八月
「合宿? お菓子研で?」
シャーペンを投げ出しながら、わたしはひかりに訊き返した。
「そうー。次の土日。だーさんほら、そっち早く書いて」
八月の二週目、日陰にいても汗がふき出るような火曜日の午後、わたしは自分の部屋でひかりと机を挟んで向かいあっていた。エアコンは頑張って動いているけれど、ときどきノートや座布団の端にぽたりと汗が落ちる。外は強烈な日光に押しつぶされて白く霞み、もう何日連続かわからない猛暑日だ。部屋が日陰になる午後を狙って、わたしたちは夏休みの宿題を片づけるための勉強会を開いていた。
保冷剤をくるんだタオルを首に巻くという暑さ対策をしてやってきたひかりは、わたしの母に保冷バッグに入ったプリンを差し入れて我が家での株を上げ、今は目の前で真剣にペンを走らせていた。基本的に真面目で授業も手を抜かないひかりは、大量に出された宿題をやっつけるにはとても頼もしい。わからないところを聞けるというのもあるし、なにかにつけて漫画やスマートフォンに手を伸ばしてしまうわたしにとっては、お尻を叩いてくれる人が欠かせない。親から言われるとやる気をなくすけれど、同じ宿題をこなしている友達の目が光っていると思うと、少しは気持ちが引きしまる。
けれど、勉強会が始まってから二時間、わたしの集中力はそろそろ限界だった。ふとした拍子に置かれたひかりの言葉に、雑談のチャンスを逃さないようしがみつく。
「次の土日ってもうお盆じゃないの?」
「そういう時期のほうが施設の予約が空くんだってさー。あたしもお盆に帰省する予定とかないし、誘われたから行こうかなって」
ひかりもペンを置き、大きく伸びをした。もうそろそろ休憩が入ってもいい時間のはずだ。わたしは机から身を離して、両手を後ろについて天井を見上げた。
「なるほどね。シュークリームはどうなの?」
「手こずってるよー。生地がちゃんと焼けないと先に進めないから、みんなでいろいろやってるところ」
「また理想の食感とかを追い求めてるわけか」
「ううん、シュークリームの生地はほんとに難しいんだー。中にクリームを入れなきゃいけないから、膨らめばいいってもんじゃない。正直、まだ食感とかを気にできるレベルじゃないよ」
「えー……、そうなんだ……。ひかりとお菓子研でもそうならよっぽどだね」
「お菓子研、顧問とか講師の人もいないしね。みんなで調べてからスタートだと大変だよ。あたしもシュークリームは作ったことないし」
「そのへんをなんとかするための合宿でもあるって感じ?」
「そうそう。もうみんな材料を買い集めだしてる」
「なんだろう、合宿っていうか武者修行感がすごい。一泊なんだよね?」
「あたしは一泊のつもりだけど、確か施設は四日間借りてるはず」
「山籠もりじゃん。お菓子っていうか普通の食料とかもいるやつじゃん」
麦茶を入れていたグラスの氷が完全に溶けているのに気づく。わたしは二つのグラスを持ちながら立ち上がった。
「あ、ごめん。ありがとう」
「ううん。もう古文見飽きたし」
「もうちょっとじゃん。写すだけだし頑張ってよ」
「だーって何言ってるか全然わかんないんだもん! 日本語しゃべれって!」
「日本語だってば。そもそも、何言ってるか調べる科目だし」
ひかりの真っ当な言葉からそそくさと逃げ出し、熱気の立ち込める廊下に出た。体があっという間に汗を思い出す。さっさと部屋に戻らないと干からびてしまう。
居間では母と弟が目を輝かせてひかりのプリンを食べていた。普通のプリンと違い、凍らせたものを少し溶かして食べるものらしい。この暑い日に口を通り抜ける冷たさと甘さを思うと、二人の表情もうなずける。わたしたちのぶんのプリンと麦茶のグラスをお盆に乗せて部屋に戻り、しばらくは休憩代わりに話し続けた。ひかりとは夏休みに入ってから三日に一度は一緒に遊んでいるけれど、こうして部屋の中でゆっくり話すのは久しぶりだった。
ひかりは、夏休みが明けたら正式にお菓子研に入るつもりらしい。四月からの活動を通して、改めて入部を考えてほしいと言われたそうだ。ひかりも、本格的にお菓子作りに打ち込んでみたいようだった。
頭を下げてきたひかりには久しぶりに全力のくすぐりをお見舞いした。謝ることなんて一つもない。ひとしきり笑い転げたあとに宿題に戻った。日が沈みきる前に、ひかりはうちの家をあとにした。夏休みの間はめいっぱい遊ぼうと約束した。今年の夏は退屈しなさそうだ。
日付が変わるころ、わたしは晴乃さんにメールを送った。夕飯のあとから文面を考え続けていた割に、ひどくシンプルな内容だった。
『こんばんは。
今週は土曜日も、どこかに出かけませんか?
予定がわかったら教えてください。』
わたしたちは、変わっていく。
触れたい、と思うようになった。
たとえば映画館までの歩道を並んで歩いているときに。博物館帰りの喫茶店で向かいあって話すときに。
たとえばわたしの左手のすぐ横で揺れる右手に。薄明るい照明を弾く髪に、そのすき間から覗く耳に。
晴乃さんの体に、触れたいと思うようになっていた。傘から雨水が流れ落ちるように、とても自然に、静かに。
それは当たり前の気持ちなのかもしれない。恋人どうしなら、気持ちを通わせあった相手に、もっと直に近づきたいと思うのは当然かもしれない。
でも、わたしたちは当たり前の関係じゃない。わたしたち二人が、恋人どうしと呼べるのかもわからない。
わたしと晴乃さんは、わたしたち二人になろうと約束した。ほかのどんな二人でもない、わたしたち二人になろうと。
どんな恋人よりも、どんな夫婦よりも静かに、だけど親しく、お互いを大切にする。
晴乃さんが言葉にしてくれた通りだ。わたしが晴乃さんを想って、晴乃さんがわたしを想ってくれればそれでよかった。図書館での会話や週に一度のデートで、それを感じられれば十分だった。ほかにはなにもいらないはずだ。そう思っていた。
なのに、触れたかった。気持ちは、どんなに考えても胸から消えたりはしなかった。
思ってみれば、晴乃さんに触られたことはほとんどない。五月の図書館で頬を包まれた。頭を撫でられた。それくらいだった。晴乃さんに触れたことはもっと少ない。博物館でテンションが上がって、晴乃さんの腕をひいたときだけだ。ほっそりとした、だけど柔らかい二の腕の感触はもう薄れてきている。
普段のデートでは、お互いに触れたりはしない。手さえ握ったことがない。当たり前だった。周りに勘づかれないように、写真も撮らないようにしてきた。堂々と手をつないだりできるわけがなかった。
だけれど、二人きりのとき、たとえば夜の駐車場、車の中で話しているときにも、お互いに触れたりしたことはなかった。少なくとも、晴乃さんは触れてこない。触れたいというような気持ちを言葉にしたり、匂わせたりすることもない。まるで、二人で話して笑うことだけですべてが満たされているみたいに。そんなわたしたちの理想を、表すみたいに。
だから、わたしは自分の中で湧き上がる気持ちに戸惑っていた。
わたしと晴乃さんは、わたしたち二人でいたい。お互いの生活のすき間に、少しずつ二人だけの時間を重ねて。二人だけの親しさを深くしていきたい。そう望んだから、わたしたちは話す。お互いの気持ちをぶつけあって笑う。わたしたちは出かける。同じ時間に同じ場所で過ごして、そのかけがえのなさを噛みしめる。それがなによりも大切にしたい、二人の関係のすべてのはずだ。
それなのに、晴乃さんに触れたり、晴乃さんに触られたりする必要があるんだろうか。自分のことなのに、わたしの気持ちの正体がわからない。わたしは、どうして晴乃さんに触れたいんだろう。
友達とのスキンシップのように、手を重ねたり、ハグをしたいと思っているのだろうか。わたしやひかりはほとんどしないけれど、ほかの友達がそんな風にじゃれあっているのは珍しいことじゃない。好きな人と触れあうことは心を落ち着かせたり、ストレスを減らす効果があるとネットの記事で見たこともある。そういうタイプの触れあいを、晴乃さん相手にしてみたいのだろうか。
