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雨と晴乃さん  作者: 澄椎
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六月


 雲に遮られた朝は不思議な暗さをまとっている。カーテンのすき間から漏れる弱い光と、ノイズのような水音で気づいた。今朝も雨が降っている。

 ベッドから起きてカーテンを開く。抑揚のない一面の灰色は、まるでそれが空本来の色ではないかと思わせるけれど、雲は確実に街に覆いかぶさって、線のような雫を真っ直ぐに落としている。

 六月最初の土曜日、わたしは身支度を整えて家を出た。透明だったビニール傘はあっという間に水滴に覆われて、街はモザイクの向こうへぼやけていく。

 見慣れた四角い建物の前に立って、わたしは二度深呼吸をした。少しだけ、心の準備が必要だった。

 傘をたたんで自動ドアをくぐる。ロビーの奥に、晴乃さんがいた。カウンターの中で、本を抱えててきぱきと動いている。

 このまま二階に上がってしまいたい気持ちもあったけれど、そういうわけにはいかない。ゆっくりとカウンターに近づくと、晴乃さんが顔を上げた。視線がぶつかる。目元を緩ませて、晴乃さんが言った。

「こんにちは、だーさん」

 柔らかな声に、体の奥が揺れる。明るくて、だけれど押しつけがましくない笑顔。どうしたら、こんな風に笑えるのだろう。こんなに優しく、相手を受けとめるように。

「……こんにちは、晴乃さん」

 きちんとした言葉を用意してきたはずだったのに、口が動いてくれなかった。結局、半端な笑顔とあいさつを返す。

 晴乃さんは抱えていた本をカウンターの隅に置いた。周りを見回してから、声をひそめた。

「もう来てくれないかなーって思ってた。ちょー嬉しい」

「……たった十日くらいですよ。前までと比べたらすっごいペースです」

 いつかと似た言葉を返した。もちろん、これでは足りない。わかっている。ちゃんと言葉にしなくては。

 わたしは頭を下げた。

「この前は、ありがとうございました。迷惑かけちゃって、ごめんなさい。

 心配してくれて、本当にありがとうございます」

 バーコードのついた青い文庫本をカウンターに置いて、晴乃さんに差し出した。

「この本も、ありがとうございました。遅れてしまってごめんなさい」

 文庫本の表紙を見たまま顔を上げられないわたしの頭に、静かな声が届く。

「……いいんだよ、お礼なんて。ごめんなさいも、言わなくていい。

 遅れたのだって、気にするようなことじゃないよ。

 ただ、本を返しに来てくれれば良かったんだよ。それでいいんだ。

 それで、まだその気があったら、ほかの本を探してくれればいい。それだけで、良かったんだよ」

 首を振った。そんなわけにはいかない。

 わかっている。晴乃さんは、わたしをとても心配してくれていた。目の前で子どものように泣いたわたしを、面倒がったりせずに正面から受け入れてくれた。来なかった日もわたしを気にかけて、またここに来るのを待っていてくれていた。

 こんなわたしを気づかって、今日もいつもの笑顔で、声をかけてくれた。

 それだけで、また涙が出てきそうになるくらい嬉しかった。晴乃さんのその思いやりに、きちんと言葉で感謝を伝えたかった。

 借りた本は、あの日の夜に読み終わった。それから今日までのうちに、何度か雨も降った。

 だけれど、今日までわたしがここに来なかった理由は、その一つだけだった。

 わたしにとって、とても大切な、泣いてしまうくらい嬉しい言葉をくれた、そのお礼を考えるためだった。

 顔を上げて、綺麗な瞳をしっかり見つめて、わたしは言った。

「いいえ。ありがとうございました。気持ちが、少し軽くなりました。本当に、嬉しかったです」

 二週間近くかけて決心した割に、結局考えていた言葉はほとんど使えなかったけれど、わたしは気が抜けて少し笑ってしまった。

 やっぱり、晴乃さんは素敵な人だ。

 晴乃さんは、わたしの伝えたかったことをちゃんとわかってくれたみたいだった。

「……いいってば! あんまり見ないで! そんなにまっすぐ言われるとさすがに恥ずかしい」

 少しだけ照れくさそうな、だけれどほっとしたように和らいだ笑顔が、それを教えてくれた。

「次に読む本は、自分で探してみようと思ってるんです」

「おお、いいねいいね! 面白かったら教えてね」

「はい! 晴乃さんも、おすすめがあったらばんばん教えてください」

 小さく声を交わしながら、わたしはいつもより笑った。またここに通える。『だーさん』と呼んでもらえる。それが、何よりも嬉しかった。




 涼しい梅雨だった。体にまとわりつく湿気よりも、濡れた袖や裾の冷たさのほうが気にかかる雨が続いた。

 六月初旬の中間試験をやり過ごしたわたしたちは、またそれぞれの趣味や部活動へと散らばっていく。

 ひかりは最近ではほぼ毎日のようにお菓子研に顔を出している。雨の日が続いているのも理由の一つだけれど、生地から作るアップルパイはなかなか強敵のようだった。晴れの日や昼休みにもお菓子研の部員と話し込んでいる姿をちらほら見かけるようになっていた。

