五月
ゴールデンウィークは全日好天に恵まれた。
さんざん遊び呆けたわたしたちの頭を冷やすように、連休明けの月曜日は雨が降った。
傘を差すと、雨の重たさに少し驚く。
毎日のように夏日を記録した連休を通り過ぎて、雨粒の一つ一つがじっとりとした湿気をまとうようになっていた。
柄を握る手が汗で滑る。青々と茂る木々の葉が雨粒にぼたぼたと打たれて跳ねる。
とても薄くした水の中に沈んだような空気の中を歩いて、わたしは分厚い雲を背に佇む図書館を見上げた。
十日ほど来ていなかっただけなのに、なんだかとても久しぶりに感じた。
自動ドアをくぐると、いつものように空調のきいた爽やかな空気がわたしを包んだ。少し濡れてしまった制服では肌寒く感じるほどだ。タオルを髪や肩にあてがいながらロビーを見回すと、カウンターで晴乃さんがファイルをめくっていた。
「こんにちは、晴乃さん」
なるべく近づいて、抑えた声で呼びかける。視線、首、肩が流れるように動いて、何度見てもなかなか慣れない美貌がまっすぐ向けられる。
「おお、こんにちは。なんだか久しぶりだねえ」
ついさっき、同じことを考えた。思わず笑って、
「十日くらいですよ。通いだす前と比べたらすっごいペースです」
「それもそっかあ。真面目に通ってるもんねえ。ひかりは今日も部活?」
「はい。まだカヌレの食感を極めてるみたいです」
「なるほど。気合入った部活なんだねえ」
「おかげでわたし最近全然ひかりのお菓子食べてないんですよー……」
「ゴールデンウィークの時にでもうちに来たら良かったのに。前みたいに作ってさ」
「ああー! 行きたかったです! またお邪魔しますね」
「うんうん、いつでもいらっしゃい。私もいたら混ぜてね」
「なんでそんなに下からなんですか!? 晴乃さんとひかりのおうちなのに」
「大丈夫? おばさんが入っていってもいいやつ?」
「晴乃さんがおばさん扱いだったらこの世のおばさん率めっちゃ上がっちゃいますよ」
「そんなことないよお。もうあちこち痛いよ?
ところで、今日はどうしたの? 最近は来るなり一目散に二階に行ってたのに」
腕をぶんぶんと振って全力疾走のジェスチャーをする晴乃さん。そんなにわかりやすかっただろうか。照れくさくて髪をいじりながら答える。
「あれはほんとに続きを読むのが楽しみで……。夢中になれたし、すっごく感動しました。
だから、ほかにも本を読んでみたいって思ったんです。それで晴乃さんに、次はどの本がいいかーとか、教えてほしいなって」
「ほうほうー。そう言ってもらえると嬉しいなあ。
でも、また私が選んだやつでいいの? 自分で探すのも結構楽しいよ?」
「はい。次は晴乃さんのおすすめを読んでみたいんです」
自分で本を探すのは、まだ少しハードルが高い。それにせっかくなら、信頼できる人の好きな本を読んでみたい。
「いやいや照れるなあ。これは責任重大だわあ」
ファイルのページを指ではじきながら、晴乃さんが表情を緩ませる。美人なのに柔らかい表情も似合うなんて反則だ。
「もう少ししたら二階に上がるから、そのときに持っていくよ。それまでちょっと待ってて」
「わかりました。じゃあ、またあとで」
小さく手を振って階段を上がる。文芸のコーナーで目についた本をぱらぱらめくって時間をつぶすことにした。薄くてカバーの色が派手だから手に取ってみたけれど、どうやら詩集のようだ。全然読めない。自分で本を探すのはまだやめておいたほうが良さそうだ。
「お待たせね。はい、これ」
十分ほどで来てくれた晴乃さんが持っていたのは文庫本だった。表紙も背表紙も青い。
「ありがとうございます! おお、結構ぶ厚いですね……」
最後まで読めるだろうかと少し不安になりながら受け取って、表紙の文字を読んだ。
「……幽霊なのに? 救助するんですか?」
「そうそう。タイトルのインパクトから興味持つほうがいいかなあって。もちろん、中身もばっちり面白いよ。確かにちょっと厚いけど、そんなのすぐに忘れちゃうくらい」
晴乃さんの言うとおり、頭にびっくりマークやはてなマークが浮かぶようなタイトルのほうがページを進めたくなる。前の本もそうだった。
「ありがとうございます。今日から読んでみます」
「うんうん、ごゆっくり。何かあったら声かけてねえ」
晴乃さんを見送り、わたしは読書スペースの隅に陣取る。
わくわくしていた。いったい今度は、どんな世界が待っているんだろう。
ページを開く。文字を追う。空調が静かに鳴る館内で、物語はまっすぐにわたしを引き込んでくれる。
「あああああー!! おいしい! なんておいしい!
これがカヌレ! これがお菓子研に認められしカヌレ!!