晴乃さんに触れたり、抱きしめたりできればもちろん嬉しいだろう。尊敬している相手に頭を撫でられたりハグされたりすれば、この年で少し恥ずかしいけれど、とても安心できそうだった。だけれど、なんだかしっくりこない。そんな風に触れたいのではない気がする。
そもそも、気安く手をつなぐだのハグだの、とてもできそうにない。話すぶんにはくだけたことも言えるようになっているけれど、晴乃さんの涼やかな美貌には相変わらず慣れられていない。あの整った顔に近づき、つややかな髪や、プールのときに見た眩しくすらりとした手足に触れる。指を絡める。すらりとしたあの体を、この手で抱きしめる。声が出そうになった。とてもできそうにない。緊張にも似たためらいがある。お店で見かけた可愛いガラスのオブジェががとても高くて、興味はあるけれど怖くて触れない、というような。スキンシップみたいな軽い気持ちでは、触れられない。だけれど、触れたい。そこがわからなくて、もどかしい。なにかを壊してしまうのではないかという恐怖と、それでも消えない気持ちとが、頭の中で混じらずに回る。
いったい、なにが壊れてしまうというのだろう。わたしの気持ちは、晴乃さんに触れることは、なにかを壊してしまうようなものなのだろうか。今あるものでは満足できずに、欲張ってほかのものを欲しがり続けて身を滅ぼし、ついにはもとあったものさえ失ってしまう。そんなお説教じみた童話のように、わたしの気持ちはわたしたち二人の関係を壊してしまうものなのかもしれない。それは、確かに怖い。
二人で思い描いた、奇跡みたいに綺麗な二人の関係を、傷つけたくない。歪めたくない。わたしの気持ちは、わたしたちがなりたい二人から見ればどうにも不純だ。晴乃さんと分けあえる、綺麗な気持ちではない気がした。
不純、という言葉で思い当たる。不純な気持ち。好きな人へ向ける、不純な気持ち。
これは性欲なのかもしれないと思った。思ったとたん、顔が熱くなった。ありえないとは言えない。それどころか、この気持ちの正体はまるっきり性欲そのものじゃないかという思いがどんどん強くなっていく。
好きな人に、触れたい。触れたいのは、きっと触れることで喜びを感じられると思っているからだろう。体が触れあうことによる、ほかでは感じられない特別な喜び。好きな人に触れて、喜びを感じたい。考えれば考えるほどまずい感じになっていく。これが性欲じゃなくてなんだというんだろう。ただのスケベ心じゃないかと叫びそうになった。
なんてことだ。クラスで楽しそうに下品な話をしている男子たちと変わらないじゃないか。晴乃さんに触りたくて、晴乃さんを好きになったわけではないのに。わたしの好きと、晴乃さんに触れたいという気持ちは、今ではびっくりするくらい自然につながっている。好きだけれど触れたいとは思わない、そんな気持ちでいたことなんて思い出せなくなりそうなくらいだった。わたしが晴乃さんに抱く想いには、性欲と呼ぶしかないものが含まれている。いつの間にか、そうなっていた。わたしの好きには、不純な欲望が混じりだしている。
そんな風に想いを見つめることができても、晴乃さんに触れたい気持ちが消えるわけではなかったし、じゃあどうすればいいのか、いいアイディアが出てくるはずもなかった。自覚したことで気持ちはさらに輪郭を濃くしたような気さえするし、晴乃さんに触りたいと思っていたところでどうしようもない。
直接言えばいいのだろうか。もう我慢できないので触らせてください、と。チカンの声かけ事案となにが違うんだ。万が一許してくれたところで、息を荒くしながら無言で髪や肌を撫でさすればいいのだろうか。経験はないけれど、それはいわゆる百年の恋も冷めるというやつになるんじゃないだろうか。いろいろと迷惑をかけたりつっこまれたりしてきたけれど、冷めた目で見られたり引かれたりするのはつらい。晴乃さんに幻滅されたくない。なんとかしなければならない。
この気持ちを、消すことはできなくても、なんとか飼い慣らさなくてはいけない。
わたしと晴乃さんが約束したわたしたち二人を、壊さないために。
だから、メールを送った。できれば土曜日も遊びたいと。会う時間を少しでも増やそうと思った。わたしは案外寂しがり屋なのかもしれない。一週間のうち限られた時間しか一緒にいられないのが寂しくて、もっと直接的なつながりを求めているのかもしれないから。だから、会う回数や時間を増やしてその気持ちを埋め合わせようとした。今週の土曜日は、ひかりが合宿に行く。晴乃さんの都合さえ合えば、言い訳に苦労しないで会えるはずだ。
晴乃さんからの返事は、次の日に来た。仕事は入れていないので大丈夫だと。一安心しながら、メールを返す。行き先を決めるのはわたしの番だった。次は動物園に行きたいと思っていた。晴乃さんが話しているのを聞いてから、改めて象を見たくなっていた。
また朝に図書館で待ち合わせることにしてメールを切り上げて、部屋のカレンダーを見た。晴乃さんとの予定はカレンダーにもなにも書いていない。だけれど、ただの数字でしかなかった土曜日の日付が、今は少しだけ浮き上がって見える。
それが、わたしの好きだった。わたしたちの目指そうとする好きだった。
だから、このままでいられたらいいと思ったけれど、なぜだか胸に痛みが残った。
「ええっ!? でっか! 象ってあんなに大きかったんでしたっけ!?」
「あれ、アジア象だから小さいほうだよ。ほら、その向こうがアフリカ象」
「……うっわ! もっとでかい! なんであんなに大きくなる必要が……?」
「天敵に食べられないように体を大きく進化させていったって聞いたことあるなあ。だから天敵のいない島とかで暮らしてる象はだんだん小さくなっていくらしいよ」
「え、じゃあ動物園とかにいる象ってそのうち小さくなっていくんですか?」
「ああー、どうだろ。それは考えたことなかったなあ」
賑わう動物園で、わたしたちはいつもより大きな声で話した。
夏休みの平日は駆け足だ。ひかりたちと遊び回るうちに、約束の土曜日はあっという間にやってきた。
天気は晴れ。大きな雲が空の遠くにそびえ立って、くっきりとした白色が眩しい。気温は朝からぐんぐん上がり続けている。アスファルトを焼く音が聞こえてきそうなほどの太陽光とセミの鳴き声に囲まれて、わたしたちは象の柵の前で並んではしゃぐ。
住んでいる街から、晴乃さんの運転で一時間半ほど。これまでで一番の遠出だった。どうせならと、晴乃さんが大きな動物園を選んでくれた。夏休みらしく、家族連れや学生のグループでかなり混みあっている。
何頭もの象がゆっくりと行き交うのを眺めながら、わたしたちは柵沿いにのんびりと歩いた。今日は閉園までいる予定だ。急ぐ必要はない。じっくり楽しもうと、行きの車から話していた。
「おお、ほんとに鼻でりんご掴んでる。あれって骨あるんですか?」
「ううん、象の鼻はぜんぶ筋肉だよ。鼻と上のくちびるが進化してああなってる」
「へえー! 手のほかにあんなのあったら便利そう」
「背中かいたりね」
「寝たまま扇風機のスイッチ押したり!」
「怠けることしか思いつかない!」
「あ、でも鼻の下とか汗疹できそうでつらいかも」
「急に現実的になった」
紺色の小さな日傘の下で、晴乃さんが笑う。
服装は日焼け対策のためか肌が出ているところが少ないけれど、ゆったりとしたシルエットで風通しは良さそうだ。髪は頭の後ろでまとめてキャスケットにしまっている。うなじを流れる汗の粒が間近に見えて、少しだけどきりとする。
これも最近増えた気がする。晴乃さんの姿の細かい部分だとか、なんでもない仕草で、いちいち胸の音が早くなる。出会ったときから、晴乃さんはどこを見ても綺麗だと思っていた。首のかしげ方や本をめくる手つきにしても、その一つ一つが自然で、落ちついていて、なのに明るい笑顔や元気な声に不思議なくらい似合っている。その魅力に、気づいていなかったわけじゃない。
変わったのは、わたしのほうだ。これまでなんとなく素敵だと思えていたものに、今ではどうしようもなく心を揺らされる。晴乃さんの姿を、動きを見るたびに、焦りのような、寂しさのようなもやもやした気持ちが背中を突っついてくる。まるでセミの声で夏に気づいたときのように、居ても立ってもいられない気分になる。どこかへ走っていきたいような、飛び込んでしまいたいような熱が、わたしの奥のほうをざわめかせる。いったいなんなのだろう、これは。なにをすれば、この気持ちは満たされるんだろう。あのうなじに触れたら、その答えがわかるんだろうか。あの汗を指ですくったら、なにかをつかまえられるんだろうか。
