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第参夜 102号室の住人


 心身ともに疲れた。こういう時は風呂に入って寝るに限る。

 三十余年という歳月の中で得た教訓は、非日常なことが起きても実践された。



 がちゃん、と鍵を開けて部屋へと入る。「一泊していく?」という拷問にも近いお誘いも必死にお断りして押し問答の末に漸く自室へと引き上げられたのが夜の十一時だった。

 昨夜からこの裏野ハイツにはまともな人間なんていないのではないか。狂気じみたお隣さんたちに精根尽き果て、よろよろと風呂場へ向かう。風呂場にある穴は既にガムテープで塞いでいるから当分の間は安心だ。

 どうして俺がこんな目に。いくら原因を考えたところで仕方がない。仕方がないが、腹は立つ。ということで手っ取り早く風呂から上がろうと乱暴にシャンプーボトルのヘッドをがんがんと叩き、がしがしと頭を洗う。眼を瞑ったのはほんの数秒だ。その数秒後に、ふと浴槽から人のような気配を感じた。

「……なんだぁ?」

 恐怖が半分、苛立ちが半分。ぽたぽたと水が滴る前髪を手で掻き上げる。その時、まだ浴槽から子どものけらけらと小さく笑う声がした。隣の部屋かと思ったが、あの部屋は男しか居ないという話だ。昨夜に大勢の人間の声がしたしその中に子どもの声もあったが、浴槽から微かに聞こえるものは、それとも違う声だ。小さな女の子のくすくすと笑う声。まるで悪戯をして楽しんでいるかのようだった。

 きゅ、と水しか出ないシャワーを止め、音を最小限に留める。それでもまだ聞こえていた。ぽた、ぽた、と身体中から水が滴り落ちる音に混じって、女の子の笑い声。眼を閉じて聴覚を研ぎ澄まして音の出所を探る。

 浴槽だ。やはり浴槽から聞こえてくるのだ。ごくりと生唾を飲み込み、浴槽の縁に手をかけて中をゆっくりと覗き込んだ。だんだんと浴槽の底が見えて来て、端にある排水溝が露わになっていく。

 排水溝の穴の付近に、何かがあった。

「……何だコレ」

 人形だ。もう見たくもない、日本人形だ。数時間前に見たものは男児のものだったが、これはおかっぱ頭の女の子の人形が、排水溝に髪を巻き込まれ、少し濡れた髪の毛が口にかかっている。口元に小さな傷を拵えた人形は、にっこりと笑って俺を見ていた。

 何でこんなところに、と思う前に不気味な隣人を思い出す。あの野郎、ついに俺の部屋に不法侵入してきやがったのか。しかも、こんな悪質な嫌がらせまでしやがって。おおかた昨夜の親戚一同のうちの子どもが遊び半分で入ってきて風呂場で遊び、忘れていったのだろう。ここを飛び出したときに家の鍵をかけ忘れたような気もするし。だからって普通ほかの人の家に勝手に上がり込ませて子どもを遊ばせるものかよ。

「ふざけんなよ……立派な犯罪だろうが!」

 腹いせに隣人への怒りを表そうと浴室の壁を殴る。それさえも隣人は無かったことのように無視を決め込んでいた。しん、としている隣室にさらに苛立ち、荒々しく浴室のドアをがんと引き開けて手早く着替えを済ます。今や真夜中ではあるが、それどころではない。一言でも文句を言ってやらねば。

 まったく。このハイツに来てまだ三日だというのに、面倒事ばかりだ。俺はただ静かに暮らしたいだけなのに。そう息巻きながら、今度はしっかりと部屋の鍵を施錠して、隣の部屋の前まで移動する。それから、叩き破らんとする勢いで扉を叩いた。

 真夜中の静かな裏野ハイツに、俺が扉を叩く音と202号室の中から大人や子供の笑い声が響き渡る。どうやら、昨夜のようにどんちゃん騒ぎでもしているようだった。

 どんどんどん。

「おい、おい。ちょっと話があんだけど!!」

 どんどんどん。

「俺の家の風呂に人形を置いたのお前だろ?!」

 どんどんどん。

「おいこら、不法侵入で訴えるぞこらぁ!!」

 がちゃん。ぎぃ。恐らくはどれほど叩いても開くことはないだろうと勝手に見当をつけていた俺の予想を外して、隣の部屋はいとも簡単に扉を開けた。開けたといってもチェーン付ではあったが、その隙間からぬうとあの黒く濁った瞳がぼうと闇に浮かび上がり、白目の範囲が強調される。

