第壱夜 202号室の住人
今回はお隣の202号室のお話です。
最初は、気の迷いだと思ったんだ。朝日が昇れば女の姿はなかったんだから。
目が覚めた俺はまず真っ先に近くの家具屋でカーテンを買い、他にも必要な布団やら必要最低限のものを買い占め、部屋で簡単に荷解きをする。それだけでほぼ半日が潰れて、顔を上げるともう夕方近くになってしまっていた。ちらりと見えた窓の外で、厚手のコートを着た女性が見えたような気がしたので、慌ててカーテンを閉める。見られて困るような部屋ではないが、決して良い気分ではない。それに、見てはいけないような気がした。
すると、隣の部屋からどたんばたんと大きなものが暴れるような音が聞こえてきた。耳を澄ませるまでもなく、隣人による物音だと分かる。
「……そういや、壁を叩けば瀬戸と連絡がつくようになってるって言ってたなぁ」
ふと昨日のことを思い出し、ちょっとした好奇心が鎌首をもたげた。瀬戸は壁を叩くタイミングについて「いつでも」とは言っていなかったが、そもそも本当に連絡はつくのだろうか。もしや悪戯なのではないか。だとしても、今の俺に残された連絡手段はこれしかないだろう。
「……そんじゃ、試してみっかぁ」
荷解きで疲れ気味の腰を持ち上げ、てくてくと洗面所へと向かう。以前この部屋にいた人間が不潔だったのか、目の前の独立洗面台の鏡には大量のうろこが残り、俺の冴えない顔と背後にある壁の染みが薄ぼんやりと浮かび上がった。特筆するものは何もない、どこにでもあるような光景だ。
ふい、と眼を逸らす。今はそんなものよりも、この壁だ。独立洗面台の横に置いてある洗濯機と浴室の壁との小さな隙間に身をすべり込ませ、ぴたりと壁に耳をあてがった。
「こいつ……何してんだろ」
まだ壁の向こうではどんどんと大きな足音が聞こえてくる。よほど大柄な人間なのか、不機嫌なだけなのか。これは勝手な想像だが、山中という男が神経質そうに部屋の真ん中をぐるぐると回っているような気がした。
瀬戸から聞いた話では、こいつは極端な人見知りで、滅多に部屋からは出てこないようだ。こうやって無意味に歩き回って音を出すなど、何を考えているのか瀬戸以上に分からない男だな。瀬戸が何でそんな奴と知り合いなのかはさておき、こいつがいる部屋の壁を叩けば瀬戸へと連絡が取れるらしい。
とんとん。
軽く壁を二回ほど叩いてみる。反応はない。相変わらずどすどすと歩き回る音がして、壁越しだが耳に僅かに振動が来る。このハイツの他の部屋の間取りを知らないから何とも言えないが、隣接する部屋がリビングであるなら、ここは非常に壁が薄いということになるだろう。
とんとんとん。
もう一度だけ叩いてみるが、変わらない。壁を叩いてみても足音で掻き消されてしまうのだろう。 ちぇっ。何だよ。俺は悪くねぇのに。だんだんと腹が立ってきて、今度はやや強めに壁を叩いてみる。
どんどんどん。
苛立ち紛れに三回ほど叩いてみると、壁の向こうでぴたっと足音が止んだ。足音が止んで、数秒ほどが経っただろうか。一瞬の間が空くと同時に、ばたばたばたっと足音が奥の方へと走っていく。そのまま息を潜めて待っていると、ズボンのポケットに入れておいたスマホがぶーっ、ぶーっと大袈裟な振動と共に機械音をたてた。見ると、瀬戸からの電話だ。
画面の表示をスライドして電話に出ると「どうした」と瀬戸の抑揚のない声が耳に入ってくる。驚いたことに、壁を叩いてからものの数分以内に瀬戸へと連絡が入ったのだ。
「何かあったか」
「えーと、その、ほら。ここってよぉ……お化けとか出んの?」
「いや。……そういう話は、聞いたことがないな」
「あ、え、そ、そうか。いやまぁ、ちょーっとばかし気になってよぉ」
「そういうことは住んでいるお前の方が詳しいだろう」
「あ、あぁ、まぁ、そうだけど。……いや、やっぱ何でもねぇわ」
「用件がそれだけなら切るぞ」
「あ、そうだ。瀬戸。……あのさ」
「なんだ」
「……今度お前に用がある時はこの電話番号に掛けても良いか?」
「この番号は使い捨てだ。掛けても出ないぞ」
「はぁ? 使い捨てぇ?」
「元は仕事用の携帯電話だからな。込み入った事情でそれを使わせてもらっている」
「あー、そうかい。……分かったよ。それじゃ、今度こそ」
「あぁ」
ぶつっと無機質な音がして、つー、つー、と聞き慣れた電子音がする。さすがに「裏野ハイツの外に不気味な女が居る」とは言い出しにくかった。そう。今のところは部屋に盛り塩とお札があるだけで特に変わった様子はない。幽霊やその類のものの噂があったとしても瀬戸には関係のない話だ。この携帯番号も使い捨てだという声色からして、どうやら嘘も吐いていないらしい。
