鷲掴みにされた
それは、鉄殻陸亀という魔物だった。
背中や頭部を鉄のような硬い甲羅で覆われた、亀型の魔物。守りは硬いが、動作は遅い。それに、特別な攻撃方法を持っているわけでもない。通常、そこまで脅威度の高い魔物とは認識されていなかった。
それでも、この個体は大きすぎる。
正面から見た高さが5メートル、横幅は10メートルになろうかという巨体。言ってみれば鉄製の建物に戦いを挑むようなものだ。無謀もいいところである。
亀は目を真っ赤に充血させ、グルグルと唸りながら涎を流している。狂ったように前足をドンドンと踏み鳴らすと、そのたびに地面が大きく揺れた。
こんなやつが町を襲ったりなんてしたら大変だ。
俺とレミリアは魔物の足を避け、右回りに迂回する。
「レミリア、状況は?」
「ん。近接攻撃でも魔法でも甲羅を破れてない」
「この巨体で硬いのはやっかいだね」
小走りで会話を続けながら対処を考える。
「同行者は気絶した。命に別状はないけど」
「あの人、血まみれじゃなかった?」
「……魔物の返り血。大怪我はしてないはず」
それは良かった。
俺は頷きながら、右の手甲に【ハンマー】を展開した。
「いろいろ試してみよう」
「?」
左の手甲には【ロープ】を、両足のブーツには【スプリング/ウォール】を展開する。レミリアは目を丸くしてこっちを見てるけど、説明は後回しだ。
スプリングの魔法陣を起動して、跳ぶ。
右手甲のハンマーは、斬る武器が効きづらい硬い魔物への対処するための武装だ。通常の大きさの鉄殻陸亀であれば、これで頭を叩けば十分倒すことができるけど。
「――この大きいやつにも効くかな」
柄を長くしたハンマーをぐるぐる回しながら、ウォールとスプリングで亀の頭上高くまで跳ぶ。そして、自由落下しながら狙いをつける。
「さて……とっ!」
ハンマーを頭部へと叩きつけると、大きな激突音が響いた。
「グルォォォォォ……」
鉄殻陸亀は不機嫌そうな唸り声を上げる。少しは効いたようだが、残念ながらそれほどダメージは深くない様子である。
亀はこちらを睨みつけると、足をどんどんと踏み鳴らし始めた。俺は宙を跳ねて、一度レミリアの元へと降りる。
「やっぱり硬いな」
「……リカルド、やるね」
「あんまり効いてないけど」
ここからどうするか。
考えていると、俺の肩がトントンと叩かれる。視線を向ければ、レミリアはコクリと頷く。
「リカルド。私が魔法でやる。少しの間、魔物を引きつけておける?」
「うーん。まぁ、やってみるよ」
そう答え、俺は再度亀の前に出た。
空中に足場を作って跳ねながら、亀の横面をハンマーで叩いて挑発する。怒り狂った亀は俺を睨み、重そうな体をジタバタと捩っては首を伸ばしてくる。
そうしている間に、レミリアは少し離れて詠唱を始めていた。
俺は左手甲からロープを伸ばし、宙を跳ねながら亀の首に巻き付いていった。締め上げれば、亀は苦しそうに呻きながら、荒々しく地面を踏む。
このまま行けるか、と思った瞬間。
亀はブンと大きく首を振り下ろした。魔力のロープは千切れ、俺は亀の前方へと飛ばされる。
「これじゃこっちが振り回されるか」
足場を蹴りながら舞い戻る。
亀は俺を一瞥すると、フンと鼻息を漏らし、別の方向へと首を向けた。視線の先には――
「レミリア、逃げろ!」
俺は叫びながら、ブーツの魔法陣を【ブースター】に切り替える。そして、一気に加速してレミリアのもとへと飛んだ。
真っ直ぐ飛び、ハンマーを構える。
「俺の嫁に、手を出すな!」
今まさに、レミリアに噛み付こうとしている亀。
その頭部に思いきりハンマーを叩きつけると、俺はそのままの勢いで地面を転がった。見れば、レミリアは無事にその場を退避したようだ。
頭上からはポツリポツリと雨が降ってくる。
俺がゆっくり体を起こすと、レミリアが慌てた顔をして走り寄ってきた。
「リカルド……大丈夫?」
「いてて。まだ【ブースター】は試作段階なんだよ。ちょっと制御が難しくてさ」
体を確認するが、幸い骨折などはしていないようだ。そう思いながら顔を上げると――何やらレミリアの顔が赤い。どうしたんだろう。
「そういえば、魔法は?」