「……だーさん? 大丈夫?」
ふいに、目の前に晴乃さんの顔が近づく。わたしはたとえではなく飛び上がった。
「え、あっ! ご、ごめんなさい! ちょっとぼーっとしちゃいました」
「そう? 本当に暑いから、無理しないでね。休みながらでもいいし、辛いならまたの機会でもいいし」
「いやいや! 全然大丈夫です!」
我に返って、自分の考えていたことに自分で驚く。どうして当たり前のようにうなじを触ろうとしていたんだ。晴乃さんに触れたい気持ちを抑えるために遊んでいるのに、汗一つでそんなことを考えていたらきりがない。
「飲み物、ある? 私の水まだ冷たいし、よかったら」
「平気です平気です! わたしのもまだ結構あるので!」
心配そうな晴乃さんに腕を振り回しながらアピールして、ペットボトルのお茶をあおる。
持ち上がった麦わら帽子の下から、真っ白に輝く太陽が顔を覗かせる。頭の中までちかちか照らされるようで、少し目がくらむ。だけれど、まぶたをぎゅっと閉じてのどを流れるお茶の冷たさを感じると、強い光も心のざわめきも遠のいていく。
息をついて、首を回した。その場で軽く跳ねて、体に違和感がないことを確かめる。
「すみませんでした。もう大丈夫です。行きましょう!」
「ほんと? 私も結構暑いし、休み休み回ろうか」
「はい! ゆっくり見ましょう!」
日陰を選んで歩きながら、ときどき建物の中の展示に寄りながら、わたしたちは動物園を歩いた。
ネコ科の動物が集まるコーナーではユキヒョウの美しさに見とれ、トラの檻に近づいたときには思った以上の迫力に晴乃さんの後ろに隠れたりした。
聞いたことのない声で鳴く鳥や猿に二人揃って振り向き、うさぎとのふれあいコーナーでは念願のふわふわを思う存分楽しんだ。晴乃さんも今にも一羽くらい持って帰りそうなくらいめろめろだった。弟を紹介するのは本当にやめたほうがいいかもしれないと少し思った。
お昼を挟んだあとも歩き続けて、外国の牛や狼の仲間が集まっているほうへ向かおうとしたときだった。ぼたっ、と、晴乃さんの日傘から重い音がした。頭や腕に、ぬるい水の感触が増える。深呼吸一回くらいの間に、アスファルトの色がどんどん濃くなっていく。雨が降り始めた。夕方から曇るという予報ではあったけれど、こんなに早く雨になるとは思っていなかった。フードコートのような建物の軒下に慌てて駆け込む。スマートフォンを取り出すと、もう午後四時だった。雨は夜まで降り続くらしい。
「結構いたんだねえ。途中から曇ってたし、あんまり気づかなったなあ」
腕時計を眺めながら、晴乃さんがしみじみと言った。下ろされた日傘からは雨粒が滴っている。
「もうちょっと待ってくれたら全部回れたんですけどね……。残念です」
「また今度来ようよ。それでまたゆっくり見よう」
「そうですね。次はもっとトラに近づきます!」
「あっはは。大丈夫かなあ」
予定よりも早めに車に戻ろうとしたけれど、これがかなり大変だった。いつまでたっても雨が弱まる様子がないので日傘のスペースを分けあって走り出したけれど、開けた場所に出るのを待っていたかのようにとんでもない勢いで雨が強まった。三歩先も見えないほど景色は霞み、傘を叩く雨音でお互いの声も聞こえなかった。傘のあるなしに関係なく服が濡れだしたので諦めて傘を閉じて走った。あまりの降り方に途中からなんだかおかしくなってしまって、二人で笑い転げながら車にたどり着いた。そのとたん、嘘のように雨が弱まった。それさえもおかしくて、お腹を抱えて席に滑り込む。
「あっはっはー。すごかったねえ」
「なんですかこれー! もーびっしょびしょですよ!」
「あーあ、こんなに濡れたの何年ぶりだろ。車なのにねえ」
「今のはしょうがないですよ。席濡れちゃうのはごめんなさい」
「いいよいいよ。それこそしょうがない。それより、ちゃんと体拭きなね。風邪ひいちゃう」
言われるままにタオルを体にあてたけれど、だいぶしっかり濡れてしまっている髪や服はなんともなりそうにない。晴乃さんも同じような状態だった。髪から水滴を落としながら、晴乃さんはエンジンをかける。
「ダメだなあ。しばらく乾かなそう。下手に冷房強くするとすぐに体冷えちゃうね」
「大丈夫ですよ。ゆっくり帰りましょう」
「でもだーさんもびしょ濡れだし……」
言いかけて、晴乃さんが表情をくるりと変えた。その明るい笑顔に釘づけになっているうちに、声が届く。
「うちに寄ろう。だーさんのおうちよりは近いし、シャワーと着替えくらいなら貸せるよ」
「……え?」
ライトの光で、雨粒が切り取られる。車が動き出した。
「……ありがとうございましター」
「なんで片言?」
弱められた冷房の風が、火照った肌を優しく通り抜けていく。まだ濡れたままの髪から、首のタオルへと水滴が落ちる。
わたしたちは白いマンションの五階、桜葉家の部屋に来ていた。お邪魔するのは四月にここで晴乃さんと出会って以来だ。なんだかあっという間で、なのにとても中身の詰まった四か月間だった。あの日、テーブルで本に目を落としていた晴乃さんを見たとき、二度目はこんな風にこの部屋に来ることになるだなんて、夢にも思っていなかった。今も、なんだか現実感が薄い。でも、現実だった。
車ではかなり長い間意見のぶつかりあいというか遠慮のしあいが続いた。いえどうせもうちょっと行けばうちですシャワーだの着替えだの申し訳なさすぎますと首をぶんぶん振るわたしに、連れ出しといて風邪をひかせちゃったらそれこそ申し訳ないよいいから寄りなさいもう少し話そうよと晴乃さんは譲らなかった。結局ハンドルを握っているのは晴乃さんなのでそれに甘えるしかなかったのもあるけれど、「もう少し話そうよ」という言葉にときめいてしまったのも大きかった。ああいうことをさらりと言うのはずるい。中断してしまった動物園での時間を、お店ではなく家の中でゆっくり過ごすのも悪くないと思えてしまう。
だけど、晴乃さんとひかりの家で服を脱ぎ、晴乃さんの使っているシャンプーとコンディショナーとボディソープを使い、部屋着だという大きめのTシャツとハーフパンツを借りて持ち主の前に立つのは、想像以上の緊張感があった。いきなりここまでお世話になってしまうのは、ありがたいけれどとてもくすぐったい気分になる。
「ずいぶん早かったねえ。ちゃんとあったまれた?」
「大丈夫です大丈夫です! 晴乃さんも、早く入ってきたほうが」
「あ、ごめん、急がせちゃった? ゆっくりで良かったのに。服、きつくない?」
「はい、平気です。ありがとうございます」
「いえいえ。良かったあ。背は同じくらいだけど、だーさんの年頃じゃあ育ち盛りだろうし大丈夫かなあって思ってた」
「これ以上背が伸びるのはさすがに……」
「そう? 私はかっこよくていいと思うけど」
晴乃さんはそう笑って立ち上がった。机の上に置いてあったタオルや着替えを手に取って、
「じゃあ私もシャワー行こうかな。服は洗濯して乾燥までやっちゃうから、夜には着られると思う。おうちにはちゃんと連絡しておいて。あとはテレビなりなんなり好きにしてていいよ。ごゆっくりい!」
手を振ってお風呂場のほうへ向かう晴乃さんを見送って、わたしは部屋の隅で息をついた。鞄からスマートフォンを取り出し、雨がすごいので友達の家に入れさせてもらったと母にメールを送る。そちらの家の方にお礼がしたいから連絡先を教えなさいと返事が来た。夜に送ってもらう予定だからそのとき一緒にお礼を言ってほしいと頼んでおいた。これなら母も文句は言わないだろう。