 遊びに出たときに聞くひかりの話も、熱を増してきている気がする。

「まず、食べておいしいのが一番じゃない? そりゃ見た目ぐっちゃぐちゃとかは嫌だけど、切ったときの生地の割れ方が良くないとかまでいくともうこだわりじゃなくて偏屈だよ」

「え、何? コンクールとかに出すの? それなら見た目の綺麗さも大事じゃない?」

「ううん、あたしたちで食べるだけだよ。焼きあがったときの綺麗さを、切り分けてお皿に乗せたときまで保ちたいんだって」

「美意識すごーい……。お菓子研の人はみんなそんなノリなの?」

「さすがにそこまでの人は少ないけど、あたしも生地がぼろぼろ崩れるのが嬉しいわけじゃないから、面と向かって言いづらいんだよね……。ただ『ちょっと崩れてたほうが手作り感があって可愛い』とか、『切っても崩れないなんて完璧さはアップルパイというお菓子にそもそも似合ってない』みたいな意見も出てきてて、最近は話し合いの時間がめっちゃ増えてる」

「お菓子作ろーよ! 作って食べながら話そうよ!」

「あ、それいいかもー。今度話してみる」

 ひかりの変化につられるように、わたしも変わり続けている。

 わたしは雨の日の図書館に加えて、家の中でも少し本を読むようになった。続きが気になるときはもちろん、寝るにはまだ早いと思うときには布団の上で本を開くようにしてみた。すぐに眠くなってしまう日もあるけれど、ついつい読み続けて次の日にあくびを連発してしまうときもある。自分のことながら、本当にびっくりするような変化だ。

 学校や外ではひかりたちと話したり遊んだりする。図書館と家では本を読む。それくらいがちょうどいい。

 今までと変わったことは、もう一つある。

 図書館で本を読んだあと、晴乃さんと二人で話をするようになったことだ。

 雨の日の放課後、あるいは休日。晴乃さんが閉館時間の担当をしている日は、一度読みだすとなかなか中断できないわたしを呼びに来てくれる。記録をつけたり電気を消したりといった作業を待って、ときどき手伝って、わたしたちは閉館後の駐車場、濃い赤色の車の中で少し話す。

「へえー、女の子が主人公なんだ。それもそれで良さそうだねえ」

「はいもーすっごくまっすぐっていうか素直で応援したくなるんです! 同じ作者の人でもこんなに内容違うんだなーって」

「同じ作者の本でっていうのは探しやすくていいよねえ。次も同じ人のを読むの?」

「うーん、まだわかんないです。これを読んでる間はこの本のことしか考えられなくて」

「ああっやだ眩しい」

「なんですか急に!?」

「年を食うとね……、気になる本は増える一方なのに読むのが追いつかなくてね……、買ったはいいけどあれ? これ何年読んでないの?って本がどんどん積みあがっていってね……」

