七月
湿った熱が、肌に敷き詰められている。毛穴という毛穴から、じっとりとした空気が入り込もうとしてくる。
この時期は毎年、今日以上に暑くなることはないだろうと思う。でも、太陽は昇るたびに力強さを増し、気温はこれでもかと暑苦しさを増していく。それは願望なのかもしれない。この辺で勘弁してほしい。もうこれ以上暑くならないでほしい。予想でも願望でも、結局裏切られることに変わりはないけれど。今年もきっと、暑くなる。
七月に入って何日かは、まるで夏への準備の成果を見せつけるような晴れの日が続いた。久しぶりに降った雨も、その暑さを和らげることはできなかったようだ。気温も湿度も高くなって、うっとうしさに磨きがかかってしまっている。梅雨明けのニュースはまだ聞こえない。
木曜日。わたしは夏服の胸元や肩に汗をぼたぼたと垂らしながら図書館に飛び込んだ。しっかり傘をさしていたはずなのに、雨に打たれたのと変わらない濡れ方をしている気がする。わたわたとタオルを取り出していたところに、聞きなれた声がした。
「お、だーさんだ! 久しぶり」
薄手のカーディガン、すっきりとしたチノパン、縁のない小さな眼鏡、綺麗な黒い髪、涼やかな美貌、明るい笑顔。
晴乃さんが、手を振りながら近づいてくる。いつも通り元気に、素敵に。
「……はっ、晴乃さん。こん、にちは……っ」
「だ、大丈夫? 走ってきたの?」
声を出してみてやっと気づいた。息が上がっている。知らないうちに、かなり早足になってしまっていたようだ。
「大丈夫、です……。濡れてるのは、汗なので……」
「それはそれで風邪ひいちゃいそうで心配だけど……」
こちらを見ている、晴乃さん。眉の下がった表情が、言葉通りの優しさをまっすぐに伝えている。
胸が、一度だけ痛んだ。でも、大丈夫。わたしもいつも通り、できるはずだ。そのために、時間をかけて自分の奥を覗き続けた。息を整えて、姿勢を正した。
「この前も学校休んだって聞いたよ。もう大丈夫なの?」
「すっかり元気です! ひかりのアップルパイのおかげです!」
「私、アップルパイ一切れしかもらえなかったんだけど……」
「髪ゴムじゃあさすがにドライヤーの埋め合わせはできないと思いますよ……。新しいのは買えたんですか?」
「買ったよお。ないと私も困るし。いいやつは結構値も張るんだねえ」
「きっと報われますよ! お菓子研の次のテーマはシュークリームだそうです」
「ほんとに!? うっわ、めっちゃ楽しみになってきた」
ついつい声が大きくなって、二人同時に我に返る。人差し指を立てあって、くすくす笑う。
わたしは心の中でだけ、大きく息を吐いた。楽しい。晴乃さんと話すのは、楽しい。それが変わっていないことが嬉しくて、安心した。これなら、大丈夫だ。今まで通り、晴乃さんと仲良くしていける。
これでいいんだ。あとは、体じゅうに染み渡った雨水が乾くのを、ただ待っていればいい。
並んでカウンターに向かう。パソコンの前に座った晴乃さんに、文庫本を差し出した。
「これ、返します。ありがとうございました」
「おおー、読むの速くなってきたねえ。どうだった?」
「面白かったです! テンションすごくて楽しかったし、最後の文章もかっこよかったです」
「それは何よりだあ。ほとんどギャグなのに、最後だけかっこいいからずるいよねえ」
手続きを終えて、わたしは晴乃さんに手を振って二階に上がった、次の本は、自分で選ぶつもりだ。
日本文学のコーナーに入った。さっき返した本には不思議な力をもったキャラクターがたくさん登場していた。それが面白かったので、次も同じタイプの話を探してみよう。まだしばらくは雨が続きそうだから、持ち運びやすい文庫本のほうがいいかもしれない。そんなことを考えながら棚の間をさまよう。
ほどなくして一冊の本が目に留まった。そのものずばり、超能力者という言葉がタイトルに含まれている。そして、夏という言葉も。これからの季節にぴったりじゃないか。本にも、歌のように似合う季節があるのかもしれない。
わたしはその文庫本を抜き出し、定位置になったテーブルの隅に腰かけた。静かな印象の表紙だ。どんな話なんだろう。わくわくする。
ページを開きながら、思う。本は不思議だ。
眠くて文字を追えなかったり、ほかのことが気がかりで本を開く気になれないときもあったけれど、一度スイッチが入ると、わたしの中のすべてが文字で埋め尽くされる。映像にも音にもならないイメージで、胸がいっぱいになる。その瞬間が、とても好きだ。あっという間に時間が過ぎていく。そこが本の不思議で、同時に素敵なところだ。
そして本は、やるべきことの決まったわたしととても相性が良かった。本を読んでいるときの心は、とても静かだから。ときに楽しく、ときに悲しくわたしのこころを揺らすけれど、本がくれる感情でいっぱいになった胸は、突然痛みだしたりはしないから。六月の終わり、雨の日の夜は、ずっとそうやって本と過ごした。うまくいっていた。
これまでと変わらない生活をしながら、染み込んだ雨水がひくのを待つのには、本を読んでいるのが一番よかった。
「だーさん、そろそろ時間だよお」
いつも通りの、優しい声。わたしも、いつもの顔で言葉を返せているはずだ。
本の貸し出し手続きをしてもらい、掃除を手伝って、わたしたちは傘を並べて駐車場へ歩く。
「でも元気そうでよかったあ。学校休んだって日から来てなかったでしょ? 大丈夫かなって思ってた」
「ちょっと大事をとってたというか。すみません、心配かけて」
「いやいやいいよお。私が勝手にしてただけだから。気が向いたときに来たらいいんだよ」
車の助手席に座る。晴乃さんの隣に座る。いつもと同じように。大好きな時間が、今でもまだ大好きでいられる時間が、また始まる。わたしはそれを噛みしめるように、大きく息を吸って、吐く。
ふと、甘い香りがした。
小さな違和感だった。甘い、だけれどしつこくない上品な香り。車の芳香剤の匂いじゃない。晴乃さんのシャンプーや、香水の匂いとも違う。なんの香りだろう? 無意識に視線を動かして、気づいた。
ハンドルの脇にあるエアコンの吹き出し口、そこに取り付けられたペットボトルホルダに、小さな瓶で花が活けてあった。みずみずしい葉っぱの上で、透きとおるような白い花が咲いている。ささやかだけれど、秘密の宝物のように綺麗な花だ。暗い車内で、その白さはほんのりと光って見える。
「この花――……」
思わず、口に出していた。
晴乃さんは、車のエンジンをかけながら笑って言う。
「ああ、知ってる? アラビアジャスミン。夏に咲くんだって。
