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雨と晴乃さん  作者: 澄椎
2/7

四月

「ひかり、もうちょい、もうちょいでいいから左にずれて」

「もー無理だよあたし肩びっしょびしょだよ!?」

「わたしはもう右側耳まで濡れてるんだけど!?」

「それはだーさんが傘忘れてあたしの傘に入ってきてるからでしょ!

 これ折りたたみなんだから狭いに決まってんじゃん!」

「ありがとう! ひかりってば優しい! 天使! さいこーに可愛い!

 だからあとちょっと! もうちょっとだけ左行って!」

「…………」

「傘ごと動くなやあ!」

 高校二年生になった四月、最初の金曜日。

 わたしはクラスメイトの桜葉ひかりと相合傘で街を歩いていた。昼過ぎから降り始めた雨は、放課後になった今もやむ気配を見せない。

 今週の頭にようやく満開を迎えた桜の木々は狙いすましたような雨粒に打たれ、追いたてられるように花びらを散らしている。

 道路のわきや側溝の周りには桜色の小さな粒が集まり、茶色く変色し始めていた。

 それは見ていて気分のいいものではなかったけれど、どこかわたしを安心させた。

 だって、散るさまも美しいのに、加えて散ったあとの残骸さえ綺麗なままのものなんて、非の打ちどころがなくていらいらする。

 特に、朝から楽しみにしていた予定が狂った今日みたいな日には。

 傘の下の縄張り争いをひとしきり終えたあと、ひかりが肩を落として言う。

「まさかつぶれちゃうなんてねー…」

「ほんとだよ……。学校から近くて安い割に綺麗なところなんてほかにないよ……」

 わたしたちが学校帰りに通っていたカラオケ店が、今日になっていきなり閉店してしまっていた。

 授業上がりの憩いの場を突然失ったわたしたちは、途方に暮れて雨の街をさまようはめになった。

「今日はもうどこか適当なお店に入って、ちょっとしたら帰ろうかー」

「うん……。雨、やみそうにないしね」

「いつまでもだーさんみたいなでかい子を入れておけないし……」

「さらっと何言ってんの?」

「文句があるなら出なさいよー」

「すみませんでした」

 確かに小柄なひかりが持つ小さな傘のご厄介になり続けることに、申し訳なさを覚え始めてはいたけれど。

 でも、特別都会でもないこの街に、都合よく雨風をしのげそうなお店なんてそうそう見つからない。

 チェーンのカフェやファーストフード店は駅の周りにしかないし、たまに通り過ぎる喫茶店は敷居の高そうな個人経営店ばかりだ。

「あ、なんならうちに来る? 今日、親いないし」

 さりげなくわたしを傘の外側に押しやりながらひかりが言った。

「え、ひかりのうち?」

 ひかりの頬をひっぱりながら、言葉をそのまま返してしまう。

 ひかりとは一年生の時に同じクラスになってからの付き合いだけれど、彼女の家に行ったことはない。

 放課後に遊ぶ時はほとんどカラオケに行っていたし、大きな駅に行けばほかの遊び場所に困ることもなかったからだ。

「いや、いいよ。いきなりだと悪いし」

「そう? 今日持っていったタルト、生地余ってるからそれも焼こうかなって思ったんだけどー」

「行く」

 ひかりのお菓子作りの腕はクラスで争奪戦が起こるほどだ。

 独占できるチャンスを逃すなんて考えられなかった。

「独占って……。あたしも食べるよ?」

「な、なぜ心の声を!?」

「声に出てたよ?」

 そんな風にしてわたしたちは、ひかりの家へ向かうこととなった。




 バス通学の彼女に付き従い、手近な停留所から住宅街の方向へ。

 声を潜めて話しているうちに、人もまばらなバスは静かな住宅街の中ほどで停まった。

 ひかりの傘にもぐりこんで、路地を進んで少し奥まった区域に入る。車の音も、ここまではあまり届いてこなかった。

「ここだよー」

 着いたのは、白い壁が清潔そうな五階建てのマンションだった。部屋は五階のいちばん端だという。

 髪や服から雨水を滴らせながら、ひかりのあとについてエントランスの自動ドアをくぐる。

 実家が一軒家なせいか、集合住宅のエレベーターや廊下は少し緊張する。たくさんの人の生活が並んでいるのに静かで、思わず足音を潜めるような歩き方になってしまう。

 ひかりが、そんなわたしの様子を笑いながら『桜葉』の表札が入った扉を開けた。

「ただいまー」

 部屋の中に声をかけながら靴を脱ぐひかりに続いて玄関に入ると、奥の部屋から明かりが漏れているのに気づいた。

 あれ、今日は家族の人はいないって話だったような。

「んー、なんで電気ついてるんだろ。とりあえずこっちこっちー」

 ひかりが手招きをしてくれたので、わたしも廊下を歩いて奥の部屋へ進む。

 すりガラスのはまったドアが開けられる。わたしはひかりの頭越しに、その奥に目を向けた。


 ――――部屋の中には、綺麗な女の人がいた。


 広めのリビングルームだとか、落ち着いた色合いの部屋だとか、品のいいテーブルだとか、様々な情報はすべて背景として脳を通り過ぎた。

 テーブルと同じ木製の椅子に腰かけて、その女の人は薄めの文庫本に目を落としていた。

 肩ほどまでのまっすぐな黒髪が一房、耳の前に垂れている。白い指がページを押さえている。

 背の高さは、きっとわたしと同じくらいだ。紺色と白が目立つ、ゆったりとした服を着ているけれど、手足がすらりと長いのがすぐにわかる。

 腰はしなやかな曲線を描きつつも、きゅっと細まっている。パンツスーツとかがとても似合いそうなスタイルだ。

「あれ、今日仕事じゃなかったの?」

 ひかりの声で、その女の人が顔を上げる。こちらを見る。

「ああ。おかえり、ひかり。早かったんだねえ」

 やっぱり美人だ。思わず息をのむほどに。わたしの目はひととき、目の前の女の人の姿を切り取るだけの窓になった。

 涼しげな顔立ちに切れ長の目。薄い化粧の下の肌が白くつやつやしている。

 肌つやの良さは普通若さや幼さを連想させるけれど、大人の女性、という言葉が自然と浮かんだ。色気というのかなんなのか、わたしみたいな小娘には到底出せない雰囲気をまとっている。

