面白かったな
バタバタと忙しかった冬が過ぎ去り、もうすっかり春になっていた。
早いもので、グロン兄さんは14歳になり、その顔つきもすっかり大人びていた。それに続くように、ミラ姉さんは11歳、俺とレミリアは7歳、フローラは3歳になっている。
元老院議会が始まるまで、あと15日ほど。
その冒頭で貴族の任命式があり、我が家が正式に中級貴族になるのはそのタイミングらしい。
「ふむ……もうすぐ任命式か……ぉぇ……」
父さんは今も部屋の隅で四つん這いになって吐いている。ただそれでも、この頃は覚悟が決まってきたのか、夜中に母さんに泣きつく頻度は減ってきていた。
秋頃なんかはもっと酷かったからなぁ。ある時なんて、昼寝をしながら「メイラ、メイラ……」と手を伸ばし、弟子のナーゲスに抱きついて頬を擦り付ける、なんて事件も起きた。
その頃に比べれば、父さんの表情もずいぶんとキリッとしている。本番には強い人だし、たぶん大丈夫だろう。
リビングのソファに体を預けながらそんなことを考えているところで、入ってきたのはグロン兄さんだった。
「リカルド、ここにいたのか。そろそろ荷積みが終わるから、出発の準備だ」
「うん分かった、すぐ行くよ」
俺はそう答え、立ち上がって背伸びをする。
窓の外には二台の猪車が並び、奴隷の兄さんたちが様々な荷物を運び込んでいるところだった。大小各種の魔道具や、食料、嗜好品、衣料、身の回りの細々したもの……いざ引っ越しとなると、必要なものは意外とあるものだ。
ちなみに猪車というのは、この世界で長距離を移動する際によく使われているもので、力の強い猪に車を引いてもらう乗り物だ。
専用に育てられた猪は、野生のものよりも体が大きくて力があるけれど、その割に気性は大人しくて頭もいい。御者の言うこともよく聞くし、ずんぐりむっくりな体でフルーツを食べる様子は見ていて微笑ましい。
玄関から庭に出ると、そこでは母さんとレミリアが何やら顔を寄せ合って話をしていた。
「あぁ、リカルドも来たわね。二人とも……本当に気を付けるのよ。絶対に無理はしないこと。何か困ったことがあれば、すぐに連絡を寄越して」
「ありがとう、母さん」
レミリアの横に並ぶと、母さんは膝をついて俺たちを抱きしめた。いつも気丈な母さんには珍しく、その目は不安げに潤んでいる。俺たちの年齢で親元を離れるというのは、心配ごとも多いのだろう。
俺は母さんに笑いかけ、その背中をポンポンと叩いた。
「大丈夫、信じて待ってて。みんなが来る頃には、少しは住みやすい領都になってるはずだから」
父さんは春が終わるまでずっと忙しいだろう。
春の中旬頃までは元老院議会に参加し、それが終われば配下の下級貴族や職業協会との交流が待っている。貴族子女の成人式やお披露目会、各事業の経営計画をまわりくどく擦り合わせる社交パーティ、その年の税に対する取り決めなど。その活動は決して、一般の平民がイメージするような華やかなものばかりではない。
もっともそのあたりの流れは、どの中級貴族も似たようなものらしい。雪が溶けて移動しやすくなる時期に王都に集まってきて、暑い夏が来る前に領地に戻っていく。ドルトンさんのようにずっと王都で暮らしている人もいるみたいだけど。
「リカルド、準備はできたか?」
「うん、兄さん。いつでも出発できるよ」
「そうか。道中、気をつけてな」
そう言うと、グロン兄さんは俺の手を握った。
兄さんは王都に残って仕事がある。クロムリード家の跡継ぎとして父さんのサポートをしながら、他の中級貴族と交流の輪を広げる必要があるのだ。
幸いにも、ドルトン家の娘であるマール姉さんとの婚約を発表したから、そこを起点に横のつながりが徐々に出来つつあるらしい。
「兄さん、こっちは頼んだよ」
「あぁ。新しい屋敷も任せておけ。お前が驚くようなものにしてやるからな」
「うん。楽しみにしてる」
視線を合わせると、兄さんはニヤリと口の端を上げた。