かりっかりだ! むっちむちだ! 甘い! さいこー!!」
放課後の教室で、わたしは左手を振り上げながらきゃんきゃん叫んだ。
「喜んでくれるのは嬉しいんだけど、テンションすごすぎてちょっと心配になるなー……」
カヌレの並んだタッパーを持ったまま、ひかりが複雑な表情で笑っている。
この一週間、丸々続いていた雨が実を結んだのかもしれない。
ひかりを加えて更に勢いに乗ったお菓子研は、連休明けの平日五日間をすべて費やし、ついに部員全員が納得のいくカヌレを完成させた。
金曜日の夕方、最後に焼きあがったカヌレがオーブンから姿をあらわしたときには、重くたちこめていた雨雲を突き破るように西日が差し込み、部室として使っている家庭科室は燃えるようなオレンジ色に染められたという。なんだそれは。神話か。
「まあでもこのおいしさなら天気くらい変わるかもな。戦争とかも終わらせられるかもしれない」
「お菓子信じすぎでしょ。だーさんのほうがお菓子研向いてるんじゃない? そりゃ、おいしくできたなーとは思うけど」
わたしのテンションとの差が大きいのでわかりづらいが、もちろんひかりだって満足げな様子だ。
雨が続いていたという条件があるとはいえ、ひかりもこの一週間、だいぶお菓子研の活動に力を入れていた。誰かとお菓子を作るのはほとんど初めてだと言っていたし、思い入れも人一倍だろう。
このまま正式にお菓子研に加わるのではないかとさえ思っていたけれど、そこは揺るがなかったらしい。
「楽しかったけどねー。やっぱり遊びたいときは遊びたいなー」
「そうだそうだ、わたしは先週図書館に根が生えるかと思ったぞ。めっちゃ外行きたかった」
「だーさんだって好きで図書館行ってるんでしょうが。ほんとにはまったんだねえ」
「もー自分でもびっくりだよ。こんなに文字読んだことないってくらい」
月曜日に本を紹介してもらってから一週間、わたしは当たり前のように図書館に通い詰めていた。
今度の本にも夢中になっていた。非現実的だけれど前向きな話運びにどんどん引き込まれていった。
文章は簡潔で読みやすく、短いエピソードを一つ一つ追っているうちにどんどんページが進んでいく。
読み進められたのはまだ三分の一ほどだが、聞いたとおり見かけの分厚さはまったく気にならなくなっていた。
「やっぱり、ひかりのお母さんのセンスがいいんだろうけどね。面白い本をいろいろ知ってるってすごいなーって思うよ」
「お母さん、読むときは徹夜しまくったりするからねー。普段は読まないのに」
「う、すごいな……。わたしそこまで集中力ないな」
「あの人は集中力があるんじゃなくて計画性がないだけだよ? 一回雨に気づかないで洗濯物取り込み忘れててけんかになったもん」
「そりゃあまずいわ」
ひかりとわたしは一つの机に寄りかかりながらだらだらと話し続けた。思いついたことをただ放り投げるような、緩やかな会話だった。わたしはときおりカヌレをかじって叫び、ひかりはそのたびに笑っていた。
ずいぶんと長くなった日が沈みかけるころ、わたしたちは薄暗い教室を出た。
昇降口で革靴に足を入れたとき、ひかりが静かな声で言った。
「だーさん、ありがとうね」
「え? なにが?」
「お母さんのこと。最近、よく話してるんでしょ」
話しているというより、相手をしてもらってるという感じだけれど。ひかりの言いたいことがよくわからなくて、首を傾げることしかできない。
「今までお母さん、家であんまり自分のこと話さなかったんだよね。あたしが学校のこととか話したり、ふたりでテレビ見ながら話したりするだけで。お母さん自身のことってあんまり聞いたことなかったから、やっぱり寂しいのかな、とか思っちゃって」
沈んでいるわけでも、湿っているわけでもない、落ちついた声。今までに何度も考えてきたことなのかもしれない。
「そしたら先月くらいから、お母さんから今日あったこととか話してくれるようになったんだ。それがもうだーさんのことばっかり。しきりにいい子だねーとか綺麗な子だよねーとか、楽しそうに本読んでくれてこっちも嬉しいとか。びっくりしたよ」
「そ、そうなんだ」
晴乃さんがわたしのことを話していたというだけで、少しどきりとするのに。そんな風に思われていたと考えると頬が少し熱くなる。恥ずかしいときのような、あるいはみんなの前で褒められて嬉しいときのような、不思議な心地だ。
「新しい友達ができて嬉しいーとか言ってたよ。へんだよね、年もぜんぜん違うのに」
わたしは首を振った。へんなんかじゃない。晴乃さんが目線を合わせてくれたことは、へんなんかじゃない。
「ううん。そんなことないよ。わたしも嬉しいもん。ひかりのお母さん優しいし、話してて楽しいよ。ひかりのお母さんの友達面なら誰にも負けない自信あるよ」
「なにそれ」
ひかりは笑った。
バス停で別れるまで、ひかりは笑いっぱなしだった。わたしもつられて笑っていたけれど、きっとそれもへんじゃない。