そう聞くと、レミリアは上空を指す。そこには黒い雨雲が、亀の上にだけできていた。雨足は段々と強くなっていき、亀の体へと叩きつけるように降って来ている。
「氷嵐魔法【雨雲召喚】……本当はもっと大掛かりな魔法なのを、命力でゴリ押しした」
「へぇ、さすがだなぁ」
俺の作る魔道具じゃ、ちょっとこれは再現できないな。そんな風に感心していると、レミリアが俺の袖をちょんちょんと引っ張る。
「あの…………ところで」
「ん?」
「私は……リカルドの、お嫁さん……なの?」
あ。
さっき、そんなことを口走った気がする。
つい勢いに任せて。
俺はレミリアの目を見つめた。
「うん」
「そっか」
レミリアはそう呟くと、亀の方を向いて毅然として立った。
亀は唸りながら頭を左右にブルブル振っている。そして、先ほどまでより目を血走らせ、激しく足を踏み鳴らしていた。どうやらそれなりにダメージが通ったようだ。
俺とレミリアは再び駆け出す。
「リカルド」
「何?」
「甲羅に穴を開ける方法はある?」
「多分。穴さえ開けばいい?」
「うん。小さくても穴さえ開けば、魔法が通るようになる」
「やってみる」
俺は頷いて、スプリングで跳んだ。
空中を駆け回ってチャンスを探る。
亀は俺に怒りの感情を向けていた。それゆえか、その動きも先ほどより機敏になっていて、なかなか狙いをつけられない。
するとその時だった。
上空を跳ねる俺に向かい、亀の顔がぐっと近づいてくる。
「伸びた!?」
なんとか避けながら見れば、なんと亀は後ろ足二本で立ち上がっていた。この動きは想定外だ。
「くっ、立てるのか」
機敏な動きに虚を突かれ、俺は体勢を崩す。
そこへ、亀の前足が襲いかかってくる。
目の端で、レミリアが詠唱を切り替えるのが見えた。
俺はその場を離れようと、空中の壁を蹴る。長く伸びた亀の首は俺を追ってきて、その意外な素早さに冷や汗が出た。
大きく開いた亀の口が俺に迫り──。
ビュッと風が吹く。
すると、亀の濡れた体が凍りついた。
「氷嵐魔法【氷の棺】……」
レミリアのささやき声が聞こえる。
間一髪、俺はレミリアの近くの地面に転がった。
「助かった、レミリア」
「うん……。私の、旦那さんに、手は出させない」
そう言って彼女は微笑む。
心臓を鷲掴みにされた俺は、彼女に抱きつきたい衝動をどうにか抑え、再び亀に向かって跳んだ。
亀は凍った体を不器用に動かす。動きは遅い。
俺は左手甲から【ロープ】より頑丈な【チェーン】を伸ばすと、亀の体に巻き付け始めた。そして、レミリアが詠唱を始めるのを見ながら、上空へと足を進める。
空高くにウォールを作り、その上に立つ。見下ろせば、亀はずいぶんと小さく見えた。ずいぶんと高くまで来たものだ。
覚悟を決め、ウォールを蹴る。
そして左手甲の【チェーン】を巻き取りながら、右手甲の【ランス】を高速回転させる。改めて見ると、この武装はランスというよりドリルっぽいかもしれないな。
徐々に亀の背中が大きくなってきた。
アルファと共に最適なタイミングを図る。
『3……2……1……』
俺は重いランスを高速で投げる。ランスはチェーンを伝い、亀の甲羅に刺さった。
投げの反動で、俺の体は大きく減速した。
その間に変形外套に手を当てて【ハングライダー】を起動すると、外套の背から魔力の布が広がる。そのまま滑るように空を降りてゆく。
「さて、これで甲羅に穴は開いたと思うけど」
これからどうするんだろう。
そう思い、レミリアの方へと目を向けた。
彼女は空に手を向けていた。雨雲からゴロゴロという音が聞こえてくる。
「あ、もしかして……」
俺は急いで耳を塞いだ。
轟音。
太い雷が鉄殻陸亀の背に落ちた。
亀は大きく痙攣したあと、その動きを止めた。
俺はゆっくりと空を滑り、レミリアのそばへと降り立つ。彼女は疲れたのかぐったりしていたけど、大きな怪我をしている様子もない。良かった。
俺とレミリアの顔をまじまじと見る。
「久しぶり、レミリア」
「……ん」
レミリアはてくてくと歩いてくると、俺の腕の中にすっぽりと収まる。頭を撫でると、彼女の腕が俺の体にしがみついてきた。
彼女の長い耳を弄くり回しているうちに、空の雨雲は静かに消えていった。





