無のピースフルブルー
私が会社を辞めたのは一月二十日付けのことだった。給料が二十日締めの月末払いだったので、十二月のボーナスをもらって年が明けてからの退職は、タイミングが良いと思った。
新年早々の退職、引越しは、なんとなく気持ちが良い。心機一転頑張ろうという気持ちになれる。これがもし仮に、退職が一ヶ月早い十二月二十日付けだったら、年末のドタバタした雰囲気のなか荷造りをし、寒い師走の風を感じながら住んでいた会社の寮を追い出されて、寒い新居に独り引っ越す、ということになるであろう。それはとても惨いことだ。たしかに十二月二十日付けで辞めた社員も中にはいたが、私にはそんなこと到底真似できない。それだけ東京の年末の冬は思った以上に寒く、師走の風は冷たくて私の心と体を容赦なく縮みこませ、退職を先延ばしにしたのだった。
会社を辞めようと思ったのはなにも今冬に入ってからのことではない。以前からずっと思っていた。新卒で入社して、数ヶ月経ったくらいからであろうか。私は二年と十ヶ月この会社に勤めたが、思い返すと二年と七ヶ月もの間ずっと辞めたいと思いながら働いてきたのだ。
辞めたい理由を語ると野暮になるので書かないが、退職時には貯金は二百万円程あった。その金を使って、某大手賃貸会社でマンスリーマンションの一室を借りた。部屋は、つくばエクスプレスの六町駅と八潮駅の間にある神明という所にあった。その界隈は古びたスーパーや薬局、個人居酒屋やタクシー会社などがある閑静な、夜はちょっと治安が悪いといった、足立区らしい住宅街だった。もっとも、足立区といっても東京寄りではない。限りなく埼玉寄りである。
東京と埼玉の県境は殺伐とし、夜になるとバイクの暴走音が響き、ヤンキー風の若い男女が歩いていたりする。しかし昼になると打って変って、八潮駅周辺は長閑で住宅の新築工事が行われ、戸建てがどんどん建っていた。おそらく新築住宅の建築を促進している地域なのだろう。このような戸建てにはサラリーマン家族が住み、一生をかけてローンを返していくのだ。
辞めた会社の寮からこの神明の一室への引越しを手伝ってくれた従弟は、部屋の窓を開けて冬晴れの日射しを受けると、
「いい所だね。この窓際で読書でもしたら気持ちいいんじゃない?」
と言った。私はこれまで本というものに縁がなくて、買うことはおろか図書館で借りることも滅多になかった。しかし会社を辞めてたっぷり時間がある中、これはいい機会かもしれないと思い、いくつかの本を読む事が出来た。宮本輝の「二十歳の火影」、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」、ヘミングウェイの「老人と海」、思い返すといろいろと読んだなあという思いがあるが、それらを皮切りに後の人生でミステリーや推理小説、犯罪者の手記や荘子、サブカルチャーからライトノベル、ショートショートの類など、様々なジャンルの生きた文章を私は読むようになった。生きた文章とはこんなにも面白いものだったのかと、私は本に対して感動を覚えるようになった。
それはさておき、引っ越して来たこの足立区界隈は前述のとおり長閑であった。毎朝早起きして会社に行く必要もない。
「亮君、これで自由の身だね」
と引越しを手伝ってくれている従弟は言う。従弟は私の一つ下で白山駅が最寄りの風呂なしの部屋に住んでいる。文京区の東大生にまぎれてアメリカ大陸横断を夢見るバックパッカーをやっているのだ。
「手伝ってくれて悪いね。終ったら居酒屋でも奢るから」
私はそう言って、冷蔵庫やソファなどを踏ん張って抱えている従弟に感謝した。
「あっ、ゴキブリ」
私がトイレのドアを開けたら、床に一匹の大きなゴキブリが黒光りしていた。私は気持ち悪くて後ずさった。従弟が出てきて、
「亮君、殺虫スプレーみたいなのは、ないの?」