それからしばらくは晴れが続いた。初夏という言葉にぴったりな、空気がみっしりと詰まったような陽気だった。
朝晩に冷え込むこともほとんどなくなった朗らかな季節に、ひかりたちと日が暮れるまで遊んでいるのはもちろん楽しいけれど、わたしはこれまで感じたことのない気持ちに心を揺らされるようになっていた。
「……そろそろ本が読みたい」
五月も下旬に差し掛かった日曜日、わたしはバス停の屋根で日差しを避けながら口に出していた。
太陽はすでにかなり高いところまで登っている。外での待ち合わせはそろそろやめておきたい暑さだ。
わたしが早く着きすぎたのが悪いとはいえ、待ち合わせ相手であるひかりが姿を見せる様子はまだない。
目の前の街の風景は一筋の漏れもなく鮮やかに照らされ、いたるところに濃い影が焼きついている。スマートフォンを取り出したけれど、外の光が強すぎて画面もろくに見えない。しかたなく目を閉じてここ最近の遊び三昧を思い出していたわたしは、改めて沸き起こった気持ちに自分で驚いた。
本を読むのは楽しい。間違いなく、好きなことの一つになりつつある。
でも、やらないでいると落ちつかない楽しみにまでなっているとは自分でも思っていなかった。
本を読んでいる間に楽しいのは本当だけれど、朝から雨が降った日なんかには、ひかりたちと遊びに行ける日を待ち遠しく思う気持ちもあったのだ。それがまさか、遊びに出ているときに本のことを思うようなる日が来るとは。
いつの間にか、図書館に行くこともほかの楽しみと同じくらい大切なものになっていたようだ。
雨が降ることを、心のどこかで待ち望むようになっていたのかもしれない。
「……だーさん、だーさん! 早く」
不自然にくぐもった声で我に返る。目を開くと、いつの間にかバスが到着していた。後ろのほうの窓ごしに、ひかりが声を張り上げている。
「なにしてるの! バス出ちゃうよ!」
大慌てでステップに足をかける。ぎりぎりのタイミングでドアが閉まった。
手すりのパネルにパスケースをかざしながら息を整える。ゆっくり後ろの座席に近づくと、ひかりが呆れ顔で笑っていた。
「びっくりしたよもー。だーさん目つぶってぴくりともしないんだもん」
「ごめんごめん。ちょっと瞑想が盛り上がっちゃって」
「瞑想って落ちつくためにするものじゃないの? 具合悪いとかじゃないんだよね? 大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。眩しくて目ぇ閉じてただけ」
「ならいいけどー。すごい日差しだよねー、もうすっかり暑いし」
「ほんとほんと。どんどん蒸すようになってるし……、早く冷房を浴びたい」
「映画館は冷房を浴びに行く場所じゃないけど……。あ、そうだ。見終わったら近くのお店でパフェ食べたいんだけど、いい?」
「ん? いいけど、ひかりならパフェくらい自分で作れるんじゃないの?」
「お店で食べるのとは違うよー! 盛りつけもきれいだしね」
「あー、やっぱりあの層って難しいの?」
「時間かかるんだよねー。ぬるくなるとおいしくないし、食べるときは結局混ぜちゃうでしょ? 苦労と満足感が釣り合わない気がしちゃうから、パフェはお店で作ってくれたやつを眺めてから食べたいな。だーさんはろくに見ないで食べちゃうよねー」
「味は変わらないからね! そういえば、お菓子研の次の目標は決まったの?」
「アップルパイになったみたい。最初は市販のパイ生地で練習して、そのあとパイ生地も作るんだって」
「へえー。パイ生地って難しいの?」
「一から作るとねー。ちゃんとできてないと、焼いたときうまく層にならないの」
「ほー。そこでひかり先生の出番ですか」
「あたしもそんなに経験あるわけじゃないから、ほかのみんなと協力して、って感じかなー。最近、顔出してないしね」
「お菓子研のみなさん、最近校庭で雨乞いしてるって噂が立ってるけど……」
「まっさかー。ありえないでしょ」
「だ、だよね! さすがに」
「てるてる坊主は逆さに吊るしまくってるけどー。家庭科室の窓に」
「ほぼ事実じゃん!」
「まあ、あたしもそんなに意地になることもないかなーって思ってるけどね。最近は」
少しだけ困ったような顔でひかりは笑った。
気温も湿度もぐんぐん上がっていく。日差しは日に日に強さを増している。近づいている次の季節への準備運動のように。
それを止めることはできない。ゆっくりと、だけど確実に時間は進んでいる。
わたしたちの生活にも、同じことが起こるのだろう。少しずつ、日常はかたちを変えていく。
それは寂しいことなのかもしれない。だけれど、わたしは素直にわくわくしていた。
「アップルパイかあ。何枚いただこうかな!」
「枚!? なんで丸々食べるつもりでいるの……。いきなりそんなに焼かないよ?」