この前お花屋さん行ったときに見かけてさ。可愛くて買っちゃったんだ」
「お花屋さん……」
この前。お花屋さん。いつの話か、なんの用事で行っていたのかがわかってしまって、また胸が痛んだ。いや、大丈夫だ。このくらい、おさえられる。
「もっと大きい鉢で買ったんだけど、車にも置いたら可愛いかなって思って、ちょっと切って持ってきたんだ。
でも、車の中だとすぐにへたっちゃいそうだよね。雨の日とかはいいかもしれないけど、晴れてたら日中はどこかに避難させないとなあ」
楽しそうに話す晴乃さん。笑顔。わたしも、笑って楽しく話したい。胸の痛みを隠しながら、笑顔を作る。
「そうですね。せっかく綺麗な花ですもんね。すぐに枯れちゃったらもったいないです」
「だよねえ。だーさんは好きな花とかある?」
「あんまり考えたことないですね……。あ、でも、ひまわりは好きです」
「ああ! 元気いっぱいな感じでいいよねえ」
言われてみたらそうなのかもしれない。目の前の明るい笑顔を、あの生命力にあふれた黄色に重ねていたのかもしれない。
「でも、この花も本当に綺麗ですね。上品だし、花びらがふわふわしてて可愛い」
「うんうん。綺麗だし可愛い。だーさんにもぴったりだね」
「ええー? なんですか急に」
「え? だって、ジャスミンでしょ?」
意味がわからなくて、首を傾げる。お世辞だろうと思ったけれど、晴乃さんは茶化す風もなく言った。
「だって、ほら。だーさんの名前の『莉』の字はジャスミン、茉莉花のことでしょ?」
「…………え?」
頭も表情も、固まってしまう。
確かに『莉』の文字には、ジャスミンという意味があるらしい。小学校の授業で、自分の名前の漢字を辞書で引いてみたときに知った。でも、名前から目を背けるようになって、自分でも忘れかけていたくらいだった。どうして。なんで急に、そんなこと。
なにも言えないでいるわたしを見たまま、晴乃さんは続けた。
「えーと、さ。私はだーさんの名前のことを知って、それでだーさんの味方をしたくて、あなたのことを『だーさん』って呼んでいるけど、それはあくまでも私の気持ちだからさ。だーさんの気持ちを大事にしたいっていう、私の気持ちだからさ。
だーさんのこと、間違ってるとは思わない。あなたが『だーさん』って呼ばれたい気持ちは、とても素敵だと思う。でも、それはだーさんの気持ちのうちの半分だけだよなあって、あとになって思ったんだよ。
前は偉そうなことを言ったけど、だーさんが、自分の名前を好きでいたいって気持ちも、確かにだーさんの気持ちなんだよなあって。そこをわかってあげられてないなあって、反省したんだ。
どっちの味方をするかって言われたらやっぱり、あなたを『だーさん』って呼ぶけど、私はだーさんの気持ちの、どれの敵にもなりたいわけじゃないんだよ。自分の名前が好きだって、嫌なところがあっても好きでいたいって思う気持ちのほうも。味方にはなれなくても、寄り添って、その気持ちをわかってあげたくなった。
私は考えなしで単純だからさ、嫌いなら本名なんて捨てちゃえばいいじゃん!とかバカなことしか考えられないから。
だーさんの気持ちに、ちょっとでも近づけたらいいなあって思って、あなたの名前の意味を調べた。とても綺麗で可愛い花のことを知った。素敵な名前だなあって、心の底から思ったよ」
動かないままの頭に、心地よい声がめぐる。優しい言葉が、心の中でゆっくりとかたちになる。
震える。胸の奥が、肩が、膝が、まぶたが、のどが。息もつけない。
暗い車内で、わたしがぴくりとも動いていないと思ったのだろう、晴乃さんは慌てたように続ける。
「いや、まあ、この花買ったときはそんなたいそうなことは全然考えてなかったけどね!
お花屋さんで待ってたとき、たまたま綺麗だなあって見てたら、『茉莉花』って書いてあって、これだーさんの名前の字だ!ってなって、そういえばジャスミンってこの字だったなあって思い出してさ。可愛いから買っちゃお!って。
まあ、完全に自己満足なんだけど、だーさんの名前にある綺麗な花がうちにあったら、私もだーさんの名前にちょっとはお近づきになれるかなーって。
花とか普段は買わないけど、この花は香りもいいしさ、甲斐甲斐しくお世話しちゃってるよ。部屋にあるだけでも気分よかったけど、とうとう車にまで持ってきちゃった。なんか、あると優しい気持ちになれるよねえ」
明るい声が、その優しさが体じゅうに響く。目を開けていられない。なんて、なんて人だろう。この人は。
もう十分だったのに。あの五月の雨の日、確かにわたしは救われたのに。
わたしのわがままの隣に立ってくれた。自分でも抱えきれなかったわたしの気持ちを、大切にすると言ってくれた。それだけで、泣いてしまうくらい嬉しかったのに。
わたしのすべてを見てくれる。子どもっぽさも、後ろめたさも、譲れないところもすべてわかって、それでも同じ目線に立とうとしてくれる。向きあおうと、してくれる。こんな人が、この世界に何人いるだろう。何回お礼を言えば、足りるんだろう。
でも、感謝よりも、さらに強い思いが胸を焦がす。綺麗ではない喜びが、それでもとても輝いて、全身を熱く流れる。
――わたしのことを、考えてくれていた。
お花屋さんで、旦那さんのためのお花を買っているときに、ジャスミンを見つけてくれた。わたしの字を、見つけてくれた。わたしを思い出して、その花を買ってくれた。
旦那さんのことだけを考えているんだと思っていた、そのときに、わたしのことを考えてくれていた。
なんてことだろう。あまりに自分に都合のいい、浅ましい想いだ。だけれど、止まらない。心の内側で叫ぶ。
ああ、晴乃さん。
わたしも、いるんですか?
あなたの心の中に、わたしも置いてくれているんですか?
旦那さんほど大きくはないのかもしれないけれど。
わたしのための椅子も、あるんですか?
そうだとしたら、嬉しい。なによりも嬉しい。
どんなにおかしくても、不謹慎でもいい。
晴乃さんの想いの届くところにいられるのが嬉しい。
晴乃さんに、想いを向けられるのが嬉しい。
想いを、向けられたい。あの笑顔を、手に入れたい。
もう、おさえられなかった。あんなに時間をかけて、確かめたのに。この深さと静かさなら、大丈夫だろうと思ったのに。気持ちを隠して、平気なふりをして、作った笑顔で、晴乃さんと話すことはもうできない。
胸の奥が痛い。嫉妬だ。敵わない相手への、勝ち目のない嫉妬。でも、なにもしないでいられない。
雨水はもう、染み込みきってしまった。あとは、外へ流れていくだけだ。
「……だーさん? どうかした?