 気が付けば、この部屋から人の声は嘘のように気配がしなくなっていた。

「……なに」

 ひどくぶっきらぼうな声は、長い間まるで誰とも話さずに居たせいなのか、やや掠れ気味だ。胡乱気な目と声に一瞬だけたじろいだが、迷惑を被っていることを思いだして腹に力を入れる。こんな堂々と人前に姿を現さない奴に何を恐れる必要があるのか。恐れるならば、俺では無くてこいつなのだ。俺が出るとこに出たら困るのは、こいつの方なのだから。

「あんただろ。人の部屋に勝手に入ってこんな人形を置いたの!」

「……え」

「これだよ、これ。あと穴を開けたのもどうせあんただろうが」

 ずいっと見えるように目の前に日本人形を出すと、白が強調された瞳はぐりんと動く。じっと手元の日本人形を見つめた男は、やや間を置いてにんまりと眼でせせら笑った。

「102号室の、安田さん」

「……はっ?」

「そこの子だよ。じゃ」

 にたぁ、と薄気味悪く笑っていた眼が、一瞬にして縦に開かれる。何故か別室の人の名を告げた男は言うが早いか、ばたん、がちゃんとご丁寧にチェーンまで掛けた音まで響かせて扉を勢いよく閉めやがった。問答無用かよ。

「……んだよ、ちきしょう」

 やり場のない怒りに空いた拳を握りしめ、歯軋りする。お隣の山中さんはどうやらもう話をする気はないらしい。そっちは親戚とか集めて騒いでいるくせに。下の階から苦情とか来るんじゃねぇのかよ。いや、待て。下の階ってたしか102号室だよな。ちょうど良い。その人から苦情があれば俺も大家に注意してもらえるように言いやすくなるや。

 がしがしとまだ湿った頭を片手で掻き毟り、足を階下へと向けた。

「えーと。……たしか、安田さんとか言ったっけ」

 じー、という冷房や冷蔵庫などの稼動音しか聞こえない裏野ハイツの赤錆あかさびた階段を下り、102号室と書かれたプレートを探す。そのときに、ふと背後で人の気配がしてあることを思い出した。

 そうだ、たしかこの時間は背後にある電柱の下に女が居たはずだ。振り返れば、きっと女の正面が見えるだろう。しまった。今の俺はその女に背中を見せているのか。

 早く用事を済ませて振り返らずに帰ろう。そう心に決めて、102号室の前に立つ。後ろで女の気配をひしひしと感じながら、とんとんと軽く扉をノックする。出てこない。もう一度だけノックするが、やはり出てこない。さては、あの隣人と同じような人間か。

「夜分遅くにすんませーん。203号室に越してきた者ですけどー!」

 一応は夜中ということも配慮して声を掛ける。すると、間もなくしてがちゃんと鍵を外す音がした。ぎいと開いた先では、ぼさぼさ頭で眼の下に隈のある男がうっそりと顔を出した。

「あぁ、すんません、あの」

「……あ。あぁ、あぁああぁああけみっ!!」

 男の昏い瞳に鋭い光が宿り、悲鳴とも雄叫びともつかない声を上げられる。え、と呆気にとられていると扉の隙間から予想以上の力で腕を掴まれ、抗う間もなく中へと引きずり込まれてしまった。

 がたん、と身体のバランスを崩して倒れ込むように部屋の中へ引き入れられると、男はむわっと加齢臭の漂う口臭を放ちながら俺の手に握られている日本人形をばっと剥ぎ取りにかかる。恐らくはこいつが持ち主なのだろう。初対面の相手にも無遠慮な男の振る舞いに腹は立ったが、背後の女の視線から逃れられたのは良かったのかもしれない。

「あぁあ、あけみ、こんな夜遅くまでうろついて居ちゃ駄目だろう?」

 愛娘を心配するような父の眼差しを日本人形に向けながら、男は子をあやすようにゆるく抱っこしている。こりゃまた濃い住人だと思いつつも、俺は会話が出来るのか少し試してみることにした。