時刻は午後六時を過ぎていた。雨はまだ降り続いている。長い夕立だった。スマートフォンを鞄に戻して、改めて部屋を見回した。家具の配置は四月のままだ。自分の家とは違う、でも確かに生活の匂いがする、落ちついた雰囲気の部屋。家主のいないところで一人でテーブルにつくのも、クッションに座ってテレビをつけるのもなんだか気が引けて、結局もう一度スマートフォンを取り出した。SNSや写真のフォルダをぼんやり眺めていると、雨音とは違う水の音が聞こえてきた。お風呂場からだ。そうわかったとたん、顔が耳まで熱くなる。ひいてきていた汗が、じわりと首ににじむ。
首を振る。いけないいけないと、自分の心を抑えようとする。だけれど、廊下の向こうから聞こえてくる些細な音がいちいち耳につく。その音の生まれているところを、頭が勝手に思い描こうとする。シャワーの滴る黒い髪を、濡れてつるりと光る、白い肌を――。
「――……っ!! ――っ!」
へんな音を立てないように注意しながら。自分の頭をぼかぼか叩く。なにを想像しようとしているんだ、わたしは。いよいよただのスケベ野郎になってきているじゃないか。浮かびかけた光景を振り払うように、わたしは歩き回りながら部屋の隅々まで視線を走らせた。センスよくまとまった部屋には特別目を引くものが見つからない。まだしばらく、晴乃さんが上がるのを待っていなくてはいけないのに、このままだと時間の限りはしたない想像を続けてしまいそうだった。なんなのだろう、欲求不満なんだろうか、わたしは。壁に手をついて、折り返してまた意味もなく部屋を横切る。向かう先にお風呂場が近づいているのに気づいた。違う、そんなつもりじゃない。無理に体の向きを変えようとしたせいで、膝からがくんと力が抜ける。
バランスの崩れた体を支えようと、腕がほとんど無意識に動いた。椅子の背を掴めたおかげで、少し膝が揺れただけですんだ。冷や汗を拭いながら足に力を入れ直した。慌てていたせいもあるだろうけど、炎天下をずっと歩き回って、思った以上に体は疲れているのかもしれない。お言葉に甘えて座らせてもらおうと、その椅子を引いた。そのとき、気づいた。
その椅子は四月に、わたしが座った椅子だった。あのとき、晴乃さんとひかりがそれぞれ自分の椅子に座っていたとしたら、この椅子の主は。
思わず、手を離してしまった。開けてはいけないドアを開けてしまったような気持ちで、心臓の動きが早まる。
考えないようにしていた。目の前に晴乃さんがいることの喜びで、なるべく胸をいっぱいにして。
でも、本当はずっと心の底で抱えていた。六月、お墓参りのための花を見たときに生まれた気持ちを。七月、わたしのための花を見たときに再び湧き上がった気持ちを。
勝ち目のない、嫉妬を。
椅子の背の代わりに、両手を強く握る。
わたしは、晴乃さんのことをなにも知らない。
輝く笑顔を知っている。心地よい声を知っている。おどけた仕草を知っている。優しい言葉を知っている。
でも、そんな今の晴乃さんが、どんな風に生きてきたかは知らない。
わたしと会うまでにどんな人と会って、どんなことを考えて、今の晴乃さんがかたち作られたのかは知らない。
どんなに一緒に過ごしても、冗談で笑いあっても。
想いを向けあっていても、お互いを大切に思っていても、わたしの知らない晴乃さんが確かにいる。
この椅子は、きっとその一番の証だ。この椅子に座っていた人は、わたしの知らない晴乃さんを知っている。
当たり前のはずなのに、それが悔しい。
わたしも、それを知りたいと思った。みっともない嫉妬だとしても、知ったところでなんの意味もないとしても、たとえ傷ついても。
わたしは、晴乃さんのことをもっと知りたい。
そのとき、背後でドアが開いた。振り向くと、濃い青色の部屋着に身を包んだ晴乃さんが、タオルで髪をまとめながら部屋に入ってきた。
「やー洗面所あっつい! 行儀悪くて申し訳ないけどこっちでやらせて」
「…………晴乃さん」
わたしは、かなり時間をかけてからその名前を呼んだ。握りしめている両手を、背中に回して隠しながら。
「ん? のど乾いた? 麦茶なら――」
その言葉を遮って、その笑顔に正面から向かいながら。
「――ひかりのお父さんのこと、教えてくれませんか」
ひかりのお父さん、という言い方をしたのは、つまらない意地だった。旦那さん、とは、どうしても口にできなかった。
晴乃さんの表情は複雑に変わっていった。最初はきょとんと目を見開いた。そのあと、もう一回り大きく目が開いた。そして、わたしの横にある椅子に目をとめて、痛みをこらえるような悲しい顔を過ぎて、なにかを思い出すように眉を寄せた。しばらくたって、その眉間のしわが消えると、晴乃さんはとても静かな表情で、とても透き通った声で言った。
「いいよ。とりあえず、座りなよ」
晴乃さんが一度台所へ向かう。その姿を眺めたまま、わたしは一歩も動かなかった。さっき掴んだ椅子の横に、立ち続けた。
氷の浮かんだグラスを二つ持って、晴乃さんが居間に戻ってくる。
「座っててよかったのに」
言いながら、グラスをテーブルに置いて、わたしを見つめ返す。
まっすぐで優しい瞳だった。わたしの考えていることをすべてわかってくれているような、いつもの綺麗な瞳だった。
でも、どれだけ澄んでいても、その奥にどんな気持ちがあるのかはわからない。わたしにそれを、探すことはできない。
だから、わたしは待った。晴乃さんの言葉を。気持ちをまっすぐに、誠実に伝えてくれるいつもの言葉を。
晴乃さんは、そんなに間を置かずに話し始めた。
「そりゃあ、気になるよね。元カレどころの話じゃないし。気をつかわせてごめんね」
「いいえ。今、聞きたくなったんです」
気をつかっていたわけじゃない。本当に気をつかえていたら、亡くなった旦那さんのことなんて訊けない。だけど、わたしの知らない晴乃さんを知りたいのなら、旦那さんのことは避けては通れない。晴乃さんと、晴乃さんの旦那さんとの話を聞きたい。そこにいただろう晴乃さんを、ほんの一かけらでも感じたい。
それを、晴乃さんもわかってくれているみたいだった。テーブルの横で向かいあったまま、ゆっくりとその口が開く。
「あいつと会ったのは、十七歳のときだった。今のだーさんと、同じくらいかな。あいつは大学院の二回生だった。七つ年上。
私の父親は研究職で、大学でも授業をいくつか持ってた。あいつはそこに生徒としていたってわけ。大学院を出てからも研究を続けるつもりで、私の父親の助手のようなことを卒業前からしてた。私は小さいときから父親に連れられてたせいで大学を遊び場所だと思ってたから、高校生のときもたまに大学に入り込んで図書館で本を読んだり父親の研究室で周りの人とおしゃべりしてた。そこで、あいつと出会った」
視界の端で、グラスの水滴がゆっくりと流れる。どちらかの息づかいが、冷房の風の向こうに聞こえる。
「背は低いけど声が大きい人だなあっていうのが、第一印象だった。いつもはきはきしゃべって、周りの人の世話を焼きまくるやつだった。私も自分の先生の娘だってので結構かまわれたよ。最初はうざったかったけど、ああだこうだ言いあってるうちに仲良くなってた。
とにかく現地に行って人と話してなんぼ、っていう種類の学問だったから、あいつもあちこちに行ってたよ。私の父親に連れられて東南アジアの島に二週間泊まったり、ドイツの片田舎で置き去りにされて一人でインタビューをさせられてたこともあった。音楽と本しか知らなかった私は、あいつの教えてくれるいろんな世界の話と、それを通して見えるあいつの人の良さが好きだった。研究目的で出向いた先でも、不思議と人をひきつけて生の声を拾ってくるのが上手だった。誰でもあんな風に、人から話が聞けるわけじゃない」
晴乃さんの言葉の向こうに、『あいつ』さんが見えた。今の晴乃さんの言葉や性格にも、『あいつ』さんの姿が色濃く残っているように思えた。
「高校を卒業したあと、付きあい始めた。向こうから告白されたけど、その前から二人だけで出かけるようになってたから、私からしたら『今ごろ!?』って感じだった。まあ、嬉しかったけどね。
ずっと通ってた大学を受験したのも、父親のいるその大学が好きだったのもあるけど、あいつがいたっていうのが一番大きい決め手だった。あいつはそのころ自分の研究が忙しくて、会う時間を増やしたかったっていうのもあった。研究のこととかそうじゃないこととかを、暇を見つけては二人で話した。図書館で働けるように資格を取る準備もして、ずっと大学にこもってたなあ」
