第伍夜 101号室の住人
はっとするように目が覚める。
感覚としては長い白昼夢を見ていたような気分だ。
カーテンの向こうでは真昼の太陽が「寝過ごしたぞ」と怒鳴っている。
今日も俺の最悪な気分など気にしない蝉たちがじわじわと鳴き始め、起き上がると同時に額から汗が流れた。ぼうっとした頭をしゃっきりさせるため、洗面所に向かう。ざぁっと水を出して顔を洗い、タオルで拭いていると、隅にある穴を塞ぐガムテープが剥がれ落ち、穴の奥から荒い息遣いが微かに聞こえた。朝っぱらから腹が立って壁を蹴ると、壁の向こう側でどたんっと転んだような音がしてくる。呆れてものも言えず、溜め息を吐いて再び穴をガムテープで塞ぎにかかった。穴の奥からは男の舌打ちばかり。
朝飯も適当に済まして、身支度を整える。今日こそはアルバイトを探しに行くのだ。求人雑誌でも何でも良い。早くここで過ごす時間を減らさなくちゃ身が持たないと最近になって思いだした。
がちゃんと扉を開けて、戸締りをしっかりする。前は施錠した記憶があやふやだったから、今度こそはきちんと鍵をかけたのだという意識をしっかり持ち、階段を下りていく。あれから201号室の小林さんの外出時間だとか103号室の夫婦の外出時間も把握したうえで出ているからまず誰にも会わない筈だ。
しかし、俺の予想はあっさりと破られてしまった。真夏の真昼だというのに休日出勤なのか101号室の扉が快活な音を立てて開く。中からは好青年とも取れるような風貌のスーツ姿の男性が現れ、眼があった瞬間に「おはようございます」と爽やかに挨拶された。俺の苦手なタイプだ。俺も会釈をして挨拶する。
「あぁ、先日に引っ越して来られた方ですね」
「はい、まぁ」
「僕は浜田と申します。裏野ハイツの住人としてよろしくお願いします」
「え、あぁ、いえ。こちらこそ」
「学生さんですかね。これから学校ですか?」
「……そんなところです」
「今日も暑いですから、道中は熱中症に気を付けてくださいね」
「お、お気遣いありがとうございます」
「それじゃあ、僕はこれで」
にこっと真白の歯並びを見せながら、浜田という男は俺の横をすり抜けていく。きちっとした黒いスーツに、新品同様の革靴。ガラス面を磨き抜いた腕時計は太陽の光を反射してきらきらとしていた。
だからだろうか。男が擦れ違ったときに、不意につんと腐った肉が焼けたような臭いがした。えっ、と思って振り返るが、男は特に気にした様子もなく歩み去ってしまう。あまりにも堂々たる出で立ちだったもんだったから、俺の気のせいなんだろうと思ってしまいそうだ。しかし、男が裏野ハイツにある電柱の下を通り過ぎた瞬間に、俺は息を呑む。
昼間は決して見かけることのなかった女が、一瞬だけ視界に映った。ぱちりと瞬きをすると消えてしまったが、俺は「昼間でもあの女は居る」ということに震え上がる。今まで昼の間に見たことが無かったから勝手に「夕方から夜に掛けてしか出ない」と思いこんでしまっていた。
すっかり怖くなった俺は電柱の下を通らず、ひとまず街の方へと足を向ける。夕方までにはどうにかアルバイト先を見つけて、一刻も早く働かなければ。
焦る俺の背中を押すような蝉の声が木々の梢に反射して木霊し、大入道の中へと消えていった。
アルバイト先はまだ見つかっていないが、やっとの思いで夕方までに裏野ハイツに戻って部屋で休んでいると、ぴんぽんと来客を告げるインターフォンの音が鳴り響いた。こんな夕飯時に誰だろうか。まさか、借金の取り立てか。ついにバレたのかもしれない。あの恐ろしい形相で罵声に近い怒声でがなり立てるいかつい男性たちを思い出すと、玄関の扉を開けるのも躊躇われた。
居留守を使おうかとも思ったが、扉の向こうで「急にすみません、浜田です!」と昼間に出くわしたあの男の声がする。昼間と変わらぬ声の爽やかさに安堵が胸いっぱいに広がった。