 口紅も、マニキュアもしていない。それがむしろ、もともとの綺麗な桃色を際立たせている。

 指も、耳も、肩も、お尻も、つま先も、どこを見ても素敵だった。目があちこちに走る。

 落ち着いた見た目からは意外な、低めの声とはきはきした話し方。

 少しかすれ気味の声が、強めに音を区切って言葉を並べていくのは聞いていて心地よかった。

 美しさと不思議な印象に驚いたせいか、ひかりと女の人の会話がなかなか頭に入ってこない。

「ただいまー。ちょっと色々あって家に避難してきたの。お母さんは?」

「今日はもともと、ヘルプで行ってただけだからね。昼過ぎたら代わりの人来たし帰ってたんだよ」

「あー、だから朝早かったんだ」

「お、お母さん!?」

 うえっ!?と身をすくませながら、ひかりがこちらを見る。

「ど、どうしたの急に?」

「え、……え? お母さん? お母さんって、ひかりの……?」

 失礼にも、ひかりと女の人の両方を指さしながら、わたしは声を震わせた。

「そ、そうだけど」

「ほんとに!? 若ッ!? 超美人だし!」

 思ったことがぜんぶ口から出てしまった。それくらい驚いた。

 大人の女性だとは思ったけれど、まさか自分と同い年の子供がいるような年齢だとは思わなかった。

 わたしのぶしつけな言葉に、ひかりの母親だというその人は快活に笑って言った。

「そう言ってくれると嬉しいねえ。

 初めまして。ひかりの母です。いつも娘がお世話に」

「あ、は、はい……、あの、こ、こちらこそ……」

 繊細な美貌とまっすぐな視線を正面から受け、うまく舌が回らない。

 緊張で視線が定まらない。無意識にお腹の前で合わせた両手がびっくりするほど汗ばんでいた。

「わ、わたしは……、えーと……」

「この子はだーさん。『だーさん』って呼んであげて」

 ひかりが助け船を出してくれた。ありがたいけれど、あだ名を教えるだけでいいのだろうか。

 自分から本名を名乗ろうとしたけれど、ひかりのお母さんはなんでもないように、

「だーさんね。オッケー」と受け入れた。よかった。わたしは二人に気づかれないように息を長く吐いた。

「ひかりにこんな綺麗な友達がいたとはねえ」

「ちょっとお母さんそれどういう意味?」

「いやいや別にひかりが綺麗じゃないってわけじゃないよ? ひかりだって可愛いよ、うん」

「あやしー」

「ほら、ひかりは癒し系っていうか、小動物系の可愛さだから」

「背はまだ伸びますー!」

 明るく話す二人の姿に、わたしは内心で手を打つ。

 なんか、親子っていうより姉妹っぽい。

「というか、二人ともびしょ濡れじゃない。傘なかったの?」

 ひかりのお母さんは改めてわたしたちの姿に目を見張ると、ぱたぱたと廊下に引っ込んだ。すぐに戻ってきて、わたしたちにタオルを投げて寄こしてくれる。

「早く拭いちゃいな。それでひかりのタルトをみんなで食べよう」

「なんでタルト作るってわかったの?」

「冷蔵庫に生地が余ってたから。帰ってきたら焼いてもらおうと思ってたの。

 できたら独り占めしたかったけど、お客さんがいるんじゃあしょうがない」

「誰かさんと同じようなことを……」

 下からのひかりの視線に、わたしはそっぽを向いた。

 瞬間、ひかりのお母さんと目が合う。

 彼女は共犯者のような、いたずらっ子のような笑顔で小さくウインクをした。漫画だったら星が飛んできそうな、華麗なウインクだった。

 わたしは、漫画でもない平凡な自分の瞳に、確かにその星が映るのを感じた。




「どえー……、どうしよう……」

 次の月曜日の放課後、わたしはまた頭を抱えることになった。

 お気に入りの遊び場に続いて、遊び相手までもを失ってしまったのだ。

 近くのカラオケが閉店してしまったことは、今朝には校内にそこそこ知れ渡っていた。

 わたしは授業終わりにひかりと顔をつき合わせ、いま一度これからの身の振り方について話し合っていた。

 駅の反対側に出ればほかのカラオケ店がある、先週みたいに雨だと移動が面倒だ、駅に向かうならいっそ大きな駅に、いや毎度電車を使っていたら時間もお金もかさむ、もう学校に残ってひかりのお菓子を食べ続けよう、だーさんが食べたいだけでしょ太るよ。

 話がお菓子に及んだのを聞いていたかのようなタイミングで、教室のドアが音高く開けられた。

『聞いたよっ、桜葉さん! 放課後、お暇になったそうだねっ!』

『まさに神の思し召し! 千載一遇のチャンス! 桜葉さん、これを機にぜひお菓子研へっ!』

『あなたがいれば世界のスイーツは更なる高みへ行ける!

 さあ、一緒に泡だて器を振るいながら理想のメレンゲのツノについて語ろう!!』

 口を挟む暇もなく、ひかりはなだれ込んできた女子生徒集団に半ば担がれるように連れ去られていった。

 ひかりの作るお菓子がべらぼうに美味しいと評判になったのは去年の九月ごろのことだ。

 噂を聞きつけたわが校のお菓子研究会の皆さんは熱烈に入会を願い出た。が、ひかりはそれを『放課後は好きに遊びたいので部活には入らない』と断ってきていた。

 その時にはすでにわたしとカラオケに行くのも定番になっていたので、遊びの予定を崩されるのがいやだったのだと思う。

 お菓子研はその場は引き下がったが、その後も勧誘は続いていた。そこへ来てのカラオケ店の閉店。言っていた通り絶好のチャンスと踏んだのだろう。

 ひかりはお菓子研の人波にもまれながら、

『とりあえず今日は見るだけ見てくるから先に帰ってて!