「じゃあとびっきりの一切れをじっくり味わわせてもらおう。一日くらいかけて」
「それはそれで気持ち悪い……」
「あのカヌレを超えるようなアップルパイなんでしょ? そりゃあハンパなく期待するよ」
「はいはい。まあほどほどにして待っててー」
バスはあと少しで目的地に着く。今日の映画も楽しみだ。
次の水曜日、朝から空を覆っていた雲は昼ごろにみるみる分厚くなり、放課後には本降りの雨を降らせていた。
廊下を照らせるんじゃないかと思うくらい目を輝かせたお菓子研のみなさんに囲まれるひかりと別れ、わたしは図書館に向かった。
雨はかなり強かった。小走りで道路を駆け抜け、自動ドアをくぐってようやく一息ついた。
ロビーを通り、階段を上がる。棚から本を取り出して、いつもの席で鞄を降ろす。一連の動きがすっかり体に馴染んでいて、自分のことながら笑ってしまう。
青い表紙を開く。何ページ目まで読んだかは覚えているけれど、細かい流れまでは思い出せない。少し前のページから読み始める。そうそう、登場人物の一人の過去が明らかになるシーンだった。気持ちが自然と主人公に近づいて、文字の世界へ入り込んでいく。
窓を強く打つ雨の音は柔らかく遮られ、空調と息づかいの間に収まっている。
静かな室内の一角で、わたしの心は物語に合わせて目まぐるしく跳ね回っていた。
物語はそろそろ山場に近いようだ。左手にはまだそれなりにページが残っているけど、主人公たちを取り巻く環境はどんどん盛り上がってきている。わたしは先を急ぎたくなる気持ちを抑えて、できるだけ丁寧に文字を追う。
いったいどうなるんだろう。彼らはいったいどうするんだろう。いったい最後に、なにが見えるのだろう。
ページをめくる。文字を追う。ページをめくる。文字を追う。少し戻る。まためくる。文字を追う。めくる。まためくる。
ああ、こんな展開だなんて。いったいどうすればいい? 彼らは、わたしたちはいったい――……、
「だーさーん。もう閉館だよ。おおーい?」
肩が跳ねた。息をのむ音が、とても大きく聞こえた。振り返ると、晴乃さんが首を傾げて笑っている。
雨音と空調の音が、待ち構えていたように耳をたたく。こんなにうるさかっただろうか? 今の今まで気づかなかったのがおかしいくらいの音だ。どれだけのめり込んでいたんだ、わたしは。
「ごめんごめん、びっくりさせちゃったかな。すっごい集中してたから邪魔したくなかったんだけど、もう時間だからさ」
壁の時計を振り返る。もう間もなく閉館だ。
「すみませんでした……。すぐ片します」
言ったはいいけど、本から手が離せない。晴乃さんが顔をのぞき込んでくる。
「どうかした? 具合悪い?」
少し心配そうな顔の晴乃さんに、わたしはかなりの大声で言ってしまった。
「……続きが気になるんです。すっごく、すっごくいいところで……! できれば読み続けたいんです!」
晴乃さんは一瞬目を見開いてから、一気に表情を緩めた。笑い声が響く。
「……ぷっ、あっはは。何かと思ったよお。そんなに夢中になれてるなら良かった」
「どうしよう、ほんとにこのまま一気に読みたいんです……。あ、ちょっと携帯見てもいいですか」
「うん? いいよ、もう人もいないし」
スマートフォンを取り出して、ポータルサイトの天気予報を確認する。向こう三日は晴れの予報だった。
「ああ……、三日かあー……。待ちきれない、っていうか明日だとしても待てない気がする……」
時間には限りがある。それはわかっているけれど、ここでこの本を手放して待つのは本当に惜しい。
頭を抱えだしたわたしに、晴乃さんがなんでもないように言った。
「借りていけばいいじゃない。図書カード作ってさ」
「…………ああ! そうですね……、そりゃそうですよね……?」
そうだ。完全に忘れていた。まだうまく回らない頭がだんだんと記憶を取り戻す。
自分で言ったんじゃないか。図書館は本を借りるところだと思っていた。
そのあとに聞いた晴乃さんの話に感心して、図書館の中だけで本を読んでばかりいたから、知識がすっかり上書きされてしまっていた。
自分のアホさにため息が出るくらいだけど、今はそんなことさえ気にならないくらい気持ちが弾んでいた。
「い、いいんですか? 借りちゃっても」
「もちろん。そのための図書館だよ。持って帰って、ゆっくり読みなよ」
「……やったー! ありがとうございます! 借ります!」
本を頭上に掲げて飛び跳ねた。嬉しい。今日のうちに、続きが読める。
「そんなにかー! こっちも嬉しくなっちゃうなあ。
図書カード作ってもらわなくちゃだから、とりあえず下に行こう。忘れ物ないようにね」
「わかりました!」
大急ぎで荷物をまとめ、本を抱える。晴乃さんに続いて階段を下りた。三階はもう電気が消えている。
ロビーとカウンターのあたりはまだ蛍光灯で明るく照らされていた。職員で残っているのも、もう晴乃さんだけのようだった。