やっぱり、名前の話はつらかったかな――……」
晴乃さんの言葉が止まる。わたしが顔を向けたからだ。
晴乃さんの目が少し開く。わたしが涙を流しているからだ。
晴乃さんの口が開いて、止まる。私が口を開いたからだ。
涙でにじむその顔を見つめながら、ほとんど睨むようにしてわたしは。
「晴乃さん。好きです」
わたしは、星に手を伸ばした。
車の中にはエアコンの音が満ちた。降り続ける雨の音と混じって、薄いノイズに変わっていく。無音と大して変わらない、背景のような音だ。
晴乃さんは口を閉じて、瞳をこちらに向けたまま表情を薄くした。呼吸の音も聞こえない。
張りつめた空気の中で、わたしはただ晴乃さんの反応を待った。もう一度くり返すつもりはなかった。さらに言葉を付け足すつもりもない。確信があるからだ。
晴乃さんは、わかってくれる。
察しがよくて頭の回る晴乃さんなら、わたしの口にした好意が冗談でもなければ、友達へ向けるものでもないことをわかってくれる。
晴乃さんは、向きあってくれる。
優しくて、人と付きあうことに誠実な晴乃さんなら、そんな言葉を受け取ったときにごまかしたりはしない。茶化すような態度で、話を曖昧に終わらせようとはしない。
わたしと向きあって、答えるべき言葉を探してくれる。
聞こえなかったはずはない。もしそうなら聞き返せばいいのだから。
晴乃さんは確かに、わたしの告白を受け取った。そして、答えを探してくれている。
うまく伝わらないかもしれない。はぐらかされるかもしれない。そんな心配は一かけらも感じない。
だから怖いのは、その答えの中身だけだった。
わかっている。張り裂けてしまいそうな胸の痛みが教えている。答えは決まっているようなものだ。晴乃さんには旦那さんがいる。愛しあった人がいる。この想いは届かない。星は、掴めない。
拒まれる。晴乃さんは、わたしの想いを受け入れはしない。
だから、わたしは、落としてほしいと思った。ずっとずっと低くて、暗いところまで。星なんて見えないくらい、遠いところまで。
そばにいたいだなんて、願えなかった。そうできたら、どんなにいいかと思う。仲のいい友達として、晴乃さんの明るさや優しさを感じて、そのそばで笑っていられたら、きっと幸せだろう。
だけれど、わたしは望んでしまった。幸せなだけでは足りなくなってしまった。
あの笑顔を、向けてほしい。一つしかない想いを、わたしに差し出してほしい。
叶うことのない願いを、わたしは晴乃さんに抱いてしまった。叶わないとわかっていても、おさえられなかった。
そんな願いを持ち続けたまま、晴乃さんのそばにはいられない。その眩しさがわかる距離なのに想いが届かないという事実は、わたしを傷つけ続けるだろう。それはきっと、とてもつらい。
たとえどんなに傷ついても、そばにいたいと願えればよかった。それだけの強さが、わたしにあれば。
でも、わたしにはなにもなかった。
幸せなだけでは足りない。傷つくだけなのはつらい。欲望と臆病が、わたしを暗いところへ呼ぶ。
叶わないのなら、遠ざけてほしい。幸せも傷も、あの笑顔の代わりにはならない。手に入るのがあの輝きではないのなら、いっそなにも残らないほうがいい。
ふられにいったんだ、と思う。そのための告白だったんだ。
わたしは、晴乃さんの心へ、そこにあると信じた椅子へ走った。
埋まっているのならしょうがない。座れないのなら、そのまま過ぎ去ろう。わたしを救ってくれた、あの笑顔を胸の中だけにしまって。
それが、わたしのせいいっぱいだ。
大粒の雨が、ガラスを激しく叩き始めた。夏の雨は気まぐれだ。深呼吸一つの間に、嘘のように静けさが帰ってくる。
無言で車の外に蹴り出されたりしたほうが、むしろ気が楽かもしれない。でも、晴乃さんはそんな人じゃない。わたしにもちゃんと理解できる言葉を選んで、気持ちを伝えてくれるだろう。その優しさに触れてしまうことが、だから一番怖かった。過ぎ去るための足が、にぶってしまいそうで。
何分過ぎただろう。目を合わせたまま、晴乃さんの口が動いた。息を止めて、待つ。
聞こえたのは、苦くて甘い声。いつもの少しかすれた、低めの声だった。
「…………ひどいなあ、私」
声色はいつも通りだった。だけれど、なにかが違う。ひとり言のような、どこにも向いていない声だ。
「なにも、わかってあげられてなかった。自分のこと、ばっかりだった」
「……晴乃、さん?」
思わず、呼びかけてしまった。どんな言葉だったとしても、返事を聞くまではなにも言わないつもりだったのに。晴乃さんの反応は、思っていたどれとも違っていた。戸惑うわたしに、晴乃さんは笑った。
静かな、笑顔だった。いくつもの感情が重なった、だけれどとても澄んだ笑顔。
あ、と、息が漏れる。まっすぐな言葉が届く。
「私も好きだよ、だーさん」
雨の音が聞こえなくなった。止んだのだろうか。違う、窓ガラスには水滴が流れ続けている。
エアコンの音も聞こえない。だけど、冷たい風は髪を揺らし続けている。
音が聞こえないのは、ほかの音が大きいからだ。振動と一緒に、体の内側でばくばくと鳴り続けている音が。
わたしの、心臓の音だ。
速いペースで、一回一回が重く、耳の中に響いていく。もう一つだけ、聞こえる音があった。
「ごめんね。つらかっただろうね。いっぱい悩ませちゃったよね。本当に、ひどいことをしてた。自分のことばかり考えて、勝手に悩んで、わかってあげたいなんて言っといて、だーさんのこと、なにも考えてなかった」
淡々と、だけれど少しだけ悲しそうに並んでいく音。
晴乃さんの声はいつも、まっすぐわたしに届く。心地よい声で、その優しさや誠実さのこもった言葉が伝わるのが好きだった。
だけど、今だけはわからなかった。晴乃さんが静かに言った言葉の意味が。晴乃さんがなにを言いたいのか、わからなかった。わたしは晴乃さんのように察しがよくないし頭も回らない。言葉の向こうにある気持ちを探せない。
――私も好きだよ。
どういうこと?
