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第肆夜 103号室の住人

 朝が来たのに、終わらない。

 大抵の心霊体験や怖い話は朝になれば終わると、そう思っていた。

 ゴミ出しをして、またあの裏野ハイツに戻らなければ。


 それだけのことなのに、それが嫌で嫌で仕方がなかった。






 暑さで額から止め処なく流れ出る汗を拭いながら、今日こそはアルバイトを探しに行こうと、思っていた。今までろくな住人に会っていなかったが、夜間のアルバイトでもすれば顔を合わせなくて済むし、肝を冷やすような体験もせずに済むだろう。この連日でだいぶ神経は磨り減らされ、三日前の自分がどうであったかなど、とうに思い出せなくなってしまっていた。少なくとも、元気だとは言い難い。

 朝も早くから蝉たちはやかましく鳴き、朝から昼の暑さへと変わろうとする太陽が昨日と同じようにアスファルトをじりじりと焼き付けていく。

 そんな矢先に、ふと気が付けば、ゴミ捨て場からハイツへと戻る途中で103号室の扉が開いた。

 見ると、日々の生活にやや疲れを感じているような女性と、よれよれのスーツになけなしのアイロンをかけた男性が暗い部屋からそれぞれ出掛けようとしていたところだった。聞こえてくる会話から察するに、どうやら旦那と思しき男性はこれから長期の出張で、奥さんと思しき女性は知り合いの老人の介護に行くらしい。

 見るともなしに二人を見守っていると、旦那らしき男性とすれ違う。男性は怪訝な顔をしていたが、俺が手にしている家鍵の『203』というプレートを見て、慌ててお辞儀した。

「……おはようございます」

「おはよう、ございます」

 互いにおざなりにあいさつしたかと思えば、そそくさと男性はその場を離れていってしまう。気のせいかもしれないが、どうにも男性が仕事場へ急いで行ったのではなく、逃げるようにしていたような気がする。ぱっと後ろを振り返れば、男性を心細そうに見守る女性と眼が合ってしまった。

「お、はようございます」

「あ。……えぇ、おはようございます」

「この前ここへ引っ越してきた者です」

「あぁ、あの203号室の……」

「どうも。……えーと、あれって旦那さんです、よね?」

「そうなんです。主人の転勤で私たちここへ去年に引っ越してきました」

「そう、ですか。お若いのに大変ですね」

「あら。私こう見えてまだ32ですよ」

「これは、失礼」

 このとき俺は、久しぶりにまともな人と和やかな世間話をして、ここ数日で忘れかけていた「普通」の感覚を思い出した。にこにこと愛想よく微笑んで「今日も暑いですねぇ」なんて話す奥さんに、「そうっすねぇ」と気を許して既に砕けた話し方になってしまう自分を自覚する。あの小林さんという老婆も人の好い笑みを浮かべる人ではあったが、この女性の笑顔はそれとはまた違った安心感があった。

 世間話から互いの話にまで広がり、すっかり意気投合して話をしていると、奥さんから「パートで働いている間だけ子どもをみて欲しい」と頼まれる。

 俺も上機嫌になっていたから、「どんと任せてください」なんて、気前良く引き受けてしまった。


「それじゃあ、お願いしますね」


 よほど他人を信用する人なのだろう。俺に家の鍵を渡して、「子どもたちを中で遊ばせても良いですし、外に連れ出してくれても良いですよ。そのときに食べたお昼ご飯代だとかは後でお支払いしますから」と何とも勝手な言い分を押し付けられたものだった。その後でちゃんと事情も説明してくれたが、いやはや、どうやら込み入った事情のようだ。

 どうやらパート先で仲の良い老人が病に伏せて、その人が介護をお願いしてきたらしい。その老人というのが、実はご両親が若い頃にお世話になった方で、身寄りがないという。奥さんのご両親も既に他界され、転勤してきたばかりの奥さんも知り合いという人が居なくて困っていたようだ。

 裏野ハイツで子どもを預けようにも大家さんは冷たいし、他の住人は「預けるのが怖い」のだそう。そこで、最近になって入った俺しか頼める人は居なかったということだ。

 俺としては漸くまともな人に出会えたから大事にしたいという気持ちもあって引き受けたが、103号室の扉を開けてすぐに後悔することになった。

 子どもは、二人いた。見た目は幼稚園に通う年齢ぐらいの大人しそうな男の子と、肩ほどの長さのある黒髪を目元まで伸ばした妹らしき女の子。どちらも無口なのか、部屋に入ってきた俺を見ても、男の子は一瞥いちべつをくれるだけですぐに部屋の隅で体育座りをしてしまう。一方の女の子は興味津々といった様子で俺を観察していたかと思うと、同じく男の子の横で画用紙にお絵かきを始めてしまった。