「……どうも」
用心のためにチェーンをして開けると、扉の隙間から夕陽で赤くなった浜田が照れ臭そうに笑いながら俺を見てくる。
「あぁ、こんばんは。挨拶がてら、夕飯でも一緒にどうかと思いまして」
「え?」
「いきなりこう言われると怪しい人だと思いますでしょうが、僕としてはせっかく同じ一軒家の下で暮らしているのだから、仲良くしたいと思いましてね」
「……そう、ですか」
「あぁ、その。他意はないので、別に断って頂いても良いですよ」
「……」
「もしかして、もうお済みでしたか。あはは……いやぁ、すみません」
「別に、いいですよ。俺もまだですし」
「えっ」
「夕飯、どうします?」
思いがけない俺の返答に、浜田さんは嬉しそうな顔を隠そうともしないで素直に喜んだ。それから「夕飯の準備してますんで、どうぞ」と自宅へと案内する。
俺としてもタダ飯が食えるならそれはそれでありがたいし、昼間は変なものが見えたというだけでこの人がまだまともな人であるという幻想を捨てきれずにいた。かんかんと階段を下りてさっと電柱を見てみる。まだあの女は電柱の下に出てきていないらしい。夕陽に照らされた電柱が、侘しそうにそっと影を細く長く伸ばしているだけだった。
部屋に入ると、綺麗に整頓された本棚や、テーブルクロスを敷いたテーブルの上にある質素だが品のある料理が並べられている。奥の洋室への扉は閉まったままだった。
「最近料理の練習をしていて……、口にあえば良いんですけど」
がたん、と椅子を座りやすいように引いてくれて、まるでホテルのサービスマンのような振る舞いに俺はすっかり萎縮してしまう。浜田さんはそれも気にしたのか、俺の緊張を解こうと「焦げた部分は僕が食べますね」と恥ずかしそうに笑いかけた。
浜田さんとの話に適当に相槌を打ち、席について目の前の料理に目を遣ると、香ばしい香りの中に微かに異臭が漂う。昼間に嗅いだ、あの腐った肉の焼いたような臭いだ。見るからに美味しそうなタコライスだと言うのに、俺には何故かそれが死人の肉を刻んでご飯の中に混ぜ込んだもののように思えて、スプーンを握る手が戸惑ってしまう。
「タコライス、お嫌いでしたか?」
「……え、あ。いや、そうじゃないんです」
「もし苦手なようでしたら別のものをお作りしますよ」
「……じゃあ、すみませんが、簡単なものをお願いします」
「分かりました!」
急に無理を言って申し訳ないと思ったが、浜田さんはまるで気にするそぶりも見せず、意気揚々とキッチンに立つ。それからがちゃがちゃと用意をしながら浜田さんは当たり障りのない世間話をし始めた。
浜田さんは会社勤めの営業マンらしく、どんな話題を出しても話が弾んで互いに笑い声が絶えなかった。てきぱきと料理をする浜田さんは話しながらも手を止めることはなく、笑い話に花を咲かせてくる。浜田さん宅へお邪魔して一時間が経つ頃にはすっかり互いに打ち解けてしまっていた。
「はい、出来上がり」
にこにこと笑いながら目の前に用意されたものは、カレーだった。しかし、香料から厳選してきたのであろうレトルトとは違った美味しそうな匂いに俺の腹はぐうと調子の良い音を上げる。それに二人で顔を見合わせてまた笑った。
「それじゃあ、いただきます」
「い。……いただきます」
かちゃりとスプーンを持った瞬間。違和感がまた襲い掛かってくる。ふわりと上がった湯気からまたもやあの焦げた臭いがしたのだ。それも、先程のものより何倍も濃く。さすがにここで断るのも失礼だからと無視してスプーンを進めていたが、半分ほど食べ終えたあたりで胸がいっぱいになってしまった。
「でも、僕も昔はいろいろと遊んでてね」
「へぇ。でも、モテてたっていうのは分かる気がする」