「晴乃、さん……?」
気持ちが、言葉にならない。ただ一言だけ口にできた名前は、自分でも驚くくらいかすれて、今にも消えてしまいそうだった。
晴乃さんは悲しそうに笑って言う。
「ごめんね。意味わかんないよね。どこから、話せばいいのかな」
速度計の明かりでぼんやりと照らされた晴乃さんはなんだか儚げで、いつもの明るさをなくしているように見えた。まるで、普通の大人みたいに。
まるで、普通の女の人みたいに。
「私は、男性も女性も、愛せるんだよ。気持ち悪いかもしれないけど」
その言葉に、目を開いてしまった。慌てて表情を取りつくろったけれど、一度見せてしまった反応をなかったことにはできない。なんて失礼な話だ。好きになるのがどんな相手かなんて、わたしも人のことは言えないのに。
晴乃さんは、そんなわたしの様子になんて気づかない風で続ける。どこまで優しいんだろう、この人は。
「この気持ちの、正式な名前とかは、知らない。特別調べたりする気にもなれなかった。名前がついたって、たとえ異常だと言われたって、気持ちが変わることはないだろうから。それに、人を好きになる気持ちとか、人を愛する気持ちには、本当は誰だって名前なんてつけられないと思う。それぞれ、違うかたちをしてるんだから」
仮に恋と呼んでも、仮に愛と呼んでも。きっとそれは、気持ちのすべてではない。すべてを言い表すことなんて、できないだろう。
いつもの明るさが消えたように見えても、やっぱり晴乃さんは晴乃さんだった。だけれどこの暗い車内では、晴乃さんのそのまっすぐさが、なんだか今にも壊れてしまいそうに見えた。
「だから、特に気にしたことなんてなかった。その相手が男でも女でも、私は自分が好きになった相手を好きでいればいいんだと思った。でも、私みたいな人が少ないのもわかってたから、大っぴらに話したりはしなかった。そもそも、人を好きになること自体ほとんどなかった。趣味に夢中で、恋愛とかにあんまり興味がなかったのもあるかもしれない。
だからさ。結婚したときに、もうほかの誰かを好きになることはないだろうって思ってたんだよ」
胸が痛んだ。これまでで一番、強く。また視界がにじんでしまう。
言葉が止まる。目を強くつぶって首を振った。平気だと言いたかった。少しの間をおいて、また静かな声。
「……初めて好きになって、付きあった人が男性だったのは偶然だったし、運が良かった。私にとっては男性を愛することも自然な気持ちだったけど、好きなったのが女性だったら、もっといろんなことが大変だっただろうから。
だから結婚して、ひかりが生まれて、どこかでほっとしてた。私は周りから見れば、どこにでもいる普通の女だったから。男性と結婚して、子どもを産んだ。それを望めない人だっているような幸せを、私は受け取れたんだ。
だからもう、それでいいと思ってた。私は男性と結ばれて家庭を作ったんだから、女性も好きになれることなんて忘れちゃってもよかった。ううん、女性だけじゃないね。もう、ほかの誰かを好きになる気持ちなんて、なくなったんだと思ってたんだ。……結婚した相手が、死んじゃったあともね。
だけど、だーさんに会った」
目を上げた。涙はまだひいていないけれど、その言葉に、引き寄せられるように。
そこにいたのは、とても綺麗な人だった。
なんの輝きもまとっていない、どんな力も持っていない、ただ誠実で、優しくて、まっすぐなひとりの人だった。
眩しくはなかった。
だけど、わたしはそれを、美しいと思った。
晴乃さんのあの笑顔は、いつもの明るさではなく、今の暗がりから生まれているんだと思った。
その美しさが、ゆっくりとかたちを作る。
わたしのための言葉を、再びつなげてくれる。
「初めて見たときから、可愛い子だなって思ってた。見た目はすごく綺麗なのに、子犬みたいにリアクション大きくてさ、表情もころころ変わるし、元気だなあ、可愛いなあって思ったんだ。友達の親なんてうっとうしいだろうにさ、居間でずっと話してくれてたでしょ。なんでもころころ笑ってくれて、嬉しかったよ。会話が途切れないように気もつかってくれてた。いい子なんだなって感心したよ。疲れちゃってないかなって心配になるくらいだった。話してて、楽しかった」
日に照らされたみたいに、頬が熱くなるのを感じた。まっすぐな言葉に、どんな顔をしていいのかわからない。
でも、胸の中は確かに暖かくなっていた。晴乃さんの言葉に、嘘がないのがわかる。わたしと話すことを、楽しいと思ってくれていた。そんなことが、ただ嬉しかった。
「図書館で会ってから、だーさんとは、会って話すのがどんどん楽しみになった。今日は晴れかー、来てくれなくて退屈だなーとか、よく考えた。閉館時間に、二階にだーさんを呼びに行くの、好きなんだよ。毎回読書の邪魔しちゃって申し訳なかったけど。
本名を訊きそびれたなあとは思ってた。でもひかりはあだ名以外を教えてくれなさそうだったし、だーさんも本名で呼ばれたそうじゃなかったから、無理に聞き出すことでもなかった。いつか自然に知れたらいいかなって。
……ごめんね。結局、だーさんをあんな風に傷つけちゃった。本当にごめんなさい。プリントに書いてくれたとき、本名を教えてくれる気になったんだと思った。本名を教えてもいいと、思ってくれたんだって。嬉しくて、だーさんの気持ちにずかずか入り込んじゃった。だーさんに、あんなにつらい言葉を言わせちゃった。なんて謝ったらいいのか、わからなかった。それに、とんでもなく失礼なことまで考えてたんだ」
あの五月の夜。晴乃さんがその優しさで、わたしのわがままを受け入れてくれた夜。あの日の晴乃さんに、謝らなきゃいけないところなんてなに一つない。いったい、なにが失礼だったというんだろう。
晴乃さんの、澄んだ瞳。まっすぐに向けられるその視線に、今まで感じたことのない熱を感じる。心臓が、一度大きく鳴る。
「……なんて、綺麗なんだろうって、思った。自分のための気持ちを、自分を大切にかばう当たり前の気持ちを、周りの誰かのために間違ってると思うだなんて。自分を幸せにするための気持ちで、傷つくだなんて。もっと小さな子どもでも、そんなことできないよ。とても綺麗だった。不謹慎だけど、気持ちが止まらなかった。
本当に優しい子なんだと思った。本当に、いい子なんだと思った。
……それだけじゃない。
なんて、愛おしいんだろうって、思ったんだ。
可愛いだけじゃない。優しいだけでも、いい子だけでもない。そう思うだけじゃ、足りなくなっちゃったんだ。
私が、この子を大切にしたいと思った。愛おしくてたまらないあなたを、ほかの何よりも、大切にしたくなった。
だから、私はあなたの味方になった。
だから、私はあなたを『だーさん』って呼んだんだ。
本名よりももっと大事な、あなたの気持ちそのものの、名前だったから。
自分の幸せでさえ傷ついちゃうあなたが選んだ、一番綺麗な決意を、私も一緒に守りたくなったんだよ。
嬉しかったな。この先も、あなたを『だーさん』って呼べるってわかったときは」
恥ずかしさと嬉しさが混じっていた頬の熱が、ぐらりと色を変える。燃える夕方の空のように。
ああ、なんてことだろう。
あの夜。今日と同じような、暗い駐車場で見た、あの笑顔。わたしの世界で一番、輝き続けるもの。
あの笑顔は。ほかの誰でもない、わたしのためのものだった。