 けど、あたしは放課後は遊ぶから! だーさんと遊ぶからー!』

との叫びを残して教室から去っていった。

 ハンカチを目に当てて手を伸ばすジェスチャーをしながらそれを見送ったけど、実際どうなんだろうとも思う。

 ひかりだってもちろん、お菓子作りが嫌いなわけではない。

 遊びたいのも本心だろうけど、根が頑張り屋だし、少しはお菓子作りに打ち込んでみたい気持ちもあるのではないか。

 食べる専門のわたしではお菓子作りの話はできないし、情熱も知識もある仲間と活動をしていきたいと思うかもしれない。

 それ自体は構わない。どうしていくかはひかりの自由だ。

 同じクラスだし、会えなくなるわけでもない。遊べるときに遊べばいい。

 ただ、ひかりが放課後にいないとなると。

「……わたし、何してよう……」

 ほかの友達はみんな部活をしている。わたしだけ暇を持て余してしまう。

 首をかしげてうなりながら、とりあえず学校を出る。

 今日も一日中雨だった。桜は土日のうちにすっかり散ってしまった。わたしは今日は忘れなかった傘をさし、家に向かって歩く。

 地面は桜の花びらで埋め尽くされている。うっすらと白く光っているようで、重く垂れこめた雲の割に景色は薄明るい。

 ビニール傘の表面を流れる雨粒をなんとなく眺めていると、ふと交差点の先にある建物が目に入った。装飾の少ない、角ばった見た目の大きな建物。なんだったっけ、あそこ。

「……ああ、図書館」

 信号が変わる。曲がってきた車が水しぶきを上げる。

 横断歩道を渡ったわたしは、改めてその建物をまじまじと見上げた。

 ここの図書館を意識したのなんて何年ぶりだろうか。小学生の時、読書感想文のための本を借りに来て以来、入っていないかもしれない。

 もとから本は全然読まない。字だけを追っていると眠くなってしまうのだ。

 そんなやつが図書館に用があるはずもない。家からかなり近い位置にあるのに、今まで存在を忘れていたくらいだ。

 ただ、気まぐれに寄るにはいいかもしれない。このまま家に帰るだけなのもなんだし、暇つぶしくらいはできるだろう。

 広いほうの道路に面した正門に回り、傘を傘立てに差し入れて二重の自動ドアをくぐる。

 館内は絨毯敷きになっていた。空調がしっかりと働いていて、外の湿気も感じない。

 確か三階建てだったはずだ。わたしはロビーの案内板で漫画、もしくは雑誌のあるコーナーを探そうとして、

「あれ、もしかしてだーさん?」

 少しかすれた、低めの声を聞いた。

 ばね仕掛けのように振り向いた。その先には、

「おお、やっぱりだーさんだ。金曜日はどうも」

 縁無しの小さな眼鏡をかけた、すらりとした美人。

 ひかりのお母さんがいた。




「あっ、あの……、こんにちは、ひかりのお母さん」

「はいこんにちは。どうしたの、こんなところで」

 こんなところって。いや、確かに普段は全然来ないけれど。

「家が近くて、雨だし、たまたま……。ひかりのお母さんは」

「私は、ほら」

 ひかりのお母さんは親指で胸元を指さす。

 首から下げられている名刺のようなカードが揺れる。図書館スタッフの名札だった。わたしはそれを目で追った。


  『桜葉 晴乃』


「……はるの、さん?」

 思わず、口に出してしまった。

「そ、晴乃さんですー。この図書館で働いておりますー」

 失礼にもいきなり名前を呼びつけてしまったけれど、ひかりのお母さんはおどけた様子で応えてくれた。

「だーさんのおうちと近かったんだねえ。うちからだとそれなりに遠いけど、金曜日はちゃんと帰れた?」

「あ、はい。お邪魔しました」

 金曜日、わたしはひかりの家で夕方まで過ごした。

 お客さんを一人で待たせるのもよくないということで、ひかりが台所にいる間はひかりのお母さんが話し相手になってくれた。

 緊張でよくわからないことまでべらべら話してしまったけれど、彼女は心地の良い相槌とつっこみでそれを受けてくれた。

 タルトが焼きあがってからはひかりも加わって、学校のことやカラオケ店のことを話した。

 ひとしきり盛り上がり、タルトがすっかりなくなるころには夕食どきが近い時刻になっていた。

 車で送ろうかと言ってくれたのはありがたかったけれど、さすがに申し訳なくて断った。

 これから玄関を出るというタイミングになってもぺこぺことお辞儀をくり返すわたしに、ひかりのお母さんは明るく笑って言った。

『楽しかったよ。またいつでもいらっしゃい』

 傘を借りて、バス停まではひかりについてきてもらった。

『ごめんねー、うちのお母さんうるさくて』

『いやいやそんなことないよ楽しかったよ!

