#016「滲んだ絵の具」
@御影の文化住宅
アツコ「ごちそうさま。美味しかったわ、チーズオムレツ」
イヅミ「おそまつさま。お口に合ったようで幸いです」
アツコ「和泉さんは、いつも朝は洋食を召し上がるの?」
イヅミ「いえ。一人の時はブランチとディナーだけで、一緒に食べる人が居なければ、朝食は作りません」
アツコ「エエッ。それじゃあ午前中、お腹空くでしょうに」
イヅミ「そうでもないですよ。実家に居たときも、朝はミルクティーにショートブレッドをつまむくらいで、給食は、いつも居残りでした」
アツコ「青春時代に三食では足りなかったわたしとは、まるで逆ね。この、もやしっ子め」
イヅミ「せめて、草食系って言ってくださいよ。――朝からシッカリ食べてきたから、敦子さんはアクティブでパワフルなんですね。食いしん坊、バンザイだ」
アツコ「それじゃあ、食い意地が張ってるみたいじゃない。食欲旺盛と言ってちょうだい」
イヅミ「フフッ。物は言いようですね。――そろそろ、出勤する準備をしないと」
アツコ「あら、本当。もう、そんな時間ね」
イヅミ「えぇっと、今日の仕事に持って行くものは、と」
アツコ「わたしも支度しなくちゃ。ん?」
アツコ、棚の隙間からハミ出しているスケッチブックを引き抜き、開く。
アツコ「ガラス細工みたい。優しくて、どこか儚いイラストね」
イヅミ「あっ、それは」
アツコ「これは、和泉さんが描いたものなの?」
イヅミ「はい。昔のスケッチに、透明水彩で色付けしたものです」
*
イヅミ「自分で絵本を出したかったけど、出版社からは難色を示されてばかりだったから諦めたんです」
アツコ「どうして、そこで矛を収めちゃうのよ。刃向かいなさいよ。何で二試合目で投げ出しちゃうのよ。長い人生、あと三試合か四試合は残ってるわ」
イヅミ「後半戦に近付くに従って、難易度は上がり、好機は減るんです。チャンスの女神は前髪だけだから、一度逃したらアウトなんです」
アツコ「前から捕まえられなきゃ、後ろから捨て身のタックルでも、投げ縄を使ってもいいのよ。何度でもチャレンジしなきゃ」
イヅミ「言うのは簡単ですよ。これでも、二十代のあいだに、思いつく限り、できる限り、手当たり次第にやってみたんです。それで万策尽きたから、筆を折ったんです」
アツコ「でも、こんなに素晴らしい絵が描けるのに、もったいない」
イヅミ「僕レベルの才能を持った人間は、美大に行けば、それこそゴマンといるんです。しかも、自分よりずっと若い人間が」
アツコ「だけど」
イヅミ「もう、いいんです。……悪いけど、先に一人で出てください。僕は、怒りが収まってから出ますから」
アツコ「和泉さん」
イヅミ、肩に触れようとするアツコの手を振り払う。
イヅミ「触らないで。ひとりにさせて。構わないで」
アツコ「あぁ、そうですか、そうですか。お好きにどうぞ。ウジウジ、メソメソ、気が済むまでやってればいいわ。お似合いよ」
アツコ、退出。
イヅミ「今更なんだよ。今更、何なんだよ。今更、何になるっていうんだよ、莫迦」