「ああー……、わたしも結構漫画ためちゃいます」

「読みたいときに買ったり借りたりして読むのが一番だよお……。私のようになる前に……っ!」

「晴乃さんはもう手遅れなんですか!?」

 笑いあううちに、どちらかがふと、時計のことを思い出す。メーターの隣にあるデジタル表示に目を向けて、晴乃さんが言う。

「もう遅いね。そろそろ帰ろうか」

 ヘッドライトが雨粒を照らす。話し込んだ日には、晴乃さんが必ず家まで送ってくれた。

「今日はひかりが夕飯作ってくれてるんだあ。楽しみ」

「ひかり、今日はお菓子研でアップルパイを一斉に焼いて別々に切ってみるって言ってたんで全部アップルパイかもしれないですよ」

「おーう……。好きだけど夕飯全部アップルパイはちょっとなあ」

「わたし、まだ食べてないんですよね。お菓子研の方針は完成してから配る、らしいので」

「じゃあ私が出されたら毒見ってこと!?」

「前向きにいきましょう。お披露目第一号かもしれません」

「なるほどね! さすがだーさん! そう思うことにする!」

 そんなに、何度もあったことではない。

 雨の日に図書館へ行っても晴乃さんがいない日ももちろんあったし、いたとしてもわたしより先に帰る日もあった。

 週に三日あれば多いほうだっただろう。わたしたちは、それぞれの日常にあった隙間を埋めるように話した。

 特別な理由はなかった。ただ、これまでよりも仲良くなって、話していると楽しいから、なんとなく時間を合わせている。

 友達と呼ぶには少し不思議だけれど、ほかの呼び方も思いつかないし、名前を決める必要も感じなかった。

 いつまでも話していたい相手が、一人増えた。雨の日が、前よりも待ち遠しくなった。

 きっとこれも、なんでもない変化のうちの一つだ。




「読んだよお。だーさんが返してくれたあとにすぐ」

「わ、早いですね。どうでした?」

「最高! 正直、前のより好みだった! みんなそれぞれの幸せを目指していくんだろうなって感じが良かった」

「わかります! 最後の文章の意味がわかったときめっちゃ感動しました」

「あれは良かったねえ。最高の結び方だった」

「ああいう本ってほかにあるか知ってますか?」

「んんんー……? 難しいなあ……。最後の文が良かったっていうなら、あるかな」

「さすがですね……! ここに置いてますか?」

「うん、あるよ。気になるなら探しといてあげる」

「ありがとうございます! お願いします!」


「で、一口食べたとたん、その先輩がひかりにひれ伏しちゃって。その日から勧誘が始まったんですよねー」

「ひかり、そんなことになってたの……?」

「ひかりは昔からお菓子作るの得意だったんですか?」

「親戚にお菓子作りが趣味の人がいるんだよ。その人のおうちに行くといつも手作りのおいしいお菓子が出るからひかりが毎回行きたがって、そのうち教わりだした。私はお菓子はからっきしだったからうはうはよ」

「おいしいお菓子は世界を救いますからね!」

「だーさんたちの学校のお菓子研の話を聞くと、逆に争いの種になりそうだけど……」


「だーさんは漫画、どんなのを読むの?」

「少年漫画ばっかりですね」

「少年のほうなんだ!?」

「よく映画とかになってる感じの少女漫画が、いまいちついていけないんです。早くどっちか選んでくっつけばいいじゃん!って思っちゃいます」

「男前だなあ……。私もその辺はよくわかんなくて、年のせいかなって思ってたけど」

「なんか、俺様系とか腹黒キャラみたいなのもダメなんですよね。普通に優しい人がいい!って」

「ただのいい人だとなかなか目を引く漫画にならないからねえ。

 あ、でも、突然出てきたイケメンにどきどきしてたら幼馴染の男の子がむくれながら腕ひいてどっかに連れてっちゃうみたいなのは可愛い」

「あー! それです! そういうのがいいです!」


「晴乃さんは歌の歌詞って読みますか?」

「そこそこ気にするかなー。去年ドラマで流行ったあの、ダンスするやつ、あれの歌詞とか結構好き」

「ああー。やっぱり普段から文章読んでる人は違うんですかね。わたし、歌詞は全然ダメで」

「歌詞の意味がよくわからないってこと?」

「好きだーとか、一緒に踊ろー、みたいのじゃないとわかんないですね。晴乃さんはどんな歌詞が好きですか?」

「その気にさせてくれる歌詞、かな」

「その気にさせてくれる?」

「うん。例えば、『戦争はいけない』ってメッセージを歌詞に込めるとして、そのまま戦争はいけないんだよーって歌詞にしちゃうよりも、戦争の様子を淡々と描いて、その歌を聴いたときに『戦争はいけないんだなあ』って思わせてくれる歌詞が好き。気持ちをそのまま歌うんじゃなくて、聴いてる側をその気持ちにさせてくれる歌詞」