背筋に電流のような喜びが走る。体じゅうが甘くしびれる。こんな喜びがあるだなんて、これまで想像したこともなかった。
わたしは、本当に救われたんだ。
晴乃さんの言葉で。晴乃さんに想われて。
目頭も鼻の奥も焼けたように熱い。けれど、次に聞こえてきた晴乃さんの声は、少し下がっていた。
「それから少しの間、だーさんは図書館に来なくなった。やっぱり傷つけちゃって、もう来てくれないかと思ってた。それは、悲しかった。でも、私となんて話さなくてもいいから、せめて本は読み続けてほしいと思った。貸し借りのために図書館に寄って、元気に楽しく過ごしているところを、ときどき見かけられれば十分だと思った。本当に。
でもやっぱり、だーさんがもう一度来てくれて、お礼を言ってくれて、また通うようになってくれて、嬉しかった。それがなによりも、嬉しかった。こうして車の中で話すのも、いつも楽しくて仕方がなかった。毎日でも、会いたくなってた。もうわかってた。この気持ちは、娘の友達をお母さん目線で可愛がってるものじゃないって。友達だなんて言ったけれど、そんな言葉じゃあ足りなくなってた。わかってたけど、そんな気持ち、どうしようもなかった」
燃えていたはずの胸が、小さな針を踏んだように痛む。おそらく晴乃さんと、同じところだ。きっと、同じ気持ちでいたんだ。
「年が違いすぎる。娘と同い年。ロリコンどころの話じゃないよ。それに、自分が特殊だったからときどき忘れてたけど、私は女だった。女の子に想いを伝えたところで、普通届くわけない。女子高生が、こんなおばさんにいきなり言い寄られたら、通報されたっておかしくない。考えるまでもなかった。叶うわけないって、諦めるしかなかった。
言葉にした通り、友達でいようと思った。一緒にいて楽しい、毎日会えると嬉しいなってくらいの普通の友達になろうとした。友達でだって、だーさんを一番に大切にすることはできる。年上の立場として、そうやってあなたが元気に過ごしていくのを見ていようと思った。
でも、気持ちは変わらなかった。かっこ悪いね、こんな年なのに。自分で決めたことも、守れなかった。
会えない日は会いたくなった。会えた日は嬉しくて、ずっと話していたかった。あなたが笑うところを、もっと見たかった。図書館でも、気づいたらほかのところでも、だーさんを探してた。お花屋さんで、だーさんの名前と同じ漢字を見つけてその花買っちゃうくらいだよ。ストーカーかよってね」
いつの間にかうつむいていた瞳を、再び持ち上げて。
晴乃さんは話す。心をさらけ出すように。
「本当に、ごめん。私、自分のことばっかりで、だーさんのこと、なにも考えてなかったね。だーさんのこと、一番大切にしたいだなんて言いながら、あなたの気持ちをわかってあげられてなかった。想像しようとも、してなかった。
きっと、だーさんはたくさん悩んで、それでも私に言ってくれたんだと思う。つらい思いをして、それでも私に伝えてくれたんだと思う。想いを抱えてること、伝えること、私よりもずっと大変だったと思う。本当に、嬉しいよ。
べらべら話しちゃったけど、私が言いたかったのは三つだけ。
伝えてくれて嬉しい、ありがとう。たくさん悩ませて、ごめんなさい。
……私も、好きだよ。だーさん」
晴乃さんはそれで、言葉を切った。
車の中に、雨の音が帰ってくる。頬を撫でる風の音も。でも、胸の音が小さくなったわけじゃない。
くちびるを噛む。今にも弾けてしまうそうな心を、少しでも落ちつけたくて。でも、そんなことはできなかったし、本当はしたくもなかった。わたしの中で暴れまわる気持ちは、昨日までとまったく違うものだ。
同じことで、悩んでいた。
同じことで、傷ついていた。
同じときに、同じように、想いあっていた。
わたしたちは互いに求めていた。
心の中に置いた椅子に座って、笑ってくれることを望んでいた。
嬉しい。
晴乃さんに、そんな風に想ってもらえていたなんて。
想いを通わせあうこと。その喜びが、激しくて甘い熱になって体じゅうを貫く。
だからわたしの口からも、当たり前の言葉がこぼれた。
「……いいんです。わたしも、好きなんです。晴乃さんが、好きなんです。
こんなにちゃんと気持ちを伝えてくれて、嬉しいです。
晴乃さんに好きって言ってもらえて、本当に、ほんとうにうれしいです……」
「うん」
だけど。
晴乃さんが一度、目を伏せる。苦しそうな表情で、それでもこちらを見て言う。
わたしは、涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、それでもその目を見つめ返す。
「だーさん。私は今から、とてもひどいことを言う。私は立派な大人じゃないけど、それでも年上として、言わなくちゃいけない」
「はい」
「だーさん。あなたの言う好きは、いわゆる年上の人への尊敬とか憧れを特別なものだと勘違いしちゃってるものかもしれない。一度、その思い込みから離れて広い視野で自分の気持ちを見つめ直してみたらどうかな」
「いやです」
「だーさん。あなたはまだ若い。恋に恋する気持ちもわからなくはないけど、あなたにはこれから出会うだろう年の近い素敵な人がたくさんいる。これから広がっていく人生に伴うような出会いを、待ってみたらどうかな」
「いやです」
「だーさん。あなたはまだ経験がないからわからないかもしれないけど、恋愛なんて本当は全然大層なものでも素晴らしいものでも価値のあるものでもない。嫌になっちゃわないうちに適度な付きあい方を覚えてみたらどうかな」
「いやです」
「ごめんね」
「いいんです。好きなんです」
「うん。私も好きだよ。じゃあ、そうだな」
「はい」
「デートしようか、だーさん」
次の日曜日、午前八時五十分。図書館の正門前は雨粒と車の音に埋め尽くされていた。
ばたばたと、透明のビニールに重い音が打ちつけられる。傘の柄まで届く振動を、通り過ぎる車がひとときだけかき消す。また、細かく途切れ目のない振動が帰ってくる。
鞄を体に引き寄せ直して、わたしは二つ向こうの信号を見つめる。ほとんど水のような湿気と熱を従えて、この夏の雨はなんだかとても元気だ。今朝も髪をまとめるのにかなり苦労した。雨は家を出る前から降っていたけれど、動きやすい服や濡れても構わない服は選ばなかった。もちろん、見栄えを一番に気にしたからだ。今日みたいな日に気にしないで、いつ気にするというんだ。
だって今日は、今までの人生で一番、まともに見られたい日だ。
今にもかすんでしまいそうな信号の下、同じように弱い二つの光が見えた。だんだんと光は強くなり、雨も音も切り裂いてわたしをまっすぐ照らしてくる。濃い赤色が見える。いつもの車だ。雨をはじきながら正門を抜けて、ライトが消えた。わたしはそこまで歩く。慣れない靴で滑らないように、ゆっくりと。
助手席のドアを開けた。運転席に座る人は笑っている。わたしも、笑顔を返す。本物と、作り物が混じった笑顔を。
「おはよう、だーさん。いい天気だねえ」
「おはようございます、晴乃さん。ほんとーですねー。お出かけ日和です」
「うんうん。どうせ行くのは室内なんだ。晴れてたらむしろもったいないくらいだ」
「そーですねー。湿気で髪もぶわぶわでもーさいこーです」
「……ごめん。私、雨女なんだ」
こんな名前なのにねえ、なんてぼやく姿に吹き出してから、座席に体を収める。