「他の人より機会が多かっただけだよ」
そう言う浜田さんの背後にある窓からは沈みきった夕陽と夜の紫紺が混じり合い、不思議な色合いを醸し出している。
「その時に付き合っていた彼女が居たんだけど、一緒に心霊スポットに行ってからどうも意味が分からないことを口にしだして、僕もちょっと困ってたんだ」
「へぇ。デートにしては凄い場所に行くなぁ」
「何と言うことのない廃ホテルだよ」
浜田さんの後ろにある窓の外で、何か黒い影がゆらりと立ち上がる。料理を口に運ぶために目を伏せている浜田さんを他所に、俺は背後で揺らめく影を見つめた。
「僕の後ろに恨みがましそうに首を絞める女性がいっぱい見えるとか、僕の腰にしがみ付いて睨んでくる女性が居るとか言うから、次第に僕も嫌気がさして別れようってなったんだよ」
「本当だとしたら、凄い数の女性を敵に回してたんだな」
小さな影は近付いてくるにつれてはっきりとした形をもっていく。やがて窓に張り付くほどに近付いてくると、その影が人のものであると分かった。両手をべたっと窓ガラスに張り付け、じっと浜田さんの背中を見つめている。
「彼女は別れたくないって言って、気晴らしに景色の良いとこに行けば良くなるかもって言いだしたんだ」
「まぁ、たしかに精神が回復したら体調も良くなるし。良いんじゃね?」
「そうだね。うん。たしかに。それで、僕は近くにあった山に行こうって誘ったんだ」
ぐぐっ。ぐぐぐっと人影は窓ガラスを超えようと両手に力を入れて、長い前髪をごりごりと窓ガラスに擦りつけている。そのうち、頭が半分だけ窓ガラスを貫通した。もちろん、それで窓ガラスは割れたりもせず、人影も動じていない。
「それで、僕はどうしたと思う?」
「ん? さぁ。見当もつかない」
「彼女と別れたのは今年の一月くらいだったんだけど、その時は山でも雪が積もっていてね」
「あぁ」
「車のタイヤにチェーンをつけて走ってたら車が故障してね、山小屋があったから少しそこで休憩したんだ」
「……それで?」
人影は頭の他に両手も窓ガラスに貫通し、前のめりになるように室内へと入っていく。人影の頭が入ってきた辺りでここの室温がぐっと下がったような気もする。それとも、浜田さんが「どうしたと思う?」と聞いてきた時点だっただろうか。話をするうちに冷めてしまったカレーが舌に染みた。
「僕は車を見てくると言って小屋を後にして、車に載せていた灯油を山小屋の外壁にかけた」
人影の全身は既に室内だ。腰から上は真冬の恰好で黒のセーターに厚手のコートを羽織り、長い黒髪を前に垂らして項垂れたままゆらゆらと前後に揺れる。まるきりあの電柱の下で見かけるあの女性だ。
「かけ終えたら、後は簡単。持っていたライターで小屋ごと燃やしたんだよ」
ゆらゆらと揺れながら、女性がゆっくりと浜田さんの背後へと差し迫る。浜田さんはまだ気が付いていない様子で楽しそうにくつくつと笑っていた。両手を顔の前で組み、意味ありげな顔を作る。その背後では、長い髪を少し濡らした女性が髪の隙間から恨みがましそうに睨んでいた。
「そいつは今や雪の下。もう一人僕が誘っていた子もいたけど、殺しちゃったんだ」
くすくすと笑う浜田さんに、女が細い腕をすうっと伸ばして首を絞めかかる。徐々に力を籠めているのか、髪の隙間から見える瞳がゆっくりと開いていき、細い腕がわなわなと震えていた。そのとき、浜田さんも違和感を感じたのか、首を摩り始める。
「そのときに風邪を引いたらしくてね。たまに喉が痛むんだ」
浜田さんはあははと笑いながら「僕ってドジだよなぁ」と呟く。
女はまだ、浜田さんの首を絞め続けていた。
「実はね」
「僕も前にここに住んでいたんだけど」
「その時はここじゃなくて」
「203号室に居たんだ」
「彼女もまだ、そこに居るかもね」