 綺麗だし元気だし優しいし、ああいうお母さん羨ましいよほんとに』

『目立ってやかましくて距離が近いだけな気もするけど……。めっちゃガサツだしなー』

 一緒に暮らしていればそりゃあ気になることもあるだろうけど、ひかりの言葉にも言うほどの刺はない。

 素敵な人だな、と素直に思っていた。

 美人なのももちろん理由の一つだけれど、突然家に来た娘の友達を気づかって仲良く話すなんて、そうそうしてくれる人はいないんじゃないだろうか。

 おどけた態度でこちらを笑わせてくれたり、まとまらない話をちゃんとうなずいて聞いてくれたり。

 そして帰り際に『楽しかったよ』なんて、対等に目線を合わせて言葉をかけられるのはすごいことだと思う。

 こういうのを、憧れというのかもしれない。

 あんな大人になりたいな、という気持ちを自然に抱ける人に、初めて会った。

 だからこの図書館で偶然会えたのも、嬉しい。

 また気さくに声をかけてくれて、話せて嬉しい。

 でも、やっぱり少し緊張してしまう。

 どうしてだろう、うまく言葉が出てこない。

「あ、あの、本当に、ありがとうございました。

 すみませんでした、急に押しかけてしまって……」

「いーのいーの、ちょっとヒマしてたし。ひかりも楽しそうだったし、気にしないでまた遊びに来てよ」

「ありがとうございます。またお邪魔させてもらいます」

「ひかりに、今度はフロランタンを作ってもらおう。

 私、一回切り分ける前のフロランタンを丸かじりしてみたいんだよね」

「あ、それわたしもやってみたいです!」

「だよねえ。そういえば今日ひかりは? だいたい一緒にいるって聞いたけど、もう帰ってるの?」

 わたしはひかりのお母さんにお菓子研のことを説明した。

 ひかりもなんだかんだお菓子作りが好きだろうし、もしかしたら入部するかもしれないことも付け加える。

「なるほどねえ。とうとう世界がひかりのお菓子に気づいてしまったか……」

「そうなんですよ……。ほかの友達はみんな部活なので、わたしはまあ、暇つぶしにここに」

「あっはは。正しい正しい。私もそんなに本読むわけじゃないし、暇じゃなきゃ来ないっていうのはわかるなあ」

「え、本読まないんですか?」

「少しは読むけど、特別読書家ってわけじゃあないかな」

「図書館の人ってみんなすっごい本読むと思ってました」

「お肉屋さんだって毎日肉だけ食べてるわけじゃない、みたいなやつだよ」

「なるほど」

 重そうな本を抱えたおばあさんが脇を通り過ぎる。わたしはようやく、図書館内でかなり話し込んでしまっていることに気がついた。

「すみません……。うるさいですよね……」

「いやいや、私も喋っちゃってるし。こっちこそごめんね。

 読書スペースのほうではやらないようにしよう、お互いに」

 声のトーンを抑えて、ひかりのお母さんは自分のくちびるの前に人差し指を立てた。

「今来たところでしょ? 行きたいところがあったら案内するよ」

「あ、じゃあ音楽雑誌とかがあれば……」

「オッケー。こっちこっち」

 ひかりのお母さんが歩き出す。

 ロビーのカウンターの裏側に回るようなかたちで、低めのソファや丸っこいテーブルが並ぶ雑誌のコーナーに入った。人はまばらだ。

「ありがとうございます」

「いいってことよー。ごゆっくり、ね。また何かあったら声かけてね」

 ひかりのお母さんの後ろ姿を見送り、わたしは傾斜のついた棚に表紙を見せて並んでいる雑誌の中から音楽雑誌を持ち出す。

 好きなミュージシャンの最新記事を求めていくつかの雑誌をはしごしているうちに、気づけば周りには誰もいなくなっていた。

 スマートフォンを取り出す。十八時。案外、時間が過ぎるのが早かった。

 そろそろ母親がパートから帰ってくるころだ。わたしは広げた雑誌を戻して鞄を肩にかけた。

 夕飯は何だろう。安くて大量に買ったのかもしれないがみそ汁にブロッコリーを入れるのはやめてほしい。

 わたしは豆腐だけのシンプルなみそ汁が好きだ。わかめも油揚げもいらない。だしの風味、みその塩っ気、豆腐の熱さと食感。それだけでみそ汁は十分に完成している。そもそもご飯とおかずとのセットで成立しているみそ汁にごちゃごちゃといろいろな味が混じっていること自体が食卓全体のバランスを悪くするのであり―――……

