奴隷
BC1274年。 古代エジプト、新王国時代。 ラムセス二世の治世の下、エジプトは繁栄を極めようとしていた。 オシリス神の御子ホルス神として、生きた神であるファラオの威光はエジプト全土に満ち溢れていた。
俺は、ファラオに従う将軍カーメフ様の奴隷。
父も母も奴隷。 祖父の代にカナンの地から戦争捕虜として連行されてきたらしい。
読み書きが出来るので、書類作成が仕事。 書記奴隷だ。
明るい時間は、お屋敷の隅の小部屋で、ヒエログリフ、ヒエラティックと格闘。
夜は、お屋敷の外の小屋に、他の奴隷たちと共に監禁される。
食物は、粗末なパンと野菜、少々臭いビールが与えられている。 特に飢えているわけではない。
奴隷の暮らしになんの喜びもない。 しかし、逃亡する勇気も気力もない。 逃亡奴隷は、捕まれば殺されるのが不文律だ。 だいたい、俺には行くところもない。 逃亡する勇気もない。 肉体労働の奴隷は三十まで生きられる奴は稀だ。 書記奴隷はもう少し生きられるか?
名は、セテムと言う。 年は、23になる。
ある日、将軍様の腹心の部下に呼ばれ、「ついて来い」と命じられる。 一度も入ったことがない、将軍様の出務室の前に連れて来られる。
内から、「入れ」という声が聞こえた。 促された俺は、床に頭を垂れながら、押し込められる様にして入室する。 床に頭を付けたまま、「ご主人様御恩は死んでも忘れませぬ」と言う奴隷の決まり文句の挨拶をする。 「そのような挨拶などいらぬ、立て!」と命じられる。 立ち上がると、「その椅子に座り、こちらを見ろ!」と命じられる。 奴隷が主人の前で椅子に掛け正面を見るなど、絶対に許されないことなので躊躇するが、強い口調で命じられたので、従うしかない。
俯きながら前を見ると、何回か遠くから姿を見たことがある、40代の逞しい方が、俺を見つめている。 カーメフ様だ。
カーメフ様は俺を見つめると、 何故か不思議そう表情を浮かべる。 不可解で居心地が悪い。 「セテム。 立ってみよ」従う̪しかない。 「歩いてみろ」従うしかない。
「セテム、エジプトの大地は聖なる神々の大地なりと言ってみろ」 「エジプトのだいちはせいなるかみがみのだいちなり」奴隷の俺は従うしかない。 「余はオシリスの御子なり」と言ってみろ。 「よはおしりすのみこなり」分けが解からぬが言われたとうりにするしかない。 「我が妃は、ハトホル女神の生きし姿なり」と言ってみろ。 「わがきさきははとほるのいきしすがたなり」
カーメフ様は不思議そうな表情を浮かべ、不可解な笑みを浮かべられる。
さんざん奇妙な事をやらされた挙句「セテム、明日から別の作業をやれ。 力仕事ではない、楽な仕事だ」 「ヘー、どんな作業で?」 「それは聞かぬで良い、これまでより待遇はよくなる。 分かったな」 「ヘー、ご主人様」 「もうそう言う口の利き方はいらぬな」とまた不可解な笑いを浮かべる。
楽な仕事が与えられるのは嬉しいが、不可解で、不安でもある。