「違うって何度も言ったのにわたしのせいにされて! 絶対こーきがやったんですよもう」

「ん、こーきってどなた?」

「あ、弟です」

「だーさん弟いたの!?」

「あれ? ひかりには話してるから、晴乃さんも知ってると思ってました」

「全然全然。いくつ?」

「十歳です。小学四年生」

「七つ下? めっちゃ可愛いやつじゃん」

「そんなことないですよ! 生意気盛りで」

「いーなー私一人っ子だったからなーいーなー」

「そんなにですか……?」

「弟、欲しかったんだよねえ。年の離れた弟を可愛がりたかった」

「今度貸しましょうか?」

「ほんとに。返せないかもしれない」

「目が怖いです」


「ごめん、だーさん。今朝ひかりを怒らせちゃってさあ。今日どんな感じだった?」

「えー……? 別に普通だったと思いますけど。何があったんですか?」

「私がドライヤー落として壊しちゃったんだ。寝ぐせひどいのにってぼかぼか叩かれた」

「あー……、確かに今日は髪まとめてましたね」

「ワンランク上のやつを買い直してご機嫌をとるしかないかー……」

「いいと思いますけど、どこに買いに行くんですか? この時間じゃもうどこも開いてないんじゃ」

「え、駅前の家電屋さん、九時までじゃなかった?」

「確か七時だったような……」

「十九時と間違えてたかあ……。髪ゴムで許してくれないかな」

「ごめんなさい。晴乃さんのぶんのアップルパイはわたしがおいしくいただいておきます」

「私がもらえないの確定?」




 その日曜日、七月はもうすぐそこまで来ていた。首筋や足の間に感じる汗のべたつきで、わたしはやっといつもの梅雨の煩わしさを思い出した。

 体温より少しぬるい、でも決して涼しいとは感じない重い空気が、足の指の間からつむじまでくまなくへばりついている。

 冷たい雨粒にまぎれるように、だけれど確かに季節はそのかたちを変えていた。この湿気を閉じ込めている蓋のような雲が流れていけば、きっともう夏だ。

 梅雨の終わりの一番暑い日、それも雨の日なんて、これまでのわたしにはただ退屈な日でしかなかった。

 外に遊びに行くのも大変、なにをしていても湿っぽい体からは逃げられない。エアコンの除湿を最大にした部屋で、テレビやスマートフォンを眺めて時間が過ぎるのを待つことしかしていなかった。

 しかし、今年のわたしは違っていた。

 朝食に間に合う時間に起き、湿度で跳ね回る髪をなんとかまとめ、しめつけの少ない服を選んで、本と傘を手に家を飛び出した。

 大粒の雨がそこかしこで弾けて、さらに細かな水滴へとくだけていく。側溝からは大量の水が流れる音が唸り声のように響いている。台風にはしゃぐ小学生のように、大股で歩いてみる。スニーカーがみるみる色を変える。この前ひかりとお揃いで買ったサンダルをおろすのはもう少し先になりそうだ。

 そういえば、あの桜の花びらたちはいつの間に消えてしまったのだろう。最後の一枚が流されるところを、あるいは乾いて飛ばされていくところを、思い返せば見たことがない。

 梅雨だってそうだ。いくらニュースで梅雨明けと言われても、次の日に重苦しい雨が降ればまだ明けてないじゃないかと思ってしまう。

 すっかり暑くなって、照りつける日差しとぼたぼた落ちる汗にうんざりしてきたころ、やっと世界に梅雨のかけらも残っていないことに気づく。

 もしかしたら今日が、今年の梅雨の最後の一日かもしれない。

 そう思うと、雨も湿気もあと少しくらいはいいかという気分になる。これまではただ過ぎるのを待つだけだった景色の、手触りがわかったような気持ちになる。

 ただ外に出ただけなのに、そんな大げさなことを思いながらわたしは図書館に入った。

 自動ドアの中はいつものようにすばらしい涼しさとほどよい湿度に満たされていた。梅雨も悪くないみたいなことを思ったりもしたけれど、やっぱり快適なのならそのほうがいいに決まっている。

 カウンターに目を向けると、晴乃さんではない、だけれどよく見かける年配の女性が座っていた。

 晴乃さんは土日の休みにそこまでこだわらないタイプのようで、日曜に会うことも多かったけど、今日はいないようだった。珍しく、ひかりと出かけたりしているのかもしれない。

 わたしはまっすぐに階段を上り、テーブルのいつもの席で本を開いた。晴乃さんが教えてくれた文庫本だった。文章がかなり独特で展開も早いので最初は大変だったけれど、ギャグシーンやアクションも満載だったので楽しく読めている。今日一日かけて、ちょうど読み終わるくらいだ。

 しばらく時間を忘れて読んでいた。ふと目を上げると、壁の時計はもう昼時を過ぎるころだ。

 意識すると途端にお腹がすいてくる。雨の中をまた往復するのは面倒だけれど、いったん家に帰って昼食をとろうと腰を上げた。

 自動ドアをくぐって傘を開くと、正門から車が入ってきた。小さな濃い赤色の、最近見慣れた車だ。建物の裏に回っていくその車を追って、わたしも正門とは反対方向に進む。

 駐車場に入ると、ちょうど運転席から晴乃さんが出てくるところだった。近づくわたしに気づくと、開きかけの傘を振りながら笑った。

「あ、だーさん! 偶然だねえ」

「いやいや、傘さしましょう。濡れちゃいます……。今日は午後からお仕事なんですか?」

 晴乃さんは、当番の日には開館から閉館までいることが多い。休日の関係で半日だけ出ているときもあるけれど、今まではすべて午前中に出てお昼すぎに帰っていた。

「ううん、今日は休み。これからひかりと出かけるんだけど、ちょっと忘れ物思い出したから先に行っとこうと思って」

 やっぱりひかりとお出かけだった。タイミングよく会えてよかったと思いながら話していると、ふと車の後部座席に目がいった。

 首を傾げて見てみると、そこにあったのは花だった。ふわふわとした菊を中心に、白や薄い黄色を基調にまとめられた、派手ではないけれど綺麗な花束。

 何の知識もないわたしでもわかった。お墓参り用の花だ。これからひかりとお墓参りに行くのだろうか。雨だと大変そうだ。お彼岸というわけでもないし、この時期にお墓参りというのは少し珍しい気がする。