「だーさん、だーさーん? そっち、壁だよ」

「…………えっ、わっ!?」

 ロビーに戻るまでの間、ぼーっと視線をあちこちに漂わせていたせいか、気づかなかった。

 博物館のチラシが貼ってある壁が、わたしの鼻先十センチまで迫っていた。

 わたしは肩を叩かれ、ぎりぎりのところでチラシと鼻との衝突を回避したかっこうだった。

「あ、わ……、びっくりした……」

「こっちのせりふー! 大丈夫?」

 わたしの鼻の恩人、ひかりのお母さんは笑いと心配が入り混じった表情で首を傾げた。

「す、すみません……! 大丈夫です、ありがとうございます」

「迷っちゃった? 急に壁抜けを試したくなった?」

「どっちでもないです! ちょっと、ぼーっとしてて。すみません」

「うん。気をつけなよー。ここの壁は分厚いから抜けるならあっちのほうが」

「違いますってば!」

「あっはは。元気なら何より。もう帰り?」

「はい。ありがとうございました。 ひかりのお母さんは、何時までお仕事なんですか?」

「うん? 日によって違うけど、今日は閉館までいるよ。十九時」

「結構遅くまでやってるんですね」

「利用者の数の割にはねえ。それなりに広いから掃除が大変なんだあ。

 ま、暇なときにまたおいで、暇なときに」

「はい、そうさせてもらいます」

「まだ雨降ってるから、気をつけてね」

「はい。ひかりのお母さんも、お気をつけて」

「名前でいいよ」

「…………え?」

 一瞬、呼吸が止まる。

「ひかりのお母さん、って長くて呼びづらくない? 晴乃でいいよ」

「でも、あの……、なれなれしくないですか? 友達のお母さんに」

「気にしないでいいよお。馴れ馴れしいっていったら私のほうがよっぽどだし。

 あ、おばさんを仲良く名前で呼んだりしたくないっていうなら全然」

「そんなことないです! 呼ばせてもらえるなら、呼びたいです」

 本当だった。嬉しかった。どきどきしていた。

 たとえなれなれしくても、呼びたいと思った。

 友達の母親なんていう距離に、この人を遠ざけるのはもったいない気がした。

 相手を気づかえる心に、緊張してまごつく子どもを笑わそうとしてくれるその優しさに、少しでも近づきたかった。

 きちんとこちらに目線を合わせてくれているのに、変に縮こまりたくない。屈みこんでくれた思いやりに、自分なりに応えたい。

「呼ばせてもらいます。友達みたいで嬉しいです」

「嬉しいこと言ってくれるねえ。こんな若い子が友達だなんて光栄だわあほんとに」

「なんですかそれ」

「この年になるとねえ、十代の子なんて本当にまぶしくてねえ。

 まあ、気が向いたときに呼んでよ」

「はい。

 ……晴乃、さん」

「はいはいー、晴乃さんです! 気をつけてね、だーさん」

 花が咲いたような笑顔を輝かせて、彼女――晴乃さんが手を振る。

 手を振り返し、傘を広げ、水たまりが広がる歩道に出る。

 また来てみようかな、と自然に思って、驚く。

 ここに入るときには、考えつきもしない気持ちだったから。




 雨の日の、放課後だけ。

 ひかりがお菓子研との間で取り付けてきた、部活への参加条件だ。

「放課後だけ? お菓子研って朝練もあるの?」

「生地仕込んだりしてるみたい。昼休みとかも集まってるみたいだよ」

「打ち込みすぎー!」

 連日続いていた雨がやみ、朝から久しぶりの太陽が顔をのぞかせた火曜日。わたしはひかりと一つの机を挟んで昼食のお弁当を食べていた。

 昨日、ひかりはお菓子研のみなさんとクリームブリュレを作って過ごしたらしい。

 お菓子作りに情熱を燃やす人たちとの共同作業は、やっぱり楽しかったようだ。

 ひかりは強制的に連れ込まれたことについては文句を言っていたけど、彼女たち自身を悪く言う言葉はまったく出てこない。それどころか、あんなにこだわっていた放課後の予定を一部だとしても崩して、その活動に参加することを決めたのだ。

 ひかりのことだ、周りに準備をさせて自分はおいしいところだけ参加、なんて半端なことはいやがるだろう。

 朝のうちに生地を仕込んでいるというのなら、そのうちそちらにも顔を出す気さえする。

「いいじゃん。これでひかりの腕がさらに上がれば万々歳! 楽しみにしてますよ先生!」

「調子いいんだから……。

 でも、だーさんにはほんとうにごめん。放課後、だーさん残すことになっちゃって……」

「いいってばいいってば。気にしないで。お菓子研も頑張ってみなよ」

「でも、あたしまで部活してたらただでさえ趣味も少なくて遊ぶ友達もいないだーさんがいよいよ寂しいことに」

「んだとコラ人聞き悪いなコラ」

「じゃあ何するの? 誰と遊ぶの?」

「…………考えが、なくはない」

「ない人の態度だねー」

 言い返せないままひかりのわき腹をくすぐるという実力行使に出たが、考えがなくはないのは本当だった。

 時間があれば行ってみようかと思う場所が、一つ思いつく。

 そこで思い出して、ひかりに改めて訊く。

「そうだ、ひかりのお母さんって図書館で働いてるんだね」

「先にくすぐるのをやめなさいよ!

 ……はー、なんだっけ? お母さん? そうだけど、なんで知ってるの?」

「それがさ、昨日会ったの、図書館で。ひかりのお母さんがいる図書館、うちの近くでさ」

「へえー! びっくりだね!」

「だよね! すっごい偶然」

「いや、だーさんが図書館なんて頭良さげなところに行ってるのが」

「んだとコラぁ!」

「待って待って待ってやめてごめんごめん」

 涙目でむせかえるひかりを解放し、話を戻す。

「まあ、暇つぶしに行っただけなんだけどさ。ひかりのお母さん、結構遅くまで働いてるんだね」

 あの時間だと、お菓子研に出たひかりより帰りが遅いのではないだろうか。

「まーそうかもねー。土日も結構出てるし」

「うっわあ、大変だね……。ご飯とかどうしてんの」

「あたしが作る時もあるよー」

「う、偉いな……。わたし普段何もしてない……」

「あたしも普段からやってるわけじゃないけどねー。

 だーさんもやってみたら? 放課後の趣味兼花嫁修業」

「花嫁になる予定のほうが先にほしい」

「まったくだ」

「でもやっぱり料理はできたほうがいいよねー……。うちのお父さん料理全っ然だめだし、仕事も忙しそうだしなぁ。なんか女がやんなきゃ感ある。

 ひかりのうちは? お父さん料理とか家事やってくれたりする?」

「ううんー。うち、お父さんいないんだー。死んじゃってる」

「…………え。あ、ご、ごめん」

「いやいや、いいよべつにー。ちっちゃいころの話だし」

 体を固くし、あわあわと謝り続けるわたしを笑って、ひかりは言った。

「さてだーさん! 今日は放課後どこ行く?