現在の下級貴族用の屋敷では、中級貴族にとっては狭すぎる。他の貴族を集めて大規模なパーティをする必要もあるし、他国の要人や上級貴族、王族が訪ねて来ることもあった。
そんなわけで、貴族街に新しく用意する屋敷は、兄さんが責任者となって設計が進んでいた。その詳細は俺も聞いていないけれど、兄さんが仲良くしている甲殻族の建築家がいろいろとアドバイスをしてくれているらしい。
「リカルドも、領地の方は頼んだぞ」
「うん。計画通りに進めるよ」
「あぁ。秋にまた会おう」
父さんと兄さんは忙しいため、領地の方は俺が担当することになっていた。
と言っても、向こうでやることは冬の間に散々話し合ってきたし、春が終わるまでには魔導書を使った遠距離通信も出来るようになるだろう。
そんなことを話していると、俺たちの間に小さな影が割り込んできた。
「りーにぃ! もういくー?」
「あぁ、フローラ。行ってくるよ」
俺の足にギューっと抱きついてくるのは、妹のフローラだ。可愛い。彼女は俺の太ももに頬をスリスリと擦り付けてから、ポケットに手を入れて何かを探している。そうやって取り出したのは、不器用に折りたたまれた一枚の紙だった。
「はい、りーにぃ! おてがみ!」
「ありがとう。ここで読んでいいかな?」
「うん!」
俺はこみ上げてくる愛おしさに胸を締め付けられながら、その紙を丁寧に開いた。
『おいしい ぎょかいるい たべたい』
あぁ、魚介類か。
魚好きだもんな。
クロムリード領は幸いにも海に面している。王都に暮らしているよりも新鮮な魚介類が手に入るだろうから、フローラが来るまでには美味しい魚介料理を食べられるように手配しておこう。
「お手紙ありがとう、頑張るよ」
「うん! よろしく!」
あぁ、天使による最高の激励だ。
この手紙は大事にお守りにしておこう。
海といえば、リビラーエの町を管理している下級貴族のモリンシーさんだよな。
冬の間に、町の職業組合の組合長連名で父さん宛に挨拶の手紙が届いたんだ。丁寧な文面だったけど、あんまりリビラーエの町を引っ掻き回さないでね、という念押しのような内容だった。
兄さんはあまり彼を好ましく思ってないらしいけど、俺としてはなかなか面白い人だと思う。美味しい魚介類を手に入れるためにも、仲良くできるといいんだけどな。
「いいなぁ、私も領地に行きたい……」
そう言って少し離れた場所で、拗ねているのはミラ姉さんだ。でも、今年の姉さんには重要任務が一つある。
婚活だ。
みんなに手を振ると、俺たちは猪車に乗り込む。領地に向かうメンバーは、俺とレミリア、鬼族のナーゲス、護衛として竜族のトリン、アリーグ、ニシュの3名。それに御者奴隷2名を加えた計8名だ。
「じゃあ、行ってきます」
猪車の木窓の景色が、ゆっくりと動き始める。
職人街を抜け、中央広場から大通りへ。王都での暮らしも面白かったな……。これまでのことを色々と思い返しながら、王都の西にある大きな門をくぐり抜ける。
方角は南西、天気は良い。
のんびりと6日ほどの旅になる予定だ。
車職人たちが作った最新型の猪車は、揺れも少なく乗り心地が格段に改善していた。
車椅子の関係で一緒に仕事をした車職人と、一度衝撃吸収についての話をしたことがあるんだけど、どうやらこの車にはその技術がふんだんに取り込まれているらしい。
窓から入る春の風は、柔らかく頬を撫でる。
つい瞼が落ちそうになって……。
「……いいよ」
「レミリア?」
「……膝枕」
促されるままゴロンと寝転がると、俺の頭がひょいと持ち上げられ、柔らかい太ももの上に乗せられる。視線を上げれば、彼女は穏やかな顔で俺を覗き込んでいた。
「少し……寝てて……?」
「ん、ありがとう、レミリア」
陽気を含んだ風の中には、花の匂いがほんのり混じっている。目を閉じてそれを深く吸い込みながら、俺の意識はそのままストンと落ちていった。
 





