ち塞がる。 槍部隊は、二万を超えると思われるエジプト軍に果敢に抵抗する。 その間にヒッタイト本隊は渡河に成功し、北方に逃亡する。 槍部隊の兵士達の大部分は壮烈な戦死を遂げた。
戦闘が終了した草原には、破壊された戦車の残骸が飛散し、戦死した数千もの遺体が散乱していた。
夕日は美しく輝き、三千を超える捕虜となったヒッタイト兵が、茫然と地面に座り込んでいた。
捕虜を囲む、エジプト各部隊は勝鬨の声を上げ、神々への感謝の祈りを捧げるのであった。
兵装を解かれ、聖なるお姿に戻られたファラオは輿に乗られ全軍の前にお姿を見せられる。 夕日に照らされるそのあまりに神々しきお姿に、兵士たちは尊崇の気持ちを更に深めるのであった。