 そこで、やっと気づいた。

 顔がこわばるのをなんとか抑えようとしたけれど、失敗したようだ。晴乃さんが首を傾げる。

「ん? どーかした? だーさん」

「い、いえ……。改めて、お腹すいちゃったなって」

「あっははー。そりゃあ引き留めて申し訳ない。ご一緒できなくて残念だけど、また今度ね」

「いえ、わたしこそすみませんでした。また図書館で」

 笑って背を向けた晴乃さんに手を振りながら、わたしの意識はもう駐車場からだいぶ遠いところにあった。

 ショックだった。今さらになって思い出した。忘れていたつもりなんて、なかったのに。

 ――うち、お父さんいないんだー。死んじゃってる。

 ひかりと、晴乃さん。二人で、珍しい時期にお墓参り。

 誰に会いに行くのかなんて、これ以上ないほど明らかだった。




 昼食をほとんどむりやりお腹に押しこみ、わたしは自室で枕に顔をうずめた。

 午後も図書館に行って本を読むつもりだったけれど、そんな気分にはなれなかった。ここで本を開く気にさえなれない。

 真っ暗に埋まった視界の向こうで、今もまだ遠慮のない雨音が続いているのが聞こえる。

 やっぱり、雨だと大変そうだ。二人とも、濡れて風邪をひいたりしなければいいけれど。頭がぐるぐる回りだす。

 考えてみれば当たり前のことだ。亡くなった家族がいるのなら、特別な日でなくてもお墓参りに行くのなんてなんの不思議もない。

 それなのに、わたしはショックを受けている。当たり前のことの、はずなのに。

 なににそんなに、驚いたのだろう。自分の忘れっぽさにだろうか。気の利いたごまかし方もできない未熟さにだろうか。二人は今幸せそうに暮らしているんだから変に気をつかうのはよくないだなんて気取ったことを思いながら、いざリアルな部分を垣間見たらすっかり縮みあがってしまったわたしの情けなさにだろうか。

 どれも本当に思えた。だけどあまりにわかりやすすぎて、気持ちを無理に言葉で整えようとしているようにも思えた。

 きっと、すべて本当の気持ちで、すべてが混ざっているんだろう。混ざった気持ちを言葉で表すことなんてできないから、気持ちを整理できずに頭の中が詰まってしまっているんだ。

 頭を振った。違う。そんなことは全部言い訳だった。当たり障りのない説明で、すべてをうやむやにしようとしているだけだ。薄暗い部屋の中で、わたしは自分の奥底にあった気持ちを掴んでいた。

 今まで見えていなかった、見ようともしていなかった気持ち。

 ありえない、だけれど確かにわたしの中にある気持ち。

「…………晴乃さん、旦那さんがいたんだ……」

 わたしは、晴乃さんに恋人がいたことがショックだった。

 いいや、恋人どころではない。想いあい、人生を共にしていくと誓った相手が、晴乃さんにもいることにショックを受けていた。傷ついてさえいた。

 そんなの、亡くなった家族のためにお墓参りをすること以上に当たり前のことだ。わかっていたはずのことだ。

 晴乃さんには家庭がある。ひかりという娘がいる。娘がいるということは当然、その父親だっている。

 そしてそれはほぼ間違いなく、晴乃さんと愛しあっていた人ということだ。亡くなったと聞いている。離婚だとかいった事情で別れたのではないだろう。晴乃さんは、わたしの知らない誰かと夫婦だった。今も、夫婦だろう。今でも、二人は結ばれている。

 そんなの、本当に当たり前のことじゃないか。気づくとか気づかないとかではない、前提として頭に入っているはずのことなのに。どうして、わたしは傷ついているんだろう。

 晴乃さんと誰かが結ばれて、ひかりが生まれた。ひかりが友達だったから、わたしは晴乃さんと出会った。

 その誰かと晴乃さんが結ばれていなければ、そもそもわたしは晴乃さんと出会うことすらなかったはずだ。

 友達の母親。その意味を気にも留めていなかっただなんて、今まで一番のアホぶりだ。底なしのドアホだ。どうしてここまで、なにも考えずにいられたんだろう。

 ごくり、とのどが鳴る。エアコンのついていない蒸し暑い部屋で、汗が首を伝うのがわかる。頭の中が怖いくらいに透き通っていく。

 そうだ。友達のお母さんの、会ったこともない夫のことなんて、普通は気にしない。

 わたしと晴乃さんはひかりを通して、娘の友達、友達のお母さんとして出会っただけだ。偶然や晴乃さんの優しさがつながって、ひかりを通さない個人どうしとして仲良くなっていった。

 一人の人間として尊敬している相手なら、恋人がいようが結婚していようが、気に留める必要なんてない。わたしと晴乃さんが仲良く話すことに、そんなことはなにも関係がないのだから。