「……」

「……」

 奇妙なことに二人とも眼は合わさず、仲が良いような素振りも見せない。普通ならこのぐらいの兄妹などすったもんだの喧嘩になったり、一緒に遊んだりなどするのだが、どうやら俺の知らない家庭内事情とやらでもあるらしい。かくして、俺が聞き出せたのは、男の子は「しゅん」という名前で、こうやって部屋の隅で座っていると落ち着くと言うことだった。明るい所よりも暗い所のほうが好きで、今は夏休みだがずっと部屋に居るのだという。

 折角の夏休みなのだからと俺はらしくもない説得をして、如何に外で遊ぶことが健康的でかつ新しい発見があるかなどを俊に語る。そのうちに、俊もじっとしていることに飽きていたのか「お兄ちゃんが行くなら行く」と可愛くない口調で俺の服の裾を掴んで言った。

 そうと決まれば、と俺が立ち上がり俊を連れて玄関まで行く。すると、後ろから女の子がにこにこと笑ったままついてきた。それを見た俊が、俺に隠れるようにして、玄関から飛び出して行ってしまう。


 なんだ、妙だな。このときは、そうとしか考えなかった。










 ざっくざっくざっく。子どもの玩具用のシャベルが土を掘り返す。公園に着くなり俊が「遊んでくる」と茂みへ行ったきり帰って来なかった。時計を見てみる。ここに来たのが13時過ぎで、今は14時だ。それでも帰ってくる気配が全くしない。

 心配になって後を追ってみると、俊はあまり整備されていない茂みに隠れるようにしてしゃがみこみ、忙しなく片手を動かしていた。どうやら俊は俺の方に背を向けてしゃがみこみ、一心不乱に穴を掘っているらしい。「何やってんだー?」なんて軽く声を掛けて近付いてみれば、傍らの木々に留まっているせみたちの声がよりいっそう大きくなる。それでも一向に振り返る気配も無かった。

 何だろうと俺も俊に並んで屈みこみ、ひょいと俊の手元の方へと顔を向ける。それから、小さく「あっ」と声を上げた。

 穴を掘っているのではない。ありったけのせみや虫の死骸を掘り返しているのだ。その辺りにでも落ちていた瓶に少量の土を入れ、その上に地層でも作る心算つもりなのかシャベル一杯の虫の死骸をざらざらと流し込んでいる。

「……楽しいか?」

「……うん」

「どこが?」

「何となく」

 俊はそう言いながら無表情で瓶に死骸をどんどん詰めていく。土の合間に見えた死屍累々(ししるいるい)といった虫たちの足や頭が、見るも無残に積み重ねられていき、その上にまたも情け容赦のない土が流し込まれていった。俊を挟んだ向こう側には、あの女の子もにこにこと虫の瓶詰めを見守っている。

「……楽しいのかぁ」

 想像とはかけ離れた子どもの遊びに俺は掛ける言葉も見つからず、途方に暮れてしまった。黙々と瓶を虫の死骸と土で埋めていく子どもと、それを横でにこにこと見守る子ども。

 まさかこんな明るい公園の茂みでこんな陰鬱いんうつな遊びを繰り広げているなど、いったい誰が想像しただろうか。

「……ねぇ、お兄ちゃん」

 ざっくざっくと土を掘り出す手作業は止めず、俊が話しかけてくる。そのさり気ない口調に俺の意識が瓶詰から俊へと変わるのに一瞬のタイムラグが生じた。

「ずっと、聞きたかったんだけど」

 俊の声はこの土のように冷やりとしていて、温かみがない。自分よりも子どもだというのに、目の前にいる俊がまるで人間の皮を被った得体の知れないもののように思えて、内心で自嘲の笑みを浮かべた。バカらしい。こんな小さい子どもが怖いだなんて。

 みんみんみんと鳴く蝉たちの声が激しくなり、ツクツクボウシまでこの世の終わりとでもいうかのように鳴き始めた。

 真昼の太陽がぼんやりと差し込んでくる茂みの奥で、汗を流しながら穴を掘って土を、虫を瓶に詰めるという単調な作業を繰り返す子ども。土の間からは埋め損なった虫の足がぴょこんと出ていたり、土の中でもまだ息がある虫がもぞもぞと動いたり。