 雨の日は部活になっちゃうから、晴れのうちに遊んどかないとー」

「う? うーん……、今日は駅の方に出てみる? 久しぶりにあの、変なTシャツ屋さん行きたいかな」

「いいねー。あのあざらしのスウェット、まだあるかな」

 会話の方向が変わっていくのを感じて、こっそり胸をなでおろす。意外だった。ひかりの家庭に、そんな事情があったなんて。

 いや、でもこれは単純に、わたしの想像力が足りていないだけだろうか。

 どこの家にだって、必死に隠し通すほどではないけれど、自分から話しはしない事情くらいあるのだろう。

 ひかりがいい子でも、晴乃さんが素敵な人でも。

 二人の生活が満ち足りたものであっても、なにひとつ欠けがない状態だとは限らない。

 いいや、逆か。

 欠けがあったとしても、それが埋められない大きなものだったとしても、幸せになれないわけじゃない。

 ひかりは、家でも明るくて元気だった。晴乃さんは優しく、ひかりにおかえりと言っていた。

 あのあたたかさまでが、噓になるわけじゃない。

 ぱちん、とわたしは両頬をはたいた。

「ど、どうしたの急に」

「気合を入れ直した」

「そんなに新しいシャツほしかったの?」

 呆れたように笑うひかりに、わたしもなるべく自然に笑顔を向けた。




 その週は晴れが続いた。わたしとひかりはちょっとバカなんじゃないかと思うくらい遊び倒した。

 大きな駅にくり出し、服屋巡りや少し期間が空いてしまっていたカラオケを存分に楽しんだりした。

 アルバイトをしていない身としては財布の中身が心もとなくなってきた金曜日、雨が降った。

 ひかりは昼休みにも少し教室を抜け、お菓子研の準備を手伝ったようだ。

 授業を終えて、お菓子研の部室へ向かうひかりと昇降口で別れた。

「じゃーね、だーさん。また月曜に。遊べなくてごめん」

「いいってことよ。本日生まれる甘味のうちほんの七割くらいをいただければそれで」

「食い意地張りすぎでしょ」

「じょーだんじょーだん。また月曜日!」

 わたしは傘を差し、いつもの通学路を進んだ。夕方未満の薄暗さの中で、車のライトが、街灯が、お店の明かりが存在感を増し始めている。

 別に、このまま家に帰っても良かった。家で一人でCDを聞いたり漫画を読んだりするのも嫌いではない。

 だけれど、わたしの興味はまだ消えていなかった。

 家が近づいてきたころに見えてくる角ばった建物。図書館。

 意外と時間が過ぎるのが早かった月曜日の放課後。

 今まで目もくれずに通り過ぎていたここには、もしかしたら暇つぶし以上の何かがあるのかもしれない。

 わたしは二重のドアをくぐり、月曜日と同じようにロビーに立った。

 もう一度雑誌のコーナーに行くのも悪くない。でも、せっかくならとわたしはあえて大きな本棚が並ぶ方向へ進んだ。

 壁のように立ち並ぶ背の高い本棚たちの真っただ中にあえて入り込み、背表紙を見せて静かに並ぶ本たちと向き合う。

 さて、いったいわたしをどんな世界へ連れて行ってくれるのか。

 目についたハードカバーの本を手に取る。聞いたこともないタイトルだけれど、純粋という言葉が入っているし単純な感じなのだろう。入門書みたいなものかもしれない。

 わたしはとりあえず目次に目を通そうと表紙を開き、ぱらぱらとページをめくり、

「ひいー!」

 一瞬で目を回して本を落としかけた。

 ぎりぎりで意識を取り戻す。改めて見てみても、文字をまったく読めない。なんだこれは。日本語なのか。

 認識? あぷりおり? 一番苦手な物理の教科書でも、なにについての説明をする章なのかくらいはわかるのに、そもそもなにが書かれているのかさえわからない。

 これが、本? これが読書? やはりわたしには立ち入れない世界なのだろうか。

「またすごいところにいるねえ、だーさんは」

 ふいに、肩を落とすわたしに光が差した。

 裾の長めなカーディガンを羽織った晴乃さんが、通路からわたしのことをのぞき込んでいた。

「ん? どうしたの急に」

「いえ、ありがたやーと思って」

 本を挟んだまま両手を合わせて拝むようなポーズを決めながら、わたしは言った。

「晴乃さん、助けてください。この本、全然読めないんです」

 あっけなく白旗を振る。未知の世界に一人で入り込んでいくのは無理だった。

「その本? 読みたかったの? 翻訳版が見たいってこと?」

「いやいやいや! 日本語なんですけど! 読めないんです」

「どれどれ……って、だーさん。これは難しいよお」

「え、そうなんですか?」

「こんなの読める人、大学の先生とかくらいだよ。専門書だよ、学問の」

「そ、そうだったんですか」

 少し安心する。自分はどれだけ読書に向いていないのだろうかと自己嫌悪になりかけていた。

「そもそもなんで急に? 本読まないって言ってたのに」

「えーっと、ひかりが今日部活なので、わたしも何か新しいことしようかなーって」

「おおー。それは感心。でもここの棚、全部哲学の本だよ? 結構難しいと思うけど、興味あるの?」

「え、ええ、まあ」

「へえー。若いのにすごいねえ。入門書だったらこっちに古代ギリシャから説明してくれるっていうのがあるよ」

「すみませんでした嘘です! もっと簡単で楽しいやつが読みたいです!」」

 無意味に張った見栄を即座に投げ捨てた。新しいことはしたいが、苦労がしたいわけじゃない。楽しいことをしたい。

「どうせならすごい本読んだほうがかっこいいかなって、わけもわからず適当にこの辺に来たんです」

「すごい使い方だなあ。図書館でくじ引きする子初めて見たよ」

 晴乃さんはころころ笑いながら言う。

「本なんて読んでて楽しければそれでいいんだから、楽しめそうなのにしなよ。

 このあたりは学問の本ばっかりだから、勉強する気がないなら難しいかも」

「勉強はしたくないです。普通に読めて楽しい本を読みたいです」

「あっはは。素直でよろしい。じゃあ日本文学のコーナーに行こう。こっちこっち」

 わたしが抱えたままでいた本をさらりと持ち上げて棚に戻し、晴乃さんはまっすぐ歩きだした。