と訊いた。
「ないよ」
「じゃあ新聞紙かなんかだね」
と言って、傍らに置いてあった日経新聞の一部を取り、丸めて棒状にし、ゴキブリを叩く準備をした。たいして読まなかった日経新聞が、こんな所で役に立つなんて。
「それで倒せる?」
「たぶん。逃げられるのが一番こわいよ。また出てくる可能性があるしょ」
それを聞くと私は鳥肌が立った。便座に坐っているとき、シャワーを浴びているとき、傍らで黒光りするものがカサカサ動いているなんて考えられない。
「そうだな。絶対、ここで倒しとかんと」
私がそう言うと、従弟は棒状にした新聞紙を振り下ろし、パンッ、パンッ、とゴキブリを叩いた。
「よし、やった」
「ナイス」
従弟は死んだゴキブリを器用に新聞紙の棒の先端にくっつけ、便器の中にゴキブリを捨てて水で流した。棒状にした新聞紙は燃えるゴミに捨てた。
「ありがとう。助かった」
「なに、俺の住んでる所はよく出るんだ」
「家賃いくらだっけ?」
「三万二千円」
「あんな都心で、三万二千円って、やっぱりすごいな」
私は感心した。しかしそんなことよりも、ゴキブリのことが気になっていた。一匹いればその周りに百匹いる、という話を聞いたことがある。百はなくても、五匹くらいはいるのではないだろうか。そのことを従弟に言おうと思ったが、運ばなければならない荷物がまだあったので、言いだせないでいた。
荷物をひととおり運び終えると、夕方になっていた。
私は手伝ってくれた従弟へのお礼も兼ねて、新宿に飲みに行くことにした。
モツ焼き屋で一杯やりながら、割り箸をハンドパワーで動かすマスターのマジックに驚きながら、軽く悪酔いした。酔っているうちに、たわいない世間話に花が咲いて、さっきの一匹いたらその周りに百匹いるという恐ろしい話を、ゴキブリ慣れした従弟に訊くのを忘れてしまっていた。
モツ焼きの先端にたくさん塩をまぶし、まん中には何もふらず、手元の方はちょうど良い加減で塩をふる。塩をふり終えたマスターは、
「これ、一口目はすごくしょっぱい。二口目は何も味なし。三口目はちょうどいい塩梅。これが焼き鳥だ」
と言って、正しいモツ焼きとはこうだと言わんばかりに語った。
「はあー、なるほど」
従弟はそう言って感心していたのを覚えている。私はさっきのマスターのマジックがとても頭に残っていて、非現実的なことが目の前で起こって余計に酔ってしまった。
帰り際にはかなり悪酔いしていた。
従弟とは新宿駅で別れた。職もなく平常心もなくした私は、よろよろと吐き気を堪えながら電車に乗った。会社に勤めていた時とは比べものにならないほど自分の家が遠くなったが、明日も明後日もその後もずっと休みなのだと考えると、誰に言うんでもなく、やってやったぞ、ざまあみろ、といった気持ちになって勝ち気になれた。
二月に入っても私の生活に変化はなかった。食っちゃ寝、食っちゃ寝している、俗に言うニートというものだ。連日晴れの日が続いていて、それが独りのニート生活を明るいものにさせている。私は晴れの日が好きだ。と言ってもたまに降る雨の日も好きだが。晴れの日が全体の八割くらいあるのが望ましい。太平洋に面する東京の天候は、故郷の北海道の旭川と違い、冬晴れの日というのがよくあるらしい。天気予報でもここ十日連続で晴れの日が続いていると言っていた。雲一つない青空はとてもきれいで、さすがに朝と夜は寒いが、昼間ならば窓を開けて空気の入れ替えも兼ねて読書なんかしてもいいくらいだと思う。私は、この昼間の時間帯に、一階の部屋で独りそんなことを思っていた。
磨りガラスの窓を開け、桟に坐り、外を眺めた。素足が気持ちいい。こんないい天気の日に他の居住者はなにをしてるのだろうか。いや、皆仕事に出ているのだろうな……。こんなプー太郎をやっているのは私くらいか。