「お金はかからないんだけど、カード作るのに登録が必要でさ。これの上の欄書いてもらえるかな?」
カウンターの向こう、パソコンの脇に座った晴乃さんからプリントを受け取る。住所や名前、生年月日などの項目が並んでいた。すぐに埋められると思い、わたしは晴乃さんの正面に立ってペンを持った。
「すみません。遅くまで付き合わせちゃって」
「気にしないでいいよお。仕事だしね。それに、だーさんがあの本気に入ってくれたみたいで嬉しいよ」
「ほんとに面白いですよ! どのお話もなんかかっこよくって、特に小学校の話とか」
「だよねえ! 私はあのおじいさんの話が好きだなあ」
楽しく話しているうちにプリントは埋まった。ありきたりな項目ばかりだったので、話しながらでも自然にペンは動いた。
「書けました! お願いします」
特に何も考えずにプリントを渡す。晴乃さんが笑って受け取る。
「はいはいー。じゃあ登録しちゃうからちょっと待っててね」
パソコンのほうを向いた晴乃さんが、プリントに目を通す。わたしも同じようにプリントに目を向けて、
「…………あ」
全身が固くなるのを感じた。
頭が回らない。凍りついているようだ。なのに、目の裏側が異様に熱い。視界が少し揺れるけれど、プリントから目が離せない。
ありきたりな項目。生活していればいろいろなところで伝えることになるプロフィール。
だけれどわたしは、これまで晴乃さんに教えていないことがあった。
住所ではない。生年月日でもない。それも教えてはいないけれど、問題はそこじゃない。
普通なら、初めて会ったときに教えているはずのもの。
ひかりのフォローに隠れて、わたしが口にしなかったもの。
わたしの、名前。『だーさん』ではない、わたしの本名。
晴乃さんも、同じところに目を向けていたようだった。プリントを片手に項目を入力しながら、軽い口調で言った。
「へえー、ちょっと意外。『だ』とか『た』とかが、苗字か名前に入ってるかと思ってたけど」
頭の中が真っ赤になるような錯覚。なんとか言葉をしぼり出す。
「…………ひかりが、つけてくれたんですよ。クラスで初めて話したとき、わたしが髪をお団子にしてたから」
「お団子の『だ』なんだ!? 自分の娘だけど、変なあだ名のつけ方だねえ。いやじゃなかった?」
ああ、だめだ。心臓がどかどかと体の内側にたたきつけられている。わたしはかたまりのような息を吐きながら、
「そっ、んなこと、ないですよ? 嬉しかったです、ほんとに。
…………自分の名前、あんまり、好きじゃなくって」
晴乃さんが視線をパソコンから私の顔に移した。綺麗な顔がこわばるのがわかった。そんなにひどい顔をしているのだろうか、今のわたしは。
「……だーさん、ちょっと――」
「わかってます!」
気づかいの見える優しい声を遮って、わたしは叫んだ。止められなかった。ずるずると、言葉が漏れ出す。
「大丈夫です、わかってるんです。おかしいっていうのは。
変ですよね、自分の名前嫌いとか、意味わかんないですよね。それは、わかってるんです。
ただ、あの、昔、小学生のころ、クラスで、男子から一回、名前を変な読み方されたことがあって。ほら、苗字の読み方変えると、違う言葉になるじゃないですか。それを、こう、からかわれたというか、友達は止めてくれたんですけど、男子からしばらく変なあだ名で呼ばれてたことがあって、あ、いじめとかじゃないんです、全然、冗談というか、いたずら半分っていうか、ていうか小学生のころの話だし、全然大したことないアレなんですけど、それで、自分の名前がちょっと嫌になったことがあって」
晴乃さんの表情はわからなかった。カウンターの木目しか目に入らない。息苦しかった。
「名前って、変わらないじゃないですか。だからそのときのわたし、からかわれて嫌だったのもあったんですけど、怖くて。
わたしの名前には、人からふざけて呼ばれるようなところがあって、それは名前だから、わたしが生きてる限り、ずっと続くんだとか思っちゃって、わたしはこの先一生、からかわれるかもしれない名前と一緒に生きるんだと思ったら、すごく怖くなって、自分の部屋とか、親の前でも泣いちゃったことがあって」
なんて話だろう。自分でも何を口走っているのかわからない。ただ、申し訳なさだけがつのった。
「親からしてもとんでもない話ですよね、育ててる娘に、生まれたときにちゃんと考えてつけてあげた名前が嫌だとか、どんだけ親不孝だって話ですよ。わたし、両親のこと大好きだし尊敬もしてるから、だから申し訳ないなって今では思ってるんですけど、あ、でも、ほんとにわたし、名前の字面は好きなんです。苗字もかっこいいし、名前も、この『莉』って漢字可愛くて好きだし、響きとかもちゃんと考えて綺麗な並びにしてくれたんだってわかるから。本当に好きだし、この名前をつけてくれたことには感謝してるんです」
