裏野ハイツへ、ようこそ。
俺はさぁ、昔っからついてなかったんだよ。
冷房をガンガンに効かしたファミレスで、ついさっきそこで久しぶりに出会った瀬戸へ愚痴った。拭き痕を残して雑に磨かれた窓の外では、真夏の太陽がこれでもかと照らしつけて往来を横切る人たちを蒸し焼きにしている。今日も今日とて全国的に猛暑となるらしい。
「そうか。ついてなかったか」
この蒸し暑い日でも瀬戸はきっちりとスーツを着込み、淡々とした表情でお冷やを呷る俺を見ている。この落ち着き払った態度がまた妙に癪に障るが、こいつのこういうところも昔からそうだった。別に笑顔で話を聞いているわけではない。むしろこちらの話に興味など無いのではないかと思うほどだ。しかし、不思議と「こいつなら話しても良いか」という気にさせられてしまう。だから、俺もつい口が滑ってしまっていた。誰にも話せないようなことを、何でもないことのように。
「ちょっと前に借りてた金返せってどいつもこいつも口揃えて言ってきてよぉ」
「金を借りていたのか」
「そうそう。ちょっとすぐに返せそうにないぐらいの」
「アルバイトや就職して返そうとは思わないのか?」
「だって、ダルいことは俺の専門外だし」
「そうか。専門外なら仕方ないな」
この嫌味のような言い草もこいつが言うと実に淡々としたものだから、腹は立たなかった。他の奴に言われたら鼻の頭に皺を寄せて憤慨するような言葉なのに。
「それでさ、和也に優斗、信吾まで酷いんだぜ。取り立て屋にまで連絡してよぉ」
「懐かしいな、その三人組。たしか仲が良かったんじゃないのか?」
「俺もそう思ってたんだけどよ、一人たった百万ぽっち借りてたらすぐ返せって」
「なるほど、三百万か」
「そーそー。んで、今あいつらから逃げてんだけどさ。アパート追い出された」
「いわゆるホームレスってやつか」
「そこでさ、ちょっとの間で良いから、瀬戸。お前の家に泊めてくんねぇ?」
「……」
「家賃は今は払えねぇけど、バイトすっからさ。な、頼むよ」
この通り、とお冷やを横に置いて頭を下げると、向かいに座る瀬戸がことんとお冷やのグラスを置く音がする。やや間が空いてから。
「分かった。そういうことなら」
またあの淡々とした口調で、いとも簡単に承諾の意を表してくれたのだった。
瀬戸が「ついてこい」と言って歩き出した先は不動産だ。不思議に思っていると、瀬戸は慣れた様子で不動産の社員と何やら話し込み、俺に一枚の紙を差し出してくる。
「家には泊めてやれないが、代わりにこのハイツを紹介してやる」
そう言って瀬戸が俺に渡してきたものとは、「裏野ハイツ」という木造アパートの賃貸契約書だった。家賃は五万円以下、敷金なし。リビング9畳、洋室6畳の二階建て、今いる駅から徒歩7分にある。築三十年という何とも言えない築年数の物件だが、今の俺にとっては優良中の優良物件だった。
「何でここに?」
ごく普通の質問だとは思うが、瀬戸はまた淡々とした口調で説明する。
「実はここに知り合いが居るんだ。おれはしばらく連絡がつきにくくなるが、何かあればその人に連絡を取ってもらえ」
「仕事か?」
「そんなものだ」
表情が変わらぬ瀬戸にひとまず礼を言い、にこにこと愛想笑いをする店員に向き直る。店員も「瀬戸さんの紹介なら」と快く俺に「裏野ハイツ」を案内してくれた。促されるままに契約書にサインをして、いくつかの注意点を聞き流す。不動産の店員さんとの相談の結果、今日からここに住めるように手配までしてもらった。
瀬戸の言う知り合いというのは、このハイツの202号室の山中という男らしい。山中という男は極端な人見知りで、部屋からは一歩も出ないのだという。
おれに用があればその隣の山中の部屋の壁を3回ノックしてくれ、それを聞いた山中がおれに連絡を回すから。瀬戸はそう言い残すと、「それじゃ」とまた会った時と同じく淡々とした足取りで不動産から出て行ってしまった。
思いがけず今日の寝床を手に入れたおれは、それはそれは上機嫌で裏野ハイツへと向かっていく。しかし、裏野ハイツで大家と思しき女性から鍵を受け取ろうとすると、「また新参者が懲りずに来よったか」と吐き捨てられ、不機嫌そうに鍵を床に叩きつけられた時は殴りかかろうかと思った。「あの人はいつもああですから」とさり気ないフォローをする店員さんが居なければ、確実に殴っていたな。
それでも、鍵を受け取った後で「それじゃあ、次の仕事がありますのでこれでお暇させて頂きます」と逃げるように去っていくのを見て、また機嫌が急降下する。
「あれが客商売をする奴の態度かよ。感じ悪いったらありゃしねぇ」
かんかん、と階段を上り、西へ沈む夕陽を背に受けながらすぐ近くにある扉へと向かう。そのとき、不意にこのアパートがやたらと暗いことに気が付いた。このアパート付近に背の高い住宅が多いせいか、真っ赤な夕日が住宅街の隙間から射しこんでいるというのに奥へと進むごとに影の暗さが際立っている。