 なのに、なにも関係がない、気にしなくていいはずの、晴乃さんの旦那さんのことを忘れていたことに驚き、挙句の果てに旦那さんがいること自体に傷ついているだなんて。

 こんなの、まるで。

 ベッドから跳ね起きた。胸をおさえる。ばくばくと激しい音がする。それ以上に、痛い。心臓や肺ではなく、おそらくもっと深いところが。

「わたしは、晴乃さんのことが――……」

 思い浮かんだのは、あの笑顔だった。

 五月の末、暗い駐車場。

 わたしだけが見た、あの夜世界で一番綺麗だった笑顔。

 わたしの中のどろどろした気持ちを素敵だと言い張って、大切にすると約束してくれた。

 わたしを『だーさん』と呼ぶことを、自分のことのように喜んでくれた笑顔。

 今でも、その輝きは消えていない。胸の中で、あの時よりもいっそう強くなっているくらいだ。

 きっとあのときに、わたしの心は決まったんだ。

 振り返ってみれば、いくらでも思い当たることがある。

 瞳に星が映ったのも、壁にぶつかりそうになるまで視線をさまよわせたのも、本を読むのが楽しかったのも、雨の日が待ち遠しくなったのも、会えると思っていた日に会えなくて驚いたのも、会えないと思っていたところで見かけた車へ駆け寄ったのも。

 全部、全部、晴乃さんがいたからだ。どの揺らぎも、喜びも、晴乃さんのためのものだった。

 ただの好意だと思っていたから、憧れだと思っていたから、なにも考えずにいられた。旦那さんのことなんて、気にしないでよかった。

 気づいてしまったら、もうダメだった。

 あんな花束を見てしまったら、考えずにはいられない。

 ああ、晴乃さん。

 あなたは、あの笑顔を。

 ほかの誰かにも向けていたんですか?


「わたしは、晴乃さんが、好きなんだ――……」


 あの笑顔を、わたしだけのものにしたい。

 炎のようではない。嵐のようでもない。

 ただの雨水のように、静かな思いが全身に染み込んでいる。

 曇り空のまま、世界は光を失っていく。机も、窓も、ドアも衣装棚も夕闇に溶けて、雨音だけが輪郭に触れそうなほどくっきりと残る。

 この気持ちは恋ではないのかもしれない、と思った。

 わたしを埋め尽くすこの痛みは、物語に書かれている恋のように世界を照らしはしなかったから。




 日差しで目が覚めた。カーテンも閉めないまま眠ってしまったせいだ。

 着替えてもいない。シャワーも浴びていない。でも、起き上がる気になれない。

 枕元の目覚まし時計を引き寄せると午前八時だった。今日は月曜日のはずだけれど、どんなに急いでももう始業には間に合わない。諦めて、再び枕に頭を落とした。

 ドア越しに母親の呼ぶ声が聞こえた。様子がおかしいことには気づいているのだろう、わたしが具合が悪いと伝えると朝ご飯は食べなさいとだけ言ってドアから離れていった。

 手足を引きずるようにベッドから這い降りる。ぼさぼさの髪が視界を覆う。全身が汗でべたつく。低い声を漏らしながら、なんとか立ち上がって部屋を出る。

 洗顔と歯磨きを済ませて、居間でパンをかじったとたんに空腹を思い出した。昨日の夜は何も食べていない。パンをもう一枚焼いて、サラダやウインナーと一緒に牛乳で飲み込む。

 皿を片づけて洗面所に向かう。廊下の途中から脱ぎ始めていた服をまとめて洗濯機に放り込んで、浴室のドアをくぐった。

 下着の跡が汗で赤みをおびている。ぬるめのシャワーを頭からかぶって、しばらくはなにも考えずにすんだ。

 でも、すぐにダメになった。なんとかいつもの休日のように過ごしていようとしたけれど、抑えきれない。起きたときからずっと頭を駆け巡っていたことが、また浮かび上がってくる。

 あの花束が、あの驚きが、あの笑顔が、欲望が、痛みが。

 背筋が冷たくなる。シャワーの温度さえ変わったように感じる。くちびるが歪んで、笑っているようなかたちを作る。

 わたしが、晴乃さんを好き? 考えれば考えるほど、頭がおかしいとしか言いようがない。

 まず、晴乃さんは女性だ。わたしも女だというのに、この気持ちはどういうことだ。

 いわゆる同性愛というものについて、知ってはいる。保健の授業やテレビ番組で、そういう人たちもいるんだということを知った。

 そのこと自体を否定するつもりなんてない。周りがどうこうすることじゃない。相手が誰であろうと、気持ちが通じているなら結ばれればいいと思っていた。

 だけれど、それが自分の身に起こることだなんて、まったく想像したこともなかった。

 わたしは、異性を好きになるんだと思っていた。名前のこともあってクラスの男子とかかわるのは得意ではなかったけれど、恋愛のような好意を抱く相手は男性のアイドルや俳優が多かったように思うから。