晴乃さんはこれを、どんな気持ちで聞いているのだろう。迷惑に思っていたら本当に申し訳ないけど、言葉が止まってくれない。
「でも、でも、やっぱり、ちょっと嫌だなーっていうか、もう少しなんとかならなかったのかなーとか、思っちゃうときがあって、もうほんとに両親には悪いなって思うんですけど、ときどき、小学生のときみたいに怖くなることがあって、ずっとはがせないものなんだなって思っちゃうときがあって、なるべく思わないようにしたいんですけど、たまに思っちゃうんで、なるべくだーさんでいこうかなって。あ、あと、ほら、わたし女なんで、結婚したら苗字変わるじゃないですか。苗字か名前、どっちかが変われば変な読み方はできないんで、だからわたし結構、結婚願望強いというか。はは、こんな理由で結婚したいって考えてる人なんていないでしょうし、もし相手がいたとしても失礼ですよね、こんなの。わかってるんです」
そうだ、わかっているんだ。だから、もうだめだ。
「すみません、べらべら話しちゃって。いきなり引きましたよね、ごめんなさい。
最初にも言いましたけど、わかってるんです。こんなのおかしいって。せっかく両親がつけてくれた名前なのに、それが嫌だからって関係ないあだ名で呼んでもらうとか、普通に失礼だしひどいですよね。ひかりは優しい子なんで、今はわたしに付き合ってくれてますけど、いつまでもこんなことに巻き込んでちゃあ悪いなあとも思ってるんです。いつか、もう少し大人になったら、自分の名前が怖くなくなる日も来ると思うんで、そのときまで、ちょっと、ひかりもほかの友達も付き合わせて、子どもみたいに親不孝でいたいかなってだけなんです。だから、だから。
――晴乃さんは、ちゃんとわたしを呼んでください」
屈んでくれたことが嬉しかった。わたしみたいな子どもに、目線を合わせてくれたのが嬉しかった。
心の底から素敵だと思う、憧れの大人。
だけど、もうだめだ。
そんな人に、わたしを『だーさん』と呼ばせるわけにはいかない。
わかっている。自分の名前が嫌いだなんて、ただのわがままだ。両親の愛を投げ捨てるような行いだ。
こんなくだらない子どものわがままに、晴乃さんを付き合わせるわけにはいかない。
ああ、こんなことになるなら、本を借りたいだなんて思わなければ良かった。
言う前に気づくべきだった。本を持ち出すのだから、名前と住所くらい聞かれて当然だと。
それでなくても、書くときに気づいて誤魔化すべきだったんだ。やっぱり我慢しますとか、適当な言い訳をして。
なるべくなにも感じないように、名前を書くときにほかのことを考えたり話したりする癖がついていたのも失敗だった。
無駄に動揺したりしないための小細工だったけれど、肝心なときに逆効果になるのでは意味がないじゃないか。
あまりに自然に、わたしは本を借りたいと思った。楽しい話の中で、手癖のように名前を書いた。
だって、晴乃さんは、当たり前のようにわたしを『だーさん』と呼んでくれた。
本名を伝えていないことなんて忘れてしまうくらい、同じ目線で本の話をしてくれた。
嬉しかった。何も訊かずに、『だーさん』と呼んでくれたこと。
図書館で顔をあわせるたびに、わたしが閉館まで居残っているたびに、笑顔でそう呼んでくれたこと。
だから、知られたくなかった。せめて自分で教える決心がつくまでは、そのままでいたかった。
でも、もうだめだ。
もう、晴乃さんには。
『だーさん』と呼んでもらえない。
「――だーさん!」
両頬に走る鮮烈な痛みで、思わず視線を上げる。息が詰まった。
目の前に、晴乃さんの顔がある。真剣な、でもすぐに壊れてしまいそうな、張り詰めた表情。
晴乃さんはカウンターに片膝を乗せ、身を乗り出してわたしの顔をつかんでいた。ひんやりとした両手が、目の奥の熱を少しだけ和らげる。
「こっち来て。座りなよ」
頬から手が離れていく。晴乃さんはカウンターから体を引いて、もう一つ置いてある椅子を指差した。
なにが起こったかわからないまま、言われるままにカウンターの中に回った。椅子に座ると、晴乃さんの顔が今までで一番近い位置にあった。つややかな髪が、背後のパソコンの光でうっすらと照らされている。
わたしが向かいあったのを見たとたん、晴乃さんが深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。名前のこと、そこまで気にしてるとは思ってなかった」
意識のかけらが頭に戻ってくる。わたしは慌てて返した。
「いや……っ、違います、晴乃さんが謝ることなんてないです! わたしが、わたしがおかしいんです」
知り合いの、今まで聞いていなかった名前を目にする機会が来たのだから、それを話題にするのなんて当たり前だ。わたしの反応が過敏なだけだ。いやがるほうが異常だ。
「だとしてもだよ。本人が気にしていることを、わざわざ話すのは良くないよ。本当に、ごめんなさい」