懐かしい日々を思い出すように、晴乃さんの声が少しだけ遠くに浮かぶ。だけれど、その目はしっかりとわたしを見ていた。わたしに、話してくれていた。
「ひかりが生まれたのは大学の三回生のとき。結婚もしてないし学生だったしでちょっと騒ぎになったけど、あいつはそのころにはもう研究も落ちついて講師の仕事をもらえてたし、生活はしていけるだろうって話になった。あいつは笑っちゃうくらい緊張しながら私の両親に報告に行ってたけど、両親からしてみたら学生のときから知ってるやつだし滅多なことはないだろうってもんだった。ほぼ二つ返事だったよ。ひかりが生まれたタイミングで籍を入れた。出産間際は大変だったな。三回生で授業は減らせたけど、資格の授業は外せなかったから、無理を言って家で勉強をさせてもらってた。夏休みの最後のほうに生まれてくれて助かったよ。あいつには『無茶をしすぎだ』って怒られたけど。今ひかりに話したら、きっとおんなじように怒られるだろうね」
晴乃さんの笑顔につられて、わたしも笑った。だけれど、少しだけ悲しくなった。この話の最後には、必ず別れがある。
「ひかりを育てながら、大学を卒業した。図書館に勤めるつもりだったけど、結局とりあえずは専業主婦になることにした。あいつは結構かいがいしくおむつ替えだ買い出しだ家事だって手伝ってくれたけど、やっぱり共働きだとひかりの相手ができないなって思ったから。ひかりが大きくなったら、改めて就活しようかなあと思ってた。だからその間は、あいつのお嫁さんと、ひかりの母親をゆっくりやれたよ。毎年ゴールデンウィークとか夏休みにあっちこっち行ったりする、どこにでもある普通の家庭だった。
……あいつは、ひかりが十歳になる年に死んじゃったんだ。珍しくもない病気だったけど、進行が早くて間に合わなかった。ひかりが泣いて泣いて大変だったけど、とりあえず生活はしていかなきゃならなかった。保険もあったし親も助けてくれてたからそれに甘えながら、図書館の仕事を探した。家からはちょっと遠かったけど、すぐに勤められて休みの融通がききそうなところが運よく見つかった。そう、だーさんのおうちの近くの、あの図書館。もう七年くらいになるんだねえ。
……こんな感じかなあ。私とあいつは、そんな風にして過ごしてきた」
からん、と音を立てて、晴乃さんがお茶を少しだけ口にする。わたしは、まだ動かなかった。
晴乃さんは、グラスを置きながら視線を天井辺りで止めた。
「ほかには、なにがあるかな。もう何年も前の話だし、いろいろと思い出せないことが増えてるんだけど……」
もう一度瞳にわたしをとらえてから、続けた。
「だーさんは、なにか聞きたいことある? 今までなにも話さなかったぶん、なんでも話すよ。
あんまり赤裸々なのは、恥ずかしいからちょっと勘弁してほしいけど」
わたしは目を閉じた。なにもかもを、聞いてしまいたい気がした。これ以上、なにも聞きたくない気もした。
どちらも嘘ではない。けれどどちらも、本当に求めていることではなかった。
だからわたしは、一つだけ尋ねた。
「……ひかりのお父さんの、なにを一番覚えてますか?」
晴乃さんに、一番残っているのはなんなんだろう。
晴乃さんの心に、一番残せるものはなんなんだろう。
わたしは、晴乃さんの心に残りたい。わたしの知らない晴乃さんの話を聞いて、その心に残り続ける人の話を聞いて、思ったことはそれだけだった。旦那さんのように、わたしも晴乃さんの心に、消えない跡を残したい。これもきっと、嫉妬の一つなんだろうけど。そう願う胸の中はとても静かだった。
目の前の表情に、明かりが灯った。晴乃さんは宝箱の底にうずもれていた宝石を取り出すように、素朴な笑顔で言った。
「髪、かな」
「……髪?」
「うん。あいつ、髪質が固くてさあ。いつも床屋さんに行った直後は短い毛がつんつん立ってたんだよね。
うなじのところから上に撫でる感触が柴犬みたいで気持ちよくて、ずっと触ってたら煙たがられた。
全体的に変なやつだったなあとか思ったりもするけど、一番覚えてるのはそこかな」
その言葉が、届いたとたん。
心の中でまた、水が滴った。だけれど、その勢いは今までとは比べ物にならない。わたしの胸はあっという間にいっぱいになる。まぶたが震えるのがわかった。
稲妻の光のような強引さで、目の前に事実がつきつけられる。そうだ。晴乃さんの旦那さんは。
――晴乃さんに、触れられたことがあるんだ。
触れられたことがある? それがなんだ。当たり前だ。夫婦だったんだから。二人は愛しあっていて、ひかりという娘までいるんだ。
わかっていたことじゃないか。そんなこと、今さらどうしようもない。なにを考えても、なにをしても変わったりしない。それでも知りたいから、訊いたのに。どろどろした気持ちが止まらない。抑えこもうと決めたはずの感情が、溺れて助けを求めるように叫ぶ。
――どうして、触れてくれないんだろう。
だって、敵わないじゃないか。晴乃さんの心に、一番残り続けているのが旦那さんの髪だとしたら。それに触れたときの感触や、思い出だとしたら。
わたしはきっと晴乃さんの心に、それより強く残ることはできない。
わたしと晴乃さんは、わたしたち二人として、お互いを想って触れあったことなんてないんだから。
わかっている。頭で必死に言い聞かせる。晴乃さんはわたしを想ってくれているんだ。旦那さんを大切に想い続けていても、それでも。心の中に、わたしのための場所や気持ちもちゃんと作ってくれた。わたしにとってなによりも大切なあの人は、いま、わたしをなによりも大切にしてくれている。
そんなこと、わかっているのに。晴乃さんの想いを、確かに感じているのに。車の中で話すのも、週に一度のデートも、本当に楽しくて幸せなのに。いくら言い聞かせても、思い通りになってくれない。暗い欲望が、まるで泣き出す寸前のように赤く腫れている。
――晴乃さんに、触れたい。晴乃さんに、触れられたい。
どうして、触れあえないんだろう。わたしたち二人は、ほかの二人のように触れあってはいけないんだろうか。
後ろめたい気持ちは、確かにある。ひかりや両親に隠したまま、晴乃さんと親しくしていること。わたしたちがほかの二人のように触れあうようになったら、それはいつか誰かに伝わってしまうかもしれない。わたしたち二人の関係は、周りに受け入れられるとは限らない。もし悪い想像が当たったら、わたしたち二人は今の関係ではいられないだろう。そんな風に壊れてしまうくらいなら、今のままでいたほうがいい。十分に幸せな今のまま、この関係を誰にも気づかれないようにしていくのが一番だ。わたしたちは、触れあうべきではない。晴乃さんも、そう考えているのかもしれない。
頭ではわかっている。納得できているはずだった。だけど、考えてしまう。答えの出ない問いが、体じゅうで渦を巻く。
わたしたち二人は、このままずっと、触れあえないのだろうか。
旦那さんは、晴乃さんに触れているのに。晴乃さんも、旦那さんに触れているのに。
わたしたち二人のような二人は、この先も触れあうことができないんだろうか。
気持ちを通わせて、それがあれば十分じゃないかと、自分に言い聞かせ続けるしかないんだろうか。
こんなに、触れたいのに。
晴乃さんと触れあいたい気持ちは、わたしたち二人の関係を、壊してしまうんだろうか。
だから晴乃さんは、触れてくれないのだろうか。
この気持ちは、晴乃さんの、重荷になってしまうのだろうか。
晴乃さんは、どう思っているんだろう。
――それとも、いやなんだろうか。
突然、今まで考えもしなかったことが頭を貫いた。首筋が凍えるようだった。だけれど、ありえないことじゃない。どうして今まで思いつかなかったんだろう。
晴乃さんは、わたしに触れたいだなんて思っていないのかもしれない。
わたしに触れられたいだなんて、思っていないのかもしれない。
晴乃さんが旦那さんに向けている気持ちと、わたしに向けてくれている気持ちは、きっと違う。想う相手が違うのだから、その想いのかたちだって違っていてもなにもおかしくない。