「ひとまず、これで良いみたいだな」
電話は、かかった。この壁にノックをすれば、数分以内に瀬戸に繋がる。連絡がいやにスムーズだな。もしかして、山中とやらは俺が何か言いださないか心配で一日中ああやって部屋の中をぐるぐると回っているのだろうか。
スマホの時計を見てみる。今は夕方の六時だ。一般家庭では夕飯時だろう。なるほど、それじゃあ隣にいる奴も部屋に居たっておかしくはない。
では、深夜ではどうだ。真夜中に壁をノックしても、瀬戸につながるのだろうか。普通の人間なら寝ているような二時や三時に壁を叩いても、こいつは飛び起きて連絡をつけてくれるのだろうか。
「……いっちょ、やってみますか」
久々に新しい玩具を見つけた子どもの時のような気持ちになり、その日は真夜中の訪れを今か今かと待ち望んでいた。
そうして、今が草木も眠る丑三つ時。スマホの時計が三時を告げた。近くにあったコンビニで買った漫画を無造作に放り投げ、リビングから洗面所に移動する。隣人も眠りについているのか静かだった。
べったりと耳を張りつけてみても、隣に人が住んでいることさえも怪しい程だ。実は壁が厚かったのではないかと心配になる。
どんどんどん。
夕方と同じ力加減で壁を叩いてみた。すると、また夕方に聞いたようなばたばたばたっと慌てたような足音が一気に遠ざかり、数秒後には俺のスマホが電話を通知した。瀬戸だ。どうやらこの時間でも隣人は起きていて、連絡をつけられるようにしているらしい。さて、次はどんな用件にしようか。
ロック画面をスライドで解き、スマホを耳に押し当てる。
「……なんだ」
若干だが、不機嫌そうな瀬戸の声がした。
「用ってほどでもねぇんだけどさ、……ここの電気代ってどうなってるっけ?」
「一律料金だ。……お前もそれが良いって喜んでいただろう」
「あー、そうだっけ。わりぃ、わりぃ」
我ながら咄嗟に思いついた嘘にしては上出来だ。瀬戸の貴重な嫌そうな声も聞けたし、今夜はこれで満足するとしよう。
「もう俺すっかり浮かれてたみたいでよぉ」
「まったく。……いいからさっさと買ってきた漫画本でも読んで寝ろ」
「そぉんな怒るなって。そんじゃ、おやすみー」
「……じゃあな」
ぶつっと怒った調子で瀬戸は電話を切り、瀬戸の渋い顔を想像した俺は苦笑いをする。やっぱりこんな夜中に起こしたんじゃ怒るよなぁ、瀬戸も。
兎も角、これでこの夜中の三時に壁を叩いても隣人には通じると分かった。隣人は夜型の人間なのだろうか。それじゃあ今度は真昼に壁を叩いてみれば、どうだろう。いや、無職であるのなら、昼も夜も関係ないはずだ。しかし、いつこの壁が叩かれるか分からないのに、いつ寝ているのだろう。寝ていても眠りが浅いのかもしれないな。
このことを知るためだけに俺も夜更かししちまったなぁ。ふあ、と欠伸をして、大きく伸びをする。
その時、眠気に襲われた頭に、電流の如く一つの疑問が浮かび上がった。
それは、先程の電話の会話だ。
「……あいつ、何で俺が漫画を買ったって知ってるんだ?」
瀬戸との電話先で普通に出てきた単語、『漫画本』。たしかに俺は今日の夕方までにコンビニで暇潰し用として漫画を買った。しかし、それは俺以外の人間が知るわけがない。ましてや、漫画を買おうと思ったのも単なる思い付きだ。俺という人間は漫画を読みはするが読んだらすぐに捨てる習慣があり、漫画を買うこともそれほど多くはない。友達の前で漫画を読むこともあまり無かったはずだ。
どうして、それを瀬戸が知っているんだ。実は瀬戸の家がコンビニの近くにあったとか。実は瀬戸がたまたまコンビニで俺を見かけたけど声は掛けなかったのか。いや、それはない。俺はあの時コンビニで立ち読みもせずにレジへ行ったんだ。その時だろうか。いや、それなら俺が気付くはずだ。この真夏にスーツを着込んだ人間が目につかない、はずがない。
それじゃあ、帰り道だろうか。帰り道ならおかしくはないが、コンビニからハイツまでは一本道だ。瀬戸が居たなら、きっと擦れ違いになっただろう。道を思い返してみても、人が隠れられるような場所なんて、どこにもない。じゃあ、じゃあ。どこかで、見ていたのか。でも、どこで。何で。
氷のように手足が冷えきり、つうと背筋を冷や汗が流れていく。心なしか握った拳もかたかたと震えているような気もする。口の中が徐々に干上がっていき、からからに渇ききっていく錯覚を覚えた。