「わかりました、わかりましたから……っ。顔を上げてください」
ゆっくり持ち上げられた晴乃さんの顔には、不思議な表情が浮かんでいた。痛みをこらえている顔が、偶然笑みの形になったような悲しい表情。だけれど、まっすぐな瞳には強い光があった。
「だけどね、だーさん。あなたを傷つけてしまった言い訳にはならないけど、私はだーさんのこと、おかしいとは思わないよ」
「…………え?」
まだ、頭が回らないようだ。言葉の意味が呑み込めない。
何も言わないわたしを見つめながら、晴乃さんはゆっくりと言葉を並べる。
「だーさんが、自分の名前を嫌がる気持ち。人に知られたくない気持ち。関係のないあだ名で生きていたい気持ち。
どれも、おかしいことじゃないよ。大切な気持ちだよ」
「…………そんなわけ、ないじゃないですか……」
どうしてだろう、声が震える。これ以上、晴乃さんを困らせたくないのに。
「最低ですよ……、こんなの。せっかく、せっかくつけてもらった名前が、嫌だなんて……。お父さんとお母さんが、可哀想で……」
もう一度、頬にひんやりとした手が触れる。晴乃さんは静かな声で言った。
「……優しいね。だーさんは、本当に優しい子だね」
ゆっくりと、柔らかい手が頬を撫でていく。耳の前あたりで離れていった手を膝の上で組んで、晴乃さんは再び口を開いた。
「だーさん。少し、聞いてもらってもいいかな」
穏やかな水面のような、深く落ちついた声。まっすぐで力強い、でもこちらを包んでくれるような眼差し。
わたしは、かなり時間をかけたあと、ようやくうなずくことができた。
「そうやって、ご両親の気持ちまで考えて、自分の名前を好きでいようとするのは素敵なことだよ。とても綺麗な気持ちだと思う。
だから、自分のことを責めたくなっちゃうのは仕方ないかもしれない。綺麗な気持ちに逆らうのは悪いことだって、自分はひどいことをしてるんだって思っちゃうかもしれない。
でも、だーさん。そうじゃないんだよ。
だーさんが、自分の名前を嫌だと思うのだって、同じくらい綺麗なことなんだよ」
目の奥がしみるように痛い。うなずけない。首を振ることしかできない。
「だーさん。あなたがこれまで生きてきて、感じたことや思ったことは全部、あなたのために生まれた気持ちなんだよ。
綺麗に見えるものでも、汚く見えるものでもね。たとえば友達の幸せを喜ぶ気持ちも、自分が褒められて嬉しい気持ちも、嫌いな人が失敗して笑っちゃうような気持ちも。全部、あなたのための気持ち。
あなたを、幸せにするために生まれたんだよ。
だーさんは名前をからかわれて、悲しかった。名前の中に好きになれないものを見つけてしまって、傷ついた。だから、あなたは悲しいのを追い出すために、自分の名前を嫌った。あなたを傷つけるものを敵にした。
それは、だーさんが幸せでいるために、だーさん自身を守るためにしたことなんだよ。
そんな気持ちが、悪いわけないよ。ひどいわけないよ。最低だなんて、そんなわけないよ」
違う。そんなに綺麗な気持ちじゃない。ただ、逃げ出しているだけだ。嫌いなものから、見たくないものから。
痛みが、広がっていく。鼻に、耳に、首筋に、のどに。歯の間を、ほんの少しだけ息が通り抜けた。
「悲しさから逃げ出そうとするのは、とても綺麗なことだよ。
だってそれは、だーさんが自分のことをちゃんと守れてるってことだもん。自分のことを、大切にできてるってことだもん。とっても偉いことだよ。
お父さんやお母さんのことを傷つけないようにする気持ちも素敵。
嫌なことがあっても自分の名前なんだから、背負っていこうって気持ちもかっこいいよ。
でもね、だーさん。
その気持ちで、自分のほうを傷つけることはないんだよ。
あなたが、あなた自身を大切にしようとする気持ちも、なかったことにしないでほしいな。
悲しいことから自分を守ろうとした気持ちのことも、大切にしてほしい。
名前とは違うあだ名を選んで生きていこうとするのも、胸を張っていていいんだよ。
だって、その気持ちだって素敵だもん。
とっても綺麗に見えるよ」
「……む、無理、ですよ……、そんなの」
久しぶりに漏れた声は、びしょびしょに濡れてひしゃげていた。
「わたし、こんな……、最低なんです……。こんな気持ち、こんなひどいこと……、綺麗だなんて、思えない……っ」
本当は、誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。
自分の名前が気に食わないなんて、それなりによくあることだよ、と。そこまで気にしなくても大丈夫だよ、と。
だけど、だめだ。こんなに優しく言葉をかけてもらっても、わたしはどうしても、わたしの気持ちを許せない。
塞がりそうになるわたしの目の前で、晴乃さんは笑った。
いつものように元気で、まっすぐな瞳で。
「そう?