もしかしたら晴乃さんは、旦那さんに触れていたように、わたしに触れるのはいやなのかもしれない。
だからわたしには、触れてくれないのかもしれない。
晴乃さんと触れあいたいというこの気持ちは、晴乃さんと分かちあえないのかもしれない。
確かめたい。けれど、怖くて口が動かない。晴乃さんに、嫌がられたくない。突き放されたくない。
なんとか保とうとしていた表情も、もう耐えきれそうにない。だめだ、泣いたらまた困らせてしまう。笑わなきゃ。晴乃さんと話しているときは、いつも嬉しい気持ちでいたいのに。それは本当にほんとうなのに。どうして。晴乃さんを想うときには、いつも心のどこかが痛い。
視界がぼやける。歯を食いしばっても、目の奥の熱は散ってくれない。晴乃さんのほうを見ていられなくて、うつむく。
晴乃さん。
わたしはずっと、あなたと触れあえないままなんでしょうか。
顔を背けたまま、暴れ回る気持ちをおさえつけようとするわたしの頭に、声が届いた。
どうしてだろう。そんなはずはないのに。
その言葉は、わたしの思いがわかっているようで。
その声は、少しだけ濡れているように聞こえた。
「……だーさん。触っても、いいかな」
肩が跳ねる。でも、顔を上げられない。くぐもった声を返す。
「……どうしたんですか、いきなり」
まるで泣き疲れた子どものような、かすれきった声に自分で驚く。晴乃さんは、さっきと変わらない声でくり返した。
「だーさんに、触りたくなったんだ。だから、触ってもいいか、訊いた」
わからなかった。ひしゃげた声のまま、思ったことがそのまま口をつく。
「……晴乃さんは、わたしに触りたいんですか?」
「うん。そうだよ」
「それは、友達とか、家族のスキンシップとかじゃなくて、ですか?」
「うん。私は、誰よりも愛おしい相手として、あなたに触りたい」
「ずっと、わたしに触りたいって思ってたんですか?」
「うん。ずいぶん前から」
「…………じゃあ」
体の横でこぶしを握りしめながら、言葉がこぼれていく。
「どうして、今まで触ってくれなかったんですか」
頭も、心も、なにも言葉を遮ってくれなかった。せき止められていた水があふれるように、渦巻いていた気持ちがかたちになっていく。
「周りに知られるとよくないからですか。ひかりに知られたらダメだからですか。触ったら、今のままじゃいられなくなるからですか。それとも」
くちびるを噛みしめる。顔はまだ上げられない。
「……ほんとうは、触りたくないからですか」
訊いてしまった。こらえることができなかった。怖くて足が震えるけれど、それでも訊かずにはいられなかった。
晴乃さんは優しい。とても優しいし、察しがよくて頭も回る。だからきっと、言葉にしなくてもわたしの思いをくみ取ってくれることがあって、そこでもしわたしの望みに気づいたら、できる限りそれに応えようとしてくれるだろう。
たとえ、自分がしたくないと思っていることでも。
それが、一番嫌だった。自分の欲望で、晴乃さんを縛りつけてしまうことだけは絶対にしたくない。
いくら触れたくても、晴乃さんの気持ちを無視してまで、それを叶えたいとは思わない。
そうだ。びっくりするようなわがままだ。
わたしは、晴乃さんとただ触れあいたいんじゃない。
お互いにそれを望んでいなければ、触れあうことになんてなんの意味もない。
綺麗じゃなくていい。性欲だろうとなんだろうと構わない。わたしは、この気持ちを晴乃さんと分かちあいたい。
だから、わたしは待った。これまでと同じように。
まっすぐで誠実な晴乃さんが、心からの言葉を差し出してくれるのを。
もし拒まれたら。そう思うと、やっぱり体の底まで冷えるように怖くなる。足を踏ん張って、身構えて待っていたけれど、聞こえてきた言葉は、思っていたもののどれとも違っていた。
「ううん。…………私は、怖かったんだ」
「……なにが、ですか?」
「だーさんのことを、忘れられなくなることが、だよ」
「……え?」
顔を上げた。呼吸が止まる。目の前にいたのは、いつかと同じ。
なんの輝きもない、ただまっすぐで誠実な、普通の女の人だった。
「手触りってね、すごく強いんだ。景色よりも、音よりも、匂いよりも、ずっと鮮明に記憶に残り続ける。
それなのに、手触りって、なくしちゃうともう二度と感じられないんだよ。見た目や声は、写真とかビデオでもう一度感じられる。匂いだって、だんだん薄くはなるけど、なんでもないときに服や部屋から香ってきて、感じられることもある。
でも、手触りは、どこにも残らない。記憶にあるものが正しいか確かめようとしても、もうどこにも見つからないんだ。
わたしはもう、あいつの髪に触れないんだよ。一番に、思い出せるのに。もう二度と、あの手触りを確かめることはできない。それは結構、ううん、とっても寂しい」
当たり前のように、静かに語られた言葉。なんでもないような、晴乃さんの声。
でも、わかった。頭のよくないわたしでも。察しの悪いわたしでも。
その悲しみが。失うことの悲しみが、失ってもまだ、記憶に残り続けるという寂しさが。
痛かった。全身が、ばらばらになってしまいそうなほど。愛する人を失って、どんなに悲しかっただろう。もう届かない記憶がずっと残り続けて、どんなに寂しかっただろう。
晴乃さんの言葉は続いた。
「あいつが死んじゃって悲しいのは、そりゃあできるならそんな経験はしたくなかったけど、病気の状態が悪いときから覚悟はしてた。でも、手触りを忘れられないのは想像してなかった。覚悟もできてなかったから、そっちの寂しさのほうが応えた。もういない人の、もうどこにもない手触りを忘れられないのが一番いやだなあって思った。忘れられないものを残すのが、怖くなっちゃったんだ。
だから、触れなかった。大好きなだーさんに触っちゃったら、だーさんの手触りを知っちゃったら、きっとその手触りを忘れられない。忘れられないものができるのは、今でもとても怖いんだよ」
晴乃さんが抱えていた寂しさに飲み込まれそうになっていたわたしは、そこで思い出した。
特別な輝きを持っていない、普通の女の人としての晴乃さんを、美しいと思ったことを。
「ずっとそうやって、過ごすつもりだった。私は人並みに人肌も恋しいしエッチだから、好きな人に触りたいなーって思う気持ちももちろんあったけど、やっぱり怖かった。だーさんがいくら私より若くても、いなくなっちゃわない保障なんてどこにもないし。
だから、ずっと触らないままでいようと思った。身勝手な話だけど、だーさんに私の手触りを残すのも気が引けた。常識的に考えたら、だーさんがひとりになっちゃう確率のほうがずっと高いから。私のことなんてすぐに忘れちゃえたほうがいいとまで思ってた。こんな風に部屋に連れ込んでおいて言えたことじゃないけれど、今日だって、だーさんに触るつもりなんてなかった。
でもね、だーさん。さっき、だーさんにあいつのことを聞かれたとき、真っ先にあいつの髪の手触りを思い出したとき、ちょっと嬉しかったんだ。話してた内容も、一緒に行った場所のこともだんだん忘れていってる中で、笑っちゃうくらいくっきり、あの固い髪のことを思い出せたのが嬉しかった。覚えていられててよかった、って素直に思えた。
忘れられないのは寂しいけど、思い出せないことのほうが、もっとつらいんだ。当たり前かもしれないけど、私はやっとそれに気づいた。
だーさんのおかげで、気づけた。だーさんのことが、もっと好きになった。
だから、だーさんに、触りたくなったよ。手触りを覚えていられるのは素敵なことなんだって、だーさんが教えてくれた今日から。今から。
だーさんのこと、ずっと忘れないように、私はだーさんに触りたい」
熱い雫が、胸の中に落ちた。雫が染み込んで、濃い色の跡を残す。だんだんと、跡が増えていく。胸の中すべてを、満たしていく。
ああ、やっぱり、晴乃さんは晴乃さんだ。
暗がりの中にいても、寂しさに打ち勝つ力がなくても、それでもまっすぐで、誠実で、美しい。
「……じゃあ、ほんとうに」
のどが焼けてしまいそうなほど、熱い息と一緒に漏れた声は、やっぱり震えていた。
「ほんとうに、晴乃さんは、わたしに触りたいんですか」