 鞄をかけ直して、そのあとを追う。さらさらの黒髪が、目の前で足音に合わせて揺れる。

 晴乃さんがひそめた声で訊いてくる。

「そういえばどうして図書館にしたの? 本が読みたいなら本屋さんでもよかったんじゃない?」

「お金あんまりなくて……。いきなり本を買うのはちょっと勇気がいるなーって」

「あ、そっか。深刻な問題だ」

「でも立ち読みじゃあんまり時間つぶしにならないから、じゃあ図書館かな、って」

「鋭いねえ。図書館っていうのは本を読むための場所だからね」

「え、借りるんじゃなくてですか」

「もちろん借りることもできる。それも図書館の役割。でも、本を借りて読む人っていうのは、だいたいもう自分の生活の中に本を読むスペースを持ってるんだよね」

「……うーん? どういうことですか?」

「私もそうなんだけど、あんまり本を読む習慣がない人はさ、家で本を読もうとしても集中しづらいと思うんだよね。

 家族とかほかの人がいたり、テレビも携帯もすぐに見られる環境で、本だけに意識を向けるのは結構難しい」

「あー、それはわかります」

 漫画を読んでいても、なんだかんだテレビの内容が気になったりSNSを見たりしてしまう。慣れない本だとなおさらだろう。

「そこへいくと図書館は、本以外のものがない。喋っている人もいないし、テレビもネットもないし、携帯電話は使用禁止。

 今手に取っている本だけに気持ちを向けられるようにできてるんだよ」

「なるほど」

 退屈に思う人だっているだろうけど、本を読むためと考えれば必要で、ある意味当然だ。

「普段から本を読む人は、わざわざ図書館に来なくても、ちゃんと本を読むための時間とか場所を確保してるんだよ。通勤通学の時に読む、とか、読むのは自分の部屋で、とか。

 そうじゃない人にも、本に触れる時間と場所を作る手伝いをする。これも図書館の大切な役割なわけですな」

 おどけた口調でしめくくる晴乃さん。

 感心してばかりでアホみたいな相槌しか打てないでいるうちに、気づけば二階に来ていた。

「このあたりが日本文学のコーナーだよ。小説とか、エッセイとかが置いてあるところ。

 下に比べたら有名な本もあるだろうし、ゆっくり面白そうなのを探してみなよ」

「晴乃さんのおすすめの本とかありますか?」

「うーん。好きな本はあるけど、若い子が読んで面白いのかなあって感じだなあ。……あ、そうだ」

 しばらく目を閉じて考え込んでいた晴乃さんが、ふと歩きだす。少し離れた本棚から、一冊の本を持ってきた。

「これなんかどうかな。最近売れてるらしくて、ここにも入ってきたんだよね。今度映画もやるって」

「へえー、表紙綺麗」

 映画になるというのなら、それなりに面白くて人気もあるのだろう。そういう本ならとっつきやすい。

 受け取って、思わず目を見開いてしまった。

「……え、なんですか、このタイトル」

「ね。インパクトあるよね」

「どんな話なんですか、これ」

「さあ。面白いとは聞いた」

「読んだことないんですか!?」

「うん。面白かったら私も読もうかなあって」

「いきなりわたしを毒見に使わないでくださいよ」

「それもそうだねえ。あ、じゃあこうしよう」

 晴乃さんは人差し指を立てて言った。

「私も読む。二人で読んで、感想を言い合おう」

「……? 二人で交互に読むんですか?」

「もう一冊くらいあるよお。お互いゆっくり読めばいいよ」

 わたしはもう一度本に視線を落とす。

 確かに、興味をひかれるタイトルなのは間違いない。ストーリーを全然想像できない。

 どんな話なんだろう。読んでみたい、かもしれない。

「でもわたし、ちゃんと本読んだことないし……。きっと読むの遅いし、途中で飽きるかも……」

「それならそれでもいいよ。そのあともまだ本に興味があったら、ほかの本を探したらいい。

 私も読むの遅いから、だーさんもまずはのんびり、そのタイトルの謎がわかったらいいやくらいの気持ちでいってみよう」

 明るく言う晴乃さん。わたしを、まだ知らない世界へゆっくりと引っ張ってくれる。

 わたしはうなずいた。

「……わかりました。読んでみます」

「よしきた! その意気だ!」

「ひかりは雨の日に部活に行くので、わたしも雨の日に来ようと思います。

 雨が降ったら、ここでこの本を読みます」

「オッケー。あんまり人来ないし、誰かに借りられる心配も少ないでしょう。

 二階の読書スペースは向こうにあるから、今日からでも読めるよ」

「はい。ありがとうございます」

「ごゆっくりー。返す時はそれ用の棚があるからそこに置いておいてねえ」

 手を振る晴乃さんにお辞儀をくり返したあと、わたしはしっかりした机が並ぶ読書スペースの隅で鞄を下ろす。

 椅子に座って少し姿勢を正し、わたしは表紙を開いた。




「いやー、ひかりさん。本ってなかなかいいもんだね」

「……どうしたの急に」

 週が明けた月曜日。したり顔で語りだしてひかりに眉を寄せられる。

 自分でも驚いたことに、わたしは晴乃さんにすすめられた本にかなりのめり込んだ。

 タイトルもすごかったが、書き出しも衝撃的だった。

 続きが気になって、でも書いてあることにはじっくりと目を通したくて。

 文章は読みやすかった。読んでいて自然と、登場人物たちのいる世界に入り込んでいけた。

 あっという間に閉館時間になり、わたしは後ろ髪を引かれる思いで図書館をあとにした。

「でもびっくりだなー。だーさんが本だなんて。歌詞カードもめったに読まないのに」

「あれはわたしが曲派なだけだから。ひかりはどうだったの? お菓子研」

「カヌレを焼いたよー。なかなかいい食感にならなくてさー」

「ほーうほう。試行錯誤はいいことだ。で、完成品は?」

「ないよー。『納得いくまで配らない』っていうのがお菓子研の方針なんだってさー」

「そ、そんな」

「よくはなってたから、もう少ししたらみんなオッケーって言うかも」

「頑張ってひかり! わたしのお腹はもう待てないよ!

 わたしも頑張って本読むから! ひかりも頑張ってカヌレ完成させて!」

「だーさんのその頑張りとあたしの頑張りは関係なくない?