「……なぁ、あんたが俺の部屋の風呂に置いたのか?」

「え、えぇ?」

「203号室だよ。風呂に入ろうとしたらあったんだけど」

「あぁ、もう。あけみが失礼したね。この子は目を離すとすぐ出て行ってしまうんだ」

 良かった。やっていることはまともじゃないけど、話は聞いてくれそうだ。

「いや、眼を離すとっていうか、あんただろ。風呂場に入れたの」

「よ、よ、よく誤解をされるっん、だけど、ぼぼ、僕じゃ、じゃ、な、ないんだ。あけみがお、おお、お転婆なのさ」

「はぁ」

「本来ならほ、ほ、他の人には、すす、すぐに出て行って、もらうところなんだけど、せ、せ、折角だし、僕の子どもたちを、を、見てもらお、っか、な」

「え?」

「こ、こ、この部屋に、ひ、人を招くのも、何年振りだっ、だろうなぁ」

 前言撤回。全く人の意見を聞こうとしない奴だった。忙しなくきょろきょろと眼を動かすわりに俺とは一度も目を合わさず、何かに怯えたように定まっていない。自信なさ気に背中を丸めて、何か腐ったような激しい刺激臭を身に纏っていた。思わず顔を顰めて男の後に続く。

 部屋の間取りは俺の部屋を反転させたようなものだった。部屋にある全ての窓にカーテンがかけられ、部屋の灯りは点かないようにオフのままガムテープで固定されている。物がごちゃごちゃしているのか「そ、そ、そこ、気を付けて」と声を掛けられながらも男の歩いた後を探して、足を踏み出していく。いったい、何が転がっているのだろう。

「も、もともと、僕は寺の息子でね、小さい頃からゆ、幽霊だとか、よよ、よ、妖怪だとかを、い、いろいろ見てきたんだ。そ、それ、で、知り合いも多い、んだけど、この前に天照あまてらすとも恋仲になってね。あ、あの、天照って、た、太陽の神様、な、なんだ、けどね」

 ほぼ喋る言葉がどもっていて聞き取り辛いが、この中に真実はどれほど含まれているのだろうか。暗闇で見えはしないが、男は弾んだ声からして恍惚とした笑みを浮かべていることだろう。

 男の妄想とも呼べる話はこんこんと続いている。よくもまぁそんなデタラメな話を思いつくもんだ。さり気なく年齢を聞いてみたら四十台だとつまらなさそうに答えてくれた。

「そ、それで、友達もいるんだ、けど、ぼ、僕を苛めた、奴は、その友達が、憂慮ゆうりょして、して、くれ、るん、だ。僕からも、か、神様を呼んで、お願いすることも、あ、あるんだ、けどね」

「……」

「そ、そうだ。き、君も、な、何か、のろ、呪いたい人が、い、居れば、やってあげる、よ?」

「いや……特には、ない、かなぁ」

「あっ、こ、こっち。こっち来て」

 すあっと襖が開く音がして、ふと201号室の老婆を思い出す。俺の部屋は襖では無かったけど、ここも襖になっているのか。さっきの日本人形を持っていることといい、大家に頼めば和室使用にしてくれるのかもしれないな。

 ここまで暗闇で部屋の中に上がったことに後悔していたが、さらにこの先で時代錯誤な行燈あんどんのぼんやりとした灯りに包まれた部屋の中を見て、大いに後悔した。





「この子たちが、僕のこどもたちだよ。みんな、挨拶してね」



 六畳のフローリングの上に敷かれたボロボロの畳を中央に移動した男が振り返る。今までおどおどとしていた空気は一変して、男と眼があった。

 にやっと薄気味悪い笑みを浮かべた男の顔が下方から蛍のような淡い光に照らされ、男の顔をよりいっそう青白く見せている。


「良かったね。みんなに気に入られたみたいだよ」


 その背後の壁にはびっしりと杭を打たれた藁人形が所狭しと飾られており、この部屋のあちこちに日本人形が出向かえるようにこちらを向いている。何十体もの日本人形に見つめられ、刺さるような視線が痛い。


「この子があけみ。そっちの子がともこ。それからあっちがよしえ」


 今までどもっていた男の声が流暢りゅうちょうなものへと変わり、慈愛に満ちた瞳で次々と点在する日本人形を指さしていく。それから、灯りに照らされて分かったことだが、部屋の隅には埃が積もっているのに、部屋の中央から玄関にかけての道筋は小さな足跡が連なっていた。