「わたしも、そうですよ。二人も揃ってたら、しょうがないです」
「二人いると逆に晴れるって聞いたことあるけどなあ。あ、鞄持ってるよ」
「ありがとうございます」
シートベルトをしめる。受け取った鞄を膝の上に乗せて言った。
「大丈夫です。お願いします、晴乃さん」
「うん。じゃあ、行きましょうか、デートに」
ライトが再び、雨粒を薄く照らす。車は図書館の敷地の中でぐるりと回り、正門を出る。今日の目的地へ向けて、スピードを上げる。
デート。晴乃さんの口から改めて聞いても、その単語を口の中で唱えてみても、やっぱり現実感がない。夢のような言葉だ。頬が緩んでしまわないように、両手を添えてみる。顔の筋肉に、変に力が入っているのがわかった。
エアコンの涼しい風に乗って、しとやかで甘い香りが届く。新しいものに入れ替えたのだろう、みずみずしく揺れる白い花を背景に、晴乃さんが口を開いた。
「遅くなってごめんね。外で待ってるの大変だったでしょ」
「最初は自動ドアの間にいたんですけど、暑くて。中に入るともう出る気がなくなっちゃいそうで」
「あっはは。涼しい部屋の吸引力はすごいからねえ。ひかりも家でのびてたよ」
「ひかりは今日は予定なさそうでした?」
「午後からお菓子研の集まりに出るって言ってたよ。シュー生地をどの種類にするか、クリームはホイップかカスタードかを話しあうんだってさ」
「そこからですか!? 全部作ってくれたらいいのに」
「まったくだよねえ」
日曜日の車は、休み休み雨の中を進む。わたしたちは、わたしたちのためだけの言葉で楽しく話した。
四十分ほどかけて着いたのは隣の市にある水族館。そこまで大きくはないけれど、最近の改装でかなり充実した施設になっているらしい。晴乃さんが、前から行ってみたかった場所だそうだ。友達とはなかなか来ない場所なので、わたしも興味をひかれた。
チケット代は出すと息巻く晴乃さんを押しとどめて自分のチケットを買う。車を出してもらった上にお金まで出させるのはどうかと思ったからだ。晴乃さんはじゃあお昼は奢るねと言いながらパンフレットを開く。
「私、動物園に行ったらまず象を見るって決めてるんだけど、だーさんはそういうのある?」
「ふれあいコーナーには毎回行ってる気がします」
「ほほーう。ここにもあるといいねえ」
「水族館ってどんなのに触れるんですか?」
「ヒトデとかイソギンチャクとかじゃないかな」
「やめときます!」
「そう? 面白そうじゃない?」
「わたしはふわふわの生き物に触りたいんです!」
「案外ふわふわかもよ? あ、ほら最初は川とか海辺の生き物だって」
「待ってください引っ張らないでわたしは触りませんからね!?」
館内は家族連れやカップルでそこそこの賑わいを見せていた。前の団体を追い越さないくらいの速さで、ゆっくりと水槽を渡り歩く。
「オオサンショウウオだって。ほかの魚食べちゃったりしないのかな」
「え、どこですか。小さい魚しかわかんない」
「ほら、そこの隅っこの長いやつ」
「え……、えっ、わ!? でかっ! こんなに大きいんですか!?」
「どんなサイズだと思ってたの?」
「とかげとかカメレオンみたいな大きさだと思ってました……。なんでこんな隅っこに集まってるんですか?」
「さあ……? あ、夜行性で、暗いところを求めて水槽の隅に行くみたいだよ。仲間を岩だと思って下にもぐり込んでいくから、どんどん重なっていくんだって」
「へえー、可愛い。見た目もなんかクッションみたいだし……目ぇ怖っ!」
すぐ近くの水槽では晴乃さんの言う通り、海辺の生き物に触れる水槽があった。
鳥肌をたてながら水槽を遠巻きに見ることしかできないわたしを尻目に、晴乃さんはまったく物怖じせずにぶつぶつしたヒトデやらにゅるにゅるしたイソギンチャクを掴んではこちらに掲げてみせてくれた。
階段を下ると、地上とつながっている水槽を横から見ることができるようになっていた。目を閉じたまま流されるように泳ぐアザラシに頬が緩み、ガラス張りの天井をゆっくりと通過していくエイの大きさに二人そろって口を開けた。
順路に合わせて、より海の深いところにいる生き物を紹介する構造のようだ。天井まで届く大きな水槽で小魚の群れや不思議な形をしたサメを見た辺りから、壁も床も深い青に変わっていく。先ほどまでとは打って変わって小さくなった丸い窓を覗くと、淡い光に照らされて小さなクラゲが静かに揺れていた。
「はあー……、綺麗ですねえ」
「いいよねえクラゲ。綺麗だしゆっくりだからずっと見てられる」
「え、このクラゲ今光りませんでしたか? 自分でも光るんですか?」
「自分で光る種類もいるねえ。なんか光のパターンとか色で仲間と会話するやつもいた気がする。あれ? あれはイカだっけ」
「イカも光るんですか……? 頭混乱してきました」
「ホタルイカとか」
「ああ! 食べるイメージしかありませんでした」
「私も光ってるところは見たことないなあ。茹でてマヨネーズがついたところしか知らない」
食い意地の張ったわたしたちを待っていたように、次の水槽には大きなカニがいた。カニを一番おいしく食べやすくいただく方法について話していると、いつの間にか地上に出ていた。晴乃さんが腕時計を見ながら、
「ちょうどいいタイミングでお昼時だね! ご飯にしよう!」
水族館と並んでいるお土産屋さんとフードコートのエリアに移動し、席を見つけてからかわりばんこに注文に行った。これなら奢らせることにはならないと安心していたら、注文を終えて戻ってきた晴乃さんに問答無用でお札を押しつけられた。おつりだけでも返そうとしたけれど、それも断られてしまった。
パンフレットを広げて、顔をつき合わせて午後のルートを考えていると、割とすぐに番号が呼ばれた。二人のトレイが並んでから手を合わせる。晴乃さんは親子丼、わたしはカルボナーラ。どちらの器にも、可愛くデフォルメされた魚の絵が入っている。
「水族館に来て丼ものとパスタっていうのもへんな話だねえ」
「お刺身とか出てきてもちょっとイヤですけどね」
「それもそっか。あ、でもお寿司屋さんで生け簀があると本格的な感じするなあ」
「言われてみればそうですね……」
食事をする場にあってほしくないものの境界線についてひとしきり盛り上がってから、わたしたちは再び水族館にくり出す。
よちよちと歩くペンギンに二人して黄色い声を上げたり、氷を抱いて寝転がるシロクマをうらやましがったり、別のふれあいコーナーでカメに腰かけるポーズを決めた晴乃さんを写真におさめたりした。わたしも少し触ったが、やはりわたしは毛皮と触れあいたいという思いを強くした。
お土産コーナーで饅頭のようなクラゲの帽子をかぶったり、胸元にペンギンの並んだTシャツを衝動買いしたりするうちにもう三時を過ぎていた。今度はひかりたちと来ようと思いながら水族館をあとにして、わたしたちの街へ戻る。
「甘いもの食べたくなっちゃった。だーさん、時間まだ平気?」
「はい。わたしもちょっとお腹すいてきてました」
晴乃さんはわたしの家へと向かう大通り沿いのカフェに車をとめる。少し高いけど長居がしやすい、落ちついた雰囲気のチェーン店だ。
席はそれなりに埋まっていたけれど、聞こえてくる会話は静かなものばかりだった。窓を叩く雨の音と混じって、その内容はわからない。無音よりも心地のいい音たちだった。わたしたちは窓際のテーブルについた。両隣とも利用者はいない。