私はスウェットパンツの出で立ちで軽く散歩することにした。窓を施錠し、部屋の鍵だけ持ってドアに鍵をかけた。風が少しひんやりするが、天気が良くて気持ちいい。近くの公園のベンチに坐って地面をぼうっと眺めていた。
二月か。このマンスリーマンションの契約は二月の末日までだった。それまでに今後どうするのか決めなければならない。旭川の実家に帰るのか、この東京で暮らしていくため就職活動をするか……いや、そんなことできない。私はひどく疲弊していた。できればもうこの世の仕事という仕事とは完全に縁を切りたいくらいだった。他人からはどう映るかわからないが、自分なりに死ぬ気で二年と十ヶ月働いたのだ。休息期間は少なくとも二ヶ月は欲しいところだ。そう考えるとこのマンスリー契約をもう一ヶ月追加して、三月いっぱいもここに住もうか。いや、そんなことしたら、一気に金が無くなる。せっかく汗水垂らして働いた二百万円があっという間に無くなってしまう。現にもう貯金は二百万を切っていた。昼間も飲んでいる酒代が、意外と結構な出費になっている。そう考えると、やっぱり実家に帰るしかないかな……。
私は半ばあきらめがちにベンチから立ち上がり、とぼとぼと歩いて部屋に戻った。
携帯を見ると妹からメールが来ていた。妹は千葉県に住んでいる。兄を見習ってかどうか知らないが、高校を卒業してカリスマアパレル店員になるやら何やらで、大卒の私と同時期に上京した。そう、大卒と高卒、私と妹はちょうど四歳の年の差があったのだった。メールを読んでみる。
〈久しぶりぃ。兄ちゃん、会社辞めたんだって? 母さんから聞いたよ。ちょっとショックだったけど、頑張ったよね。いまどこに住んでるの? 遊びに行っていい?〉
文面からすれば、いつもと変わらない明るい妹だった。私は、どうせ暇だし呼んでもいいかと思い、二つ返事で妹と最寄りの駅で会う約束をした。
妹に会うため部屋を出発するとき、私は財布を開いていくら持ち合わせているか確認した。財布にいくら入っているか見るのは、私の外出するときの習慣になっている。しかし、中に入っている額が予想以上に少ないのである。
「おかしいな、こんなに少なかったっけ?」
お札入れには千円札一枚と五千円札が一枚。小銭が少々。この前ATMで五万円おろして、二万円は食費や生活費にまわしたから、三万円は残っているはずなのに……。
そこで私は嫌な予感がした。
――空き巣。
私は咄嗟に部屋の中を見回した。荒らされた形跡はない……というか普段からだらしない私の部屋は荒れ放題だった。これじゃあ空き巣が入ったなんてわかりゃあしない。しかしなにかで聞いたことがある。最近の空き巣は部屋をまったく荒らさず、財布からお金だけを引き抜いていくのだ、と。
ふいに、いつもは静かである隣の部屋から笑い声が聞こえた。まさか隣人が空き巣を! いや、まさか。とりあえず、最寄りの駅で妹を待たせるわけにはいかないので、気味悪い気持ちを抱きながらも私は部屋を出発した。
妹は広い八潮駅の改札前でちょこんと立っていた。
「遅いよ、兄ちゃん」
「悪い。ちょっと遅れた」
私はそう詫びて、妹と並んで歩き出した。
「どうせ食べる物ないんでしょ? スーパーでも寄って行こうよ」
「いや、食い物だけは沢山あるんだ。この前買い込んだから」
「そう。ちょっとならお金出してあげようと思ったのに。ま、いっか」
妹と私は十五分程歩いて私の部屋に着いた。
私は妹のことを異性として思っていない。だから、妹が来るからといって部屋を掃除することもほとんどなかった。
開錠してドアを開けると、男臭い部屋のにおいが二人の鼻につく。
「うわっ」
と言って妹は半ばあきれている。ビジネスシューズやスニーカー、サンダルが狭い玄関スペースにごちゃごちゃと散乱しているのだ。
「掃除してるの?」
「いや」
「…………」