 まるで、ここにある日本人形たちが歩いて外に出ているみたいだ。


「今日はー……いくえとかすみが散歩に出ているみたいだ」


 男がそう言うと同時に、部屋の窓がどんどんどんと急に激しく鳴り響く。外から誰かが叩いているらしい。突然の音に俺が肩をびくりと震わせると、男は安心させようと思ったのか、にこりと微笑んで窓へと近づいていく。徐にカーテンをこっそりと開き、からからと窓を開ける。すると、泥まみれになった二体の日本人形が男の腕の中に抱かれていた。


「この子たちが、いくえとかすみだよ。かわいいだろう?」


 そうっと二体の日本人形の頭を撫でて、嬉しそうに笑う男。男の聖母のような呟きに俺は同意することも否定することも出来ずに佇んでしまう。正確に言えば、立ち竦んでしまっていた。

 俺を射抜くような数々の視線。目に見えぬ圧迫感。幻聴なのかどこからか幼い子どもの笑い声やぱたぱたと走り回る足音までが聞こえてくる。その足音は二階の隣室から聞こえてきたものとまるで同じものだった。

 もしかして、俺が隣室から聞こえていたと思われる音は、この日本人形たちからだったのだろうか。


「この子たちは優しいから、僕をあらゆる災害から守ってくれているんだ。ついこの間の地震も、あの子が身を挺して守ってくれてね……ほら、そこに居る子だよ」


 男が指した方向に震えながら振り返る。すると、三体ほどの日本人形が無造作に転がっており、一体はおかっぱよりもやや長めの黒髪を輪のように広げて顔にひびが入ったまま笑っており、もう一体はうつ伏せに倒れてはいたが背中にはぱっくりと切れ目が入ってしまっている。最後の一体は胴体が真っ二つに割れて片目からは黒い涙のようなものを流していた。


「呪い屋をやろうってこの子たちが言い出したんだけど、この子たちが呪いから守ってくれているから安泰なんだよ。……でも」

「……でも?」


 固唾を飲んで見守る。


「僕はこの子たちが大事だから、少し悲しくなるんだ」



 寂しげに笑う男の腕の中で、日本人形のあけみが声に出さずにけたけたと笑っていた。見間違いかもしれないが、日本人形の口が、わずかに人語を話しているような気がする。

 その内容は。


『お』

『ま』

『え』

『の』

『ば』

『ん』


 最後の「ん」で口を閉じたかと思った瞬間。あけみの首がごとんと落ちて、床に転がっていく。ころころと陶器が転がる音がして、俺の足にとん、と軽くぶつかる。

 あけみがぱかりと大きな口を開けて、俺を見上げていた。















 気が付くと、俺は自室に戻ってきていた。カーテンの隙間から漏れる灯りは、朝日だ。ぼんやりとする頭で昨夜のことを思い出そうとするが、日本人形の首が落ちて転がってきた辺りまでしか記憶が無い。あれからどう帰ったのかは分からないが、あの部屋にだけは近付かないでおこうと思った。

 ちゅんちゅんとすずめさえずり、じわじわ外からの光が室内の温度を上げていく。本格的に暑くなる前にゴミ出しに行かなければ。悲しい独り暮らしの習性が身に付いた身体は律儀にゴミ袋を担ぎ、部屋の外に出る。

 すると、階下でもがちゃんと部屋の扉が開く音がした。階段の手すりから覗き込むと、102号室の男だった。声を掛けようかとも思ったが昨夜のことを考えれば思いとどまってしまう。そんな俺の小さな葛藤に気が付いたのか、男の方が振り返る。


「オハヨウ、ございます」


 振り返った男の顔は、陶器のように冷たいものだった。歩く動作もどことなくぎこちなく、既にゴミ出しに出ていた201号室の老婆と出会った男は世間話をする。しかし、妙に子どものような口調に、俺は足の裏から何か冷たいものが這い上がってくるような感覚を覚えた。

 まさか、と思って急いで階段を駆け下り、男の元へ行く。老婆が嬉しそうに「あら、おはよう」と声をかけてくるのに対して「おはよう」と返すと、男の顔がぐるんと回って俺へと向き直り、俺の肩に手を置いて一言。


「あら、オハヨウ」


 弧を描くようにぱっくりと開いた真っ黒な口。触れられた手の冷たさはまるで金属だ。

 男の口元には、昨日までには無かった小さな傷があった。



「安田です。ヨロシクネ」









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