 でもまあ、だーさんが本一冊読めるころにはいい感じになるんじゃないかな」

「ん? すぐに完成しそうって意味?」

「来年ごろにはまとまるんじゃないかなって意味」

「んだとコラぁ!」

「だーさん現国の問題解くのも超遅いしなー」

「わたしは生まれ変わる! 必ず本を読み切って、カヌレをこの口に入れてみせる!」

「目的変わってない?」

「本も読む。お菓子も食べる。何も変わってない」

「わかったわかった。だーさんも頑張ってー。…………あ、雨だ」

 四月は春の陽気の間に、冬を思い出したような冷たい雨を連れてくる。

 ひかりに宣言したから、というわけじゃないけれど、わたしはあの金曜日以来ずっと、しばしば訪れる雨の日の放課後をすべて図書館で過ごすようになった。

 お菓子研に出るひかりと別れてから家に帰るまで、あの角ばった建物は意外なほどに居心地のいい空間でいてくれた。

 普段過ごしている教室や家と比べると寂しく感じてしまうほど静かだけれど、それがだんだんと自分の中から物静かな気持ちを引き出していく。空調の音が体になじんで、深呼吸のような落ちつきを与えてくれる。

 そんな大人な環境で何をするかといえば、もちろん本を読んでいる。

 やっぱり読むのは遅いけれど、着実にページを進めていた。

 退屈なんて思いもしない。文字を追っては眠くなっていたのが嘘のようだ。

 時にどきどきしながら、時にはらはらしながらページをめくっていく。

「ほい、だーさん。そろそろ閉館だよお」

 本に鼻をつけそうなくらい顔を近づけているわたしの肩をぽんと叩いて、晴乃さんが声をかけてくれる。

「あー……、わかりました……。ここでやめときます」

「だいぶ進んでるじゃない。どう?」

「すっごく面白いです! だんだん悲しくなってきたけど、続きが気になっちゃってもう」

「おーおー。満喫してるようで何よりだねえ」

「晴乃さんはどれくらいまで読みましたか?」

「えーと、このへんかな」

「わ、さすがですね。どうですか? どうなりますか?」

「私が話しちゃっていいの?」

「ああーダメです! 自分で読みます!」

「だよねえ。それが醍醐味だ。

 さてさて、だーさん。もう暗いし、気をつけて帰ってちょうだい」

 てきぱきと閉館の準備をこなす晴乃さんと手を振りあい、家路につく。毎回、名残り惜しく思う。

 不思議だった。長い間、ただ何気なく通り過ぎていた場所に、まだいたいと思う日が来るだなんて。

 ほんのささいなきっかけで、少しずつ何かが変わっていく。

 わたしは今、その真っただ中にいるのだろう。

 そして、ゴールデンウィークも間近になった土曜日。朝から降り続く大粒の雨の中、わたしは図書館のドアをくぐっていた。

 休みの日に来るのは初めてだった。これまではすべて、学校からの帰りに寄っていたけれど、今日は違う。ここに来るために家を出たのだ。

 物語は佳境だった。木曜日にとてもいいところで閉館時間になってしまってから、ずっとやきもきしていた。

 今日のうちに、読めるところまで読んでしまいたい。

 昼食のことさえ頭をよぎらず、気づいたら定位置になりつつあるテーブルの隅でページをめくる。

 薄暗かった空が、それでも昼の明るさを保っていた窓の外の景色が、夕方に飲み込まれ始めるころ。

「おおっ? だーさん、どうしたの?」

 晴乃さんの声で、顔を上げる。本を脇に置いたまま、机に突っ伏してしまっていた。

「眠いならもう帰ったほうが……わあ、マジ泣きだ」

「晴乃さん……」

 周りの迷惑も気にせず、情けなく湿った声を上げてしまう。

「お、読み終わったんだあ。すごいねえ。お疲れさまだ。どうだった?」

「こんなの……、こんなのあんまりじゃないですかあー……」

「あー、よしよし、小さな声でね。人全然いないし大丈夫だろうけど。だーさん、結構感情移入しちゃうタイプだったんだねえ」

「しますよお……。同じ高校生だし……、ずっと応援してたし」

「うんうん、そうだねえ」

「晴乃さんは、大丈夫だったんですか?」

「私の年になるとねえ、どっちかっていうと親御さんの気持ちに寄っちゃってさあ。それはそれで結構沁みちゃうんだよ」

「でも、でも、よかったです……。ほんとうによかった……」

「ほんとにねえ。いい話だったねえ」

 先週同じ本を読み終えていた晴乃さんは、だらだらと泣き続けるわたしに相槌を打ち続けてくれた。

 何分経っただろうか。

「大丈夫? 帰れる?」

「はい……、すみませんでした」

 ようやく涙のひいたわたしは、晴乃さんに見送られてロビーまで来ていた。

「ありがとうございました。わざわざここまで、本当に」

「気にしないで。そこまで感じちゃうとは思わなくてさ。最初に読む本としては、ちょっと良くなかったかな?」

「そんなことないです! ほんとに面白かったです。読んでて、楽しかったです」

「そう? なら良かったよ」

「紹介してくれて、ありがとうございます。また来ますね。また、おすすめを教えてください」

「もちろん。いつでもいらっしゃい」

 手を振りあう。自動ドアが二枚、音を立てて閉まる。

 いつの間にか雨は上がっていた。水たまりは街の明かりと濃い群青色の空を映して輝いている。

 今まで感じたことのない気分だった。音楽とも、漫画とも、映画とも違う、文字の世界だけの余韻があるのだと初めて知った。

 頭の中で、大好きな台詞が回る。どきどきしたシーンが、涙の止まらなかった独白が、映像にも音にもならずに、感情のまま胸を熱くし続ける。

 自然と足取りが軽くなっていることに気づいて、笑う。

 わたしはすっかり虜になったみたいだ。本の世界の、あるいは優しくて静かな図書館という場所の虜に。

 揺らした傘から水滴が飛ぶのが見えた。今しがた流した涙のように、爽やかな夜の空気に溶けて見えなくなった。

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