表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/8

第陸夜 203号室の住人


 がちゃんと後ろ手で扉を閉め、深いため息を吐く。

 辺りは何時の間にやら夜の闇に包まれ、しんとしている。

 そんな中でも、あの女は電柱の下でぽつねんと佇んでいた。




 あの厚手のコートを羽織った女性のことなぞ、すっかり忘れていたというのに。実態を知った今、ここへ来た初日よりかはいくらか落ち着いた気持ちで、騒ぐことなく裏野ハイツの階段を昇っていく。もはや怖がる気力も無かった。

 かん、かんと無機質な音を立てて階段を昇りきり、がちゃがちゃと部屋鍵を鍵穴に差し込む。がちゃん、と聞き慣れた音がして、首を傾げた。

 おかしいな。出るときはちゃんと鍵をしておいたのに、たった今この鍵を差して回したら閉じてしまった。最初から開いていたようだ。

「……また隣かよ」

 自分でそう言って舌打ちした後で、はっとなる。そういえば、階下の101号室で晩御飯をご馳走して貰っている間に、少しだけここの住人についての話が上がった。その時に、隣の202号室に住んでいる山中について、201号室の小林さんから聞いた話だけれど、と、あることを教えてもらったのだ。

 あの202号室にはもともと山中とかいう男だけが住んでいて、どうも実家の家族から多額の借金をして、コンビニ強盗をして捕まった経歴を持っているため、とうとう親子の縁を切られたらしい。

 旦那に相談してたまに夕飯のおすそわけをしたりしているらしいが、部屋から一切出てこないから、実際に顔を見たことは無いのだ、とも。しかし、自分たちは真下付近に住んでいるから、ときどき202号室でどたばたと人の走り回る足音だとか子どもや大勢の人間の話し声がするようだ。寝る前にそんな音がするもんだから注意しようと思った途端に止み、うとうとする頃には聞こえてくるらしい。最近はもう慣れたとも言っていた。

 「人の出入りは無いんだ。だけどね」と浜田さんは声を潜める。「和人形がベランダに落ちていたり、玄関の隙間から入っていくのを見たことはあるんだよ」と。

 昨夜は俺が留守の間に山中宅の子どもが侵入して風呂場に人形を置き忘れるということをしでかしたのだと文句を言いに行ったが、山中から自分ではない、102号室の安田のものだと言われた。そのまま流されるまま102号室へと向かってしまったが、先程の浜田さんの話と合わせて考えてみると。だいぶ嫌な想像をしてしまった。

 あの安田さんの家の人形が、昼夜と問わずこのハイツを徘徊していて、深夜になればあの202号室に集まっていくのではないか。何故あの202号室なのかは分からない。分からないが、あの子どもが走り回るような足音と、安田さん宅で聞こえた笑い声は。

 いや、それも怖いが、ちょっと待て。何か大切なことを忘れているような。

「……まぁ、いいや。とりあえず今日は、もう寝よ」

 ぎいぃと立てつけの悪い扉を開き、手探りで暗闇から部屋の灯りを点ける。リビングには今朝方やけになって飲んだビールの缶やつまみやらが散乱していた。この惨状を片付ける面倒さよりも底なしの睡眠欲が勝ったため、見て見ぬふりをしてまっすぐに洋室へと向かう。

 ぱちん、と軽快な音とは裏腹に、目の前には気味の悪い光景が広がっていた。


「う、わぁああっ?!」


 ほとんど物がない部屋が手狭に思えるほどの日本人形が、ずらりと俺の方を見て立っている。見たことのある着物を着たおかっぱ頭の人形に、頭から縦にぱっくりと裂けて木の端が鋭く尖っているものや、片目を何かで抉られ、焼けた後のような煤が点々としている人形が圧倒的な圧迫感を放ち、瞬きもせずに凝視している。

 何十体という日本人形は静かに座して、俺の帰りを待っていたのだ。遊んでほしい子どもの様に。口以上に眼で語りながら。

 喉からは押し潰された息が吐き出され、かひゅうと聞いたことも無いような音を口から溢した。日本人形は一様に俺を凝視していたかと思うと、生々しい目を喜びに見開き、口角をぎいいと上げていく。口の端が耳の根元まで吊り上ると、今度は異様な雄叫びとも嘲笑ともとれる声を上げて笑い始めた。