「お兄ちゃんは、さ……」

 虫の死体を瓶に詰める作業を繰り返す子どもの手が、ぴたりと止まる。俺は息をすることも忘れたように瓶を見つめていたが、そこで言い淀んだ子どもの方を向く。

 俊は少しだけ怯えたような表情で、ぽつりと呟いた。

「今ぼくの横に居る女の子のこと、知ってるの?」

「……え」

「ぼくね、……ずっと、気になってたんだ」

「な、何だよ」

「お兄ちゃんが来てからね、後ろからその子が来たんだけど」

「……え?」

「妹さんかなって思って黙ってたけど、その子、ずっとぼくの後をついてくるんだ」

「あ、……え。だって、その子は、俊の妹じゃ」

「お兄ちゃん、お母さんから聞いてないの?」

 くるりと俊が俺の方へと顔を向ける。虚ろな瞳だ。底なし沼のように昏い瞳の奥に、俺の姿が映し出される。その眼を見れば、たちまち自分が立っている場所が不安定なような気がしてきた。まるで深すぎて底が見えない崖の下を覗き込んでいるかのような。

 びゅうびゅうと耳元で聞こえる筈のない風音がして、蝉の声も掻き消すほどだ。

「ぼく、一人っ子だよ」

 俊が言うと、隣でしゃがみこんでいた女の子がゆっくりと顔を俺の方へ向けてくる。俊の背後で今までにこやかに笑っていた女の子は、ひどく不揃いな歯を見せて笑いかけ、長い前髪の隙間から大きな黒い目をかっと見開いて俺たちを交互に見比べる。




「……ひゃっひゃ」



 さながら、今から食べるものを吟味ぎんみでもするかのように。ゆっくりと、子ども、俺と順番に見る。口元には嫌な笑みを浮かべたまま。やがて閉じようとしない口からはおびただしい量のよだれが零れ落ち、目玉は落ちてしまいそうなほどに見開かれていく。

 口の端が裂ける程に開かれた口からは、耳をつんざくような哄笑こうしょうが零れた。


「ぎゃーっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃ!!!!」


 例えるなら、山の中で獲物を見つけたような気の狂った山姥やまんばだ。山に迷い込んだ旅人をもてなし、酒で酔わせ、それを食うという、山姥。

 そいつの三日月のように開いた口の中は虚無であり、でこぼこに生えた歯は皆どれも先が鋭く尖っている。かっと開いた目は充血して真っ赤だった。げらげらと笑う女の子の首ががくんがくんと前後に揺れ始め、しばらくすると前後左右に揺れ始める。

 やがて笑い声は辺りで木霊こだまし、座らない首からはごきん、ごきんと骨折するような音まで耳に響いてきた。


「あーっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃぁあああ!!」


 深い谷の底からぶわっと強い風が吹いたような音がしたかと思うと、その風に乗った老人の声が間に挟む俊を通り越して俺の目の前にまで迫り来る。

 そうして、俺を通り過ぎる前に一言。


「おまえじゃない」


 耳に衝くような哄笑はやがて夏の小風に吹かれて、消えていった。









「お帰りなさい」

 夕暮れ時になってから俊と裏野ハイツに戻ると、既に用事を済ませた奥さんがにこにこと玄関口に立っている俺と俊を出迎える。

「お母さん、今日は遅くなるんじゃなかったの?」

 きょとんとした表情の俊が訊ねると、困ったような顔になる奥さん。それから、言いにくそうに「先に手を洗っておいで」とだけ伝えた。俊が素直に洗面所へ歩き去るのを見守ると、今度は俺の方へと向き直る。もうその顔は笑ってなどいなかった。

 どうしたんですか、と聞こうとして、口をつぐむ。奥さんの顔がくしゃりと破顔した。

「あのおじいさん、お昼に亡くなったの」

 事情を詳しく聞くと、お昼頃にいきなり過呼吸になって、喉に何かを詰まらせて死んでしまったそうだ。あっという間の出来事だったという。

「もともと心臓が弱い人だったんだけど、まさかこんな死に方だなんて」

 そう言って奥さんがさめざめと泣き始める。子どもが手を洗って戻ってきても泣いている奥さんを慰めながら聞いた話によると、亡くなったのは午後の14時過ぎ。

 ちょうど、あの女の子が去った時のことだった。





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