それから妹は、「くっさ」、「きたない!」とか言いながら台所のシンクを見ながら鼻をおさえ、奥にある居間へと進んだ。
「わあ、なんで冷蔵庫が二つもあるの? 電子レンジも」
「家具家電付きの物件だからな。会社を辞めたとき、なんか捨てるのがもったいなくて、全部持って来た」
「そういう捨てられないの、貧乏性っていうのよ」
私と妹は、とりあえず坐る場所を確保して、汚い部屋の中で二人きりとなった。私はインスタントコーヒーを淹れて妹に差し出した。「ありがとう」と言って妹がカップを受け取ると、それから数十分間、久々に兄妹と長話をしたのだった。
「会社辞めたとき、父さんと母さんはなんて言ってた?」
「別に。お前が決めたことなんだから、仕方ないなって」
「そっか、でも休息は必要だよね。とりあえずゆっくり休んでまた頑張ってね。仕事はいつ探すの? もう探してる?」
「いや、全然」
私はカチリと煙草に火をつけた。
「全然って、いつまでプー太郎するつもりなの?」
「そうだなあ、今月いっぱいくらいかな?」
「二月いっぱい?」
「うん」
私は溜め息と同時に煙を吐いた。すると妹は、
「そっか、それならよかった」と言って立ち上がった。そして私の前に来、深々と頭を下げてこう言った。
「お願いします。今日からわたしをここに泊めさせて下さい」
男臭い部屋で深々と頭を下げる妹は、どこかなまめかしい感じだった。
「えっ、今日から泊まるって、いったいどういうことだよ?」
と私は訊き返しながら、妹の持って来た荷物を見ていた。そういえば、肩に背負っていたリュックは大きい。この中に宿泊道具やら何やらが入っているのだろう。私がそう考えているうちに、妹は既に泣き始めていた。
「おい、どうしたんだよ」
妹は泣きながら涙をぬぐって、話し始めた。
「わたしね、こわいの。……実は、いまはもう友達とは思ってないんだけどその当時は友達だと思っていた友達に、宗教に入らないかって誘われて。たいしてお金もかからないから二つ返事でOKして入って……。でもやっぱり毎月の会費もかかるし、たいして面白くないし胡散臭く感じてきて辞めようと思ったの。でも引きとめが強くて……。休日もわたしの家までやって来て一緒に礼拝しに行きましょうって……。もうやだ、住所もばれたし、あの部屋に住んでられない」
話を聞いていた私は、そこで妹が騙されたのだと思った。東京という都会には宗教法人など五万とあるだろう。通常の人間なら、そんな勧誘に引っかからないが、小さいアパレル会社に勤めている田舎育ちの妹なら、職業柄胡散臭い人間に引っかかることもあるのであろう……と私は思った。私は大手の医療系の会社に勤めていたから、そんな胡散臭い人間と関わることもあまりなかった。何はともあれ、たった一人の大事な妹だ。ここは私が、兄として守ってやらなければならない。私は刹那でそう感じて、泣いている妹の肩を掴んだ。
「話は分かった。そんな泣くくらい悩んでいるっていうことは相当だよな。きたないけど、しばらくここに泊まってもいいよ」
「ほんと?」
妹は顔を上げて私に訊いた。笑顔が戻りはじめている。
「うん、いいよ。泊まりな」
「ありがとう」
妹は泣きやんで、大きいリュックから私物を取り出しはじめた。行動が早い。私は、はぁと溜め息をついて煙草をもみ消した。しかし宗教か。こわいものだなあ。昔、祖母も宗教に入っていたっけ。辞めるとき相当苦労したと聞いたが。
妹は、「寝るときはどうしようか?」と訊いてくる。
「お前がロフトで寝れよ。ベッドのマットレス持って来ててよかった。俺は下で寝るから」
「うん、ありがとね」
「布団付きの物件で助かったよ。新しく布団を買う必要もなくなったな」
「そうだね」