 その声は今日の昼間に聞いたものと同じだった。


「ぎゃーっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃ!!!!」


 げたげたげたと下卑た笑い声を上げる人形たちは肩を上下に揺らし、下にダランと垂らしていた両腕を上げて皆が同じ方向を指さす。俺は襲い掛かってくるのかと身構えたが、どうやらそういうことではないらしい。間抜けにも後ろへ尻餅を着いた俺はつられて人形たちが指を指す方向へ顔を向ける。

 人形たちが教えた方向とは、衣類や引っ越した時に放置したままのダンボール箱などを入れた物入れだ。何が言いたいのか分からずに人形の方を向くが、耳を塞ぎたくなるような笑い声を上げていた人形など、どこにも無かった。

 安田さんが言うように「帰った」のだろうか。それにしても、あの数の人形が煙のように消えるなどと、考えにくい。とうとう俺もおかしくなったのだと思えば、自嘲の笑みが口元に広がる。極度の緊張で疲れている、暑さで少し頭がやられたのだ。口には出さずにそう言い訳をして、また物入れへと視線を移す。

 本音を言ってしまえばこのまま無かったことにして眠りに就きたいのだが、あの異常な事態について気になるといえば、気になってしまう。寝ようとしても気になってもやもやした気持ちになるぐらいなら、ちゃっちゃと調べてしまおうか。はぁ、と胸に詰まった息を吐き出し、物入れの取っ手に手を掛ける。心の内でタイミングを計り、一気に引いた。

 何にもない。乱暴に押し込まれた箱がいくつか転がっており、ハンガーには申し訳程度のスーツと私服がかかっているだけだ。あの人形たちの真意は何だったのか。ますます謎に包まれ、正解が解けずに苛立ったまま物入れを詳しく調べる。中に入ってあちこちを見回してみると、不意に四角に切り取られた痕がついた天井部分を見つけた。

「……なんだこりゃ。まーたお札とか出てくんのかぁ?」

 がこん、と下から押し上げて顔を覗かせる。当然のことながら真っ暗だ。ごそごそとズボンのポケットからスマホを取り出してライトのアプリを起動させる。真白の光は自分より数センチ先を照らしだすが、それでも何も無かった。今度は室内に置いてあった懐中電灯を持ってきて照らしてみると、少し向こうに赤い手形が二つだけ見える。その先に何かが引き摺って奥へと入っていくような痕まであった。

「……お札とかならまだ良かったのによぉ」

 重いものが手のようなもので這って、奥へと消えたような。ぱっと脳裏に浮かんだものは、下半身を失った人間が両手でオットセイのように這って奥へと引っ込むイメージだった。

 暗闇の先からは夜気の風が吹き込み、懐中電灯を持った腕に鳥肌を立たせる。夏だというのに、ここは季節外れの冬のように寒かった。スーパーでのお総菜や魚コーナーのような冷え込みがする。無言で腕を摩り、そろそろ戻ろうかと思った頃、暗闇で何か光るものが二つ浮かんで見えた。

「な、なんだぁ……?」

 まじまじと見るよりも早く、その二つはざざざっと辺りに散らばった砂のようなものを引き摺りながら急接近してくる。さっと懐中電灯で照らす。それから、悲鳴を上げた。

 女だ。髪の長い女が俺を睨みながら赤から黒へと変色したコートのまま這ってくる。ずりっ、ずりっと匍匐前進ほふくぜんしんの要領で、向かってきていた。女が暗闇から一歩ずつ俺の方へと向かってくる度に墨のように焼け焦げた手と、腐った肉が焼けたような嫌な臭いが鼻孔を刺激する。

 火事だろうか。焼け落ちる裏野ハイツから逃げそびれて、蒸し焼きにでもされたのか。それが、今こちらへと這ってくる。あの細くも筋張った黒い手に首を掴まれ、ぎりぎりと燃えながら首を絞められていくのかもしれない。

「ぅおぁあああっ!!」

 慌てて頭を引っ込め天井を閉めて、きょろきょろと周りを見渡す。そこで買ったはいいがそれほど使わないので放置していたつっぱり棒を引っ掴んで天井が開かないように固定した。すぐ傍まで迫っていたのか、怒ったようにどんどんと天井を叩く音がひっきりなしに鳴り響き、低い唸り声まで板一枚越しで聞こえてきた。