わたしの揺れる視線を、かすれた声を、ふらつく言葉を。正面から受けとめた晴乃さんは。
普通の女の人のままで、一番綺麗に笑った。
「もちろんだよ。心の底から、そう思ってる」
頭が弾けてしまいそうだった。何度も何度も、かたちを確かめるように、訊いてしまう。
「晴乃さんは、わたしに触りたいって、思ってくれてたんですか」
「うん。私は、だーさんに、触りたいよ」
「ほんとう、ですか。ほんとうに、……いやじゃ、ないですか」
「いやなわけ、ないよ」
静かな声と一緒に、握っていたこぶしに小さな熱が触れた。息が詰まる。両手に、しっとりとした体温を感じる。
晴乃さんが、わたしの手に触れていた。握りしめた両手を、それぞれ包むように、その手を伸ばして、わたしに触れていた。
手の甲から、晴乃さんの肌の感触が、それにくるまれた熱が全身をかけめぐる。夏の太陽の光のように、体じゅうに燃え上がるような熱を残して。
手を、引かれる。不思議なくらい自然に、腕が上がる。こぶしがほどける。晴乃さんの手に、握られる。
わたしたちの手が、二人の真ん中あたりでつながれる。晴乃さんの言葉が、熱と一緒にわたしに届く。
「だーさんのことが、好きなんだ。触るのが、いやなわけないよ」
また、視界がにじんだ。やっと、心の奥に言葉がたどり着く。それですべての力が抜けてしまったように、抱えてきた気持ちが口からこぼれだす。
「……わたし。わたし、怖かったんです。どうして触って、くれないんだろうって。触りたいのは、わたしだけなのかなって」
「うん。ごめんね。また、私のせいで、あなたを傷つけてた。本当にごめんなさい」
「違うんです。わたしが、わかってなかったんです。わたしたちのこと、誰にも言えないから、しょうがないのかなって、思ってたんです。ひかりとか親には話せないんだから、恋人みたいに触れないのかなって。晴乃さんが、そんな風に寂しがってるなんて考えもしないで、勝手に勘違いしてたんです」
「私が寂しがってたのも、私の勝手だよ。だからおあいこ」
「ううん、違うんです。それで、わたし、もっと勘違いして。晴乃さんは、わたしに触りたくないのかなって思って、それが怖くて、もし、晴乃さんのいやがることをさせちゃったらって、怖くて」
「そんなことない。だーさんに触るのがいやだなんて、思わないよ」
今なら、言葉を素直に受け取れる。晴乃さんも、望んでくれていた。
わたしと同じことを、お互いと触れあうことを望んでくれている。
それが嬉しくて、とても安心して。
わたしは、子どものように、気持ちを晴乃さんにぶつけた。
「怖かったんです。晴乃さんと、同じ気持ちでいられないことが。触ったら、普通の恋人みたいに触ったら、わたしたち、今みたいなまま仲良くできないのかなって。
……いまでも、怖いんです」
手を握ったまま、晴乃さんの目を見つめながら、わたしは言った。
「怖いんです。わたしたち、わたしたち二人になろうって決めたから。晴乃さんが言ってくれたみたいに、仲良くしようって決めたから。普通の恋人みたいに触ったら、もうわたしたちは、わたしたち二人じゃなくなっちゃうんじゃないかって。晴乃さんと話すの楽しいし、デートできるだけで幸せなのに、わたし、よくばりで、はしたなくて。
こんな気持ちで触ったら、わたしたち、わたしたち二人じゃなくなっちゃう気がして。
いまでもこんなに幸せなのに、触ったら、わたしたち二人を、壊しちゃう気がして……っ」
「大丈夫だよ」
気持ちを振り回したような私の言葉を聞いて。
晴乃さんは、それでもまっすぐに応えてくれた。
「その気持ち、少しわかるかもしれない。でも、大丈夫だよ」
晴乃さんの言葉があたたかくて、でも、うなずけない。
「……怖いんです。わたしも、晴乃さんに触りたいのに、なのに」
「うーん、そうだなあ。じゃあ、ほら」
そう言って、晴乃さんはわたしから手を放した。その両手を広げて、笑った。
「だーさん。私を抱きしめてみてよ」
「…………え?」
突然の言葉に、戸惑う。怖さもまだ消えていない。だけど、思い出す。
わたしは、この人の待っているところに歩いていきたいと、確かに思ったんだった。
わたしの言葉を受けとめて、そのうえで両手を広げてくれる晴乃さんの笑顔に近づきたいのも、本当の気持ちだ。
足を踏み出す。晴乃さんが近づく。もう一歩踏み出す。もう一歩ぶん近づく。
吐いた息がかかるくらいの距離に、晴乃さんがいる。わたしを見て、笑っている。
「ほらほらー。このポーズで待つのちょっと恥ずかしいね」
「は、はい」
両手を上げて、晴乃さんのわきの下に腕を寄せる。二の腕にうっすらとしたあばらが触れたのを感じて、肘を曲げる。両手が重なって、晴乃さんのうなじに触れた。腕に少しだけ、力をこめる。
その瞬間、胸に、お腹に、鎖骨に、首に、嘘のような柔らかさが生まれた。普段の印象よりずっと繊細な感触にめまいがする。ほんのりとした体温が、遅れてわたしの体に届く。頭を甘いしびれのような感覚が満たす。背中に晴乃さんの手が回るのを感じて、しびれはますます強くなる。晴乃さんがふわふわした声で言う。
「あっははー。すごい。だーさんのこと、抱きしめてる。だーさんぴっちぴちで気持ちいいなあ」
「な、なに言ってるんですか」
「あっはは。嬉しいなあ。本当に嬉しい。だーさんはどう?」
「……わたしも、嬉しいです、けど」
これが、いったいなんだというのだろう。抱きしめあったまま、晴乃さんの言葉を待った。
「なら良かったあ。じゃあ、次は、もっと強く抱きしめてみて」
「え、ええ?」
「もっと力こめて。ぎゅうって」
言われるままに、腕に力をこめる。晴乃さんの柔らかさを、さらに強く感じる。こんなに細い体だったなんて。
「んー、いい感じ。じゃあ、もっと強くしてみて」
「ええ!?」
「思いっきりでいいよ。ぎゅうーって」
よくわからない、大きなものに動かされるように、わたしは晴乃さんを強く抱きしめた。つぶれてしまうんじゃないかと、心配になるくらいに。でも、腕の中には、確かに感触と体温がある。生きている体がある。
「だーさん。私、壊れちゃったりしてないでしょ?」
「……え?」
背中に回された晴乃さんの腕にも、力がこもるのを感じる。互いの頬が触れそうな距離で、晴乃さんの声が聞こえる。
「私が、強く、もっと強くって言って。だーさんがその通りに力を強くしても。
私の体、つぶれちゃったり、壊れちゃったりしないでしょ? 今だって、力は強いけど、全然痛くないよ」
わたしは気づいた。晴乃さんの腕もそうだった。わたしの体を強く抱きしめているけれど、痛くも苦しくもない。
「それはね、だーさん。あなたが私のことを大切にしてくれてるからだよ。
どんなに力をこめても、私が痛がらないように、ちゃんと加減をしてくれてるから。
だーさんが私を大切にしてくれてるから、私は壊れちゃったりしない。こうやって、あなたに体をあずけられる」
あ、と、声が漏れる。心に、一筋の光がさす。真夏の日中にはきっと見つけられないくらいに弱い、だけど確かな、あたたかい光。
「だーさん。私たち二人も、同じだよ。
これから私たち二人が、どんなことをしても、どんなふうに触れあっても。だーさんと私がお互いのことを大切にしている限り、私たちの関係は壊れちゃったりはしないよ。
よくばりでも、はしたなくても大丈夫だよ。だーさんは、きっと私のことを大切にしながら、私に触ってくれる。私も、だーさんのことをめいっぱい大切にしながら、あなたに触っていけるよ。
私たち二人は、お互いを大切にする限り、絶対に壊れちゃったりしないよ。
だから、だーさん。これからもお互いを大切にしながら、したいことをしていこうよ」
言葉が、心にぴたりとおさまった。胸を痛めながら探していた答えが今、こんなにも綺麗なかたちで、腕の中にある。
のどの奥から、体じゅうに熱が広がる。目頭がつんと痛んで、わたしは湿った声を返した。
「……はい。はい、晴乃さん。わたしも、そうやっていきたいです……」
「うん。いっぱい悩ませて、ごめんね。つらかったね」
「いいえ……、嬉しいです。本当に、ありがとうございます」
「こっちこそ、ありがとう。だーさんに触れられて、本当に嬉しいよ」
