全く役に立たなかった
厳しい冬も過ぎ去り、俺は5歳になった。
母さんのお腹は順調に大きくなって、もういつ赤ん坊が生まれてもおかしくない。この頃はなんとなく落ち着かない気持ちで日々を過ごしていた。
「はぁ……」
暖かい風の吹き込むリビングでは、兄さんが今日何度目かになるため息をついた。思い返せば、冬の間もどこかぼんやりとしていた気がする。俺とミラ姉さんは、顔を見合わせて首を捻った。
「兄さん、何か悩み事?」
「ん? いや、特に悩みはないぞ」
「でも、最近ため息ばかり吐いてるよ」
「そうだったか? すまない、疲れが溜まっているのかもしれないな」
そう言うと、再びため息をついてはボーッとしている。
魔道具職人の修行が行き詰まっているというワケでもなさそうだから、前のような悩みではないんだろうけど。
グロン兄さんが紅茶を口に含む。
するとそこで、ミラ姉さんが思いついたように口を開いた。
「――グロン兄さん。想い人はどんな娘なの?」
兄さんはブホッと紅茶を吐き出す。
俺はゴホゴホと咽ている兄さんの背中を叩きながら、どういうことかとミラ姉さんを見る。
「ほら。やっぱり恋ね」
「ミラ、あんまりグロンをからかわないの」
「だって分かりやすいんだもん」
胸を張って満面の笑みを浮かべたミラ姉さんを、母さんが軽く嗜める。家事奴隷のお婆さんが布巾を持ってきて床を掃除しているけれど、心なしかその顔も笑っているようだった。
「か、かかか勝手なこと言うなっ!」
「ふふ。お義姉様はどんな人かしら……チラッ」
「んぐっ……」
なるほど、この様子を見ると間違いではないらしい。それでずっとぼんやりしてたのか……。
ただ一つ分からないのは、今現在俺たちの身の回りに、新しい出会いなんてそう転がってないと思うんだ。
特に兄さんは、去年はずっと職人の修行や研究をしていたし。貴族の当主や嫡男なんかが集まる会合にも忙しなく参加していたけど、お見合いのような話は出てなかったとも思う。
近くにいる、身内以外の女性と言えば――
ふと、俺の視界に家事奴隷のお婆さんが入る。
まさかね……いや、性的嗜好には様々な種類があるから、可能性はゼロとは言えない。まぁ、跡継ぎを作らなきゃならないって観点からすると微妙な選択にはなるけど、どうしても兄さんが望むのなら俺としては応援したいところだ。
「……兄さん」
「リカルド……。たぶん、お前の想像は大幅に間違っている。というか、なぜそこに行き着いた」
兄さんは大きく脱力した。
どうやら違ったらしい。
一方のミラ姉さんは根掘り葉掘り聞く姿勢だ。ニヤニヤと顔を歪ませてグロン兄さんにまとわりついている。これは白状するまでしつこそうだ。
「ふふふ、さぁ可愛い妹が兄さんの恋愛相談に」
「絶対嫌だ。楽しむだけ楽しむつもりだろう」
「そりゃあ当然――」
そうやって二人が何やら騒いでいると。
ふと、母さんが呟いた。
「あ、生まれそう……赤ちゃん」
数秒。
俺たちは静止して、互いの顔を見る。
……ど、どうしよう。
「とりあえず、そうね……お産婆さんを呼んできてくれるかしら」
その言葉に、俺たちは走り出した。
俺は別館で待機する産婆さんを呼びに。姉さんはキッチンで湯を沸かしに。兄さんは工房にいる父さんを呼びに。
やがて、母さんが出産部屋で準備を始める。
一旦廊下に出された俺は落ち着かず、あれこれと考えを巡らせながらその場で右往左往していた。何か俺に出来ることはないだろうか。
「……そうだ、母さんには水分補給が必要か」
ふとそんなことを思いついて、キッチンへ行って果実水をコップに入れた。それを片手に持ち、母さんの待機している部屋へと向かう。
そこにいたのは、俺と同じようにコップを手に持った父さんと兄さんであった。
「まったくもう……三人とも少し落ち着いて」
母さんはそう言って、可笑しそうに肩を揺らした。そして、時折辛そうな顔を浮かべる。
陣痛の間隔がだんだんと短くなっていき、いよいよといった所で俺たち男は部屋の外に出された。ここから先、母さんに寄り添って良いのは姉さんだけらしい。
気がつけば窓の外は暗い。俺たちは廊下に置かれた椅子に座り、無言でその時を待った。
大丈夫。お腹の子は順調に育っていると聞いていたし、母さんもこれが初産ではない。ただ……この世界の医療のレベルは低いよな。データとして、出産で母子が無事な割合はどの程度なんだろう。
答えの出ない問いを頭の中で繰り返す。
心の底から焦げ付くような感覚が、一秒を千日のように感じさせる。それでいて、気がつけば数時間が一瞬のように過ぎていた。
――それは、空がほんのり白くなってきた頃。
小さく弱々しい泣き声が家に響いた。
出産部屋の扉が開く。
出てきたのは、目に涙を溜めながら、満々の笑みを浮かべているミラ姉さんだった。
「生まれたわっ! 女の子よ。母さんも赤ちゃんも元気だし、大きな問題はないだろうって」
そう聞いて、俺たちは大きく息を吐くと、その場にへたり込んで互いの顔を見合わせた。兄さんも父さんも、緊張の糸が切れて緩んだ顔をしている。
あぁ、俺たち全く役に立たなかったな。
小さく苦笑いを交わしながら、俺たちは産婆さんが呼びに来るのを揃って待っていた。
しわくちゃの顔で寝ている妹は、とても可愛かった。じわじわと喜びが込み上げてくる。
父さんは彼女に、フローラという名前をつけた。





