君のおかげで、いい人生だった
俺はどうしようもなく赤ん坊だった。
視界はぼんやりしていて、体を動かそうにも力が入らない。だんだんと何をするのも億劫になってくると、小さく欠伸を漏らし、暖かい布に身を委ねた。
ふと、甘い匂いに鼻をくすぐられ、無意識に母の乳房を探す。
「※※※※、※※※※※? ※※※※※……」
優しい声色にホッとして目を閉じた。抱き上げられる感覚とともに、ゆっくりと意識が遠のいていき、そのまま静かな眠りに落ちて――
フッと体が重くなる。
ピ、ピ、ピ。
耳の中に規則正しい電子音が響いた。
瞼を開けると、俺の起床を検知したのだろう、照明壁の光度が自動的に上がっていく。
視界に映るのはいつもと変わらない病室だ。残り少ない持ち物が仕舞われた棚、胸から下を包む生命維持カプセル、薄緑色の薬液で満たされた大瓶。
飾り気もなにもないが、死を待つばかりの老人には十分な部屋だろう。
『おはようございます、マスター』
頭の中に無機質な声が響いた。
こんな老いぼれにも、人工知能はいつもと変わりなく接してくれる。ありがたいことだ。
「……おはよう」
小さく返事をしてから、先程の夢を思い出す。
俺はこのところ、赤ん坊になる夢を見続けていた。
シチュエーションはいつも変わらないが、当初はもっと短時間でぼんやりたものだった。それが最近では、夢の時間も長くなり、少しずつだが周囲の様子も把握できるようになってきている。
その一方で、夢から覚めて意識を保てる時間はどんどん短くなってきていた。おそらく俺の命は、もういくらも保たないのだろう。
首だけをゆっくり動かし、自分の体を見る。
シワの刻まれた両腕には数本の管がつながり、何種類もの薬液が体を巡っていた。生命維持カプセルの監視モニタは正常値を表しているが……自分の終わりが近いことは、自分が一番良く分かっている。
「……俺は長いこと寝ていたのか?」
『3日ぶりの起床です、マスター』
「そうか……まぁ、そろそろお迎えか」
『弱気になることは生命維持にもマイナスかと』
「はは。気持ちの問題でどうにかなる時期は過ぎたさ」
実際、もう十分長く生きた。
親の顔は知らない。しいて言えば中央行政システムの人口調整局が親になるだろうか。幼少期は同じ境遇の多くの兄弟とともに過ごした。既に他界した者が大半だが、皆優秀でいい奴らだったのを覚えている。
基礎学習を終えて一人暮らしを始めたのは8歳の頃だ。希望していた人気の農家に就職出来たのは幸いだった。社長も同僚も皆いい人たちで、新しい遺伝子改良パターンを研究しては朝まで語り明かしたものだ。
妻と出会ったのは14歳頃だったか。
「アルバムを……」
『承知しました、マスター』
目を閉じて、脳裏に映るアルバムリストから一つを引っ張り出す。
妻はいい顔で笑う少女だった。
人と比べて特別美人というわけではない。だが、気がついたら目で追ってしまう妙な魅力があった。口下手だが、面倒見が良くて子供好き。ボーッと眺めていると、よく周囲にからかわれたものだ。
そういえば、妻の両親は地球本星からの移民だったか。価値観の違いが新鮮で、義両親との会話はいつも愉快だった。
「今となっては遠い昔、か……」
20歳で結婚。
しばらくして、子供が欲しいという話になった。
生身で体を重ねるのはVRほど気持ちよくもない上、妊娠・出産におけるリスクも高い。合理的に考えれば、皆と同じように人工子宮で生殖細胞を掛け合わせるのが良いのだろう。そういう会話を、ベッドの上に寝転がってよくしたものだ。
結果的に、妻は3人の子供を生身で出産した。
珍しい夫婦だと周囲に驚かれたものだが、今にして思えばあれは地球本星の価値観から来る行動だったのかもしれない。
「……人生は、あっという間だ」
子や孫が巣立っていき、気がつけばどんどん歳を重ねていた。一人ずつ知人が減り、妻が逝く頃には、随分と欲求も減ってしまっていた。今では起床しているのも難しい。もうそろそろ潮時なのだろう。
人から見れば平凡な人生だったかもしれない。
だが俺にとっては、周囲の人たちに恵まれた、掛け替えのない人生だった。
『……マスター』
「ありがとう。君には感謝しかない……この平凡な人生を、俺の頭の中で共に歩んでくれた。多くの者は、君をただの人工知能アシスタントとしてしか見ないだろうが……俺にとっては……」
ビー、ビー、ビー。
生命維持カプセルから鳴る警告音が、どこか遠くに聞こえた。
「……君のおかげで、いい人生だったよ。親友」
『おやすみなさい。マスター』
頭に響く声を聞きながら、俺の意識はすっと消えるように溶けていき――
柔らかい布に包まれる感覚で覚醒した。
「※※※※、※※※※※※※?」
聞き慣れた母の声に、気持ちが軽くなる。
いつも見ている赤ん坊の夢。おそらくは老いた体が機能を停止する前に、最後に見せてくれているのだろう。こういう穏やかな終わりも悪くない。
そう思いながら、何日も何日も過ごした。寝て起きて、母乳を吸い、寝て起きて、少しずつ体が動くようになり、首が座り、ズリズリと這い回れるようになった。
それでも、いつまでたっても夢が覚めることはなかった。
掴まり立ちの練習をしながら、俺はついに認める決意をした。これはもう夢ではなく、新しい現実である。つまりは、第二の人生と呼んで良いものだろうと。