ファラオの夢
デンデラの街の中心に設けられた、ファラオの仮宮殿。 周辺は多数の衛兵達が固め、深夜でも警戒を怠りない。 仮宮殿の内部には後宮女官達が詰める。 中心にファラオの御寝室があり、周囲には数十名の女官達が控え、7-8名程が寝ずの番を務める。
「ファラオ、メンフィスからの船旅の間、ずっとお一人でお休になられてきた。 女官をお召しに成ることはなかった」控えの間で、女官が小声で話す。 「テーベの後宮にいると、女官長様始め、上の方達が『お世継ぎ!お世継ぎ!』と、ファラオを責め立てる! ファラオも大変、お辛いみたい。 戦では大層な御活躍だったそうだけど、後宮に戻ればまた『お世継ぎ! お世継ぎ!』って攻められるのね。 王妃様が御懐妊されると、良いけれど、何だか無理みたい」小柄な若い女官は小声で囁く。 「噂だけれど。 ファラオ、王妃様とも他のご側室様とも本当に交わる事は、殆どないんじゃないかって?」 「それじゃあ、何方も御懐妊するわけないわよね!」 「女官でも、ご寵愛を狙っている人も結構いるみたいだけど。 どんな綺麗な子でも全然相手にされない」 「王妃様なんか、あんなにお綺麗なのにね!!」 「ファラオ、もしかして女に興味ないんじゃない?」 「それじゃあ困るわね、後宮の上の人たちが、お世継ぎの事で騒ぐのも、もっともなのかもしれない?」 二人の若い女官の会話に、年かさの女官が顔を顰め、やめるように目配せする。
一人で休まれるファラオは、しばしば寝返りを打たれ、熟睡はされていないご様子が伺える。
『やはり、逃げるか? 隣室の女達は特に警戒はしていないだろうから、抜けだすのは不可能ではない。 だが、俺が抜けだした事は、直ぐに知られてしまうだろう。 最初は「ファラオはどこへいらした?」と言う位だろうが、直ぐに大騒ぎになるだろう。 仮に宿舎から脱出できたとしても、外の衛兵達の配備状況は分からない。 街に脱出出来たとしても、デンデラの街でうろうろしていれば、直ぐに発見されてしまう。 ナイル沿いに北か、南に逃げれば良いが河川沿いには兵士も役人も多い。 砂漠に逃げれるしかない、助けがない砂漠に行けば数日で天然のミイラになってしまうだろう? カーメフの言うとうり、どう見ても、俺は逃げられない。 明日はテーベの王宮殿でファラオを務め。 夜は後宮で務めを果たす事になってしまうのか? それにしても後宮でどうするのだ? ファラオの妻達と本当に交わるのか? 気がおかしく、なりそうだ』
やがて、ファラオは静かな寝息を立てられるようになった。
「王妃様、王子様をお連れ致しました!」 「ラムセス、よく来たわね。 早く、こちらにいらっしゃい!」美しい女性に呼ばれる。 近寄ると、美しい衣装を纏う女性は俺を、優しく抱きしめてくれる。 とてもかぐわしい香りがする。 どうしたことか、俺は小さな男の子なのだ。 「ラムセス、立派なファラオにおなりなさい。 慈悲深き、民を慈しむファラオにおなりなさい!」 「でも母上様、僕はラムセスではありません。 ですから、ファラオにはなれません。 セテムです、僕は奴隷のセテムなのです」 美しい女性は、俺の頭を撫ぜてくれ、額に優しく接吻をしてくれる。
「ラムセス、可笑しな事を言うのね。 あなたは、卑しい奴隷なんかじゃないわ。 尊きセティー様の御子。 必ずファラオに即位する、御子様なのよ。 でも、卑しきものにも、慈悲の心を忘れない、ファラオになってね」
俺は、美しく優しい王妃に抱きしめられて、心地よさ温かさと安心感に包まれる、限りない幸福感に覆われる。
「ファラオの御成りでございます!」 三十代と思われる、堂々たる物腰の、ファラオの略装を着けた男が入室して来る。
王妃の腕から俺を受け取ると「ラムセス、また大きくなったな! 強くなるのだぞ! 強き、ファラオに成るのだ!」俺は抱き上げられ、高々と父の頭上に持ち上げられる。
「ファラオ、また御出陣にござりますね?」 「そうだ、明後日レパントに向け出発する。 ヒッタイトの奴らを叩かねばならない!」「御即位されてから、戦ばかり! あなた様の御無事と大きな戦にならぬ事を、神々にお祈りいたしております」 「トゥーヤ、女が戦事に口出̪してはならぬ。 子を産む事と養育だけに専念しろ。 それが女の仕事だ。 ラムセス強いファラオに成るのだぞ 必ず、強きファラオになるのだ!」
ファラオは俺を抱いたままで、王妃に熱い接吻を繰り返す。
『アッ! アー。 夢か! 何だろう? 今のは? あれは、ラムセスの母トゥーヤだな。 ぬくもりが、今も感じられる。 何で俺が、ラムセスの母に抱かれ、父のファラオに抱かれているのだ? 夢の中で俺はラムセスだった。 俺は母の事は覚えていない。 母は二十歳位であの奴隷小屋で死んだと聞く。 あれは、ラムセスの母なのだろうか? 王妃の姿をしていたが、本当は俺の母なのかもしれない?』 セテムは複雑な気持ちではあるが、これから起るであろう事に対する気持ちが、少しだけ晴れやかになった。
東の空が、白み始める。 7-8名の女官が寝室に近寄り「尊きファラオ、起床の時刻でございます。 御入室,お許し頂けたら幸いにございます?」 少ししてから「よい、入るのだ」とファラオは小声でお答えになられる。
女官達は床に伏せ、聖なるファラオに対し朝の儀礼を執り行う。
女官達にファラオは浴室へと導かれる。
ファラオは浴槽にお浸かりになられ、女たちの華奢な手で、宝物でも扱う様な丁寧極まりない手つきで、御体をお清められる。
「ファラオ、聖油の塗布にござります」 ファラオは微かに頷かれる。 神である尊きお方は感情を示される事は極めて稀なのである。 ファラオも幼き頃より、後宮でその様に教育されてきたのである。
女官達が、聖なる香油を丁寧に塗布していく。
『何という暮らしなのだ! 若い美しい娘たちに、入浴させられ、全身に香油を塗り込められる。 神として扱われる。 今日で、八日めだがずっとこれが続くのか! この暮らしに慣れなければならないのか?これがファラオの暮らしなのか! 俺は、どうなるのだ?』
ファラオが乗られた輿は、千名前後の女官、廷臣、警護の兵を従え、ナイルの桟橋へと向かう。 ホルス神である、聖なるファラオの姿を一目、目にしたいと、多数の者が地に伏せるのであった。 デンデラの民は、神々しきファラオの御姿に、涙を拭うのであった。
ファラオが乗船された御座船は、一路テーベの都へとナイルを快走する。
『デンデラを出てしまった。 あとは、テーベに着き、宮殿に入るだけだ。 もはや、都に入ってしまえば脱出などますます難しくなり、殆ど不可能だろう。 どうなるのだろうか?』神々しきお姿のファラオは外見とは、大きな乖離のあるお気持ちのまま、テーベに帰還される。