#030「抜擢」
@旧居留地のホテル
カズアキ「隣の博物館は二十四番地で、ここは二十五番地なのに、向かいの銀行は八十一番地。何故だか知ってるか?」
アツコ「さぁ。神戸開港当時からなんですか?」
カズアキ「あぁ。着眼点が鋭いな。その当時の事情に関係するんだ。港を開くことは決まったんだが、神戸に外国人が出入りするようになることを警戒する人たちが居たんだ。誰だか分かるか?」
アツコ「朝廷かしら? 函館や横浜と違って、御所に近いですよね」
カズアキ「その通り。それで、なかなか勅許が下りなかったから、急いで建てなきゃいけなくなり、建てやすいところから建てて住まわせていった結果、番地がジグザグの一筆書きのようになってしまったというわけだ」
給仕「二名でご予約の、樋口様」
カズアキ「私だ」
給仕「ご案内いたします。こちらへ」
*
給仕「お連れ様は、こちらのお席へ」
アツコ「ありがとう」
給仕「ごゆっくりどうぞ」
給仕、一礼して立ち去る。
アツコ「本当に、ディナーをご馳走してくださるんですね。せっかくですから、一番下のメニューを頂こうかしら」
カズアキ「おい。そっちのメニューには値段が載って無いだろうが、リーズナブルでないことは理解できるだろう。多少は遠慮しろ」
アツコ「行用で落とすんでしょう? 行内に支店長の良い噂を流しておきますから。二人分なら、接待費として通じますよね?」
カズアキ「そういう強かさが、支店長代理まで出世してしまった理由だろうな」
アツコ「要因は、それだけでは無いと思いますよ」
カズアキ「まぁな。団塊のオジサマ連が抜けて、バブル入行組が不祥事で飛ばされて、残ってるのは俺たちと、口だけ達者で役立たずのお局様たちと、黙々と書類整理をする窓際族くらい」
アツコ「ちょっと。本人の耳に入ったら、どうするんですか?」
カズアキ「こんな小洒落た場所には、罷り間違っても来ないから安心しろ。それにしても、急に忙しくなってきたな」
アツコ「本当。残業続きで嫌になっちゃう。もうすぐ厄年の身には、堪えたのではありませんか?」
カズアキ「根に持つなよ。まだ三十代だ」
アツコ「何ですか? 初老?」
カズアキ「耳が遠くなったのか? ナウでピチピチのヤングだと言ったんだ」
アツコ「歳を重ねると、身体の表面から奥へ、鋭い短い痛みから鈍い長い痛みに変わりますからね。忘れた頃に、ジワジワと」
カズアキ「縁起でもないことを言うなよ。心配になってくるだろう。――あぁ、そうだ。いい加減、部下に仕事を回すことを覚えろ。比較優位仮説だ」
アツコ「優位が無い場合は?」
カズアキ「いくらなんでも、そこまで悲惨ではないだろう。ともかく。振り分けずに全部抱え込んでたら、そのうち、過労でブッ倒れるぞ」
アツコ「また、その話なんですか? ここは職場じゃないんですから、勘弁してくださいよ」
カズアキ「中嶋が居なくなったら、俺が困るから言ってんだ。幹部を目指す、立身出世まっしぐらの銀行員さん」
アツコ「あら、お生憎さま。男子行員と同じ働きでは置いてきぼり、二倍働いてトントンなんですよ。追い越すには三倍働かないと。今が正念場。踏ん張りどころです」
カズアキ「奮起するのは結構だが、キャパシティーを超えないようにしろよ」