私と妹は汚い部屋を掃除し始めた。ひととおり掃除を終えると、十畳の1Kの部屋に冷蔵庫が二つ、洗濯機が二つ、電子レンジが二つ、ソファが一つ、テーブルに椅子、シングルベッドのマットレス……などが置かれた部屋になった。
「せまーい」
「文句言うなら泊めさせないぞ」
冗談まじりでちょっと怒った私に、妹は満面の笑みをみせた。妹に心配をかけさせたくないので、空き巣が入っているかもしれないということは内緒にしておいた。
その後の妹は勤めていた小さなアパレル会社を退職したり、宗教を辞めたいとか、いま住んでいる行徳のアパートを引っ越したいなど、父と母に事情を話して大変そうだった。でも私と違い前向きで、
「二月中には次の仕事も新しい部屋も決めるからね」
と言って張り切っている。私は、やる気があってよろしいと妹を褒めた。妹は私が今後どうするのか、あまり詮索してこなかった。泊まらせてもらっている身だし、少しは気を使ってくれているのだろう。妹が毎日のようにハローワークに行ったり不動産屋に行っている中、わたしは独りさぼって昼間からビールなどを飲んでいた。妹は東京の生活にひたむきだなあ。こういう人間が、将来意外と大成するのかもしれない。それに比べて自分は……。私は完全に燃え尽き症候群のようになっていた。何をするにもやる気が起きない。天気が良くてビールがうまい。そんな毎日がとても素晴らしいと思っていた。青空がきれいだなあ。実に平和的だ。肴にしているあのスーパーの春雨サラダがうまい。近所の犬がよく吠える、いい番犬だ。今度あの蕎麦屋に行ってみよう。第三種のビールも悪くないではないか。いまごろ辞めた会社の連中はあくせく働いているだろうな……いまの俺は、とても幸せだ! 私は、妹が外出している部屋で、このようなことを独り考えていた。そんな時、携帯にメールが入った。
〈兄ちゃん、今日は家に戻らないわ。友達に誘われて飲みに行って泊まることになったの。ということなので、よろしくね〉
メールを見た私は、「そうか」と独りごちて返信し、携帯を閉じた。そして、無くなりかけているビールを買いに、財布と携帯と鍵を持って、またスウェットパンツの出で立ちで外に出た。鍵はしっかりかけた。あの空き巣に入られてからの一件があって以来、私は貴重品の管理は厳重にし、施錠も入念に行っていた。部屋には金目の物はほとんどない。妹にも、空き巣が入っているということは黙っているが、貴重品の管理はしっかり行うよう注意していた。自分の眼で確かめたわけではないが、妹はきっと貴重品は持ち歩いていることであろう。
私は、八潮駅近くのスーパーに行き、六缶入りの第三種のビールや惣菜を買って、帰り道をとぼとぼ歩いた。
しかし宗教か……。妹とここ最近長話はしてないが、どうなったのだろうか。円満に辞めることができたのだろうか。宗教といえば高校時代、とあるクラスメートが信者についてこう言っていた。
――宗教の信者ってゆうのはこわいぞ。あいつら右回りは好きじゃないんだ。ネジの原理って言ってな、コーヒーに砂糖を入れてスプーンでかき混ぜるときも、普通は右回りが普通だろ? でも彼らはそれが好ましくないってゆうんだ。右回りってゆうのは「締まる」ってゆう意味から窮屈になるとか余裕がなくなるってゆう悪いことに繋がっていくんだとさ。馬鹿馬鹿しいよなあ。だから緩むように、心が広くなるように、あいつらなんでも左回りでかき混ぜるんだ――。
私は思い出していると馬鹿馬鹿しくなり、ついには歩きながら独り「馬鹿馬鹿しい」と呟いていた。
部屋の前まで歩き着いたとき、ちょうど隣人と鉢合わせた。彼が空き巣なのではと疑っていた私は、神妙な面持ちで軽く会釈した。
自分の部屋のドアを開錠して、中に入る。
荷物を置いて、ポケットから携帯や財布を取り出す。
尿意をもよおしたのでトイレに向かった。トイレのドアを開けようとしたとき、私の体はビクッと驚いた。
――鍵がかかっている!