 もちろん、晴乃さんのことは美人だと思っていた。素敵な人だと思っていた。ただそれは同性間の憧れで、いつか特別な想いを向ける相手がいるのなら、それは男性に対してなのだろうと、疑いもしていなかった。

 シャワーを止めた。床をつるりと流れていく水の形を目で追いながら、自分の中に渦巻くものを拾い上げていく。

 確かに、恋愛経験はない。恋人がいたこともないし、特別な想いとやらを誰か向けたこともなかった。さらに言えば、恋愛への憧れも感じたことはなかった。ドラマで見るような男女のあれこれに、身を投じてみたいと思ったことがなかった。友達と遊ぶこと、服や靴や鞄、音楽、漫画。それくらいがあればよかった。ほかにはもうなにも入らないんじゃないかとさえ思っていた。

 恋愛というものと自分を、つなげて考えたことがなかった。多くの人に共通しているらしい、なんとなくのイメージだけで、わたしもまたそのうち男性を好きになるんだろうと思っていただけだ。

 これまで意識していなかっただけで、わたしの恋愛は、もしかすると同性に向くものだったのかもしれない。

 それは、まあいい。たとえなんとなくのイメージであっても、自分がこれまで持っていた自分への認識がまるっきり反対になってしまったのはショックといえばショックだけれど、わたしのおかしさについて重要なのはそこじゃない。

 わたしの頭を重くしているのは、もっと単純なことだ。

 ――好きだったところで、いったいどうすればいい?

 あの笑顔を手に入れたいと思ったところで、どうすればそれが叶うというんだ。

 決まっている。そんなこと、経験がなくたってわかる。この世のそこかしこにあふれるラブストーリーが、耳が痛くなるほどに教えてくれている。

 伝えればいいんだ。誰かの特別であることを望むなら、気持ちを伝えて、受け入れられるのを待つしかない。

 寒気さえ走った。自分の肩を抱く。ひどすぎる。そんなこと、できるわけがない。

 晴乃さんはいくつだ。年齢を聞いたことはないけれど、親子ほど年が離れているのは確かだ。

 そうだ、親子。親子ほど、なんて生ぬるい話じゃない。ひかりがいるんだ。本当に、娘と同じ年齢じゃないか。そんな相手に、恋愛感情なんて向くだろうか。なにを考えているんだ、わたしは。年齢でさえもう、些細なことだ。

 晴乃さんにはひかりがいる。晴乃さんには娘が、子どもがいる。誰かと結ばれ、愛しあった証が。晴乃さんは間違いなく、男性を愛する人だ。わたしから、女から想いを告げられたところで、それを受け入れるはずがない。

 受け入れられない、ではすまないかもしれない。同性愛だなんて、それ自体を認めない人さえいるくらいだ。わたしがなにを思っていたところで、晴乃さんも同じように感じてくれるとは限らない。

 伝えたら、気持ち悪がられるかもしれない。嫌われて、距離を置かれて、もうこれまでのように笑って話してくれなくなるかもしれない。考えただけで、目の前が真っ暗になる。でも、あの優しい晴乃さんのことだから、内心ではなにを思っていても、落ちついて接してくれるのではないか。戸惑うだろうけれど、あからさまに拒絶されたりはしないように思う。それでもやっぱり、これまでと同じ間柄では、いてくれないだろう。驚かせて、気味悪がられて、その上気までつかわせるなんて、そんなことを晴乃さんにさせたくない。迷惑になりたくはない。

 両手で、顔をはたいた。濡れた肌と肌がぶつかり、風船が割れたような音と衝撃が走る。なにが迷惑になりたくない、だ。そんな物わかりのいいこと、考えていない。鼻の奥に、つんとした熱が広がる。痛みのせいだ。そう思おうとしたけれど、熱は大きくなっていく。のどが高く鳴る。やっぱりだ。結局は、同じところに行きつく。