 どんどんどん。鳴りやまぬ抗議の音に、俺は両手で痛くなるほど耳を塞ぎ、なるべく物入れから離れようと部屋の隅へと座り込む。がたがたっ、どんどん。地鳴りするのではないかと心配になる程に音が強くなり、たまらず眼も瞑った。

 あぁ、どうか夢でありますように。夢ならば目を覚ませば良いだけだ。目を覚ませば、元通り。何も怖いことなんて綺麗さっぱり無くなる。だから、早く目を覚まさせてくれ。

 がんがんがん。どたんばたん。どたどたどたっ、がんっ。天井付近で恐らく拳で連打をしていたかと思えば、音がぴたっと止む。一秒、二秒……六十秒。消えたのかと思ってそうっと手を外すと、待ち侘びていたかのように一際大きなどんっという音がして、今度こそ物音はしなくなった。

 はっはっと浅い呼吸を繰り返しながら、ぼろぼろと原因不明の涙を零す。あの焼けたような臭いを思い出しながら呆然としていると、こつんと手が何かにあたった。眼だけを向ける。そこには、真っ黒になって溶け切った盛り塩が真っ二つに割れた小皿から溢れ出ていた。


「はーっ、はーっ……はっ、はぁっ」


 がたがたと震える両腕、両足。頭の奥がじんと痺れたようになり、心臓がどんどんと騒いでいる。眼の端から涙が流れ、瞬きすることさえも怖くなった。もしも今ここで眼を瞑って開ければ女が這ってくるような気がして、気が気でない。

 膝を抱えて縮こまる。こうでもしないと自分が生きていることすらも忘れそうだ。ついさっきまでの自分はこんな恐ろしい場所で寝ようとしていたのだ。いや、ついさっきのことだけではない。今まで俺は、あんな女が天井裏で徘徊しているような部屋でのんきに寝ていたのだ。今みたいに物入れへつっぱり棒などで押さえていなかったから、もしかすればこの部屋をぐるりと回るぐらいのことはしていたのかしれない。

 ぐーすか大口を開けて寝る俺の周りを、あの焼けた女がぼさぼさの髪の隙間から睨み、べたべたと這い回る。その情景を思い浮かべるだけで怖くて震えてしまいそうになった。

「も、もう無理……無理だぁ」

 がちがちと俺の意思とは無関係に鳴る歯の隙間から声を漏らし、ぱくぱくと口を開閉させる。今までは怖い体験をしても居場所が無かったから我慢したり怒りに変換したりして何とかやっていたが、さっきのでせきは切れてしまった。空元気をする余裕など、とっくに失くしてしまっていた。

 よろよろと立ち上がり、窓の枠に手を掛ける。今は何かにもたれれかからなければ、立つことすらままならない。力なく項垂れ、動悸を抑えようと深く呼吸する。項垂れた視界の端で、人影がちらりと見えてはっとなった。

 そういえば、カーテンをかけていない。そしてこの窓はあの女が見える窓で、つまり、それは。

 びしりと石化したように動けなくなり、眼を動かす事も出来なくなった。自然と呼吸は荒くなり、床にぼたぼたと汗が顎を伝い落ちていく。

 ゆっくりと視線を動かし、窓の外にある電柱を見る。


「……ひっ」


 その夜も女は立っていた。ゆらゆらと長い髪とともに身体を前後に揺らし続けている。厚手のコートの下から辛うじて見える手首は真っ黒で、窓を開けているわけでもないのに肉が焦げたような臭いが鼻をく。

 ゆうら、ゆうら。女の顔が徐々に上がっていく。それから眼を逸らそうとしても、金縛りにあったかのように身体はちょっとも動かなかった。女の焼けた肌や焼けただれて膿が滲み出ている頬が見えてくる。伏せていた眼はありのように真っ黒で、見る者の胸の奥をざわつかせた。

 ひたり、と女と俺の眼が合う。合ったと思った瞬間。女がにたりと黄ばんだ歯で笑いかけ、粘ついた口を動かす。俺は動くことも出来ないからじっと女の口の動きを見守ることしか出来ない。

 ぱくぱくと動く口の形から察すると。


「待ってるから」


 声のない言語を読み取ると。ばんっと女の顔が窓一面に張り付く。

 そして。


「待ってるからぁあああ!!」


 びりびりと窓ガラスが震えるほどの低い声が室内に響き渡った。













次話で最終話となります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