私は驚いて少し後ずさった。妹は今日は泊まりでいないはずだ。ここにいるはずがない。でも呼んでみる。
「真奈。おーい、真奈」
なにも返事はない。私はこわくなって外に飛び出した。あのトイレの中に空き巣が潜んでいるのではないかと……。部屋を物色してた最中に私が帰って来た。空き巣は、急いでトイレに隠れたのだ! そう思うと気が気ではない。警察を呼ぼうか躊躇った。でも鍵がかかったトイレのドアをこじ開けて、中に誰もいなかったら、とんだ恥かき者になる。
ドアの向こうからは物音一つ聞こえなかった。私は心を落ち着かせ、中には誰もいないと自分に言い聞かせ、静かにドアをこじ開けることにした。
――落ち着け。落ち着け。
そう念仏のように唱えながら、鍵がかかったトイレのドアをこじ開けて中を確認した。
中には誰もいなかった。ほっとしたのも束の間、大量にあったトイレットペーパーやらこの前買ったばかりのゴキブリ用殺虫スプレーなどが無いことに気付いた。またやられた! と私は思った。しかし空き巣はなぜ、トイレのドアに鍵をかけたのだろうか。そもそも、玄関に鍵がかかっているのにどうやって侵入したのだ。窓にも鍵がかかっているのに。私はトイレで考え込んで、ふと上を向くと、天井に四角い切れ込みがあるのに気が付いた。
「まさか、天井裏から侵入したんじゃ……」
私は暗く湿った所が好きなゴキブリのような神出鬼没な空き巣に身震いした。ということは居住者……つまり内部の犯行か。やっぱり一番怪しいのは隣人だ。
私は、今後、空き巣に入られないよう、なるべく外出しないようにした。それにしても、トイレットペーパーや殺虫スプレーなど、金にならない物をどうして盗んだのだろうか。まあ金目の物が無かったのだろう。しいて言うなら、妹の下着くらいか、金目の物は。いや、高校生でもない限り、そんなこともない。
大手企業に勤めていた私が、いま東京の外れでこんな空き巣部屋に住んでいるのかと考えると、なんか虚しくなった。
二月も中旬に入り私のニート暮らしも残り半月を切ってしまっていた。妹は親と相談しながら、宗教をなんとか辞めたようだった。そして新しい部屋と仕事も、決まったようだった。
「この前わたし飲みに行って友達の家に泊まったしょ? その友達がTシャツのデザインとかをしてる会社に勤めてるの。よかったらウチ来ないかって言われて。私は店頭で洋服を売る仕事の方が好きなんだけど、同じアパレル業界だし、こんなチャンスめったにないから、行くことにしたの」
「へえ、Tシャツのデザインってブランド物の?」
「ううん、やっすいやつ。量販店とかでよくあるようなTシャツの」
「ふうん」
妹はたった半月程度で、宗教、引っ越し、仕事という三つもあった悩みが解消されて上機嫌だった。お祝いも兼ねて焼肉に行こうなどと言ってくる。
私は、インターネットで空き巣について調べていた。カードキーの鍵は、特殊な工具を使えば簡単に開ける事が出来るということを知った。私の部屋も、カードキーだ。また空き巣はマーキングというサインを付けるらしい。インターホンやドアポストにマジックで小さく居住者の不在時間や在室時間を書いて、他の空き巣や悪質な訪問販売業者と情報を共有している。調べてみると、私の部屋のインターホン右下部にも、謎の数字が書かれていたので、入念に消した。私は、妹に、念のため空き巣の被害はなかったか、最近なにか物が無くなったことはなかったか訊いてみた。
「物がなくなる? 特になんもないよ」
妹はあっけらかんと答えた。幸い空き巣被害は妹の私物には及ばなかったようだ。
「そういえば、部屋引っ越すんだろ? 手伝いが必要なんじゃないか?」
私は思い出したようにそう言って、妹に訊いた。
「お父さんとお母さんに話したらねえ、引っ越し業者頼んでいいって言われた」
「そうか」
私は内心安心した。これで肉体労働する必要はないなと考えた。
「約三週間だったけどお世話になったね。兄ちゃん、ありがとう」
妹はそう言って、玄関で靴を履いていた。
「おう、気を付けてな」
「兄ちゃんはこれから、どうするの?」
痛いことを訊かれた。私のマンスリーマンションの契約は残り一週間程で、更新の契約などはなにもしていなかった。
「うん……実家帰るよ」
妹はそれを聞いてちょっとびっくりした様子だったが、
「そっか、わかった」
と言って納得したようだった。
これでいいのだ。むやみやたらにこの生活を続けて浪費するのもよくない。少し未練があるが、もう北海道に帰ろう……。私はそう思った。
妹が帰ると少し物が減った気がした。それもそうだ。あんな大きなリュックがあって中身を広げていたのだから。家電が二つずつある部屋で、私は荷造りを始めた。
テレビをつけると、天気予報が流れていて、ここ二十日間連続で晴れの日が続いているとキャスターが言っていた。窓際には太陽の光が差し込んでいる。長閑だ。私は窓を開けてほのぼのとした。
平和的な青い空。小さな子供が老婆と手をつないで歩いている。無常という言葉が思い浮かぶ。
「みんな、大人になっていくんだなあ。俺は、変わらないけど」
私の東京での暮らしは、残り数日間の、限られた無となっていた。今ごろ空き巣はどこかで笑っているだろう。陰に隠れたゴキブリは、きょうもカサカサと動いている。
(了)