「……まぁ、普通はこんなもんだよな」
がちゃん、と鍵を差し込んで捻る。ぎぃいと古めかしい音を立てて開くと、真正面のリビングの壁に、隠す気も無いお札がでかでかと貼ってあるのが目に飛び込んできた。
「何だ、こりゃあ。……旅館でももっとうまく隠すぞぉ?」
妙に年季が入って色褪せているのが気になり、スニーカーを乱暴に脱ぎ捨てて上がろうとする。すると、不意に「かつん」と何かに当たる音がした。何とはなしに振り返ると、脱ぎ捨てたスニーカーの紐が、玄関の隅にひっそりと置かれていた盛り塩の小皿にかかってしまっていた。
「……って、ことは。まさか四隅にも置かれてんじゃねぇだろうなぁ」
あの大家の悪戯か。前の入居者の悪戯か。あまりにも悪質な悪戯に腹を立てながら、のしのしとリビングを通って奥の洋室へと向かう。
「タチ悪いんだよなぁ、大家も前の奴もよぉ!!」
苛立ちのままに、ばんっと引き戸を引くと、予想通り右手の物入れの扉前に一つ、ベランダに出る扉に隣接する隅に一つ。残る一つは恐らくリビングの隅に置かれた冷蔵庫の近くだろう。よく見てみれば、盛り塩が少しばかり黒ずんでいた。
「……ま、いいけどよぉ」
ひくりと顔の筋肉が引き攣ったが、もう気にしないことにしよう。背負っていたリュックサックをどさりと洋室の真ん中に置き、ごろんと横になる。今日のところは電気もガスも部屋に通っていないから、陽のあるうちに用事を済ませなければあとで困るのだが、奇妙な眠気に誘われた。
知らない間に神経でも張って疲れたのだろうか。眼を閉じればすぐに意識は暗闇へと飛び立っていく。
どれほど眠っていただろうか。1時間、2時間。もしかしたらもう既に日付が変わったのかもしれない。とにかく、がばっと眼を開けて身体を起こせば、辺りは暗闇に閉ざされていた。持っていたスマホの電源を入れて時間を確認する。まだ8時だ。それほど長く眠っていたわけでもないらしい。
「あー……腹減ったな」
のそのそとスマホの灯りを元に、充電器で充電する。もう少ししてから外に食いに出るのもいいかもしれない。眠気でぼんやりとする頭で考え、あることに気が付いた。そういえば、部屋の中が妙に蒸し暑い。夏だから暑いのは分かるが、どうもこれは梅雨時の湿気だ。じめじめとして、肌が汗でしっとりとする。これはだいぶ不快指数が高いぞ、だなんて一人ごちて、窓を開けようとした。換気をしても変わらないかと思うが、しないよりはマシだろう。
そのとき、外で違和感を感じた。窓際に近付き、謎の不安感に駆られながらそうっと窓の外を見ようとする。俺は昔から嫌な予感だとかそういったものが虫の知らせで分かる体質だった。それで何度か救われたことがあるから、馬鹿には出来ない。
恐々と遠目から覗くと、違和感はこの部屋の真正面に位置する電柱からだった。ここは普通の住宅街で、窓の外はもちろん道路と正面に家があって塀がある。その塀に寄り添うように立っている電柱の下に、女がいた。
「……っ!」
咄嗟に出かかった声を押さえようと両手で口を覆う。俺の本能が、「バレてはいけない」と警鐘を鳴らしていたからだ。
煌々と照らす電柱の下に、黒くて髪の長い女が、項垂れたまま立っている。それだけなら別に気味が悪いだけだ。ここまでは恐れない。しかし、女はこの真夏に厚手のコートを羽織り、ゆうらゆうらと前後に長い髪を揺らしてじっと地面を見つめていた。
いったい何時から居たのか。ここに来てすぐに窓の外を見たのではないから正確ではないが、少なくともこのハイツに来たときには居なかったはずだ。居れば俺が覚えてる。
どんどんと心臓が早鐘のように鳴り響き、ゆっくりと部屋の奥へと後ずさった。やがて窓の外も見えなくなってから、静かに腰を下ろす。腰が床に着いた瞬間に、どっと冷や汗が全身から噴き出した。呼吸も浅くなり、湿気で熱くなった頭が朦朧としてくる。
あれは、何だ。どうしてあそこに居るんだ。何でこの真夏にコートを着ているんだ。いくつもの疑問が浮かんでは答えが見つからぬまま闇へと消えてしまう。部屋のお札、盛り塩、外の季節外れの女性。
ぐるぐるとこの3つが脳内を駆け巡る。これは一般的に言う事故物件というものだろうか。何の変哲もないハイツで、何があったというのか。願わくば、俺の勘違いであって欲しい。だが、それではこの部屋のお札と塩は何だ。悪戯だ。悪戯に決まっている。それじゃあの女性はなんだ。精神異常者だ。どういうわけか分からないが施設から抜け出してここに居るだけだ。
もっともらしい答えを見つけ出してはもう一人の自分が否定する。その問答を繰り返すうちに、気が付くと朝になっていた。
勇気を振り絞って再び覗く。
すると、女の姿は忽然と消えてしまっていた。