それからしばらく、わたしたちは抱きしめあった。お互いの感触と息づかいと、鼓動だけを感じていた。
どちらからともなく、腕をほどいて体を離した。こぶし一つぶんの距離で、二人で向かいあって笑う。
「やー、照れるなこういうの! ほんと久しぶりでさあ」
「そんなこと言ったら、わたしなんて初めてですよ。心臓ばくばくです」
「ああー、そうだよねえ……」
ふいに、晴乃さんの表情が薄まる。どうしたのか尋ねる前に、晴乃さんの頭が傾いた。
正面の斜め下、つまり、わたしの胸の間に鼻をうずめるように頭をあずけてきた。一瞬で、頭が沸き立つ。
「……え、えええ!? な、なんですか急に!?」
「うっわ、すっごいボリュームだなあ。プールのときも思ったけど、見た目以上にすっごい」
「なに言ってんですか」
顔をわたしの胸に乗せたまま、晴乃さんは言った。
「だーさん、学校でもてるでしょ。男の子から言い寄られまくりでしょう」
「は!? そんなことないです」
「えー、うっそだあ。そんなに綺麗な顔で、こんなスタイルしてて、男の子がほっとくわけないよお」
「全然、ないですないです! わたしうるさいし、たぶんうざがられてます。
ていうか、どうしたんですか急に」
「いや、改めてね。思ったんだよ。
だーさんくらい綺麗で素敵な子なら、きっと同じように素敵な男の子と出会えて、幸せに暮らせるんだろうなって。
私は、だーさんに憧れてる男の子たちと、だーさんがこれから出会う男の子たち、そのみんなから、この可愛い女の子をさらっていくんだなあって」
晴乃さんが、顔を上げた。その、うっすらと赤みがさした頬に胸が高鳴って、同時に気づく。
晴乃さんは、わたしより少しだけ背が低かった。
同じくらいの、背だと思っていた。
すらりと長い手足や、元気な仕草や、その誠実でおおらかな心を知っていたから、ずっと大きな人に見えていたけれど。
今わたしの目の前にいる、ほんの少し低いところからわたしを見つめている晴乃さんは。
ただ一人の、可愛い女の人だった。その姿に、ぐらりと視界が揺れる。
見つめあう。本当に、何度見ても美人だ。その瞳に、吸い込まれそうになる。綺麗な顔が、近づく。
頭を傾ける。見つめあったまま、自然なかたちにおさまるみたいに。お風呂上がりの、つやつやの肌。
晴乃さんの顔がぼやける。目を閉じた。世界にはもう、わたしたちしかいない。
細く吸っていた息を、とめて。
小さな、音。
わたしは、晴乃さんとくちびるを重ねた。
なんの味もしない、だけれどとても甘い、湿ったくちびるの感触。
わたしのくちびるは乾いていないか、ささくれていないだろうかと、考えがあちこちに散らばる。そんなこと、頭をかすめる余裕さえないはずなのに。
柔らかい。でも心地のいい弾力を確かに感じる。体のあちこちがどきどきしている。耳の裏あたりから生まれた熱はうなじを撫で、肩を抱くように鎖骨にまで広がっている。人のくちびるは、こんなにも優しく脳を揺さぶるものなのか。
わたしは腿に、握った両手にぐっと力を込める。
震える体が、わたしの心の揺らぎを伝えてしまわないように。
ち、と小さく、わたしたちのくちびるの間から水っぽい音がする。それはささやかな音だったけれど、広いリビングルームに案外際立って響いた。……恥ずかしい。
部屋は静かだった。窓の外は八月の重い夕立に包まれている。
雨はいつもそうだ。雨粒が屋根やアスファルトを叩いて騒々しいはずなのに、いつの間にかなにも聞こえなくなっている。まるで、部屋の外の音すべてと打ち消しあっているように。
だから、微かな音がこんなに耳を打つ。くちびるがたてる音の意味を、ことさらに照らすように。
やめてくれ、こんなの。
いっそかき消してくれ。押し流してくれ。
こんな、ゆっくりと撫でるみたいにしないでくれ。
雨は意地悪だ。
もう一度、ほんのわずかな音をたてて、くちびるから柔らかさが離れる。
閉じていた目を開く。また、視線が行き交う。背中の汗を思い出す。
頬が熱い。きっと真っ赤だろう。恥ずかしくて、でも顔を逸らせなくて、それがいっそう、恥ずかしくて。
「……泣いてる?」
少しかすれた、低めの声。とびきり苦いチョコレートのような声だと、聴くたびに思う。
「いいえ、そんなことないです」
「目から水が出てたら、それは普通、涙なんじゃないかな」
「だとしたらこれは、嬉し泣きです。欲情してるんです、わたし」
「若いねえ」
頬を伝うしずくが口の端に触れる。
雨は意地悪だ。
でも、それでも。
わたしは、雨を嫌いにはなれない。
だって、晴乃さんと出会ったのも、こんな雨の日だった。
四月。
満開の桜を容赦なく散らす雨の中。この部屋で、わたしは晴乃さんと出会った。
五月。
小さな街灯に閉じ込められたような駐車場。わたしは、晴乃さんに救われた。
六月。
あの花束が頭に焼きついた暗い部屋の中で、わたしは自分の気持ちを知った。
七月。
薄い光に照らされた白い花に胸を貫かれて。わたしたちは心を通わせた。
そして、八月。
真夏の光のすき間に隠れるように、わたしたちは触れあって、くちびるを重ねた。
図書館へ通ったのも、夢中で本を読んで晴乃さんに呼ばれたのも、車の中で笑いあったのも。
いつも雨の日だった。わたしたちは雨の中で出会って、育ち、手をつないだ。
雨はいつでもそばにいてくれていた。
わたしたちを包む様子は意地悪にも見えたけれど、雨はわたしたち二人を隠してくれてもいた。
そんなそぶりは見せないで、雨はわたしたちを二人だけにしてくれていた。
きっとそんなの、ただの勘違いだろうけど。勘違いでも、それを信じる気持ちは本当だ。
そのささやかな優しさを信じて、憧れる気持ちに嘘なんてない。
「……ごめんね」
わたしの頬を見つめながら、晴乃さんが言う。
「なにが、ですか」
「きっと私は、これからも何度か、あなたを泣かせてしまう気がする。だから、ごめん」
「そんなこと」
「ううん。きっとそうだよ」
晴乃さんが、澄んだ瞳にわたしを映す。
「だって私は、きっとあいつを忘れられない。本当のことを言うと、私はあいつを忘れたくなんてないんだよ。
ひどいことだってわかってる。それだけでも、いつかだーさんを傷つけてしまうと思う」
遠のいていた胸の痛みが、ほんの少しよみがえる。だけれど、わたしは首を振った。
「そんなの、いいんです」
気にならない、とは言えないけれど。大丈夫です、となら言える。
「わたしが晴乃さんのせいで泣くなら、それはわたしが晴乃さんを好きだからです。
晴乃さんのせいで、じゃなくて、晴乃さんのために泣くんです。
晴乃さんのために泣けるなら、わたしは嬉しいです」
ずっと抱えていた気持ちのかたちに、やっと気づいた。
五月の雨の中で、わたしだけのために向けられたあの笑顔。
あの笑顔を、自分だけのものにしたかった。
でも、それは欲しかったんじゃないんだ。空に輝く星を、掴みたかったわけじゃなかった。誰かから、奪い取りたいわけじゃなかった。
わたしは、あの笑顔の理由になりたかったんだ。
晴乃さんに、笑っていてほしい。いつでも、幸せでいてほしい。
たとえ、その心に誰が残っていても。その誰かが晴乃さんを幸せにするのなら、それでいいと思える。
でも、晴乃さんが笑うときには、わたしもそこにいたい。
あの笑顔を、わたしに見せてほしい。
そして晴乃さんが、わたしといることで、ほかのどんなときよりも笑っていてくれるといい。
わたしの前で、笑ってほしい。
わたしの欲望は、そんな子どもみたいなかたちをしていた。
泣いてしまってもいい。それでも晴乃さんのそばにいたい。
晴乃さんが泣くときがあるなら、慰めるよりもその隣で泣きたい。
なんでもない顔で降り続ける雨のように、晴乃さんのそばにいたい。
晴乃さんは、熱を帯びた目を、細めて笑った。
「……さすが、かっこいいね。
好きだよ、だーさん」
「はい。わたしも、好きです」
わたしも、せいいっぱいの笑顔を返した。
「明日のデートは、どこに行きましょうか?」
明日の天気予報は、晴れ。出かけるには、もちろん晴れていたほうが嬉しい。
でも、なぜだか今までよりずっと、雨が待ち遠しくなっていた。