じゃあ、わたしが思うよ。
だーさんが自分の名前を嫌いでいるのは、綺麗な気持ちなんだぞーって。
とっても大切なことなんだぞーって、思い続ける。
聴きたくなったら、いつでも口に出して言うよ。
だーさんが、自分を大切にするための気持ちを持てないっていうなら、私が代わりに持っておくよ。
いつかだーさんが自分を大切にできるようになったら、すぐに渡せるようにね。
いつまでも待ってるからさ。
――いつか、取りにおいで」
ぽろりと水滴が、頬を転がるの感じてからは、止まらなくなった。みるみる視界がにじむ。顔が熱く濡れていく。
体中に広がっていた痛みが、溶けていく。意味のわからない嗚咽になって、のどからあふれ出していく。
うつむくわたしの頭に、相変わらずひんやりした、とても優しい手が触れた。
顔を上げられるようになるころには、もう閉館時間をだいぶ過ぎていた。
晴乃さんはそのあとなにも言わずに図書カードと本を手渡してくれた。だけれど、まだちょっと帰れそうにない。晴乃さんもわかってくれていた。困ったように笑って、
「…………ひどい顔だね」
トイレで顔を洗わせてもらったけど、目元は真っ赤に腫れているし、頬もぐしょぐしょだ。もうしばらくは落ちつかないだろう。こんな顔で帰るわけにはいかない。
しかし、図書館はもう閉めないといけないはずだ。それに、あまり遅くなるとそれはそれで家族に心配をかけてしまう。
どうしようかと立ち尽くしていると、晴乃さんが隣に立った。
「とりあえず、いったん外に出ようか。あと、おうちの電話番号訊いてもいい?」
「あ、はい……」
並んで自動ドアをくぐる。わたしが自宅の電話番号を告げると、晴乃さんはすぐに携帯電話を耳に当てた。この時間なら恐らく母が出るだろう。
「もしもし。夜分遅くにすみません――……」
晴乃さんが正門ではない方向に歩き出して、わたしを手招く。隣に並んで歩きながら、片方しか聞こえない会話に耳を傾ける。
晴乃さんはまず自分の素性を明かした。わたしのクラスメイトの母親で、わたしが今いる図書館で働いていると。
図書館で具合が悪そうにしていたわたしを事務所に連れていき休ませていたと。もう少し落ちついたらそちらに送り届けるので心配しないでほしい、ということを簡潔に伝え、ご心配をおかけして申し訳ありませんと頭を下げた。
電話を切ると、晴乃さんが笑顔を向けてきた。
「と、いうことにしたから。ちょっと車で休んでから帰ろう。今日こそ送るよ」
「いえ、そこまで迷惑をかけるわけには……。ほんとにもうすぐそこですし」
「だーめ。もう時間も遅いし、送るって言っちゃったしね。ほら、もう車着いたし」
四角い建物の裏手には駐車場があった。濃い赤色の小さな車が一台だけ残っている。
「はいどーぞ。狭いけど」
わざわざ助手席に回ってドアを開けてくれた。ぺこぺこ頭を下げながら乗り込む。
晴乃さんは運転席におさまると鞄の中を探り、顔用の汗拭きシートを差しだしてきた。
「よかったら使って。目に入ると結構痛いから気をつけてね」
「やったことあるんですか?」
「油断してたらもう痛いのなんのって。ぼろぼろ涙出てきて化粧めちゃめちゃになった」
吹き出しながらパッケージを受け取った。ありがたく使わせてもらう。
目をぎゅっと閉じながら顔を拭いて、さらにタオルを顔にあてた。雨で濡れてしまっているけれど、ないよりはマシだ。
タオルに目元をうずめながら、大きく息を吸って、吐いた。腫れぼったかった感覚はかなり落ちついている。
何度目かの深呼吸を終えたころ、晴乃さんがぽつりと言った。
「……私は、あなたのことを『だーさん』って呼ぶよ」
顔は上げられなかった。一度だけ、うなずく。きっと、わたしのことをちゃんと見てくれているのだろう、晴乃さんはわたしがうなずくのを待ってから言葉を続けた。
「あなたを『だーさん』って呼ぶことは、あなたをつらくさせるかもしれない。
ご両親に申し訳ないって思うあなたの気持ちに肩入れして、さらにあなたを追いつめちゃうのかもしれない。
でも、私は、ご両親のための気持ちよりも、あなた自身のための気持ちを尊重したい。
名前じゃないあだ名を選んだあなたが、素敵なんだって思っていたい。
……私は、だーさんの友達だからね」
タオルに顔をうずめたまま、うなずいた。何度も、何度もうなずいた。
やっぱりどうしたって、わたしのわがままを綺麗だなんて思えないけれど。
晴乃さんが、この人が思っていてくれるというのなら、わたしはゆっくりとそこへ進んでいけそうな気がする。
わたしの気持ちを大切に受け取って、待っていてくれるというこの人のところへ、歩いていける気がする。
だからこれはきっと、その一歩目だ。
「…………はい。呼んでください、晴乃さん……。
ひかりみたいに、みんなみたいに、呼んでください……」
「やった! 嬉しい。
ありがとね、だーさん」
どうして晴乃さんが。お礼を言うのはこっちなのに。いくら言っても、足りないくらいなのに。
タオルから顔を上げる。お礼を返そうとして右を向く。呼吸が止まった。もしかしたら、心臓さえ一瞬、止まったかもしれない。
晴乃さんが、笑っていた。
いつもの元気な笑顔じゃない。たまに見せるいたずらっ子のような笑顔じゃない。今までに見たことのない笑顔。
だけれど、今まで見たどの笑顔よりも、綺麗だった。
雨は降り続けている。今もフロントガラスには雨粒が流れている。
街灯一つで照らされた、小さな暗い駐車場。
すべてを額縁にして、わたしの胸に消えない輝きが残る。
わたしが見た笑顔が今夜、この世界にある何よりも明るいものだと思った。