晴乃さんはカフェオレと苺のパフェを頼んだ。わたしは悩んだ末にココアとパンケーキを選ぶ。
ペンギンの種類があんなにいたなんて知らなかっただとか、マンボウの顔が怖かっただとか話しているうちに飲み物が出てくる。間をおかずにパフェとパンケーキも。揃って手を合わせた。
「はー、おいしそー! 私パフェを眺めてから食べるのが大好きなんだけど、ひかり作ってくれないんだよねえ」
「綺麗な層にするのが大変だって言ってましたよ。ひかりもパフェはお店のを食べたいらしいです」
「そうなんだ? 知らなかったなあ。へんなところが似るもんだね」
パンケーキを切り分けながら、確かに、と思う。晴乃さんとひかりはあまり似ていない。
そもそも見た目の印象が違う。ひかりだって顔立ちは整っているけれど、小柄なところやゆるい癖のある髪質もあいまって全体的に可愛らしさが印象に残る女の子だ。まっすぐな髪にすらりとした体型で、いかにも美人といった雰囲気の晴乃さんとは正反対に思える。
性格も同じタイプではない。二人とも気が回るし穏やかなほうだけれど、失礼ながらひかりのほうがしっかりしている気がする。その辺りは普段の生活が出るんだろうけど。
「あ、でも好みは近いのかな。やっぱり」
「? お菓子のですか?」
切り分けたパンケーキにメープルシロップをかける。生地に染み込んでいく様子にうっとりしながら相槌を打つ。フォークで皿の脇にある生クリームをすくった。
「ううん。人の好み。
……二人とも、だーさんを好きになったんだからねえ」
ぽたん。小さな音をたてて、生クリームの塊がフォークから落ちる。
改めて、聞き直す必要なんてない。晴乃さんがわたしに向けてくれている好きは、ひかりの持っている好きとは、違うものだ。
ざくり、とパフェにスプーンを入れながら、晴乃さんは静かな表情で言う。
「だーさん。食べながらでいい。ちょっと、聞いてくれないかな」
生クリームをすくい直してパンケーキにのせる。その一かけらを口に運ぶ。とても甘い。わたしはそのあとでようやくうなずいた。
思いもよらず話が始まったからとか、心の準備が必要だったからとか、ではない。
わたしも、話したいと思っていた。
晴乃さんがこれからする話を、聞きたいと思っていた。
きっと、甘いものを挟みたくなるような話だから。
マーブル模様のクリームをスプーンにのせたまま、晴乃さんは改めて言った。
「今日は、本当にありがとうね。とても楽しかった」
「そ、そんな。わたしこそ、ありがとうございました」
「いや。今日は私のわがままだから。でも、だーさんが楽しかったのなら私も嬉しい」
「わたしも楽しかったです、もちろん!」
晴乃さんは笑った。いつもの明るい笑顔とは違う、どこか陰のある笑顔だ。ちょうど、今日の空のような。
「うん。私も、本当に楽しかった。だーさんと一緒に遊べて、嬉しかった。
だーさんが好きだって言ってくれて、私も好きだって言って、デートをして、楽しくて。ほかの人がこんな風に親しくなっていったら、それはもう、恋人って呼んでいいのかもしれないけど。
私たちは、ちょっとそうはいかない」
口の中に甘い余韻を感じながらうなずく。
そうだ。わたしたちは、好きだと言いあって、それですべてが丸く収まるような間柄じゃない。
溶け落ちかけたクリームを口に運び、飲み込んでから晴乃さんは続けた。
「私たちは、私たちになろう」
ざくり。ガラスの器の中で、コーンフレークが割れる音。晴乃さんはスプーンを持ったまま、わたしをまっすぐに見つめている。
「名前なんて、どうでもいいんだと思う。人を好きになる気持ちに名前がつけられないなら、好きあう二人の関係にだって名前なんて必要ない。
私たちは、私だけのかたちで、わたしたちだけのやり方で、仲良くできるよ。どんな恋人よりも、どんな夫婦よりも静かに、だけど親しく、お互いを大切にできると思う」
生クリームをすくう。パンケーキにのせる。また一かけらぶん、メープルシロップの跡だけがお皿に残る。
わたしはうなずいた。なにも言わなかった。晴乃さんの言葉は、まるでわたしの思いをすべてわかっているかのように、大切なことだけをシンプルに伝えてくれる。魔法のようにさえ思えてしまうけれど、きっと違う。
晴乃さんは、考えてくれていたんだ。あの木曜日から、今日が来るまで。好きだと伝えあったわたしたちが、これからどうしていくのか。わたしたちのために、見るべきものを探してくれていた。
「二人で、出かけよう。もちろんお互い、それぞれ違うところで生きているから、いつもいつもってわけには、いかないかもしれないけど。それでも時間を見つけて、二人でいろんなことをしよう。楽しくなるために特別なことをたくさんして、特別じゃないことでも楽しくなれる二人になろう。二人で、二人を、大切にしよう」
もう一かけら、フォークをつき立てながら、うなずく。鼻の奥がつんと痛む。目が少し潤んでしまいそうだったから、まばたきを多めにする。この人を好きになってよかった。この人と二人になれて、本当によかったと思う。
鮮やかなピンク色になったクリームをもう一度口にしたあと、晴乃さんが続ける。初めて聞いたかもしれない、小さく折りたたまれたような声だ。
「……周りに、話さないほうがいいっていうのは、わかるかな」
うなずいてから、ココアのストローに口をつける。自分でも、考えたことだ。わたしがよくても、わたしたちがよくても、周りの人が同じように受け入れてくれるとは限らない。
たとえば、両親。二人とものんびりした性格ではあるけれど、まさか娘がいきなり子どものいる女の人を恋人だと言って連れてくるとは考えていないだろう。恋人を紹介したことなんてないけれど、いつかその日が来るのなら相手は男の子だと思っているはずだ。驚きすぎて、晴乃さんに対して失礼なことを口走らないとは言い切れない。
それに、ひかり。わたしと晴乃さんが出会うきっかけとなった優しいあの子に、いったいなにを言えるというんだろう。
晴乃さんが、目を伏せる。長いまつ毛に見とれる。まっすぐな視線はメープルシロップの瓶に向いているけれど、きっと今も、わたしを見てくれている。
「私は、あなたに何もあげられないんだ。友達に自慢できる彼氏も、ご両親を安心させられる関係も、街中で堂々と手をつなげるような恋人も。私たちが二人だけでいることは、だーさんにとってよくないことになってしまうかもしれない」
「やめてください」
フォークを置いた。背筋を伸ばして、目の前の女の人を見つめる。ここで初めて、うなずけない言葉が来た。
「晴乃さんが、わたしのことを思ってそういうことを言ってくれてるって、わかります。でも、そんなの、要らないです。わたしは、晴乃さんに保護者になってほしいわけじゃありません」
からん、と小さな音をたてて、晴乃さんの指からスプーンが離れる。再びこちらに向けられた視線を、正面から受ける。
「わたし、晴乃さんからなにかをもらいたくて、好きだって言ったんじゃありません。晴乃さんがほしいものをくれるから、好きになったんじゃありません」
ほしかったものに、たまたま晴乃さんの持ち物が当てはまったんじゃない。晴乃さんがくれたものを、わたしが好きなったんだ。晴乃さんを、明るくて元気な姿を、あの笑顔を、輝いていないまっすぐさを、好きになったんだ。