瀬戸は、あそこのどこにも居なかった。なのに、俺しか知らないことを知っている。まるで、どこからかじっと観察でもしていたかのように。
「いったい……どこに、居たってんだよ」
ごくり、と生唾を飲み込み、壁を見据える。もしかしたら、この壁の向こうに瀬戸が居て、俺を驚かそうとしているのかもしれない。そう。常識的に考えればそうだ。だが、そうだったとして、どうして俺に教えてくれないのか。どうして俺を驚かす必要があるのか。
瀬戸は、何で俺の行動を知っていたのか。
どたどたどたどたっ。ばんばんばんばんばん。
突然まるで音沙汰がなかった壁から荒々しい足音と、激しく壁を打ち鳴らす音が室内に鳴り響いた。
「……っ!!」
隣人が存在を主張するかのように壁を叩き、先程とは打って変わり、何やらわぁわぁと叫んでいる。一枚の壁を隔てているというのに耳を塞ぎたくなるほどの声量だ。俺は咄嗟に耳を塞いだが、不意にあることを確認しようと思い付く。なけなしの勇気を振り絞るように一度だけ唇を舐め、腹に力を籠めた。
「なぁ、……瀬戸なんだろ?」
この声の主が瀬戸であるなら、何ら不思議はない。むしろそれなら「やっぱりな」と改めて隣の部屋へ押しかけることだって出来るのだ。それに、バラエティ番組でよくあるようなドッキリなのだと半ば強引に自分へ納得させることだって出来てしまう。
急に騒々しくなった部屋の物音にそんなことを考えるのはおかしいが、今の俺にとってはどうでも良かった。とにかく安心したい一心で、必死に頭の中で瀬戸である理由を並べ立てる。
「おい、返事しろって。……瀬戸ってば」
わぁわぁと聞きようによっては何十人という人間の声に聞こえなくもない轟音がする壁にもっと声を聞き取りやすくするように、恐々と利き耳を押し付ける。ざわざわという人の話し声の中でばたばたっと子どもが駆けるような足音に、がしゃんとガラスが割れるような音までも聞こえてくる。そこまで聞こえるのに、どれも一つとして意味を成さない音ばかりだった。
ざわざわ。ざわざわ。ざわざわざわ。
あはははっ。きゃあぁあ。がしゃん、ぱりん。
壁の向こう側ではこんな夜更けだというのに晩餐会でもしているかのような物音までするのに、このハイツの住人は寝静まっていて文句を言いにくる様子もない。このハイツごと不気味なまでに静まり返っていた。
「おい、瀬戸ってば。……いい加減にしろぉ!!」
もしかしたら、既にハイツの住民に許可を取って今夜だけ親戚中で集会でもしているのかもしれない。
あまりに現実離れした現実に憔悴しきった脳がそう判断を下して叫んだ瞬間。
ぴたっと物音が止んだ。
さっきまで騒いでいたのが嘘のようにひっそりとした静寂に包まれている。あまりの出来事に、ぞっと全身の肌が粟立った。あれだけの音が一瞬にして静まるのもおかしいし、大勢の人間が一様に動きを止めるなど、もっとありえない。あまりに常軌から逸した壁の向こうの動きに、いやな想像が頭を過ぎる。
これも勝手な想像だが、今この壁の向こうでは、何十人という人間が一斉に壁を通り越して俺を見ているような気がした。さっきまで聞こえていた声からして、子どもから老人まで居ただろう。それらが一斉に異質なものを見つけたように俺を見ている。
まさか。まさか、そんなことが。でも、どうしてもそのイメージが頭から離れそうにない。いくら目を閉じて頭を振ったとしても、数多の人間が俺を瞬き一つせずに、じっと見ているのだ。俺の聞き間違いではないのだと、暗に示すかのように。
そんなことを考えればいやでも神経は高ぶり、聴覚だけが異様に鋭く研ぎ澄まされてしまった。ぼわっと耳がコウモリの超音波のように見えない波を発して、痛いほどの静寂の中でもわずかな音を拾い上げてしまうような、あの感覚だ。どきどきという心臓の音と、ざーっと体内を巡る血の流れと、心なしか冷蔵庫の稼動音に混じって誰かの荒い息遣いが聞こえてくるような気さえしてきた。
壁から耳を外し、もう一度だけ確認しようと耳を壁にあてる。その時。
「いつでも、見ているよ」
低い男の声が愉快そうに笑って、囁いた。耳殻を通じて全身がぞわりとし、慌てて壁から離れる。すると、洗濯機と壁に挟まれた対面の壁に小さな穴を見つけた。穴は俺の親指先ほどの大きさだ。声は、この先だったのだろうか。「いつでも、見ているよ」ということは。もしや、隣人はあの部屋の窓からずっと俺を観察していたのか。室内に居る時は、こうやって壁の穴を通して。
想像するだに恐ろしい発想に、へなへなと尻餅をつく。
「ぜぇんぶ、見ているから」
その穴の先で、にたにたと涎を垂らしながら笑い、濁った瞳をした男と目が合った。