 年齢も、性別も、大したことじゃない。

 わたしが一番辛いことは、わたしの一番おかしいところは。

 晴乃さんに、恋人がいることだ。

 ほかの誰かと愛しあっている人を、好きなことだ。

 別れているのならいい。晴乃さんが、今は誰も愛していないのだとわかる。

 一緒に暮らしているのならいい。わたしにそれができるかはともかくとして、恋敵がいるのなら、そこから奪うことだってありえなくはない。

 でも、違う。晴乃さんの旦那さんは亡くなっている。

 ふたりはすでに別れている。けれどきっと、今でも確かに結ばれている。

 死んだ人からはなにも奪えない。晴乃さんの心にだけいる人を、その空席をなくすことなんてできない。

 空席。そうだ。初めて晴乃さんと会った日、わたしはひかりの家で、晴乃さんと三人で話した。

 ひかりの焼いたタルトを食べながら、三人で楽しく話していた。居間で、テーブルを囲んで。

 椅子は、三脚あった。足りないことも余ることもなかった。ひかりは一人っ子だ。あの家には、二人しか住んでいないはずなのに。

「…………うぅ」

 のどを湿った息が通り抜ける。慌てて口をふさいでも、あとからあとから続いて、止まらない。

 あれは、旦那さんの椅子だ。

 今でも、晴乃さんは旦那さんを想っているんだ。旦那さんのための場所がまだあの家にも、きっと晴乃さんの心の中にも、確かに残っている。

 引きつったような声が止まらない。こんなに蒸し暑い日に、震えが止まらない。シャワーはすっかり流れたのに、視界がかすんでいく。

 こんなの、どうしようもない。晴乃さんは、わたしの好きな人は、わたしではない誰かを好きなんだ。

 この気持ちが、受け入れられることはない。

 失恋だなんて、可愛いものには思えない。始まる前から、終わっていたようなものなのだから。

 口をおさえて丸まっていると、のどは少しずつ静かになっていった。体の震えも、だんだん小さくなっていく。

 ――好きだったところで、いったいどうすればいい?

 答えなんて、わかりきっている。どうしようもないのだから、どうともしなければいい。

 ただ、これまでと同じように過ごすだけだ。何事もなかったかのように、憧れの大人と、友達のように仲良く話すんだ。

 きっとできる。晴乃さんと会って、話すことが辛くなったりはしないだろう。わたしは晴乃さんに、涙のくっついてこない好きだって感じているのだから。欲望も痛みも隠して、ただ楽しい会話を続けられるはずだ。

 決心は、一つだけ。

 あの笑顔を、諦めること。

 決して届きはしない夜空の星を、欲しがったりしないこと。

 息を吸って、吐いた。もう一度吸ってから、再びシャワーをかぶる。シャンプーを掴み、髪を泡立てていく。

 心は決まった。頭は起きぬけのときが嘘のようにすっきりしている。あとは、汗まみれの髪と体を綺麗にすればばっちりだ。

 そのはずなのに、なぜかしばらく、涙ははがれないままだった。




 次の日、わたしはいつも通りの時間に起きて、いつも通り学校に行った。

 なんの連絡もしないでいきなり休んだせいか、ひかりはとても心配してくれていた。メッセージには昨日の夜に返信していたけれど、申し訳なさとありがたさが胸をちくりと刺した。

「これ、できたんだ。具合が平気なら、食べてみて」

「お、おお……。マジか、ついにか……。食べる、絶対に食べる」

「いや、無理しないでもいいよ……? 明日くらいまでなら保つし」

「大丈夫、全然平気食べる。仮に具合悪くてもこれ食べたら治る気がする、いや治る」

「今日も休んだほうがよかったんじゃない……?」

 お菓子研とひかりがひと月以上を費やして完成させたアップルパイはまさに至高の味だった。程よく崩れた切り口も、素朴な甘さを引き立てているようでとてもいとおしい。

 久しぶりの快晴だった。アップルパイでテンションの上がりきったわたしは、授業が終わるとすぐにひかりを引っ張って学校を飛び出し、かなり遅くまでカラオケで騒いだ。夜には、読みかけになっていた本をまた読み始めた。

 その次の日は雨が降った。お菓子研に向かうひかりを見送ったあと、わたしはたまたま練習のなかった運動部の友達に付いて大きな駅に出た。雨の日にはとても着られなさそうなひらひらの服を買った。本は少し進んだ。

 その次の日も雨だった。遊び相手のいなかったわたしは生まれて初めて一人でカラオケに行った。選曲もクオリティも気にしなくていいのは楽しかったけれど、立て続けに歌ったせいで声がすぐにがらがらになってしまった。本を開いたけれどすぐに眠くなってしまったので、そのまま布団に入った。

 その次の日も雨が降った。わたしは一人で駅前のレンタルショップに入った。ロックの棚にあった見るからにうるさそうなジャケットのCDを、バンド名も見ずに借りた。聴いてもいまいち乗れなかったから、そのあとは本を読んだ。

 雨の多い週だった。降ったり止んだりの一日が、月の終わりまでくり返された。

 わたしは、一度も図書館に行かなかった。寝る前には一人で、自分の胸の奥を覗いた。

 気持ちはなくなっていない。あの花束を見たときから、なにも変わっていない。

 炎なら、消えるのかもしれない。嵐なら、過ぎ去るのかもしれない。

 けれど、体の芯まで染み込んだ雨水のような気持ちは、こんなに蒸し暑い季節の中ではしばらく乾きそうもなかった。

 でも、これなら大丈夫だと思った。抱えているには重いけれど、この深さと静かさなら、誰からも隠し通せるはずだ。

 暗くした部屋で、わたしはベッドに座って深呼吸をした。

 時計のてっぺんで今、長針が短針に追いついた。

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