ほかに、なにがいるというんだろう。
ふっ、という、音階のような息。晴乃さんは、困ったように笑っている。
「……すごいなあ。だーさんは。かっこいいなあ」
なんだか恥ずかしくて、ストローをくわえた。
「晴乃さんがかっこ悪いことを言うからです。さっきまで、すっごくかっこよかったのに」
「ごめんね。私は結構、かっこ悪いんだ」
顔にかかっていた髪を、指で流して耳にかける。そんな仕草のひとつひとつが素敵だった。
「じゃあ、せめてかっこよく約束しよう。
私たちは、私たちになろう。二人のために、二人で笑っていよう。
……私たちは、私たち二人のときだけ、私たち二人になろう」
「はい」
二人同じタイミングで、ストローに口をつけた。
やっぱり、甘いのにしておいてよかった。
わたしたちの約束は明るく輝いていたけれど、それでも少しだけ苦かった。
扇風機の風さえ、日に日にぬるくなっていく。ときどき雲を破って差し込む日光は、五分でアスファルトを触れなくする。
夏の深いところへと一直線に潜っていく七月の日々を、わたしは目まぐるしく過ごした。
月曜日から金曜日は、これまでと同じ放課後を過ごした。授業を受けて、晴れたらひかりたちと遊びに出て、雨が降ったら図書館で本を読んだ。ひかりたちとは夕飯の時間までカラオケで騒いで、図書館が閉館したあとには晴乃さんと車で話し込んだ。夏休みまであと何日か、指折り数えたりした。土曜日は毎週、ひかりと出かけた。お菓子研のハイテンションな活動ぶりを聞きながら、まだ完成には遠そうなシュークリームの味を想像してにやにやした。電車の中で話している最中にも笑ってしまったので、ひかりに気味悪がられた。
三連休が明けた水曜日、朝から降っていたどしゃ降りの雨が止んで日が差した午後、窓の外からやかましい音が聞こえた。何度も何度も聞いた、だけれど今年は初めて聞いた、体感温度がぐっと上がるようなうっとうしい音だった。でも毎年、その音を聞くとどこか気持ちが弾む。なにかが始まりそうなわくわくが、なにかしたくて居ても立ってもいられない気持ちが、体の中でばたばた暴れ始める。その日の夜、わたしは夜のニュース番組で例年より少し早い梅雨明けを知った。あのセミの鳴き声を待っていたかのような、とてもわかりやすい夏のはじまりの知らせだった。最後に雨が降った日は、やっぱり思い出せなかった。いくら梅雨を連想したとしても、これから降る雨は、もうすべて夏の所有物だ。
今年はとてもはっきりと季節の境目を意識したけれど、たとえ夏がやってきても、その訪れにわくわくしていても、当たり前ながらわたしの生活は境目を越える前と変わらなかった。
だって、わたしの生活は。
夏がはじまる少し前にもう変わっていたからだ。
水族館、そしてチェーンの喫茶店で過ごしたあの日から、日曜日は晴乃さんとデートをする日になった。
二人だけの約束をした帰り道、車の中で晴乃さんと話して決めた。
晴乃さんは日曜日になるべく休みを取る。わたしもなるべく予定を空ける。
土曜日の夜に互いの予定を確認して、出かける場所と集合時間を相談する。行き先は二人で変わりばんこに決めた。先週は晴乃さんだったから今週はわたし、といったように。
日曜日の日中に、ひかりがお菓子研の集まりに参加するようになったのは申し訳ないけれどありがたかった。わたしと晴乃さんが揃って日曜にいない理由を、いちいち考えないで済んだ。どこへ行くとしても、わたしたちは住んでいる街の施設やお店は選ばなかった。晴乃さんの車で、少し遠いところに出かけた。考えすぎかもしれないけれど、わたしたちを知っている人と出くわす可能性を少しでも減らしたかった。
水族館へ行った次の週は、わたしの希望で映画を見た。五月にひかりと一緒に見に行った作品だったけれど、面白かったのでもう一度見たかった。ストーリーはもう知っているのに、クライマックスのシーンでまた泣いてしまった。晴乃さんはリメイク前との違いが気になったようだけど、うきうきした顔でパンフレットを買っていたので楽しんではくれたようだった。
その次の週は、晴乃さんの希望で博物館に行った。中学生のころ、美術館で退屈して寝てしまった経験があるので少し不安だったが、動物のはく製やその生態を地図上に示したもの、最新の技術を使った飛行機運転のシミュレーションや人型ロボットとの会話はとても楽しかった。最終的にはわたしが晴乃さんをトリックアートのコーナーへ引っ張って行ったくらいだった。
その次の週、七月最後の日曜日はわたしの希望でプールに行った。ひかりやほかの友達はカナヅチだったり日焼けを嫌がったりで一緒に行けないので、晴乃さんに無理を聞いてもらった。数年ぶりに着たというワンピースタイプの水着、その落ちついたデザインと、数年前の水着を当然のように着こなせるしなやかなスタイルに胸が高鳴った。目のやり場に困ったわたしは、流れるプールで漂いながらパラソルの下の晴乃さんに手を振り続けた。くっきりとした影の下で、小さく手を振る晴乃さんの姿が目に焼きついた。そのときわたしは、晴れの日に晴乃さんと出かけたのは初めてだったことに気がついた。
雨を、ありがたいと思っていた気持ちもあったことに気づいた。傘は自然に顔を隠せる。誰かに覗き込まれでもしない限り、わたしたち二人が並んで歩いているだなんて気づかれはしない。晴れた日に会うことを少し心許なく感じてさえいた。
少なくとも今はまだ、わたしたちの気持ちを、わたしたちの関係を誰かに教えるつもりはない。いつかその日が来るのかもしれないけれど、今のわたしにはその様子をうまく想像できない。晴乃さんも、きっと同じだろう。
わたしたちは、写真を撮らなかった。ツーショットはもちろん、お互いの姿が写った写真も。出かけた先の施設や景色さえ、まったく記録に残さなかった。二人で同じ日付の同じ写真を持っていることで、予期しないタイミングで誰かに勘づかれる可能性を、万に一つでも作りたくなかったからだ。
二人で言った場所のことを思い出す手がかりが残らないのは少し寂しかったけれど、周りには知らせないと決めた以上は仕方がなかった。それに、写真に残せないと思うと、自分の感覚が鋭くなっていくのを感じた。わたしの目、耳、鼻、舌、肌は、普段よりずっとくっきりと、映画のワンシーンやお昼のメニュー、パラボラ越しに聞いた声、水を含んだタオルの感触を記憶におさめていく。一つ一つが、大切な宝物のように頭に焼きついていった。そんな風に思い出を重ねていくのは、きっととても素敵なことだと思う。
短くなった授業を終えて、待ちに待っていた夏休みを迎えても、わたしの生活は大きく変わらなかった。
平日に晴れていたら、友達と遊びに出る。少なくなった雨の日や夜は、本を開く。
日曜日には、晴乃さんとデートに行く。わたしたち二人の記憶にしか残らない、打ち上げ花火みたいなデート。
わたしたちは笑った。いろいろな所へ行っていろいろなことを話したけれど、それだけはいつも変わらなかった。かみ合わない感性がいちいちおかしくて、ふとした言い回しが気に入って、言い間違いにつっこみあって、そのたびに笑った。相手が笑っているのが嬉しくて笑って、それがわかって、やっぱり笑った。
光と熱に満たされた夏の中で、わたしと晴乃さんは、ほかのどんな二人よりも、わたしたち二人だった。