八月まで
なんの味もしない、だけれどとても甘い、湿ったくちびるの感触。
わたしのくちびるは乾いていないか、ささくれていないだろうかと、考えがあちこちに散らばる。そんなこと、頭をかすめる余裕さえないはずなのに。
柔らかい。でも心地のいい弾力を確かに感じる。体のあちこちがどきどきしている。耳の裏あたりから生まれた熱はうなじを撫で、肩を抱くように鎖骨にまで広がっている。人のくちびるは、こんなにも優しく脳を揺さぶるものなのか。
わたしは腿に、握った両手にぐっと力を込める。
震える体が、わたしの心の揺らぎを伝えてしまわないように。
ち、と小さく、わたしたちのくちびるの間から水っぽい音がする。それはささやかな音だったけれど、広いリビングルームに案外際立って響いた。……恥ずかしい。
部屋は静かだった。窓の外は八月の重い夕立に包まれている。
雨はいつもそうだ。雨粒が屋根やアスファルトを叩いて騒々しいはずなのに、いつの間にかなにも聞こえなくなっている。まるで、部屋の外の音すべてと打ち消しあっているように。
だから、微かな音がこんなに耳を打つ。くちびるがたてる音の意味を、ことさらに照らすように。
やめてくれ、こんなの。
いっそかき消してくれ。押し流してくれ。
こんな、ゆっくりと撫でるみたいにしないでくれ。
雨は意地悪だ。
もう一度、ほんのわずかな音をたてて、くちびるから柔らかさが離れる。
閉じていた目を開く。また、視線が行き交う。背中の汗を思い出す。
頬が熱い。きっと真っ赤だろう。恥ずかしくて、でも顔を逸らせなくて、それがいっそう、恥ずかしくて。
「……泣いてる?」
少しかすれた、低めの声。とびきり苦いチョコレートのような声だと、聴くたびに思う。
「いいえ、そんなことないです」
「目から水が出てたら、それは普通、涙なんじゃないかな」
「だとしたらこれは、嬉し泣きです。欲情してるんです、わたし」
「若いねえ」
頬を伝うしずくが口の端に触れる。
雨は意地悪だ。
でも、それでも。
わたしは、雨を嫌いにはなれない。
だって、晴乃さんと出会ったのも、こんな雨の日だった。
四月。
満開の桜を容赦なく散らす、あの雨の日。
わたしは、この塩辛く濡れた口づけの相手と出会う。
晴乃さん。
友達の、母親と。